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第三節 ― 違う

 しばらく、誰も口を開かなかった。


 詰所の中では、薬湯の煮える音だけがしていた。

 木箱の隙間から落ちた雫が、床に小さく跳ねる。


 ノアは漂着者帳を見つめていた。


 そこに残っているのは、自分の名のはずだった。


 ノア=リント――。


 違う。


 違う、と胸の奥で声がする。


 自分は、ノア=リントベルだ。


 父も、母も、家の門も、古い時計の裏蓋も、そう呼んできた。

 旅券にも、船の乗客名簿にも、宿の帳面にも、そう書かれていた。


 なのに、目の前の帳面は、ノアの名を最後まで受け取らない。


「仮登録に入ります」


 ミミル=ハンドが、静かに告げた。


 ノアは顔を上げる。


「仮登録?」


「完全な名が残らない場合、漂着者保護規定に基づいて、港内で使用できる仮呼びを設定します」


「必要ない」


 ノアは即座に言った。


「私には名前がある」


「はい」


 ミミルは頷いた。


「ですから、奪いません」


 その答えは、ノアの予想と違っていた。


 奪わない。


 けれど、別の名をつける。


 それがどういうことなのか、ノアには分からない。


 ミミルは三本の手で、帳面、ペン、黒晶札を器用に扱いながら続けた。


「ここで呼べる形にするだけです。医療を受けるとき、食事を受け取るとき、移送されるとき、眠る場所を割り当てるとき。名前がまったく安定しないと、あなたを守る手続きが通りません」


「守る?」


 ノアは笑いそうになった。


 だが、笑えなかった。


「名前を削っておいて、守るって言うのか」


 ミミルの手が止まる。


 バルド=グレイムが、低い声で言った。


「削ったんじゃない。削れているところを、これ以上崩れないように留める」


「同じだ」


「違う」


 バルドの声は荒くなかった。

 それでも、詰所の空気が少し重くなる。


「ここでは、名が残らない者をそのまま外へ出さない。理由は分かるか」


「逃げるからですか」


「消えるからだ」


 ノアは息を呑んだ。


 バルドは帳面を指で叩いた。


「名前が残らないまま港を出た者は、次に誰かが見つけたとき、本人かどうか分からない。死んでいても、誰の遺体か分からない。生きていても、どこへ戻せばいいか分からない。だから仮でも呼び名を置く」


