序節 ― 無籍者の街へ
朝のアシュ=ロアは、夜よりも静かだった。
門の内側には、まだ薄い霧が残っている。
ヴァル=クレイアの潮霧とは違う。塩の匂いはない。黒い石壁に沿って、冷えた息のような白さが低く漂っているだけだった。
ノアは、内門のそばに立っていた。
昨夜は門内の一時宿泊室で眠った。
眠った、というより、目を閉じて朝を待ったと言ったほうが近い。
慣れない寝台。
薄い毛布。
隣室から聞こえる誰かの寝息。
ときおり廊下を通る職員の足音。
そのすべてが、ノアには遠かった。
眠ろうとすると、黒い海が浮かんだ。
《白腹鴉》号の白い船腹。
木箱の隙間から出ていた指。
ゼブ=カランの笑み。
アシュ=ロアの罵倒の碑。
黒晶板の上で薄れていくベルの文字。
そして、サリア=モルドの声。
――あなたの名は、帰還先から切れかけている。
ノアは胸元に手をやった。
仮登録札がある。
ノア=リント。
その横に、昨夜サリアから渡された紹介状を入れていた。
薄い黒晶板で作られたそれは、紙よりも冷たく、金属よりも軽い。けれど、懐にあるだけで妙に重かった。
ノアは紹介状を取り出した。
表面に灰銀の文字が浮かぶ。
宛先。
ナハト=リム無籍者審査官。
オルフェ=セプティア。
対象。
ノア=リント。
自称ノア=リントベル。
その二行目で、ノアの指が止まった。
自称。
何度見ても、そこだけが刺さる。
自分の名を、自分で名乗っているだけ。
まだ確認されていないもの。
誰かに認められるまで、確かなものとして扱われないもの。
そう言われているようだった。
「朝から睨んで、文字が変わるなら苦労しないぞ」
後ろから声がした。
リィゼだった。
灰紫の髪を後ろで結び、短い外套を羽織っている。腰には黒晶灯。肩には小さな革鞄。いつもの漂着者帳は薄い布で包まれ、雨具のように背負われていた。
ノアは紹介状を閉じた。
「見ていただけ」
「睨んでた」
「どっちでもいいでしょ」
「よくはないな。睨む相手を間違えると疲れる」
リィゼはそう言って、内門の外に用意された小型の黒晶馬車へ顎をしゃくった。
「出るぞ」
「もう?」
「ナハト=リムは昼前に入ったほうがいい。夕方になると、呼び名の窓口が混む」
ノアは眉を寄せた。
「呼び名の窓口?」
「行けば分かる」
「またそれ」
「説明すると、また怒る」
「怒る前提なの」
「だいたい当たる」
ノアは言い返しかけて、やめた。
内門のそばでは、数人の保護対象者が同じ馬車に案内されていた。
《白腹鴉》号から救出された者もいれば、アシュ=ロアで別の審査を受けていたらしい者もいる。
首に包帯を巻いた若い女性。
片目を布で覆った老人。
フードを深くかぶった少年。
そして、昨夜からずっと「帰れるなら、何でもいい」と呟いていた痩せた男。
彼らの手元にも、それぞれ札があった。
名前が書かれているもの。
呼び名だけのもの。
何も書かれていない灰色のもの。
ノアは、その札を見てしまうたびに、胸の奥がざらついた。
自分だけではない。
それは慰めではなかった。
むしろ、自分に起きている異常が、広い何かの一部なのだと告げられているようで、気味が悪かった。
「ノアさん」
サリア=モルドの声がした。
門審査官は、昨夜と同じ黒い長衣を着ていた。胸元の門の徽章だけが、朝の光を受けて鈍く光っている。
サリアはノアの前に立ち、静かに言った。
「紹介状は持っていますね」
「はい」
ノアは短く答えた。
「ナハト=リムでは、まず仮保護名の確認を受けてください。アシュ=ロアの記録は送っていますが、あの街はあの街で、呼び名の反応を見ます」
「私の名前を、また試すんですか」
思ったより尖った声になった。
サリアは怒らなかった。
「試すのではありません。今、どの呼び名ならあなたが崩れずに返事をできるかを確認します」
「私は崩れてなんかいません」
「はい」
即座に肯定されると、ノアは逆に言葉に詰まった。
サリアは続ける。
「あなたは、まだ立っています。自分の名を主張できています。帰りたいとも言えています。だからこそ、今のうちに固定できる部分を見つけます」
「固定できる部分って、ノア=リントのことですか」
「おそらく」
その言い方が、また嫌だった。
ノア=リント。
欠けた名。
削られた名。
仮の札。
