第三節 ― 仮保護名
夕方になると、ナハト=リムの無籍者審査所は、昼間とは違う顔を見せた。
昼のあいだ絶えず出入りしていた相談者たちは少しずつ減り、代わりに、今日一日の記録を閉じる職員たちの声が増えている。
窓口の札が裏返され、黒晶板の掲示が一枚ずつ差し替えられ、薬湯の壺には布の蓋がかけられていた。
それでも、完全に静かになることはない。
隅の長椅子では、まだ誰かが毛布をかぶって眠っている。
壁際では、若い職員が老人の代筆をしている。
奥の部屋からは、泣き疲れた子どものしゃくりあげる声が、時折かすかに聞こえた。
ナハト=リムは、夜になっても誰かを締め出すことができない街なのだと、ノアは思った。
それが優しさなのか、苦しさなのかは、まだ分からない。
ノアは、再びオルフェ=セプティアの審査室に座っていた。
昼間よりも、部屋の灯りは落とされている。
机の上には、三種類の記録媒体が並べられていた。
薄い灰色の紙。
小さな黒晶札。
そして、細長い白い名片。
その白い名片だけは、ほかの記録媒体と違って、何も書かれていないのに妙に目を引いた。表面はなめらかで、光を受けると骨のような白さを帯びる。
ノアはそれを見つめた。
「これが、未確認名片ですか」
「はい」
オルフェは頷いた。
「完全には固定できない名、けれど抹消してはいけない名を、別に留めるためのものです」
「留める……」
「記録というより、目印に近いですね」
オルフェは、白い名片を指先で軽く押さえた。
「ここに刻まれたからといって、その名が証明されるわけではありません。ですが、探すべき音があることは残ります」
探すべき音。
ノアは胸の奥で、その言葉を反芻した。
ベル。
消えたのではない。
まだ固定できないだけ。
そう言われたら、救われるのだろうか。
それとも、余計に苦しくなるのだろうか。
分からない。
ただ、何も残らないよりは、ましだと思ってしまった。
それが悔しかった。
リィゼは部屋の壁際に立っている。
椅子を勧められても座らず、腕を組み、窓の外を見ていた。だが、関心がないわけではない。ノアが少しでも声を荒げれば、すぐにこちらを見る位置にいる。
拾名屋。
漂着物から、誰が流れ着いたのかを拾う者。
ノアは、今なら少しだけ分かる気がした。
リィゼが拾っているのは、金目の物ではない。
壊れた時計や濡れた身分証や、読めなくなった手紙に残る、誰かの呼び声なのだ。
「まず、制度の違いを確認します」
オルフェは机の上に三枚の小札を置いた。
一枚目。
仮呼び。
「これは、港や救護現場で、とりあえず呼ぶための名前です。本人確認が不十分でも、意識確認、救護、移動のために必要になります」
ノアは目を伏せた。
あの漂着者詰所。
毛布。
簡易寝台。
ミミル=ハンドの静かな声。
完全な名が残らないため、仮呼びを設定します。
そのとき、ノアは拒んだ。
俺には名前がある――いや、今なら言い直さなければならない。
私には名前がある。
あの拒絶は、今も間違っていたとは思わない。
けれど、あのとき自分が見ていたものは、自分の怒りだけだった。
二枚目の札を、オルフェが示す。
仮保護名。
「これは、行政、救護、宿泊、移動、配給で使える一時名です。仮呼びよりも扱える範囲が広く、本人の安全と生活に関わります」
「それが、ノア=リント」
「はい」
「港で勝手につけられた仮呼びを、ここで正式にするんですね」
ノアの声には、まだ棘があった。
オルフェは否定しない。
「正確には、港で発生した仮呼びが、あなたの記録反応と一致しているため、仮保護名として運用可能か確認します」
「言い方を変えているだけに聞こえます」
「言い方は大切です。言い方を間違えると、制度は暴力になります」
