第二節 ― 帰船屋ゼブ=カラン
昼を過ぎると、ヴァル=クレイアの港は、朝とは違うざわめきを帯びた。
早朝の港は、漂着物を拾い、濡れた荷を干し、生きている者と死んでいる者を分ける場所だった。
だが昼を越えた港は、名前のある商売と、名前のない商売が、同じ潮風の中で肩を擦り合わせる場所になる。
正規の桟橋では、黒晶鉱の箱が積み上げられていた。
港番の立ち会いのもと、荷札と帳面が照合されている。黒い鉱石を詰めた箱は、陽の薄い空の下でも内側から鈍く光り、近くに立つだけで乾いた冷気を感じさせた。
一方、一本裏の通りへ入ると、空気はすぐに変わった。
看板のない扉。
低い天井の酒場。
濡れた帆布で半分隠された露店。
外界語で書かれた古い荷札。
メギド=ノクスの文字で上書きされた契約片。
誰のものとも知れない名札を、護符のように束ねて売る老婆。
そこでは、誰も大声では呼び込みをしない。
売っているものが、本当に売っていいものか分からないからだ。
ノアは、詰所で借りた薄い外套を羽織り、人の流れに紛れるように歩いていた。
バルドには、港の空気を吸いたいと言った。
ミミルには、遠くへ行かないようにと念を押された。
リィゼの姿は、そのとき詰所にはなかった。
誰も、ノアを縛らなかった。
誰も、扉の前に立ちふさがらなかった。
それが不気味でもあり、少しだけ意外でもあった。
もし本当に彼らが自分を閉じ込めたいのなら、もっと簡単にそうできるはずだった。
この港では、漂着者は保護対象だ。失名疑いなら、なおさらだろう。
けれど、ノアは外へ出られた。
だからこそ、胸の内側に別の苛立ちが残った。
彼らは自分を信じているのか。
それとも、どうせ戻ってくると思っているのか。
懐の内側で、黒晶札が硬く揺れる。
ノア=リント。
歩くたびに、その短い名が胸に当たる。
違う。
ノアは無意識に外套の上から札を押さえた。
自分はノア=リントベルだ。
港裏の狭い通りで、ノアは何度か道を尋ねた。
「南入江を知っていますか」
その名を出した瞬間、相手の反応は分かれた。
ある者は、聞こえなかったふりをした。
ある者は、露骨に顔をしかめた。
ある者は、黙って別の道を指した。
そして、ある者は笑った。
「南入江?」
魚油の小瓶を並べていた男は、片目を細めてノアを見た。
「昼間に行く場所じゃないな」
「夜なら?」
「夜なら、もっと行く場所じゃない」
男はそれだけ言うと、もうノアを見なかった。
別の路地では、尾を外套の下に隠した若い女が、小さな声で言った。
「港番に聞きな」
「港番を通さない船があると聞きました」
ノアがそう言うと、女はさっと顔色を変えた。
「その話を昼にするな」
「知っているんですか」
「知らない」
彼女は早口に言い、店の布を下ろした。
南入江。
その言葉だけで、通りの空気が変わる。
ノアにも、それは分かった。
分かったのに、足は止まらなかった。
確かめなければならない。
帰れる船があるのか。
ないのか。
嘘なのか。
本当なのか。
リィゼも、バルドも、ミミルも、誰も「帰れる」とは言わなかった。
なら、自分で探すしかない。
倉庫街の奥で、ノアは古い案内板を見つけた。
南船溜。
旧岩道。
潮位注意。
文字は半分剥がれ、矢印は潮風に削られて曖昧になっている。
それでも、南へ向かう道があることだけは分かった。
ノアがその板を見上げていると、背後から声がした。
「探し物ですか」
外界語だった。
ノアは反射的に振り返った。
倉庫の軒下に、ひとりの男が立っていた。
年齢は三十代半ばほど。
細身で、焦げ茶の髪を丁寧に撫でつけている。港の者にしては、身なりが整いすぎていた。外套は灰角の港のものに見えるが、襟元だけは外界風の仕立てで、手には薄い革手袋までしている。
人当たりのよい笑み。
柔らかな声。
この荒い港の空気の中で、そこだけが妙に清潔だった。
「迷われたように見えました」
男はそう言った。
ノアは警戒したまま答える。
「少し、港を見ていただけです」
「ええ。灰角の港は、初めての方には入り組んで見える。まして、昨日流れ着いたばかりなら」
ノアの肩がわずかに強張った。
「なぜ、それを」
「この港では、漂着者の話は潮より早く回ります」
男は苦笑するように肩をすくめた。
「詰所へ薬湯を運ぶ者。記録紙を納める商人。濡れた外套を回収する洗い場の者。港番と酒を飲む船員。誰かが喋る。誰かが聞く。そういう場所です」
