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第二節 ― 呼び名で生きる者たち

 無籍者審査所を出ると、ナハト=リムの街は、さっきよりも少しだけ近く見えた。


 同じ石畳。

 同じ黒晶灯。

 同じ継ぎ接ぎの建物。


 けれど、ノアの手には薄い記録片がある。


 日常呼称。

 ノア。


 仮保護名。

 ノア=リント。


 本名候補。

 ノア=リントベル。


 三つの名が並んでいる。


 それを見たとき、ノアはやはり胸の奥がざらついた。


 自分は三人に分けられたわけではない。

 ノア=リントベルである自分と、ノア=リントとして保護される自分と、ただノアと呼ばれて返事をする自分が、それぞれ別々にいるわけではない。


 そう思う。


 けれど、今この街では、その分け方が必要なのだという。


 分けなければ、壊れる名もある。


 オルフェ=セプティアは、そう言った。


 ノアは隣を歩く審査官を見る。


 オルフェは、街の雑踏の中でもあまり浮かなかった。いや、正確には、誰の隣に立っても少しずつ馴染み方を変えるような人だった。


 職員らしい整った長衣を着ているのに、路地の子どもが駆け寄ってくれば腰をかがめる。

 薬屋の前では自然に足を止め、荷運びの者が通れば何も言わず道を譲る。

 誰かが「審査官」と呼べば振り向き、「オルフェ」と呼ばれても振り向き、「セプティアさん」と呼ばれても、同じように返事をする。


 どれが本当の呼び名なのか。


 ノアには分からなかった。


「まず、少し歩きましょう」


 オルフェは言った。


「記録だけで理解できる街ではありません。ナハト=リムでは、呼び名は書類の上だけにあるものではないので」


「街全体が、そうなんですか」


「はい。ここでは、名簿より先に呼び声があります」


 リィゼが横から付け加える。


「迷ったら、誰かが呼ばれてるほうへ行けばだいたい何とかなる」


「それ、道案内として雑すぎない?」


「でも、迷子は減る」


 ノアは呆れたように息を吐いた。


 だが、実際に街を歩くと、リィゼの言う意味が少しだけ分かった。


 路地の奥から、呼び声が飛ぶ。


「青い角、釘を持ってきて!」


「三番路地の先生、急患!」


「黒猫の姉、薬草の束が届いたよ!」


「夜の子ら、炉のそばに寄りすぎるな!」


 誰も、戸籍名を呼んでいない。


 けれど誰も、迷っていない。


 呼ばれた者は返事をし、振り向き、駆けていく。

 その声のやり取りだけで、街の血管が動いているようだった。


 最初に案内されたのは、細い路地の奥にある小さな診療所だった。


 看板には、こう書かれている。


 三番路地の医者。


 その下に、小さく矢印があり、さらに別の木札で「熱、裂傷、名傷、夜泣き」と書き足されていた。


 ノアは看板を見上げる。


「名前じゃないんですね」


「本人がそう望んでいます」


 オルフェは扉を叩いた。


 中から、しわがれた声がする。


「開いてる。足があるなら自分で入ってくれ。足がないなら誰か呼んでくれ」


 リィゼが小さく笑う。


「相変わらずだな」


 診療所の中は、薬草と消毒液と、煮詰めた黒糖のような匂いが混じっていた。棚には瓶が並び、壁には乾燥させた草が吊るされている。奥の寝台では、額に布を乗せた子どもが眠っていた。