ノアは、ふとアシュ=ロアの外壁を思い出した。
半魔。
異形児。
記録外。
あれも言い方だった。
人を押し込めるための。
ノアは口を閉じた。
オルフェは三枚目の札を置く。
偽名証。
その文字を見た瞬間、ノアの表情が硬くなった。
「偽名証は、本名を使えない者が社会生活を送るための公的な盾です」
「盾」
「はい。嘘をつくための札ではなく、嘘にされないための札です」
「でも、偽名なんでしょう」
「外界の言い方なら、そう聞こえるでしょう」
オルフェは淡々としていた。
ノアは少し苛立つ。
「仮保護名って、つまり偽名の手前ですよね」
「制度上は、近い位置にあります」
「私は、嘘の名前で生きたいわけじゃない」
そう言った瞬間、胸の奥に熱いものが上がった。
ノア=リントベル。
それが自分の名前だ。
まだ覚えている。
口にも出せる。
自分の中では、欠けていない。
なのに、この大陸では、その名を最後まで受け取らない。
どうして自分が、嘘の名前を受け入れなければならないのか。
オルフェは、ノアの視線をまっすぐ受け止めた。
「なら、嘘にしないために記録します」
「え?」
「これは本名ではない。けれど、あなたが今、返事をできる名である、と」
ノアは言葉を失った。
オルフェは続ける。
「嘘になるのは、仮の名を本名だと言い張るときです。あるいは、本名ではないから存在しないと扱うときです。ナハト=リムでは、そのどちらも避けます」
「本名じゃない。でも、存在はする」
「はい」
「そんな中途半端なものを、どうやって信じればいいんですか」
「信じなくても構いません」
オルフェは静かに答えた。
「まず使えるようにします。信じるかどうかは、その後でもいい」
その言い方に、ノアは少しだけ力を抜かれた。
信じろ、と言われるのではない。
受け入れろ、と迫られるのでもない。
使えるようにする。
あまりに実務的で、だからこそ逃げ道があった。
リィゼが壁際から口を挟んだ。
「ノア=リントベルを取り戻したいなら、ノア=リントを殺すな」
ノアは顔をしかめた。
「言い方が悪い」
「分かりやすいだろ」
「分かりやすいけど、悪い」
「じゃあ、きれいに言うか」
リィゼは少し考えるふりをした。
「橋をかける前に、足場を壊すな」
ノアは一瞬黙った。
「……最初からそっちで言って」
「面倒だろ」
「本当に、そういうところ」
リィゼは小さく肩をすくめた。
けれど、その言葉は残った。
橋をかける前に、足場を壊すな。
ノア=リントは、足場なのか。
ノア=リントベルへ戻るための。
そう思うと、胸の痛みが消えるわけではない。
だが、その痛みに意味を持たせることはできるのかもしれなかった。
「始めます」
オルフェが言った。
机の中央に、灰色の仮保護名届が置かれる。
紙の繊維には細かな黒晶粉が混ぜ込まれているらしく、光の角度によって淡くきらめいた。
「まず、あなたの本名として申し立てている名を書いてください」
ノアはペンを取った。
何度も書いた名。
何度も消えた名。
ノア=リントベル。
最後のベルまで、丁寧に書く。
今度こそ、と、どこかで思っている自分がいた。
インクは最初、きちんと紙に乗った。
ノア=リントベル。
だが、乾く前に、やはりベルの部分が薄くなる。
文字の輪郭が白く抜け、紙の奥に沈むように消えていく。
ノア=リント――。
ノアはペンを握ったまま、動けなかった。
もう何度も見た。
それでも慣れない。
名前の一部が消えるというのは、何度見ても、自分の身体の一部が白く透けていくような感覚だった。
オルフェはすぐに紙を取り上げなかった。
消えた部分を確認し、記録し、そしてノアが息をするのを待っていた。
「本人筆記、本名候補。末尾欠落」
オルフェは静かに記録した。
次に、黒晶札を差し出す。