 ノアは何も言えなかった。


 詰所の壁に吊るされた札が、目に入る。


 身元確認不能。

 失名疑い。

 ナハト=リム紹介待ち。


 どれも、自分とは関係ないと思っていた。


 少なくとも、今朝までは。


「……その仮呼びは、誰が決めるんですか」


 ノアの声は、少し掠れていた。


 ミミルが答える。


「本人の記憶と、記録に残る部分を優先します。あなたの場合、安定して残るのは、ノア=リントまでです」


「リントベルだ」


「はい。あなたの申告はそう記録します。ですが、港内呼称は――」


 ミミルは帳面に、ゆっくりと書いた。


 ノア=リント。


 その文字は消えなかった。


 白く抜けることもなく、滲むこともなく、帳面の上に残った。


 それが、かえってノアには残酷だった。


 ここまでは残る。

 ここから先は、残らない。


 まるで、この大陸がノアにそう告げているようだった。


「ノア=リント」


 ミミルが声に出す。


「仮呼びとして登録します」


「やめろ」


 ノアは低く言った。


「私を、その名前で呼ぶな」


 ミミルは困ったように瞬きをした。


 リィゼが、壁にもたれたまま言う。


「仮呼びは檻じゃない」


 ノアは彼女を見る。


 リィゼは腕を組んでいた。

 表情はいつも通り、少し不機嫌そうで、少し眠そうだった。


「沈まないための浮き板だ」


「浮き板?」


「あんたが自分の名前を忘れないためのものでもある。全部流される前に、掴めるところを残しておく。そういう決まり」


「私は忘れない」


「今はな」


 リィゼの言葉に、ノアは返せなかった。


 今は。


 その二文字が、胸に引っかかる。


 自分は忘れない。

 忘れるはずがない。


 そう思っているのに、さっき出身地の名を言えなかった。

 船の名も、最後まで出てこなかった。


 ノアは濡れた鞄を抱き寄せた。


 中の懐中時計が、硬い音を立てる。


 壊れた時計。

 曇った裏蓋。

 読みづらくなった家名。


 ノアはそれ以上、何も言わなかった。


 ミミルは黒晶札にも同じ名を写し、乾いた布で拭ってからノアに差し出した。


「港内仮登録札です。今夜は詰所の寝台を使えます。薬湯と替えの毛布も出ます。明朝、再確認を行います」


「明朝になれば、戻るかもしれない」


 ノアは言った。


「はい」


 ミミルは否定しなかった。


「戻る場合もあります。戻らない場合もあります」


「……それで、戻らなかったら」


「アシュ=ロア審査、またはナハト=リム紹介です」


 知らない地名が、また増えた。


 ノアはそれを聞き流した。

 今は、これ以上受け止められなかった。


 バルドが職員に指示を出す。


「寝台をひとつ空けろ。リィゼ、お前は拾得者記録を書いていけ」


「はいはい」


「あと、南入江の船の噂がまた出てる。お前の耳にも入れておく」


 その言葉に、リィゼの眉がわずかに動いた。


「また?」


「今朝、港裏で三人聞いている。外界へ戻れる船、名前が壊れていても乗せる船、だとさ」


「ろくでもない」


 リィゼは吐き捨てるように言った。


 ノアは、その言葉を聞き逃さなかった。


「外界へ戻れる船?」


 リィゼが振り向く。


「聞くな」


「今、そう言った」


「聞くなって言った」


「帰れる船があるのか」


「帰れるって言う奴ほど、帰したことがない」


 リィゼの声が低くなる。


「南入江には近づくな。特に、夜は」


 ノアは黙った。


 だが、その沈黙は納得ではなかった。


 彼女にも、それは分かったのだろう。

 リィゼは何か言いかけて、やめた。


 その日の夜、ノアは詰所の簡易寝台に横になった。


 乾いた毛布を渡され、薬湯も飲まされた。

 身体は少し温まったはずなのに、胸の奥だけが冷えていた。


 眠れない。


 窓の外では、港の灯が揺れている。

 黒晶灯の紫がかった光が、濡れた石畳をぼんやり照らしていた。


 遠くから、船乗りたちの声が聞こえる。


「南の入江だってよ」


「夜だけ停まる船だ」


「外界行きらしい」


「名前が壊れてても乗せるって話だ」


 ノアは目を開けた。


 心臓が、一度だけ強く鳴る。


 外界行き。


 帰れる船。


 リィゼの忠告が頭をよぎる。


 近づくな。

 帰れるって言う奴ほど、帰したことがない。


 だが、それは彼女の言葉だ。


 彼女はこの大陸の人間だ。

 拾名屋で、港番の側の人間で、漂着者を帳面に載せる側の人間だ。


 自分とは違う。


 ノアは毛布の下で、仮登録札を握った。


 ノア=リント。


 違う。


 自分は、ノア=リントベルだ。


「私は帰る」


 ノアは小さく呟いた。


 誰にも聞こえない声だった。


「絶対に」


 そのころ、詰所の奥では、リィゼがひとりで漂着者帳を見返していた。


 バルドは見回りに出ている。

 ミミルは記録札を乾かしている。

 灯はひとつだけ。


 リィゼは、ノアの頁を開いた。


 港内仮呼び。


 ノア=リント。


 その文字は安定している。


 だが、頁の端に、黒い潮染みのようなものが浮かんでいた。


 リィゼは黒晶灯を近づける。


 染みは、ゆっくりと形を変えた。


 文字のように。

 裂け目のように。


 一瞬だけ、そこに消えたはずの名が浮かぶ。


 ――ベル。


 リィゼは息を止めた。


 だが、次の瞬間にはもう消えていた。


 帳面には、ただ黒い染みだけが残っている。


 リィゼは指先で頁の端に触れた。

 濡れてはいない。


 潮の匂いだけがした。


「名前が濡れたんじゃない」


 彼女は小さく呟いた。


 黒晶灯の光が、彼女の金紫の瞳に揺れる。


「帰り道のほうが裂けてる」


 外では、黒い海が静かに鳴っていた。


 その向こうで、小さな船灯りがひとつ、夜の底を横切っていく。


 ノアはまだ知らない。


 帰りたいという願いは、この港では祈りにもなる。

 けれど同時に、もっとも高く売れる弱みでもある。

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