第一節 ― 何と呼ばれれば返事ができますか
ナハト=リムの無籍者審査所は、役所というより、誰かの生活が何度も流れ込んで、そのまま固まった場所のようだった。
入口には受付台がある。
順番を待つ椅子もある。
壁には黒晶板の掲示欄があり、職員が記録を差し替えている。
だが、そのすぐ横には温かい薬湯の入った壺が置かれ、奥の長椅子では子どもが毛布にくるまって眠っていた。さらに隅には、割れた靴を修理するための道具箱と、誰かが置いていったらしい杖が三本、壁に立てかけられている。
相談所。
救護所。
避難所。
役所。
そのどれでもあり、どれだけでも足りない場所だった。
ノアは入口で足を止めた。
空気が、アシュ=ロアとは違う。
アシュ=ロアの審査室は、静かだった。
問われることも、記録されることも、厳密で、冷えた石のような重さがあった。
けれど、ここは違う。
声がある。
「仮保護名の更新は二番窓口です」
「その名は呼ばれると痛むんですね。では封鎖申請を先に」
「偽名証相談は午後になります。急ぎなら赤札を出してください」
「呼称変更届は本人確認ができなくても出せます。今呼ばれている名を書いてください」
聞き慣れない言葉が、当たり前のように行き交っている。
ノアは壁に並ぶ札を見た。
仮保護名申請。
偽名証相談。
呼称変更届。
本名封鎖申請。
呼ばれたくない名の登録。
失名者保護。
帰還希望者一時管理。
名傷検査待ち。
その中で、ノアの目はひとつの札に止まった。
呼ばれたくない名の登録。
ノアは、思わずその文字を見つめた。
呼ばれたくない名。
名前は、呼ばれるためにあるものではないのか。
自分がノア=リントベルだと示すために、誰かに呼んでもらうものではないのか。
呼ばれたくない名を、わざわざ登録する。
それが、ここでは必要なのか。
「気になる?」
隣でリィゼが言った。
ノアは視線を札から離せなかった。
「本名を呼ばれたくない人がいるの?」
「いる」
「どうして」
「呼ばれると崩れる奴もいる。傷が開く奴もいる。呼んだ相手に縛られる奴もいる。昔の持ち主が返事をしてしまう奴もいる」
ノアは顔をしかめた。
「名前なのに?」
「名前だからだよ」
リィゼは短く答えた。
その言い方は、ノアの知っている世界を、またひとつずらした。
名前は、自分を証明するもの。
呼ばれれば、自分がそこにいると分かるもの。
そう思っていた。
けれど、この街では違う。
名前は、守るものでもあり、隠すものでもあり、封じるものでもある。
ノアは胸元の札に触れた。
ノア=リント。
呼ばれたくないわけではない。
けれど、呼ばれるたびに削られるような気がする名。
そして、ノア=リントベル。
呼ばれたい。
最後まで、疑わずに呼んでほしい。
だが、その名は黒晶板の上で最後まで残らない。
「ノア=リントさん」
受付の奥から声がした。
ノアの肩が、ぴくりと動いた。
反応してしまった。
それが悔しくて、彼女は少し遅れて顔を上げた。
呼んだのは、薄灰色の長衣を着た職員だった。首から下げた札には、名前ではなく「一番窓口」とだけ記されている。
「オルフェ審査官がお待ちです。紹介状をお持ちの方ですね」
ノアは返事をする前に、リィゼを見た。
リィゼは何も言わず、顎で奥を示した。
行け、ということらしい。
「……はい」
ノアは答えた。
自分の声が、少し硬い。
ノア=リントさん。
そう呼ばれて返事をした。
ただそれだけのことが、胸の奥に小さな棘のように刺さった。
案内された部屋は、審査室というより、小さな書斎に近かった。
机がひとつ。
黒晶板が三枚。
壁一面の小引き出し。
色の違う名札を吊るした細い紐。
窓辺には、乾いた草を束ねた小瓶。
部屋の隅には、救護用の寝台もある。
机の上には、すでにサリアの紹介状が置かれていた。
その向こうに座っていた人物が、顔を上げる。
オルフェ=セプティア。
ノアは一目で、相手をどう呼べばいいのか分からなかった。
年齢は若く見えるが、目つきは妙に落ち着いている。
髪は淡い銀灰色で、肩に触れるほどの長さ。声は低すぎず、高すぎず、衣装も男性用とも女性用とも言い切れない形をしていた。黒と灰白を基調にした審査官の長衣に、細い金具と名札紐がいくつも下げられている。
美しい、というより、輪郭が静かだった。
そこにいるのに、分類しようとすると指の間をすり抜けるような人。
「お待ちしていました」
オルフェは立ち上がらず、穏やかに言った。