「仮保護名を書いてください」
ノアは一度だけ目を閉じた。
そして書く。
ノア=リント。
その名は、すぐに黒晶札へ馴染んだ。
嫌になるほど、安定していた。
文字の線は濃く、欠けず、揺らがない。
黒晶の表面に、しっかりと刻まれていく。
ノアはそれを見つめる。
違う。
それでも、残る。
違うのに、残る。
この矛盾を、どう扱えばいいのか分からなかった。
「仮保護名、安定」
オルフェが記録する。
「本人不快反応あり。ただし拒絶反応ではありません」
「また分類」
「必要です」
「分かっています」
思ったより素直に言葉が出て、ノア自身が少し驚いた。
分かっている。
納得はしていない。
でも、必要なのだとは分かり始めている。
それが、自分の中でいちばん厄介だった。
最後に、オルフェは白い未確認名片を差し出した。
「ここには、欠ける音だけを別記します」
「ベル、だけ?」
「はい。完全な名としてではなく、未固定音として」
「音なんですか」
「名として固定できないとき、音だけが先に残ることがあります。逆に、文字だけが残ることもあります。匂い、筆跡、呼んだ者の声だけが残る場合もあります」
ノアは、白い名片を見下ろした。
ベル。
たった二音。
自分の名の最後。
家名の最後。
帰る場所につながっていたはずの音。
ノアは、銀筆を持った。
ベル。
そう書く。
名片の表面に、かすかな光が走った。
最初は文字になった。
けれど、すぐに輪郭が崩れる。
完全には残らない。
それでも、消え切りはしなかった。
黒晶の端に、細い白い傷のようなものが残る。
文字ではない。
けれど、ただの空白でもない。
ノアは息を止めた。
「残った……?」
「はい」
オルフェは、初めて少しだけ声を柔らかくした。
「消えたのではありません。まだ固定できないだけです」
その言葉を聞いた瞬間、ノアの胸の奥から、細く息が漏れた。
自分でも気づかないほど、ずっと息を詰めていたらしい。
ベル。
完全ではない。
読める文字でもない。
だが、そこに傷のように残っている。
それだけのことが、どうしてこんなに胸を揺らすのか。
ノアは、名片から目を離せなかった。
「これで、戻るんですか」
「いいえ」
オルフェは正直に言った。
「これで本名が回復するわけではありません。帰還先との接続が戻るわけでもありません」
「……でしょうね」
「ですが、探すべき欠片は残ります」
探すべき欠片。
ノアは、名片の白い傷を見つめた。
ベルは、消えていない。
少なくとも、ここではそう扱われる。
それは、想像していたよりも大きかった。
手続きは、さらに続いた。
オルフェは三つの記録を並べ、一枚の保護札へ統合していく。
黒晶札の表面に、文字が順に浮かぶ。
仮保護名。
ノア=リント。
本名候補。
ノア=リントベル。
状態。
帰還先接続不安定。
意思。
帰還希望。
注意。
帰還希望分類への黒潮反応あり。
その最後の行で、ノアの視線が止まった。
帰還希望。
その言葉は、自分の願いだ。
帰りたい。
ただ、それだけ。
だが、黒晶板に浮かびかけた黒い潮染みを、ノアは見た。
掲示板の保護名簿にも、同じ染みがあった。
《白腹鴉》号の札にも。
エリオ=カラン――の札にも。
帰りたいという願いは、ただの願いではなくなっている。
誰かが、何かが、その言葉を目印にしている。
そう思うと、喉の奥が冷えた。
「帰還希望って」
ノアは小さく言った。
「書かないほうが安全なんじゃないですか」
「書かなければ、あなたの意思が消えます」
オルフェは答えた。
「ですが、分類語として呼ぶことは避けます。だから、注意欄を付けます」
「帰りたいって言うことも、危ないんですか」
「危ないのは、帰りたいという意思ではありません」