言葉は自然だった。
だが、その自然さが、逆にノアを落ち着かなくさせた。
「あなたは?」
「ゼブ=カラン」
男は軽く会釈した。
「帰船屋です」
「帰船屋?」
「戻りたい方に、船を紹介する仕事ですよ。もちろん、正式な港番の書類とは別の道です」
声が、少しだけ低くなる。
「あなた、外界の方でしょう?」
ノアの手が、懐の仮登録札に触れた。
ゼブは、その小さな動きを見逃さなかった。
「ノア=リントさん」
「リントベルだ」
即座に言った。
自分でも、声が鋭くなったのが分かった。
ゼブは少しも不快そうにせず、穏やかに微笑む。
「もちろん。ノア=リントベルさん。外界へ戻れば、すぐに証明できます」
その言葉は、ひどく甘かった。
外界へ戻れば、証明できる。
ノアがずっと、自分に言い聞かせていたことだ。
詰所では、誰もそう言ってくれなかった。
ミミルは記録を取り、バルドは規定を告げ、リィゼは粥を食えと言った。
けれどゼブは、最初からノアが欲しい言葉を知っていた。
「船があるんですか」
ノアは慎重に訊いた。
「あります。今夜出ます」
「外界へ?」
「ええ。西回りの船です。正規航路ではありませんが、正規航路が使えるなら、あなたはここにいないでしょう」
ノアは黙った。
言い返せない。
ゼブは続ける。
「身分証が濡れている。名前も、少し不安定。港番に任せれば、アシュ=ロアだの、ナハト=リムだの、面倒な審査へ回される。そうなれば何日、何十日かかるか分からない」
「……どうして、そこまで知っている」
「先ほど言ったでしょう。情報も潮に乗ります」
ゼブは微笑んだ。
「それに、私の仕事は、帰りたい方を見つけることですから」
帰りたい方。
ノアの胸が、また小さく反応した。
ゼブの言葉は、ひとつひとつが柔らかい。
だが、その柔らかさは、相手の傷に合わせて形を変える布のようだった。
「帰りたいんでしょう」
ゼブは言った。
「なら、港番より船を信じるべきだ」
リィゼの声が頭をよぎる。
――帰れるって言う奴ほど、帰したことがない。
ノアはゼブを見た。
「金は」
「外界貨幣も受け取れます。足りない分は、到着後で結構です」
「到着後?」
「外界側に協力者がいます。身分の再確認、書類の修復、保護手続き。そういったものも整えられます」
書類の修復。
その言葉に、ノアは胸を掴まれたような気がした。
壊れた身分証。
帳に残らない家名。
曇った時計の裏蓋。
それらが、外界へ戻れば直るかもしれない。
「本当に、身分証が壊れていても乗れるんですか」
「もちろん」
ゼブは少し身を乗り出した。
「むしろ、そういう方のための船です。港番に通せない方。名前が欠けた方。亡命者扱いされたくない方。あなたのように、ただ帰りたいだけの方」
ただ帰りたいだけ。
ノアは、その言葉に抵抗できなかった。
自分は、何か悪いことをしたわけではない。
逃げてきたわけでもない。
亡命したわけでもない。
魔大陸に来たかったわけでもない。
ただ帰りたいだけだ。
それなのに、なぜ港番に帳へ載せられ、仮呼びを与えられ、審査だの確認だのと言われなければならないのか。
「南入江へは?」
ノアは訊いた。
「夜半前に、潮が引きます。そのときだけ岩道が出る。黒い岩柱が三本並ぶところを越えれば、入江が見えます」
「案内は?」
「途中までは不要でしょう。港番に見つかると面倒ですから」
「港番に?」
「彼らは善意で止めます。ですが、善意はときに鎖になる」
ゼブは懐から、小さな金属片を取り出した。
指先ほどの薄い乗船符だった。
表には、白い腹を見せる鴉の印が刻まれている。
「《白腹鴉》号。これを持っていれば、船員が分かります」
ノアは乗船符を見つめた。
白い腹の鴉。
不吉な印だと思った。
それでも、手を伸ばしていた。
金属片は冷たかった。
指先から、その冷たさが胸へ伝わっていく。
「それまで、誰にも見せないほうがいい」
ゼブは優しく囁いた。
「特に、拾名屋には」
ノアは顔を上げた。
「なぜ」
「彼らは、流れ着いたものを拾います。名を拾い、記録を拾い、あなたをここに留めるための理由を拾う。もちろん、悪意ではありません」
ゼブはゆっくりと首を振る。
「ですが、帰りたい人間に必要なのは、同情ではなく船です」
ノアは乗船符を握りしめた。
リィゼは同情で自分を止めているのか。