それを固定するということは、ベルのない自分をこの大陸に留めることではないのか。
そんな疑いが、まだ消えない。
「私は、ノア=リントベルです」
ノアは言った。
強く。
自分に言い聞かせるように。
サリアは、深く頷いた。
「はい。ですから、それを抹消しないために、ナハト=リムへ行ってください」
ノアは息を呑んだ。
抹消しないため。
ここへ来てから、何度も似た言葉を聞いた。
消さないため。
沈まないため。
残る部分を固定するため。
そのたびに腹が立つ。
けれど、その言葉が完全な嘘ではないことも、少しずつ分かってきてしまっている。
それが、さらに腹立たしかった。
「私は、まだここに入ると決めたわけじゃありません」
ノアは言った。
「メギド=ノクスに残ると決めたわけでもない」
「分かっています」
「私は帰ります」
「それも、紹介状に記しました」
サリアは静かに答える。
「帰還希望。けれど、帰還先接続不安定。あなたの意思と、あなたの状態を分けて書いています」
ノアは紹介状を握りしめた。
分けて書かれる。
それは、今の自分に一番必要なことなのかもしれなかった。
帰りたいという意思。
帰れるかどうかの状態。
その二つを混ぜてしまえば、昨夜のような船に乗る。
帰りたいから、帰れるはずだと思い込む。
帰れると言われたら、信じてしまう。
ノアは奥歯を噛んだ。
認めたくない。
けれど、あの船に乗った自分は、確かにそれを間違えた。
「ノア」
リィゼが呼んだ。
仮名でも、本名でもない。
ただ、ノア。
彼女の呼び方には、不思議と刺がなかった。
「行くぞ。馬車が出る」
ノアはサリアへ向き直った。
「……行ってきます、とは言いません」
「はい」
「私は、ここに受け入れられたわけじゃない」
「はい」
「でも、紹介状は持っていきます」
サリアの目元が、ほんの少しだけ和らいだ。
「それで十分です」
黒晶馬車は、アシュ=ロアの内門を出たところに停まっていた。
ヴァル=クレイアから乗った馬車よりも小さく、車体の底に細長い黒晶石が埋め込まれている。御者台には馬もいるが、車輪の軸にも黒晶の力が通っているらしい。動き出すとき、足元から低い震えが伝わった。
ノアは窓側に座った。
リィゼは向かいではなく、隣に座る。
その配置に、ノアは少し意外そうに彼女を見た。
「何」
「向かいじゃないんだ」
「途中で吐いたら背中叩けるだろ」
「吐かない」
「昨日まで海水飲んで、夜は密輸船で暴れて、今日は黒晶馬車だ。身体は強気ほど信用できない」
リィゼは当然のように言った。
ノアは返事をしなかった。
優しいのか乱暴なのか、分かりにくい。
けれど、リィゼのそういう言い方にも少し慣れてきている自分がいて、それもまた妙に落ち着かなかった。
馬車が動き出す。
アシュ=ロアの内門が遠ざかる。
ノアは窓の外を見た。
黒く塗りつぶされた壁が、朝の光に沈んでいく。
外側に刻まれていた罵倒の文字は、こちら側からは見えない。
ただ、そこに何かがあったという凹凸だけが、遠目にもかすかに分かった。
読ませないために塗る。
なかったことにしないために残す。
その考え方は、ノアにはまだ重すぎた。
けれど、完全に拒むこともできなかった。
街道に出ると、風景はまた変わった。
アシュ=ロア周辺の道は、黒い石畳で整えられていた。
しかし少し進むと、石畳の隙間に灰色の草が増え、低い建物がぽつぽつと現れ始める。
商店ではない。
宿場でもない。
どちらかといえば、誰かが必要に迫られて建てた小屋が、少しずつ道沿いに集まっていったような場所だった。
看板がある。
だが、そこに書かれているものが、ノアの知っている看板とは違っていた。
黒猫の姉の薬屋。
ノアは瞬きをした。
次の看板には、こうある。
三番路地の医者。
さらに進む。
青い角の鍛冶場。
橋の下の先生。
夜の子らの寝床。
名なし墓地。
偽名証発行所はこちら。
ノアは窓に近づいた。
「……地名じゃない」
リィゼが横で答える。
「呼び名だ」
「店の名前でも、人の名前でもないみたい」
「どっちでもある」
「それで通じるの?」
「ここでは、通じるほうが大事なんだよ」
ノアは看板を見つめた。
黒猫の姉。
三番路地の医者。
青い角。
橋の下の先生。
正式名ではない。
戸籍名でも、家名でもない。