オルフェは、まっすぐノアを見た。
「その意思を奪おうとするものです」
ノアは何も言えなかった。
あの夜、南入江へ向かった自分。
帰れるという言葉に縋った自分。
箱の中で震えていた人々。
名前が欠けても、向こうへ戻れば家族が思い出すと言われた者たち。
帰りたいという願いは、人を動かす。
だから、利用される。
なら、自分はどうすればいいのか。
帰りたいと言わないほうがいいのか。
願わないほうがいいのか。
それとも、願いを隠して、この街の呼び名だけで生きればいいのか。
違う。
そう思った。
それは違う。
ノアはまだ帰りたい。
そこだけは、誰にも渡したくない。
オルフェは保護札を封じ、ノアへ差し出した。
「仮保護名登録は完了です」
ノアはそれを受け取った。
札は軽い。
だが、さっきまでの仮登録札より、ずっと重く感じた。
そこには自分の名が三つの形で置かれている。
ノア。
ノア=リント。
ノア=リントベル。
そして、白い未確認名片に残った、ベルの傷。
「これを持っていれば、何ができますか」
ノアは訊いた。
「宿泊、配給、医療、街道移動、審査所への再相談、偽名証発行所の仮予約ができます」
「偽名証は、まだ要りません」
「はい。今は要りません」
オルフェは頷いた。
「ですが、明日、発行所を見てもらいます」
「見ても、私は申請しません」
「申請するためではありません。なぜ必要とする人がいるのかを見るためです」
ノアは、少しだけ顔をしかめた。
また、見なければならない。
自分の知らない痛み。
自分とは違う名の扱い。
自分が不快だと思う制度を、必要としている人々。
ナハト=リムは、そういうものを次々に見せてくる。
優しい顔をしながら、逃がしてくれない街だと思った。
リィゼが立ち上がる。
「今日はここまでか」
「はい。共同住宅に部屋を用意しています」
オルフェは記録を整えながら答えた。
「ただし、掲示板の黒潮反応については、こちらで再確認します。リィゼさん、後ほど別室で話を」
「分かった」
ノアは顔を上げた。
「私も聞きます」
リィゼが即座に言う。
「休め」
「嫌です」
「昨日から休めって何回言われたか覚えてるか」
「覚えていません」
「都合の悪いことだけ記録できないのか」
「そういう言い方、本当に腹が立つ」
リィゼは小さく笑った。
その笑い方に、少しだけ緊張がほどける。
オルフェが穏やかに言った。
「黒潮反応については、今夜の安全確認に関わります。必要なことは共有します。ただ、ノアさんにはまず、保護札が正しく反応するか確認しながら共同住宅へ入ってもらいます」
「つまり、また確認」
「はい」
「この街は確認ばかりですね」
「確認しないと、誰かが消えます」
その一言で、ノアは黙った。
消える。
名前が。
記録が。
帰りたいという願いが。
誰かが。
保護札を握る手に、少し力が入る。
ノアは、机の上に残された未確認名片を見た。
白い傷のようなベル。
完全ではない。
けれど、消えてはいない。
それを持つことが、今の自分にできる精一杯なのかもしれない。
ノアは保護札を胸元にしまった。
帰還希望。
その文字は、ただの願いではない。
何かに狙われる印かもしれない。
それでも、ノアはその欄を消してほしいとは言えなかった。
帰りたい。
その言葉まで失ったら、自分は本当に、どこへ向かえばいいのか分からなくなる。
夕方の光が、審査室の窓を赤く染めている。
ナハト=リムの呼び声は、夜に向けて少しずつ低くなっていた。
ノアは立ち上がる。
胸元には、仮保護名の札。
その奥には、まだ固定できないベルの音。
削られたのではない。
まだ固定できないだけ。
ノアは、その言葉を信じるとまでは言えなかった。
けれど、今はそれを持って歩くしかないと思った。