「アシュ=ロアからの紹介状は確認しています」
ノアは机の前に立ったまま、紹介状へ視線を落とした。
対象。
ノア=リント。
自称ノア=リントベル。
また、その文字が見えた。
オルフェはノアの名をすぐには聞かなかった。
代わりに、椅子を示す。
「座れますか」
「立っていられます」
「では、座ってください。立っていられることと、座らなくていいことは違います」
リィゼが横で小さく笑った。
ノアは睨みそうになったが、結局、椅子に座った。
オルフェは、紹介状を指先で軽く押さえた。
「あなたが何者かは、まだ決めません」
その言葉は、静かだった。
ノアは顔を上げる。
オルフェの目は、まっすぐこちらを見ていた。
「では今、何と呼ばれれば、あなたは返事ができますか」
ノアは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
まただ。
ここでも、最初に本名を聞かない。
どこから来たかも、何者かも、先に決めない。
それがこの街のやり方なのだと頭では分かる。
だが、ノアにとっては、自分の名を避けられているようにも聞こえた。
「私はノア=リントベルです」
彼女は言った。
「ノア=リントじゃない」
「はい」
オルフェは頷いた。
「あなたはノア=リントベルであると申し立てています」
「申し立てじゃない。事実です」
「では、その事実を消さないために、今反応する名を確認します」
ノアの眉が寄る。
「消さないため、ですか」
「はい」
「それなら、ノア=リントベルで登録すればいい」
「できるなら、そうします」
オルフェは即答した。
その答えは、冷たいほど早かった。
「ですが、アシュ=ロアでの反応を見る限り、ノア=リントベルは最後まで安定して記録されません。ヴァル=クレイアでの漂着者帳、黒晶札、身分証、アシュ=ロアの審査板、すべて同じ結果です」
「知っています」
ノアの声が低くなる。
「何度も見せられました」
「では、ここでは見せるためではなく、扱うために確認します」
「扱う?」
「はい。あなたがこの街で宿を取り、薬を受け取り、街道を移動し、誰かに呼び止められたとき、崩れずに返事をできる呼び名を探します」
ノアは唇を結んだ。
崩れずに返事をできる名。
その言い方が嫌だった。
まるで自分が、今にも崩れそうなもののようだった。
けれど、身分証の上でベルが消えた瞬間の感覚を思い出すと、強く否定しきれない。
オルフェは机の上に黒晶板を置いた。
板はアシュ=ロアのものより小さい。
表面には細い線が四つ走り、それぞれに呼称反応、記録安定、身体反応、周辺干渉と刻まれている。
「まず、あなたが望む名から確認します」
オルフェは、黒晶板に細い銀筆で記す。
ノア=リントベル。
文字は、最初、きちんと浮かんだ。
ノアの喉が鳴る。
そこにはある。
自分の名前が、確かにある。
「呼びます」
オルフェが言った。
ノアは身構えた。
「ノア=リントベルさん」
「はい」
返事は、すぐに出た。
それは自然だった。
身体が、心が、その名を自分のものとして知っている。
だが、黒晶板の表面で光が揺れた。
呼称反応の線は、強く光っている。
けれど、記録安定の線が途中で途切れた。
ノア=リントベル。
ベルの部分が、白く薄れていく。
さらに、板の下部に浮かんでいた帰還先欄が、ぼんやりと霞む。
ノアは指先が冷えるのを感じた。
「本人反応は強い」
オルフェは記録を取る。
「ただし、記録安定は欠落。帰還先欄にも白抜け。アシュ=ロアの記録と同じです」
「……私は反応しました」
「はい」
「なら、それでいいじゃないですか」
「あなた一人が返事をできる名と、社会の中で安全に運用できる名は、同じとは限りません」
「社会のために、私の名前を短くするんですか」
「あなたが消えないために、今扱える部分を固定します」
また、その言い方。
ノアは机の端を握った。
オルフェは黒晶板の光を落とし、次の名を書いた。
ノア=リント。
ノアは顔をしかめる。
「それは」
「確認します」
オルフェの声は、変わらない。
「ノア=リントさん」
「……はい」
返事をしてしまった。
嫌だと思った。
違うと思った。
けれど、返事は出た。
黒晶板の四本の線が光る。
呼称反応は中程度。
記録安定は高い。
身体反応はわずかに乱れ、周辺干渉はほとんどない。
ノア=リント。
その文字は、消えなかった。
安定して残った。
