第一節 ― 私は帰る
港へ向かう道は、浜辺からゆるく坂になっていた。
灰色の砂利が、濡れた靴底の下で音を立てる。波の音は背後に遠ざかり、その代わりに、港の目覚める気配が近づいてきた。
軋む滑車。
鎖を引く音。
どこかで鳴る低い鐘。
黒晶灯に火を入れる、乾いた小さな破裂音。
ノアはリィゼの肩を借りながら、かろうじて歩いていた。
身体が重い。
服は海水を吸って肌に張りつき、吐いたはずの潮がまだ喉の奥に残っている。息をするたび、胸の内側が冷たく軋んだ。
それでも、ノアは立ち止まろうとした。
「……荷物」
リィゼが横目で見る。
「今度は何」
「私の荷物があるはずだ。鞄。上着。時計も……」
「命の次に荷物か」
「身元を証明するものが入ってる」
「身分証なら握ってただろ」
「それだけじゃ足りない」
ノアはリィゼの肩から腕を外そうとした。だが、踏み出した足が砂利に沈み、膝が崩れる。
リィゼは慣れた手つきでノアを引き戻した。
「無理に動くなって言った」
「探さないと」
「拾名屋が探す」
「私のものだ」
「だから拾うんだよ」
リィゼは短く言って、浜辺のほうへ黒晶灯を掲げた。
夜明けの薄明かりの中で、岩場に引っかかった革鞄が見えた。外界製の金具が使われた、硬い作りの鞄だ。半分ほど口が開き、中から濡れた布と紙片が覗いている。
リィゼはノアを近くの岩に座らせると、身軽に浜へ戻った。
壊れた木箱を避け、網に絡まった瓶を跨ぎ、鞄を引き寄せる。
中をざっと確認してから、彼女は顔をしかめた。
「紙はだいぶやられてる」
「見るな」
「見ないと仕分けできないだろ」
「勝手に触るな」
ノアの声には、怒りよりも焦りが濃かった。
リィゼは一瞬だけ手を止めた。
それから、鞄を閉じてノアの足元に放る。
「ほら。自分で抱えてろ」
ノアは濡れた鞄を抱き寄せた。
中には、外界貨幣の入った小袋。替えの上着。折れた筆記具。鍵束。
それから、蓋の割れた懐中時計があった。
ノアは時計を手に取り、親指で泥と塩を拭った。
止まっている。
針は、夜明け前のどこかで止まったままだった。
裏蓋には、細かな文字で家名が刻まれている。
だが、そこにも塩が噛んでいた。後半の文字が白く曇り、指で拭ってもはっきりしない。
ノアは息を呑んだ。
リィゼはそれを見逃さなかった。
「その時計も名入りか」
「……家のものだ」
「なら大事にしろ。港の潮は、よその名に優しくない」
ノアは彼女を睨んだ。
「どういう意味だ」
「そのままの意味」
「脅してるのか」
「助けた相手を脅すほど暇じゃない」
リィゼは背を向け、港のほうを指した。
「歩けるなら行く。歩けないなら担ぐ。どっちがいい」
ノアは答えず、鞄を抱えて立ち上がった。
今度はふらつきながらも、なんとか自分の足で立った。
それが意地であることくらい、リィゼにも分かった。
港へ近づくにつれ、景色はさらに異様になっていった。
灰色の断崖に沿って、黒い柱のような岩がいくつも突き出している。まるで巨大な獣の角が、地面から生えているようだった。港の桟橋は黒ずんだ木と金属で組まれ、ところどころに紫がかった灯が揺れている。
帆柱の影。
見慣れない紋章の旗。
甲板に積まれた黒い鉱石箱。
片角の荷運び人。
鱗のある手で帳簿をめくる商人。
尾を外套の下に隠した子ども。
ノアは思わず足を止めた。
ここは、自分の知っているどの港とも違う。
潮の匂いすら違った。
海藻と魚と木材の匂いに混じって、鉄でも香でもない、乾いた魔導石のような匂いがした。
「……本当に、メギド=ノクスなのか」
「そう言った」
「魔大陸……」
「外の連中はそう呼ぶね」
リィゼの声音が、少しだけ冷えた。
ノアはその変化に気づいたが、言葉を止められなかった。
「私は、ここに来るつもりなんかなかった」
「だろうな。来るつもりで浜に打ち上がる奴は少ない」
「違う。私は……私は、メギド=ノクスの人間じゃない」
それは、自分に言い聞かせるための言葉だった。
ここに立っていても。
この港の潮を浴びていても。
この大陸の空の下にいても。
自分は、まだ外界の者だ。
帰る場所がある。
帰るべき名前がある。
リィゼはしばらく黙っていた。
それから、いつもの調子で言った。
「そう」
「そうって……」
「今のところ、あんたがそう言うならそうなんだろ」
「信じるのか」
「信じるっていうか、漂着者はだいたい最初にそう言う」
ノアは眉を寄せた。
「私は漂着者じゃない」
「浜で拾った」
「事故だ」
「事故で流れ着いた漂着者だな」