 そのそばにいた老人が振り返る。


 白髪の混じった髪。

 丸い眼鏡。

 手元には包帯と、黒晶の細い針。


 老人はオルフェを見ると、肩をすくめた。


「また見学かい」


「新しい保護者です。ナハト=リムの呼び名の運用を見てもらっています」


「運用なんて言うと、たいそうなものに聞こえるな。実際は、呼んで返事があればそれで半分済む」


 老人はノアへ目を向けた。


「で、あなたは?」


 ノアは少し迷った。


 ノア=リントベル、と言いそうになる。

 けれど、さっきの黒晶板の白抜けを思い出した。


「……ノアです」


 そう答えると、老人は何も詮索しなかった。


「そうか。ノアさん。私は三番路地の先生だ」


「本名ではないんですか」


 問いは、思ったより直接出てしまった。


 リィゼが横目でノアを見る。

 失礼だと言われるかと思ったが、老人は怒らなかった。


「忘れた」


 短い答えだった。


 ノアは言葉を失う。


「忘れた、って……」


「本名をね。昔はあった。たぶん立派な名だった気がする。家名も、学籍も、医師としての登録名もあったはずだ。けれど、ある日から呼ばれても振り向けなくなった。自分で書いても読めなくなった。最後には、思い出そうとすると患者の顔まで混じるようになった」


