序節 ― 南入江の灯
ヴァル=クレイアの夜は、眠らない。
昼の港が荷を受け取り、名札を仕分け、漂着者を帳に載せる場所なら、夜の港は、そこからこぼれ落ちたものが息を吹き返す場所だった。
黒晶灯の光が、濡れた石畳の上に紫の輪を落としている。
倉庫の壁には潮が染み、干された網からは、海藻と古い血のような匂いがした。酒場の裏口からは、酸っぱい酒と塩漬け魚の匂いが流れ出し、そこに、名前のない旅人たちの低い声が混じっていた。
鎖が鳴る。
船腹を叩く波が、港の底で低く唸る。
その音に紛れて、同じ噂が何度も流れていた。
「外界へ戻れる船があるらしい」
誰かが囁く。
「灰角の南の入江だ」
別の誰かが、聞こえるように返す。
「夜だけ停まる船だってよ」
「港番を通さなくても乗れる」
「名前が壊れてても、金さえ払えばいいらしい」
噂は、潮よりも速く流れる。
誰かが信じる。
誰かが笑う。
誰かが、信じたふりをする。
そして誰かが、その噂を信じた者を数えている。
漂着者詰所の簡易寝台で、ノア=リントベルは目を開けた。
いや、眠れてなどいなかった。
毛布は乾いている。薬湯も飲まされた。冷えきっていた身体には、少しずつ熱が戻っている。
それなのに、胸の奥だけが冷えていた。
ノアは毛布の下で、黒晶札を握りしめる。
港内仮登録名。
ノア=リント。
そこに刻まれた文字は、薄れない。消えない。
だからこそ、ノアには耐えがたかった。
違う。
そう思う。
自分は、ノア=リントベルだ。
ベル。
そのたった二音が、帳にも、石にも、黒晶にも残らなかった。
濡れたからだ。
疲れているからだ。
この大陸の記録方式がおかしいだけだ。
何度もそう考えようとした。
けれど、考えれば考えるほど、漂着者帳の白く抜けた文字が脳裏に浮かぶ。
ノア=リント――。
空白が、自分の後ろから近づいてくる。
そのとき、窓の外から声が聞こえた。
「外界へ戻れる船があるらしい」
ノアの指が、黒晶札を握る力を強めた。
続いて、別の声。
「南の入江だ。灰角の港番は見て見ぬふりをしてるってよ」
「本当か?」
「本当も何も、先週もひとり乗ったらしいぜ。名が壊れてた奴だ。外界貨幣で払ったって話だ」
「名前がなくても?」
「名前がなくても。港番の帳に載ってなくても。むしろ、そういう奴のほうが乗せやすいってよ」
ノアはゆっくりと身体を起こした。
寝台の軋む音が、やけに大きく響いた。
隣の寝台にいた老人が寝返りを打つ。奥では、誰かが咳をしている。
誰も起きない。
ノアは窓へ近づいた。
格子の向こう、夜の港は紫の灯りに濡れている。倉庫の影、積まれた木箱、外套を被った船乗りたち。彼らの顔は見えない。
ただ、声だけが聞こえる。
「南入江の船は、夜だけ来る」
「朝にはいない」
「帰りたいなら、急いだほうがいい」
帰りたいなら。
その言葉が、ノアの胸に刺さった。
帰りたい。
それだけは、疑いようがなかった。
ここは、自分のいる場所ではない。
黒い潮の匂いも、灰色の断崖も、角のある少女も、三本の手を持つ記帳係も、漂着者帳も、仮呼びも。
全部、違う。
自分は、ここにいるべきではない。
外界へ戻れば、証明できるはずだった。
身分証が壊れていても、家へ帰ればいい。
知っている者に会えばいい。
家の門を叩き、自分の名を呼ばせればいい。
ノア=リントベル。
その名を、誰かが当然のように呼んでくれれば、それで全部戻る。
そう思わなければ、立っていられなかった。
詰所の反対側、港番の詰め机では、リィゼ=ノルカが帳面の束を縛っていた。
本当なら、彼女の仕事はもう終わっている。
拾名屋は、夜明け前に浜を歩き、昼には拾ったものを仕分け、夕方には港番へ記録を渡す。
夜は、眠る時間だ。
けれど、南入江の噂が出た夜に、リィゼはよく眠れない。
彼女は指先で革紐を結びながら、外の声を聞いていた。
「……また流してる」
低く呟くと、詰所の入口に立っていたバルド=グレイムが振り返った。
港番長の外套は、夜の潮を吸って重そうだった。片手には黒晶灯、もう片方の手には巡回用の短杖がある。
「耳が早いな」
「聞こえるように言ってるんだよ。あれは噂じゃない。撒き餌だ」
リィゼは帳面から顔を上げずに言った。
バルドは窓の外へ視線を向ける。
「今度は外界人がいる」
「ノアのこと?」
「他に誰がいる」
リィゼは答えなかった。
脳裏に浮かぶのは、寝台の上で仮登録札を握りしめていた少女の顔だった。
まだ、この港に流れ着いたばかり。
まだ、メギド=ノクスが何なのかも分かっていない。
まだ、自分の名が欠けているという事実を、海水のせいにしたがっている。
そういう者ほど、帰れるという言葉に弱い。
リィゼはそれを知っていた。
何度も見てきた。
自分は違う、と言った者。
迎えが来る、と言った者。
書類さえあれば帰れる、と言った者。
外界へ出れば何とかなる、と信じていた者。
帰った者もいた。
残った者もいた。
けれど、帰れると言われて消えた者もいた。
その者たちの名前は、たいてい帳面の端で黒く滲む。
「南入江、見に行くの?」
リィゼが聞く。
バルドは短く頷いた。
「巡回を増やす。だが、証拠なしに船は押さえられん。あの手の連中は、こちらが近づけば消える」
「分かってる」
「お前は余計なことをするな」
「余計なことって?」
「拾ったばかりの外界人を追いかけて、夜の岩場を走ることだ」
リィゼは口を閉じた。
バルドが眉をひそめる。
「心当たりがある顔をするな」
「まだしてない」
「するつもりはある顔だ」
「ノアが馬鹿なことをしなければ、しない」
「するなと言って聞く顔だったか?」
リィゼは、今度こそ何も言えなかった。
バルドは小さく息を吐く。
「リィゼ」
「分かってる」
「帰りたい者を止めるのは難しい」
「分かってるよ」
リィゼの声が、少しだけ低くなる。
「だから、帰りたいって言葉を餌にする奴が嫌いなんだ」
バルドはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、黒晶灯を持ち直し、詰所の外へ出る。
扉が閉まる直前、外の声がまた流れ込んできた。
「外界行きだ」
「今夜だけだ」
「名前が壊れてても乗せる」
リィゼは帳面の革紐を強く締めた。
そのころ、ノアは寝台に戻っていなかった。
ノアは窓のそばに立ったまま、遠くを見ていた。
港の灯りのさらに向こう。
灰色の断崖が黒い影となって落ちる南の方角。
そこに、灯りがひとつだけ揺れていた。
小さな船灯り。
あるいは、そう見えるもの。
ノアの中で、リィゼの声が蘇る。
――帰れる船が、朝市みたいに並んでると思うな。
――帰れるかは分からない。でも、帰りたいって言う権利はある。
権利があるなら。
探す権利もあるはずだ。
ノアは仮登録札を握り、唇を引き結んだ。
ノア=リント。
違う。
外界へ戻れば、きっと分かる。
自分の名は、欠けてなどいない。
遠く、南入江の灯が、夜の底で一度だけ瞬いた。




