第一節 ― 港番の朝
その夜、ノアは結局、詰所を出なかった。
いや、出られなかったと言うべきかもしれない。
窓の向こうに見えた南の灯は、何度もノアを呼んだ。
外界へ戻れる船。
名前が壊れていても乗せる船。
港番を通さなくてもいい船。
その言葉は、眠れない夜の中で何度も形を変え、ノアの胸の奥を叩いた。
けれど、詰所の外ではバルドの黒晶灯が巡回していた。夜番の港番が二度、寝台の間を見回った。リィゼの姿も、一度だけ窓の外を横切った気がした。
彼らが自分を閉じ込めようとしているのか。
それとも守ろうとしているのか。
ノアには、まだ分からなかった。
分からないまま、朝が来た。
ヴァル=クレイアの朝は、潮の匂いから始まる。
黒い海から吹き上げた風が、濡れた石畳を撫で、詰所の木戸を低く鳴らす。外では、早番の荷運びたちが声を掛け合い、港番が夜の記録板を外して朝の札へ取り替えていた。
漂着者詰所の中には、薬湯の匂いと、湿った毛布の匂いが残っている。
ノアは簡易寝台の端に座っていた。
ほとんど眠っていない。
身体の疲れは、昨日よりいくらかましになっている。海水を飲んだせいで痛んでいた喉も、薬湯のおかげで少し楽になった。
それでも、胸の奥は重い。
仮登録札が、懐にある。
ノア=リント。
その短い名が、自分の内側に食い込んでくるようだった。
「では、再確認をします」
ミミル=ハンドが、机の向こうで言った。
昨日と同じ大きな漂着者帳ではない。
今朝、机に置かれているのは確認用の仮名紙だった。
乾いた紙。
乾いたペン。
昨日とは違う黒いインク。
条件を変えて、もう一度見るためだとミミルは説明した。
三本の手は、机の上にきちんと揃えられている。一本の手が紙を押さえ、一本の手が記録板を持ち、もう一本が替えのペンを用意していた。
その事務的な丁寧さが、ノアには妙に苦しかった。
「昨日と同じ確認です。無理に強く書かなくて大丈夫です」
「強く書いて消えるなら、弱く書いても同じだろ」
「試験条件を変えると、後でバルドさんに怒られます」
「細かいんだな」
「細かくないと、失名疑いの記録は残せません」
失名疑い。
その言葉に、ノアの指がわずかに強張った。
自分は違う。
そう言いたかった。
だが、昨日の帳面を思い出す。
ノア=リント――。
白く抜けた後半。
ノアは奥歯を噛み、ペンを取った。
紙の上に、ゆっくりと書く。
ノア=リントベル。
最後の文字まで、確かに書けた。
今度こそ残れ。
声には出さず、そう思った。
しかし、インクが乾くより早く、ベルの部分が薄くなった。
紙の繊維が、そこだけ名を受け取らない。
黒い線が、最初から存在しなかったかのように、静かに白へ戻っていく。
ノア=リント――。
まただ。
ノアはペンを置いた。
音が、思ったより大きく机に響いた。
ミミルは紙を覗き込み、記録板に短く書き込む。
「昨日と同じ反応です」
「見れば分かる」
「念のため、黒晶札も確認しますか」
「しない」
「分かりました」
ミミルは無理に勧めなかった。
それが、ノアには逆に苦しかった。
もし誰かが大げさに驚いてくれたなら、自分も怒れたかもしれない。
異常だと叫んでくれたなら、そんなはずはないと反発できたかもしれない。
けれど、この詰所では誰も騒がない。
名前が残らないことを、起こりうる現象として扱っている。
書式があり、確認手順があり、記録欄がある。
それが、ノアをじわじわと追い詰めていく。
「……よくあるのか」
気づけば、ノアはそう聞いていた。
ミミルが顔を上げる。
「何がですか」
「名前が、残らないこと」
ミミルは少しだけ考えた。
「珍しくはありません。ただ、同じではありません」
「同じではない?」
「忘れている人。書くと崩れる人。呼ばれると発作を起こす人。自分では覚えているのに、周囲の記録からだけ消える人。名の一部だけが残らない人。原因も、危険度も、対処も違います」
「私は忘れてない」
「はい」
ミミルは頷いた。
「だから、忘却型ではありません」
「型とか言うな」
「すみません」
謝り方も事務的で、ノアはそれ以上言えなくなった。
詰所の扉が開いた。
湿った潮風と一緒に、リィゼ=ノルカが入ってくる。
片手に硬そうなパン。
