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第二節 ― 漂着者帳

 港番の仮詰所は、港の門をくぐってすぐ右手にあった。


 石造りの低い建物。

 屋根には黒い潮除けの布が張られ、入口には濡れた外套が何枚も吊るされている。


 役所というには雑然としていて、救護所というには武器の気配があった。


 壁際には木箱が積まれ、濡れた毛布、包帯、黒晶灯、折れた杖、錆びた短剣、名札の束が仕分けられている。


 奥では、湯気の立つ薬湯を誰かがかき混ぜていた。


 その匂いを吸い込んだ瞬間、ノアはまた咳き込んだ。


「だから言ったろ。まだ海が残ってる」


 リィゼが背中を叩く。


 乱暴だったが、呼吸は少し楽になった。


「……ここは」


「漂着者詰所。拾った生存者は、まずここに通す」


「拾ったって言うな」


「じゃあ、流れ着いた生存者」


「それも嫌だ」


「注文が多いな」


 リィゼはそう言って、受付の板を軽く叩いた。


 その音に反応して、奥の扉が開く。


 出てきたのは、がっしりした体格の男だった。


 灰色の髭。

 傷のある鼻梁。

 肩幅の広い外套。


 片方の額には、折れた角の痕のような硬い隆起がある。


 男はリィゼとノアを見比べた。


「リィゼ。また拾ったのか」


「生きてた」


「それは見れば分かる。死体ならお前はもう少し静かに持ってくる」


「失礼な。死体にも話しかけるときはある」


「やめろ。新人が怯える」


 男の視線がノアに移る。


 ノアは反射的に背筋を伸ばそうとした。

 だが濡れた服の重さと疲労で、身体がうまく動かない。


 男はそれを見て、表情を変えずに言った。


「座れ。立ったまま倒れられると、床が濡れる」


 リィゼがノアを椅子に押し込む。


 ノアは不満を言おうとしたが、足が震えていることに気づき、黙った。


「港番長、バルド=グレイムだ」


 男は名乗った。


「ここでは、漂着者を二つに分ける。生きている者と、もう遅い者だ。お前は前者。運がいい」


「私は漂着者じゃありません」


 ノアはすぐに言った。


 バルドは眉ひとつ動かさなかった。


「浜で見つかった」


「事故で流されただけです」


「なら、事故で流された漂着者だ」


 リィゼが横で小さく笑う。


 ノアは彼女を睨んだ。


 バルドは机の上の帳面を引き寄せる。


「名前」


「ノア=リントベル」


「出身」


 ノアは答えようとして、一瞬だけ詰まった。


 出身地の名は分かる。

 だが、口に出そうとした瞬間、舌先で何かが引っかかった。


 波の泡が喉に絡んだような、不快な感覚。


「……西方の港町です。外界側の」


「町名は」


 ノアは言った。


 つもりだった。


 だが、声は掠れて、最後の音が曖昧に崩れた。


 バルドが顔を上げる。


「もう一度」


「だから、私は――」


 ノアはもう一度言おうとした。


 けれど、記憶の中には確かにある地名が、口に出す段になると輪郭を失う。


 まるで霧の向こうに書かれた看板を読もうとしているようだった。


 ノアの胸が、冷たく沈んだ。


「……船に乗っていました」


 ノアは話題をずらした。


「船名は」


「白帆の……」


 そこで、また止まる。


 白い帆。

 青い船腹。

 甲板の濡れた木目。

 船長の声。


 覚えている。


 覚えているはずなのに、名前だけが出てこない。


 バルドは黙っていた。


 責めるでもなく、急かすでもなく、ただノアを見ている。


 その沈黙が、ノアにはかえって苦しかった。


「事故です」


 ノアは言った。


「嵐か、何かに巻き込まれて……気づいたらここに」


「同行者は」


「分かりません」


「亡命意思は」


「ありません」


 そこだけは、はっきり答えられた。


「私は逃げてきたんじゃない。メギド=ノクスに来たかったわけでもない。帰ります」


 バルドは帳面に短く何かを書き込む。


「ここへ来た者は、だいたい最初はそう言う」


 ノアは椅子の肘を掴んだ。


「私は違う」


「違うなら、その証明をする。それだけだ」


 バルドは奥へ声をかけた。


「ミミル。漂着者帳」


「はいはい。生きてるほうですか、喋れるほうですか、怒ってるほうですか」


「全部だ」


 奥から、小柄な人物が大きな帳面を抱えて出てきた。


 年齢はノアより少し下に見える。

 淡い茶色の髪を後ろで束ね、丸い眼鏡をかけている。


 ただし、腕が三本あった。


 二本で帳面を抱え、もう一本でペンとインク壺を持っている。


 ノアは思わず視線を止めた。


 ミミルは慣れた様子で笑った。


「見るのはいいですけど、数え直さないでくださいね。三本で合ってます」


「……すみません」


「謝れる漂着者は優秀です」


「私は漂着者じゃ――」


「はいはい。その主張も帳に書きます」


 ミミルは椅子に腰かけ、大きな漂着者帳を開いた。


 紙は厚く、灰色がかっている。

 水に濡れても破れにくいよう、何かの繊維が混ぜ込まれているらしい。


 開かれた頁には、いくつもの名前が並んでいた。


 読める名。

 仮の名。

 線で消された名。

 最初から空白の欄。


 ノアはその空白から目を逸らした。


 壁の札が視界に入る。


 生存漂着者。

 身元確認不能。

 外界亡命希望。

 保護院送致。

 アシュ=ロア審査待ち。

 ナハト=リム紹介待ち。


 そして、端に吊られた黒い札。