違うような気もした。
彼女の言葉は、もっと硬く、もっと苦いものだった。
同情というより、経験だった。
それでも、彼女は帰れるとは言わなかった。
ゼブは言う。
「夜、二つ目の鐘のあとに。灯りは持たず、南の旧岩道へ。潮が戻る前に来てください」
「遅れたら?」
「船は待ちません」
「明日は」
「明日の船は、今日のあなたを待ってはくれません」
その言葉に、ノアは奥歯を噛んだ。
今日。
今夜。
この機会を逃せば、また詰所へ戻ることになる。
また仮名紙に名前を書くことになる。
また、ベルが消えるのを見ることになる。
ゼブは軽く会釈した。
「では、夜に。ノア=リントベルさん」
今度は、正しく呼んだ。
それだけで、ノアの警戒が少し緩む。
ゼブは人混みの中へ消えていった。
その姿が見えなくなったあとも、ノアはしばらく倉庫の陰に立っていた。
手の中には乗船符。
懐には仮登録札。
ノア=リント。
ノア=リントベル。
ふたつの名が、胸の中でぶつかっている。
やがて、ノアは乗船符を外套の内側へ隠した。
港の南には、厚い雲の下で黒い断崖が続いている。
その向こうに、夜だけ来るという船がある。
本物かどうかは分からない。
だが、確かめなければ何も変わらない。
ノアは人の流れへ戻った。
港番の詰所の前を通ると、リィゼが扉のそばにいた。
黒晶灯の芯を取り替えているところだった。
灰紫の髪が潮風に揺れ、小さな角が灯の光を受けて鈍く光っている。
彼女は顔を上げた。
「どこ行ってた」
「港を見てた」
「南へは?」
ノアは一瞬、答えが遅れた。
その一瞬で、リィゼの目が細くなる。
「ノア」
仮呼びではなく、彼女はただノアと呼んだ。
「南入江には行くな」
ノアは視線を逸らした。
「……見に行くだけだ」
「それが一番危ない」
「君は何でも危ないと言う」
「危ないから言ってる」
「私は、自分の目で確かめたい」
「目で見せるために、罠は作られるんだよ」
ノアは言葉を失った。
リィゼの声には苛立ちがあった。
けれど、それだけではない。
恐れもあった。
ノアが、帰りたいという言葉に引っかかることを、もう分かっているのだ。
だからこそ、ノアは余計に苦しくなった。
「君には分からない」
言ってから、まずいと思った。
だが、遅かった。
リィゼは静かにノアを見た。
「何が」
「帰る場所があるのに、帰れないかもしれないってことだ」
リィゼの表情が、ほんの少しだけ消えた。
怒ると思った。
言い返すと思った。
けれど、彼女は何も言わなかった。
その沈黙のほうが、ノアには痛かった。
やがてリィゼは、黒晶灯の蓋を閉じた。
「そうだな」
短く言った。
「あんたの帰る場所のことは、あたしには分からない」
それから、彼女は続けた。
「でも、帰りたい奴がどんな顔で騙されるかは分かる」
ノアは返せなかった。
港の鐘が鳴った。
一つ目の鐘。
夕方を告げる低い音が、断崖にぶつかって返ってくる。
ノアの外套の内側で、乗船符がかすかに冷えた。
リィゼは、その小さな動きに気づいたのかもしれない。
だが、何も言わなかった。
「今夜、詰所にいろ」
ノアは答えない。
「ノア」
もう一度、彼女が呼ぶ。
その声は、不思議と仮呼びよりも柔らかかった。
ノアは胸元の黒晶札を押さえた。
ノア=リント。
違う。
ノアは小さく首を振る。
「私は、ここに残るつもりはない」
リィゼは目を伏せた。
「そう言うと思った」
それ以上、彼女は止めなかった。
ノアは歩き出す。
背中に、リィゼの視線を感じる。
港の南へ向かうには、まだ早い。
夜になるまで待たなければならない。
だが、もう決めていた。
二つ目の鐘のあと。
黒い岩柱が三本並ぶ場所を越える。
灯りを持たずに進む。
南入江へ。
夜だけ来る船へ。
ノアの背が人混みに紛れ、見えなくなったあとも、リィゼはしばらくその場を動かなかった。
やがて、彼女は短く舌打ちする。
「……行ったな」
黒晶灯の蓋を、閉じる。
開く。
もう一度、閉じる。
そして開く。
紫の光が、短く二度、港番詰所の奥へ瞬いた。
夜間巡回の合図。
南側警戒。
港番にだけ通じる、簡素な灯の符丁だった。
奥の机で書類を見ていたバルド=グレイムが顔を上げる。
リィゼはノアが消えた方角を見たまま、低く言った。
「止められないなら、拾いに行くしかない」
黒晶灯の光が、彼女の金紫の瞳に揺れていた。