 老人は、眠っている子どもの布を替えながら言った。


「だから、今は三番路地の先生で十分だ」


 ノアはしばらく黙っていた。


 それから、どうしても聞かずにはいられなかった。


「本名を思い出したいとは思わないんですか」


「思い出せるなら思い出したい」


 老人はすぐに答えた。


「でも、思い出すまで患者を待たせるわけにはいかないでしょう」


 ノアは何も言えなかった。


 老人は笑っているわけではなかった。

 諦めているようにも見えなかった。


 ただ、今日も薬を作り、熱を見る。

 そのために必要な名が、三番路地の先生なのだ。


「本名を失っても、仕事は残る」


 老人は言った。


「仕事が残れば、呼び名も残る。呼び名が残れば、少なくとも誰かは扉を叩ける」


 ノアは診療所の扉を見た。


 三番路地の医者。


 確かに、その看板があるから人はここへ来る。

 本名を知らなくても、ここに医者がいると分かる。


 名前を思い出すまで患者を待たせるわけにはいかない。


 その言葉が、胸に残った。


 次に向かったのは、薬屋だった。


 店先には黒い布がかかり、小さな鈴が吊るされている。棚には薬草、乾いた花、黒晶の粉、丸薬、そして匂い袋のようなものが並んでいた。


 看板には、黒猫の姉の薬屋。


 店の奥から、若い女性が出てきた。


 黒い猫耳と、細い尾がある。

 髪は濡れた墨のように黒く、瞳は琥珀色。動きはしなやかで、声は明るい。


「オルフェ、今日は誰を連れてきたの?」


「ノアさんです。呼び名の確認を終えたばかりです」


「へえ。じゃあ、いちばん疲れてるころだね」


 黒猫の姉は、ノアを見てにこりと笑った。


「苦い薬茶、飲む?」


「いえ、大丈夫です」


「大丈夫って言う人ほど、あとで倒れるよ」


 リィゼが横から言う。


「それ、さっき私も言われた」


「ナハト=リムの常識だね」


 黒猫の姉は笑いながら、棚の奥から小さな瓶を取った。


 そのとき、店の外から誰かが呼びかけた。


 ごく小さな声だった。


 けれど、黒猫の姉の耳がぴくりと動いた。


 次の瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。


 手にしていた瓶が棚に当たり、からりと音を立てる。

 尾が硬直し、呼吸が浅くなる。


 ノアは反射的に一歩近づいた。


「大丈夫ですか」


 だが、オルフェが手で制した。


「呼ばないでください」


「え?」


「今は、名前を呼ばないで」


 黒猫の姉は、胸元を押さえていた。

 しばらくして、店の奥から別の女性が出てきて、彼女の肩に布をかける。


「黒猫の姉」


 その女性が、ゆっくり呼んだ。


「黒猫の姉、ここにいるよ」


 呼び名を何度か繰り返すと、黒猫の姉の呼吸が少しずつ戻っていった。


 ノアは息を呑んだまま、それを見ていた。


 やがて黒猫の姉は、照れたように笑った。


「ごめんね。ちょっと、古い名に似てた」


「古い名……」


「本名」


 黒猫の姉は、軽く肩をすくめる。


「私、本名を呼ばれると発作を起こすんだ。正確には、本名そのものじゃなくて、昔それを呼んだ人の声に引っ張られる」


 ノアは言葉を失った。


「本名って」


 黒猫の姉は、ノアをまっすぐ見た。


「誰に呼ばれても嬉しいものじゃないよ」


 その言葉は、ノアの中に深く落ちた。


 本名。


 ノアにとって、それは守りたいものだった。

 最後まで呼ばれたいものだった。

 ノア=リントベルと疑わずに呼んでくれる世界へ帰りたい。


 そう思っていた。


 けれど、目の前の女性にとっては違う。


 本名が、傷口を開く。

 昔の誰かの声に縛られる。

 呼ばれることで、今の自分が崩れる。


 そんなことがあるのか。


 名前なのに。


 いや、名前だから。


 リィゼの声が、頭の中で重なった。


 黒猫の姉は、棚から薬包をひとつ取り、ノアに差し出した。


「苦いけど、よく眠れる。初回はおまけ」


「私は……」


「買わなくていいよ。持ってるだけでいい。眠れない人の顔してる」


 ノアは薬包を受け取った。


 黒猫の姉は、にっと笑う。


「ノアさん、だっけ」


「はい」


「いい呼び名だと思うよ。短くて、逃げ場がある」


「逃げ場?」


「本名まで詰められない。仮名まで縛られない。ただ振り向ける。そういう呼び名は便利」


 ノアは薬包を見下ろした。


 ただ振り向ける名。


 それを便利だと言われても、まだ納得はできない。


 けれど、その言葉は嫌ではなかった。


 三つ目に訪れたのは、鍛冶場だった。


 道の奥から、金属を打つ音が聞こえてくる。

 黒晶炉の熱が路地にまで漏れ、空気が少し歪んでいた。


 看板には、青い角の鍛冶場。


 中では、十代半ばほどの少年が炉のそばで鉄片を運んでいた。額からは、左右非対称の青い角が伸びている。片方は短く、もう片方は少し欠けていた。


 少年はリィゼを見ると、目を輝かせた。


「拾名屋の姉さん!」


「手袋しろ、青い角。火傷するぞ」


「してる!」


「してから言うな」


 少年は慌てて手袋をはめた。


 そのやり取りに、鍛冶場の奥から太い笑い声がした。

 親方らしき大柄な女性が、鉄槌を肩に担いでいる。


「オルフェ、今日は見学かい」


「はい。呼び名の話を」


「ああ、それなら青い角がいい。あの子は説明が下手だが、気持ちは分かりやすい」


「親方!」


 少年が不満そうに声を上げる。


 ノアは少年の額の角を見た。


 青い角。


 確かに、見たままの呼び名だ。


 けれど、それは失礼ではないのだろうか。


 身体的な特徴を、そのまま呼び名にする。