 失名疑い。


「……失名疑いって何ですか」


 ノアは思わず聞いた。


 ミミルがペン先を整えながら答える。


「名前を失っているか、壊れているか、記録に残らない可能性がある人です」


 リィゼが横から補足する。


「忘れた奴。覚えてるのに書けない奴。呼ぶとまずい奴。呼ばれると崩れる奴。色々」


「そんなことがあるわけ……」


 ノアは言いかけて、止まった。


 さっき、出身地の名を言えなかった。


 船の名も。


 だが、あれは混乱していたからだ。

 海水を飲んだせいだ。

 疲れているせいだ。


 そう思わなければ、椅子に座っていることすら難しかった。


 ミミルは帳面をノアの前へ回す。


「では、お名前をお願いします。ご自身で書けますか」


「書けます」


 ノアは即答した。


 名前なら書ける。


 それだけは、間違えようがない。


 ノアはペンを取った。

 指先が少し震えている。


 濡れて冷えたせいだ。


 そう思うことにした。


 帳面の空欄に、ゆっくりと書く。


 ノア=リントベル。


 書けた。


 確かに書けた。


 ノアは安堵しかけた。


 だが、インクが乾くより早く、最後の二文字が薄くなった。


「……え」


 黒い線が、紙に吸われるように消えていく。


 ベル。


 その部分だけが、潮に洗われたように白く抜けた。


 帳面には、こう残った。


 ノア=リント――


 ノアは息を止めた。


「もう一度」


 ノアはペンを取り直し、強くなぞった。


 ノア=リントベル。


 今度は、もっとはっきり書いた。


 だが結果は同じだった。


 ベルの部分だけが、白くなる。


 紙が拒むように。

 あるいは、その名がここへ届くことを、何かが妨げているように。


「紙が濡れてるんだ」


 ノアは言った。


 自分でも、声が荒くなっているのが分かった。


「この帳面が悪い。海水がついてるか、インクが――」


「帳面は乾いています。インクも通常品です」


 ミミルは静かに答えた。


「別媒体で確認します」


 彼、あるいは彼女は、三本目の手で机の下から薄い石板を取り出した。


「記録石です。こちらへ」


「必要ない」


「必要です。港番規定です」


 ノアは歯を食いしばった。


 リィゼは何も言わない。

 バルドも黙っている。


 その沈黙が、もう結果を知っている者たちの沈黙に思えた。


 ノアは石板に刻筆を走らせた。


 ノア=リントベル。


 石に刻まれた線が、一瞬だけ淡く光る。


 そして、また後半が欠けた。


 ノア=リント――


「黒晶札」


 ミミルが次を出す。


「もういい」


「確認が必要です」


「もういいと言ってる!」


 ノアの声が詰所に響いた。


 薬湯をかき混ぜていた職員が振り返る。

 入口近くにいた荷運び人が、少しだけ目を伏せた。


 ミミルは驚かなかった。


 ただ、ペンを置き、穏やかに言った。


「名前を覚えていることと、名前が記録に残ることは、同じではありません」


 ノアはその言葉を理解したくなかった。


「私の名前だ」


「はい」


「私は、ノア=リントベルだ」


「はい」


「なら、残るはずだろ」


 ミミルは答えなかった。


 代わりに、リィゼが低く言った。


「残らない名もある」


 ノアは彼女を見る。


「そんなもの、名前じゃない」


 言った瞬間、リィゼの表情がわずかに変わった。


 怒りではなかった。


 痛みに近かった。


 ノアは、自分が何かを踏み抜いたのだと気づいた。

 だが、謝る余裕はなかった。


 怖かった。


 自分の名前が、目の前で消える。


 口に出せる。

 頭の中にもある。

 家の時計にも刻まれていたはずだ。

 身分証にも、確かに書かれていたはずだ。


 なのに、ここでは残らない。


「濡れたからだ」


 ノアは小さく言った。


「海に落ちたから、紙が駄目になって、それで……」


 自分に言い聞かせるような声だった。


 バルドが低く告げる。


「仮登録に切り替える」


「待ってください」


「完全名が残らない。規定通りだ」


「私は――」


「お前が自分の名を覚えていることは否定しない」


 バルドの声は、強かった。


 だが、冷たくはなかった。


「だが、この港で扱うには、呼べる形が要る。記録できる形が要る。そうしなければ、お前は保護も移送も受けられない」


 ノアは唇を噛んだ。


 保護。

 移送。

 記録。


 どれも必要なのだろう。


 分かっている。


 けれど、そのために名前を削られるなど、認めたくなかった。


 ミミルが帳面に、ゆっくりと文字を書く。


 ノア=リント――


 その横に、空欄が置かれる。


 まだ、決定ではない。

 だが、空白がすでにノアを待っている。


 ノアはそれを見つめた。


 胸の奥で、波が引いていくような感覚がした。


 ここは、自分のいる場所ではない。


 そう思った。


 だが、同時に、もうひとつの声が小さく響いた。


 では、自分のいる場所は、まだ自分の名を覚えているのか。


 ノアはその声を振り払った。


 そんなはずはない。


 帰る。


 帰れば分かる。


 帰れば、すべて元に戻る。


 ノアは濡れた身分証を握りしめた。


 そこに残った名は、もう読めるのかどうかも分からなかった。

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