「言い方の問題じゃない」
「じゃあ、何の問題?」
ノアは言葉に詰まった。
何の問題なのか。
自分でも、うまく言えなかった。
ただ、漂着者と呼ばれた瞬間、自分の足元がこちら側へ沈んでいくような気がした。
リィゼは歩き出しながら言う。
「名前」
「……何?」
「あんた、さっきノアって言った。続きは」
ノアは濡れた身分証を握り直した。
「ノア=リントベル」
声に力を込める。
「ノア=リントベル。外界のリントベル家の者だ。船に乗っていた。事故に遭っただけで、亡命でも、逃亡でもない」
「ふうん」
「私は帰る」
その言葉だけは、はっきりしていた。
リィゼが足を止める。
港の朝の音が、ふたりの間を通り過ぎた。
「帰る?」
「ああ。船を探す。外界へ戻る。金なら払う」
「その外界貨幣がここでどれだけ使えるか、あとで教えてやる」
「金が足りないなら働く」
「肺に海水入れてる奴が、まず何を働くんだよ」
「なら、帰れる船を教えろ」
リィゼはノアを見た。
まっすぐで、必死な目だった。
まだ、自分が何を失いかけているのか分かっていない目。
そういう目を、リィゼは何度も見てきた。
帰れると思っていた者。
迎えが来ると思っていた者。
書類さえ揃えば元の場所へ戻れると思っていた者。
自分は“ここの者”ではないと、最後まで言い続けた者。
その全員が、同じ結末を迎えたわけではない。
帰った者もいる。
残った者もいる。
消えた者もいる。
帰りたいと言わなくなった者もいる。
リィゼは、安易な慰めを口にしなかった。
「帰れる船が、朝市みたいに並んでると思うな」
ノアの顔が強張る。
「じゃあ、どうすれば帰れる」
「今すぐ分かるわけないだろ」
「ここは港だろ。船がある」
「船があることと、あんたを外界へ戻せることは別だ」
「どうして」
「メギド=ノクスだから」
短い答えだった。
だが、その一言の中に、外界と魔大陸の間に横たわるものすべてが詰まっているようだった。
ノアは苛立ちを隠せなかった。
「分からない。私は犯罪者じゃない。亡命者でもない。身分だって証明できる。事故で流されたなら、帰るのが当然だろ」
「外界ではそうかもな」
「ここでもそうだろ」
「ここでは、まず生きてるかどうか。次に、名前が残るかどうか。その次に、帰れるかどうかだ」
ノアは言葉を失った。
名前が残るかどうか。
その言い方が、妙に胸に引っかかった。
「……私の名前は残ってる」
「ならいい」
リィゼは歩き出そうとして、少しだけ振り返った。
「でも、ひとつ覚えとけ」
「何を」
「帰れるかは分からない」
ノアの手に力が入る。
身分証が、湿った音を立てて歪んだ。
リィゼは続けた。
「でも、帰りたいって言う権利はある」
その声は、乱暴な口調に似合わず、静かだった。
「だからまず、生きて港番のところへ行け。帳に載る。手当てを受ける。何が残ってるか確かめる。それから騒げ」
ノアはリィゼを見た。
彼女は優しく笑わなかった。
大丈夫だとも言わなかった。
帰れるとも、帰れないとも言わなかった。
ただ、ノアの言葉を否定しなかった。
帰りたい。
その願いだけは、まだ取り上げなかった。
ノアはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……港番に行けば、分かるのか」
「少なくとも、今この浜で倒れてるよりは分かる」
「君は?」
「拾名屋リィゼ=ノルカ。今日のあんたの拾得者」
「拾得者って……私は物じゃない」
「だから港番に渡す。物なら倉庫に積む」
ノアは言い返しかけて、咳き込んだ。
リィゼはノアの背を乱暴に叩く。
「ほら見ろ。まだ海が残ってる」
「……乱暴だな」
「助け方が丁寧な海なんかない」
港の門が近づいてきた。
黒い鉄で組まれた低い門。
その横に、濡れた木札がいくつも吊られている。
生存漂着者。
身元確認不能。
外界亡命希望。
失名疑い。
ノアは最後の札を見て、足を止めた。
「失名……?」
リィゼは答えなかった。
ただ、門の内側を顎で示す。
「続きは中で聞け。港番長は声がでかいから、嫌でも分かる」
ノアは濡れた鞄を抱え直した。
帰る。
そう決めている。
ここは、自分のいる場所ではない。
だが、港の門をくぐる瞬間、ノアは一度だけ、手の中の身分証を見下ろした。
ノア=リントベル。
そう書かれていたはずの名は、潮に濡れて、まだ滲んでいる。
けれどノアは、それを海水のせいだと思うことにした。
そうでなければ、歩けなくなる気がした。