もう片方に、湯気の立つ木椀。
彼女は机の上の紙を一瞥し、結果を察したように何も言わなかった。
「朝飯」
「いらない」
「食え。昨日、海しか飲んでないだろ」
「薬湯は飲んだ」
「あれは飯じゃない」
リィゼは机の端にパンと木椀を置いた。
中身は薄い粥だった。
刻んだ海藻と干し肉が少しだけ入っている。湯気と一緒に、塩と薬草の匂いが立った。
ノアはそれを見たが、手を伸ばさなかった。
「君たちは、私をここに置いておきたいのか」
リィゼは目を細める。
「置いておきたいなら、寝台に縛ってる」
「冗談に聞こえない」
「半分は冗談」
「半分は?」
「この港では、寝ぼけて海に戻る奴がいる」
ノアは苛立った。
「私は子どもじゃない」
「子どもじゃなくても、帰りたい奴は馬鹿をする」
その言葉に、ノアは顔を上げた。
リィゼは、木椀をノアのほうへ押しやる。
「南入江の船の話を聞いただろ」
「……聞いた」
「行くな」
短い言葉だった。
命令のようにも、頼みのようにも聞こえた。
「どうして」
「あれは帰り道じゃない。餌だ」
「見てもいないのに、どうして分かる」
「見たことがあるからだよ」
リィゼはそう言って、少しだけ黙った。
ノアは彼女の沈黙を見た。
昨日のように面倒くさそうなだけではない。
そこには、何かを思い出したくない人間の硬さがあった。
けれど、ノアも止まれなかった。
「外界へ戻れるなら、確かめる価値はある」
「戻れるって誰が言った」
「噂で」
「噂は責任を取らない」
「でも、港番を通しても何も進んでない。私の名前は戻らない。君たちは、明日も明後日も同じ確認をして、私をここに置くつもりなんじゃないのか」
「違う」
「じゃあ、いつ帰れる」
リィゼは答えなかった。
答えられないのだと、ノアは思った。
だからノアは、さらに言った。
「私は外界人だ。外界へ出れば、身元を証明できる。家もある。知っている人間もいる。船の記録だってあるはずだ」
ミミルが、小さく目を伏せた。
リィゼは椀の縁を指で弾いた。
「その身分証が白紙になりかけてて、乗ってた船の名も言えないのに?」
ノアは息を呑んだ。
喉の奥に、昨日と同じ冷たいものが戻ってくる。
「それは、ここにいるからだ」
「そうかもな」
「外に戻れば、元に戻るかもしれない」
「かもしれない」
リィゼは否定しなかった。
けれど、その声には希望がなかった。
「でも、かもしれないだけで夜の南入江へ行くな。あそこにいるのは、帰したい奴じゃない。帰りたい奴を数えてる奴らだ」
「君は、私にどうしろって言うんだ」
「粥を食え」
「ふざけてるのか」
「ふざけてない」
リィゼの声が少しだけ低くなる。
「腹が空いたまま考えると、人は一番聞きたい嘘を選ぶ」
ノアは答えなかった。
一番聞きたい嘘。
外界へ戻れる。
名前が壊れていても大丈夫。
港番を通さなくてもいい。
金さえ払えばいい。
それが嘘だと、どうして彼女には分かるのか。
いや。
嘘だと決めつけているだけではないのか。
リィゼはしばらくノアを見ていたが、やがて背を向けた。
「港を見るなら、明るいうちにしろ。南へは行くな」
そう言い残し、彼女は詰所を出ていった。
扉が閉まる。
しばらく、ノアもミミルも何も言わなかった。
ミミルは記録板を閉じ、仮名紙を乾燥棚へ移す。
三本の手の動きは静かで、無駄がない。
「リィゼさんは、言い方がきついですが」
ミミルがぽつりと言った。
「悪意で止めているわけではありません」
「分かってる」
ノアは短く答えた。
分かっている。
分かっているから、苦しい。
ノアは粥を見下ろした。
湯気が細く揺れている。
ノアは結局、それを半分ほど食べた。
味はよく分からなかった。
ただ、温かいものが喉を通るたび、胸の奥に残った海の冷たさが少しだけ薄れていく。
そして同時に、別のものがはっきりしていった。
リィゼは答えをくれない。
港番も、ミミルも、帰れるとは言わない。
なら、自分で確かめるしかない。
ノアは机の端に置かれた仮登録札を見た。
ノア=リント。
違う。
こんな名前で終わるわけにはいかない。
ノアは札を懐に入れた。
昼を過ぎたら、港へ出よう。
南入江がどこにあるのか。
夜だけ来る船が本当にあるのか。
自分の目で見る。
そう決めた。