けれど、人々はそれを目印に歩いている。
荷を運ぶ男が「三番路地の先生のとこか」と言い、子どもが「黒猫の姉、今日はいるかな」と駆けていく。老婆が「橋の下の先生に手紙を」と職員へ紙片を渡している。
呼び名が、街の地図になっている。
「変な街」
ノアは呟いた。
「そうだな」
リィゼは否定しなかった。
「でも、迷子は少ない」
「どうして」
「自分が呼ばれている場所へ行けばいいから」
ノアは、胸元の札に触れた。
ノア=リント。
呼ばれている場所。
自分は、どこへ行けばいいのだろう。
ノア=リントベルとして帰る場所。
ノア=リントとして保護される場所。
ノアとして返事をしてしまう場所。
それらが、同じではなくなっている。
窓の外で、黒い布を巻いた少年が走っていた。
店先の女性が彼を呼ぶ。
「夜の子、こっち!」
少年は振り返り、明るく返事をした。
夜の子。
ノアなら、そんな呼び方をされたら嫌だと思う。
だが、少年は嫌そうではなかった。
それが、不思議だった。
呼び名は、傷にもなる。
罵倒の碑で見た。
けれどこの街では、呼び名が道にもなる。
ノアは、その違いをまだうまく言葉にできなかった。
馬車の奥では、痩せた男がぼんやりと窓の外を見ていた。
彼は《白腹鴉》号から救出された一人だった。
昨日までは首に荷札を下げられていた。
身元不明。
名欠け。
外界返し対象。
今は、灰色の保護札を持っている。
そこにはまだ、名前はなかった。
男は、かすれた声で言った。
「ここでは……名前がなくても、泊まれるんですか」
馬車に同乗していた案内役の職員が頷く。
「泊まれます。呼び名が決まっていなくても、部屋はあります」
「名前がないと、配給も、薬も、もらえないと思っていました」
「外では、そういう場所もあります」
職員は静かに答えた。
「ここでは、まず呼べる形を探します。見つかるまでは、空欄のまま保護します」
空欄のまま保護する。
ノアは、その言葉に顔を上げた。
空欄。
それは普通、未完成で、足りなくて、使えないもののはずだった。
けれどこの街では、空欄のままでも落とさないという。
それは優しさなのか。
それとも、誰が誰でも構わないということなのか。
ノアにはまだ分からない。
ただ、自分の名前の一部が白く抜けるたび、その空白に落ちるような感覚を覚えていた。
もし、その空白のままでも誰かが手を伸ばす場所があるなら。
それは、少しだけ怖くて、少しだけ眩しかった。
やがて、街の入口が見えてきた。
アシュ=ロアのような巨大な門ではなかった。
低い石壁。
木材と黒晶片で継ぎ接ぎされた門柱。
古い傷を直した跡。焼けた部分を補修した跡。何度も壊され、何度も建て直されたような歪さ。
だが、そこに立つ人々の表情は、アシュ=ロアの門前よりも柔らかかった。
荷車を押す者。
札を抱えて並ぶ者。
喧嘩をして職員に叱られている子どもたち。
誰かを待っている老人。
フードの奥から角だけを覗かせた少女。
門の上には、大きな看板が掲げられていた。
そこには、外界語でも、メギド=ノクスの文字でも読めるよう、二重に記されている。
ここでは、呼べる名から始める。
ノアは、無意識に仮登録札を握った。
ノア=リント。
違う。
そう思う。
けれど、もうその札を握る手を離すこともできなかった。
馬車が門の前で止まる。
職員が降り、保護対象者たちを順に案内する。
リィゼが立ち上がった。
「着いたぞ」
ノアは窓の外を見たまま、しばらく動けなかった。
ナハト=リム。
無籍者の街。
本名ではなく、今の呼び名で人を扱う場所。
ここに入れば、自分はますますノア=リントとして扱われるのかもしれない。
そう思うと、胸が詰まった。
けれど門の看板は、こう言っている。
呼べる名から始める。
終わる、ではない。
始める。
ノアはゆっくりと息を吸った。
潮の匂いはもうしない。
代わりに、煮込みの匂いと、黒晶炉の熱と、知らない街の埃の匂いがした。
「行くよ、ノア」
リィゼが言った。
ノアは紹介状を握り直した。
オルフェ=セプティア。
まだ見ぬ審査官の名が、黒晶板の中で薄く光っている。
ノアは馬車を降りた。
門の影が、彼女の足元に落ちる。
その影の向こうで、ナハト=リムの街が、名ではなく呼び声でざわめいていた。




