終節 ― 仮呼び
夕方になるころ、ヴァル=クレイアの港は、朝とは別の顔になっていた。
黒晶灯にひとつずつ火が入り、濡れた石畳に紫がかった光が落ちる。
桟橋の向こうでは、船乗りたちが荷を降ろし、鎖を巻き、低い声でその日の潮を罵っていた。
漂着者詰所にも、夜の支度が始まっている。
薬湯の匂い。
乾かされた毛布。
濡れた外套を掛ける音。
木箱を動かす音。
そのすべてが、ノアには遠く聞こえた。
ノアは簡易寝台に腰を下ろし、渡された毛布を膝に掛けていた。身体はひどく疲れている。胸の奥はまだ海水を含んだように重い。指先も冷えきっている。
けれど、眠れる気はしなかった。
目を閉じるたびに、漂着者帳の文字が浮かぶ。
ノア=リント――。
そこから先が、白く抜けていく。
何度書いても。
どれほど強くなぞっても。
紙も、石も、黒晶も、ノアの家名を最後まで受け取らなかった。
自分は、ノア=リントベルだ。
そう思う。
そう覚えている。
だが、覚えていることと、残ることは違う。
ミミル=ハンドの声が、机の向こうから聞こえた。
「完全な名が残らないため、仮呼びを設定します」
ノアは顔を上げた。
ミミルは漂着者帳を開き、三本の手で帳面、黒晶札、記録用の細いペンを扱っている。
その動作は慣れていて、静かだった。
それが、ノアには余計に腹立たしかった。
「必要ない」
声が、思ったより荒く出た。
「私には名前がある」
ミミルは責めるような顔をしなかった。
ただ、まっすぐ頷いた。
「はい。だから、奪いません」
ノアは言葉を失う。
ミミルは続けた。
「ただ、ここで呼べる形にします。医療を受けるとき、食事を受け取るとき、寝台を使うとき、明日以降の確認を行うとき。呼べる名がなければ、手続きが通りません」
「手続きのために、私の名前を削るのか」
「削りません」
ミミルの声は、柔らかいままだった。
「残っているところを、仮に留めます」
机の横で腕を組んでいたリィゼが、小さく息を吐いた。
「仮呼びは檻じゃない」
ノアは彼女を見る。
リィゼはいつものように、少し不機嫌そうな顔をしていた。
けれど、その声だけは低く、真面目だった。
「沈まないための浮き板だ」
「浮き板……?」
「全部流される前に、掴めるところを残しておくんだよ。あんたが、あんたの名を忘れないためにも」
「私は忘れない」
「今はな」
ノアは反論しようとした。
だが、言葉が出なかった。
今朝、自分は出身地の名をうまく言えなかった。
乗っていた船の名も、最後まで思い出せなかった。
覚えているはずなのに。
確かにあったはずなのに。
名だけが、霧の向こうに遠ざかる。
ミミルが帳面に文字を書く。
ノア=リント。
その名は、消えなかった。
白く抜けず、滲まず、そこに残った。
だからこそ、ノアの胸は痛んだ。
ここまでは残る。
ここから先は、残らない。
「港内仮登録名、ノア=リント」
ミミルは黒晶札にも同じ名を写し、乾いた布で拭ってから差し出した。
「今夜は詰所の寝台を使えます。薬湯と毛布も出ます。明朝、再確認を行います」
ノアは札を受け取らなかった。
しばらく、机の上に置かれたままの黒晶札を見ていた。
ノア=リント。
違う。
そう言いたかった。
けれど、言えば言うほど、自分の本当の名が遠くなる気がした。
結局、ノアは無言で札を取った。
リィゼはそれ以上、何も言わなかった。
その夜。
ノアは寝台に横になっていた。
毛布は乾いている。
薬湯も飲まされた。
濡れた服は脱がされ、代わりに港の仮衣を渡された。
身体は温まっているはずだった。
それでも、胸の奥だけが冷えている。
窓の外では、港の灯が揺れていた。
黒い海の向こうで、船の灯がひとつ、またひとつと遠ざかっていく。
眠れない。
ノアは毛布の下で、仮登録札を握った。
ノア=リント。
違う。
自分は、ノア=リントベルだ。
そのとき、外から船乗りたちの声が聞こえた。
「外界へ戻れる船があるらしい」
ノアは目を開けた。
「灰角の南の入江だ」
「夜だけ停まる船だってよ」
「名前が壊れてても乗せるらしい」
心臓が、大きく鳴った。
外界へ戻れる船。
名前が壊れていても、乗せる。
リィゼの声が頭をよぎる。
――帰れる船が、朝市みたいに並んでると思うな。
――南入江には近づくな。
それでも、ノアは窓の外を見た。
黒い海の向こうに、小さな灯りが揺れている。
あれが船かどうかも分からない。
噂が本当かどうかも分からない。
けれど、今のノアには、それが帰り道に見えた。
ノアは小さく呟いた。
「私は帰る」
声は震えていた。
それでも、言った。
「絶対に」
詰所の奥では、リィゼがひとりで漂着者帳を見返していた。
バルドは夜の見回りに出ている。
ミミルは記録札を乾かすため、別室へ行った。
灯はひとつだけ。
リィゼはノアの頁を開く。
港内仮登録名。
ノア=リント。
文字は安定している。
だが、頁の端に、黒い潮染みのようなものが浮かんでいた。
リィゼは黒晶灯を近づける。
染みは、ゆっくりと形を変えた。
文字のように。
裂け目のように。
どこかへ続く、細い傷のように。
一瞬だけ、消えたはずの文字が浮かぶ。
――ベル。
リィゼは息を止めた。
だが次の瞬間、それは消えた。
帳面には、ただ黒い染みだけが残っている。
リィゼは指先で頁の端に触れた。
濡れてはいない。
それなのに、潮の匂いがした。
「名前が濡れたんじゃない」
彼女は小さく呟いた。
「帰り道のほうが裂けてる」
外では、黒い海が静かに鳴っていた。
その向こうで、小さな船灯りがひとつ、夜の底を横切っていく。
ノアはまだ知らない。
帰りたいという願いは、この港では祈りにもなる。
けれど同時に、もっとも高く売れる弱みでもある。
第1話 ― 灰角の港に流れ着く名 了。