それが、腹立たしかった。
「安定しています」
オルフェが言った。
「不快反応はありますが、名傷ではありません。拒絶ではなく、心理的抵抗に近い」
「そんなふうに分類しないでください」
「分類しなければ、対処を間違えます」
「私は、対処されたいわけじゃありません」
「では、放置されたいですか」
ノアは言葉に詰まった。
オルフェは責めるようには言わなかった。
ただ、問いとして置いただけだった。
放置。
それは嫌だった。
自分の名が欠けていくのを、誰にも見られず、誰にも記録されず、ただ消えていく。
それだけは、嫌だった。
けれど、こうして扱われるのも苦しい。
どちらも嫌だと思う自分が、子どもじみている気がして、ノアはさらに苛立った。
オルフェは次の呼び名を記す。
外界の娘。
ノアは即座に顔を上げた。
「それは嫌です」
「呼ばれる前に反応が出ましたね」
「嫌なものは嫌です」
「確認します」
オルフェは、丁寧に言った。
「外界の娘」
ノアは返事をしなかった。
喉が閉じる。
外界の娘。
間違ってはいない。
外界から来た。女性である。漂着者である。
けれど、その呼び方には、どこか遠ざける響きがあった。
お前はここの者ではない。
外から来た者だ。
外へ帰る者だ。
そう言われているようだった。
黒晶板の反応は弱かった。
呼称反応は細く、身体反応だけがわずかに乱れている。
「不適」
オルフェは短く記録した。
「本人拒否が強く、保護名としては不向きです」
「そんなこと、確認しなくても分かるでしょう」
「分かることも、記録します。後で誰かが不用意に呼ばないように」
ノアは黙った。
呼ばれたくない名の登録。
壁にあった札を思い出す。
この確認は、嫌がらせではないのかもしれない。
そう思ってしまったことが、またノアを苦しくさせた。
オルフェは、最後の呼称を記した。
帰還希望者。
その文字が黒晶板に浮かんだ瞬間、部屋の空気がわずかに冷えた。
ノアは気づいた。
板の縁に、黒い染みが浮かびかけている。
潮が滲むように。
《白腹鴉》号の札に残っていた、あの黒い潮染みのように。
リィゼが壁際で身体を起こした。
「オルフェ」
「分かっています」
オルフェは即座に銀筆を置き、黒晶板に手をかざした。
板の光が落ちる。
黒い染みは、それ以上広がらなかった。
ノアは息を止めていたことに気づいた。
「今のは何ですか」
「確認を中止します」
「何だったんですか」
オルフェは、板を布で覆った。
「帰還希望者という分類に、外部干渉の兆候があります」
「外部干渉?」
「あなた自身の反応ではありません。あなたの意思を示す言葉に、別のものが触れようとした反応です」
ノアの背筋に冷たいものが走った。
帰還希望者。
あの契約片にもあった。
《白腹鴉》号の分類にもあった。
エリオ=カラン――の札と一緒に残されていた言葉。
帰りたいという願いが、何かに触れられる。
その感覚は、ひどく気味が悪かった。
「私は、帰りたいだけです」
ノアは言った。
声が少し震えた。
「それなのに、どうしてその言葉まで、変な反応をするんですか」
「帰りたいという意思が悪いのではありません」
オルフェは静かに言った。
「その意思を、分類として扱う者がいる。そこに問題があります」
ゼブ=カランの笑みが、脳裏に浮かんだ。
帰りたいんでしょう。
外界へ戻れば、証明できます。
港番より船を信じるべきだ。
ノアは膝の上で拳を握った。
「ノア=リントで返事をしたら」
彼女は低く訊いた。
「私はノア=リントベルじゃなくなるんですか」
オルフェは首を横に振った。
「いいえ。返事のできる名を持つことと、本名を諦めることは違います」
「でも、記録にはノア=リントと残る」
「だから、横に残します。未確認名として、ノア=リントベルを」
オルフェは、紹介状の横に新しい記録片を置いた。
「この街では、呼べる名を一つに絞る必要はありません。守るための名、隠すための名、呼び返すための名、探し続けるための名。それぞれ別に置くことがあります」
「名前を、そんなふうに分けるんですか」
「分けなければ壊れる名もあります」
オルフェはノアを見た。
「あなたの場合、ノア=リントは今返事のできる名。ノア=リントベルは、あなたが取り戻したい本名候補。帰還希望者は、現時点では危険な分類語。外界の娘は、本人拒否が強く、保護名に不向き」
淡々としている。
だが、その整理の中に、ノアの気持ちがまったく入っていないわけではない。