 外界なら、侮蔑になりかねない。


 ノアの表情を見て、少年が先に笑った。


「気になる?」


「……少し」


「青い角って呼び方?」


「嫌じゃないの?」


 少年は鉄片を炉のそばに置き、額の角に触れた。


「嫌じゃない。半魔より、青い角のほうがいい」


 ノアは息を止めた。


 半魔。


 アシュ=ロアの外壁に刻まれていた言葉。


 少年は、軽く言う。


「外では、ずっと半魔って呼ばれてた。魔族の血が混じってるから駄目だって。神殿に出せとか、血を調べろとか、角を切れば戻るとか、いろいろ」


 その声は明るかった。

 明るすぎるくらいだった。


「でも、青い角は僕の角だ。半魔は、あいつらが作った箱だから」


 ノアは、その言葉をすぐには理解できなかった。


 箱。


 木箱を思い出す。


 《白腹鴉》号の船倉。

 人を荷として詰めるための箱。


 少年が言っている箱は、それとは違う。

 けれど、同じように人を閉じ込めるものだった。


 半魔。


 そう呼ぶことで、相手を分類する。

 人ではなく、混ざりものとして。

 危険なものとして。

 調べるべきもの、切るべきものとして。


 青い角は、身体の一部だ。

 半魔は、誰かが作った檻だ。


 ノアは、アシュ=ロアの罵倒の碑を思い出した。


 異形児。

 血統不適。

 母体不明。

 記録外。


 言葉は、人を箱に入れる。


 それなら、呼び名は何のためにあるのか。


 少年は、ノアを見上げた。


「あなたは?」


「私?」


「何て呼ばれてるの」


 ノアは少し迷った。


 ノア=リントベル。


 そう言いたかった。


 けれど、ここでそれを言えば、また説明が必要になる。

 ベルが欠ける話。

 帰還先接続不安定。

 本名候補。

 仮保護名。


 それら全部を言わなければならない気がした。


 だから、彼女は短く答えた。


「ノア」


「いいね」


 少年は笑った。


「短い。呼びやすい」


「それだけ?」


「呼びやすいって大事だよ。呼んでもらえない名は、遠いから」


 ノアは何も言えなかった。


 呼んでもらえない名。


 ノア=リントベル。


 自分にとっては、いちばん近い名のはずなのに。

 この大陸では、最後まで届かない名。


 胸が少し痛んだ。


 鍛冶場を出るころには、昼を少し過ぎていた。


 ナハト=リムの街は、相変わらず呼び声に満ちている。


 けれど、最初に聞いたときより、ノアには少しだけ違って聞こえた。


 三番路地の先生。

 黒猫の姉。

 青い角。


 どれも本名ではない。


 けれど、ただの仮名でもない。


 医者であることを残す名。

 本名から身を守る名。

 侮蔑の箱を脱いで、自分の身体を取り戻す名。


 名前を削られる痛み。

 名前を呼ばれる痛み。

 名前を持てない痛み。


 それらは、同じではない。


 ノアはまだ納得していなかった。


 ノア=リントと呼ばれれば胸が痛む。

 本名候補という表記を見ると、腹が立つ。

 ノア=リントベルで安定して記録されないことも、受け入れたくない。


 けれど、自分の痛みだけでこの街を判断することは、もうできなかった。


 オルフェはノアの横を歩きながら、静かに言う。


「ここにいる人たちは、本名を捨てたわけではありません」


「でも、使っていない人が多い」


「使えないからです。使わないほうが生きられる人もいます」


「それは……寂しくないんですか」


 ノアが訊くと、オルフェは少し考えた。


「寂しい人もいます。楽になった人もいます。どちらでもない人もいます」


「答えになっていない気がします」


「一つの答えにすると、誰かを傷つけます」


 その言葉に、ノアは黙った。


 ナハト=リムの中央広場に出る。


 広場には、いくつもの掲示板が立っていた。

 配給予定。宿泊部屋の空き。医療相談。偽名証発行日の案内。仕事の募集。そして、一時保護名簿。


 ノアの視線が、その名簿に止まった。


 帰還希望者一時保護。


 その見出しだけで、胸の奥が冷える。


 第1節で黒晶板に浮かびかけた黒い潮染みを思い出した。


 帰還希望者。


 自分も、その一人だ。

 けれど、その言葉はどこかで狙われている。


 ノアは掲示板に近づいた。


 札が並んでいる。


 日常呼称だけの者。

 仮保護名の者。

 本名候補が併記された者。

 空欄のまま、灰色の札だけが貼られている者。


 そのうち、数枚の札の端に、黒い染みが浮いていた。


 ほんの小さな染みだった。


 だが、見間違えるはずがない。


 《白腹鴉》号の札。

 エリオ=カラン――の木札。

 帰還希望分類に浮かびかけた黒い潮。


 同じ色だった。


 ノアの喉が乾く。


「これ……」


 彼女は、掲示板の端を指した。


「《白腹鴉》号の札と同じ染みじゃないの」


 リィゼの顔が、硬くなった。


 いつもの軽口が消える。


 オルフェも、静かに掲示板へ近づいた。

 表情は大きく変わらない。けれど、指先が札に触れる前に一瞬だけ止まった。


「触らないでください」


 オルフェの声は低かった。


 周囲の職員が、その声に反応して振り返る。


 広場の呼び声が、少しだけ遠ざかったように感じた。


 ノアは、自分の仮保護名札を握りしめた。


 ノア。

 ノア=リント。

 ノア=リントベル。


 どの名であっても、帰りたいという願いからは逃げられない。


 掲示板の黒い潮染みは、まるでその願いを嗅ぎつけた何かの痕のように、札の端でじっと滲んでいた。

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