外界の娘を不向きと記録した。
帰還希望者を危険な分類として止めた。
ノア=リントベルを抹消しないと言った。
ノアは、それを認めたくないまま、認めざるをえなかった。
リィゼが壁際から口を挟む。
「浮き板に名前を書くみたいなもんだ」
「また浮き板」
ノアは思わず言った。
「好きですね、その言い方」
「分かりやすいだろ」
「雑なんです」
「沈むよりいい」
返す言葉がなかった。
オルフェは小さく息をつき、記録片に最後の文字を入れた。
「判断します」
ノアは身構えた。
「あなたの仮保護名は、ノア=リントとして一時固定します」
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
オルフェは続けた。
「ただし、本名候補ノア=リントベルは抹消しません。未確認名として並置します。帰還希望の意思も記録しますが、帰還希望者という分類語であなたを呼ぶことは、現時点では避けます」
ノアは、机の上の記録片を見た。
仮保護名。
ノア=リント。
本名候補。
ノア=リントベル。
状態。
帰還先接続不安定。
注意。
帰還希望分類への黒潮反応あり。
ノアは、その文字列をじっと見た。
納得はしていない。
ノア=リントと呼ばれれば、きっとまた胸が痛む。
ノア=リントベルが「本名候補」と書かれることも、不快だ。
自分の名前に候補などという言葉をつけられるのは、やはり嫌だった。
けれど、完全には拒めなかった。
この記録は、自分からベルを奪うためだけのものではない。
それだけは、少し分かってしまった。
「私は」
ノアは、ゆっくりと言った。
「ノア=リントベルです」
「はい」
オルフェは頷く。
「そして、今この街では、ノア=リントとして保護されます」
ノアは目を伏せた。
違う、と言いたかった。
でも、違うだけでは足りない。
違うと言い続けるためにも、今呼び返せる名がいる。
そういうことなのかもしれない。
「……勝手に決められるのは嫌です」
「では、あなた自身の希望として記録しますか」
ノアは顔を上げた。
「何を」
「呼び方です。ナハト=リム内で、あなたを日常的にどう呼ぶか」
ノアは一瞬、迷った。
ノア=リントベル。
そう書きたい。
だが、それが安定しないことはもう見ている。
ノア=リント。
それは嫌だ。
外界の娘。
もっと嫌だ。
帰還希望者。
あの黒い潮染みを見たあとでは、怖い。
しばらく沈黙してから、ノアは小さく言った。
「ノアでいいです」
リィゼが少しだけ目を細めた。
オルフェは記録片に、新しい欄を作る。
日常呼称。
ノア。
「確認します」
オルフェが言った。
「ノアさん」
「……はい」
今度の返事は、さっきより自然に出た。
黒晶板の反応は穏やかだった。
強くはない。だが乱れも少ない。
「日常呼称として適合」
オルフェは記録した。
「では、街では基本的にノアさん。公的な保護記録ではノア=リント。本名候補としてノア=リントベルを並置します」
ノアは、まだ少しだけ息苦しかった。
それでも、胸の奥にあった硬い塊が、ほんの少しだけ形を変えた。
ノア。
そう呼ばれたとき、自分は返事ができた。
それは、本名のすべてではない。
帰る場所の証明でもない。
けれど、今ここで、自分を呼び止める声にはなった。
オルフェは記録片を閉じ、ノアへ差し出した。
「ようこそ、ナハト=リムへ」
ノアはすぐには受け取らなかった。
その言葉を受け入れることが、この街に属すると決めることのようで、怖かった。
だが、リィゼが横から言う。
「宿を取るにも札がいるぞ」
「現実的すぎる」
「現実がないと、人は理念だけじゃ寝られない」
ノアは小さく息を吐いた。
そして、記録片を受け取った。
薄い札の上に、三つの名が並んでいる。
ノア。
ノア=リント。
ノア=リントベル。
そのどれもが完全ではない。
けれど、どれも完全な嘘ではなかった。
ノアは札を握りしめたまま、まだ納得していない顔でオルフェを見た。
「これで終わりじゃないですよね」
「はい」
オルフェは静かに答えた。
「ここから始めます」
窓の外では、ナハト=リムの呼び声が絶えず流れていた。
誰かが誰かを、本名ではない名で呼んでいる。
それでも、その声に返事をする人がいる。
ノアはその音を聞きながら、胸元の札をもう一度見下ろした。
ノア。
その一番短い呼び名だけが、今は少しだけ息をしやすかった。




