序節 ― 拾名屋リィゼ
灰角の港ヴァル=クレイアの朝は、海よりも先に、拾名屋たちが目を覚ます。
灰色の断崖の下、まだ夜の名残をまとった浜辺に、黒い潮がゆっくりと寄せていた。波は低く、重く、まるで海そのものが眠りから覚めきらない獣のように、砂利と貝殻を噛みながら退いていく。
その波打ち際を、ひとりの少女が歩いていた。
短い外套。腰にいくつもの革袋。片手には、黒晶を嵌めた小さな灯。
灰紫の髪が、潮風に乱れている。頭の左右には、小さな灰黒の角が覗いていた。
リィゼ=ノルカは、足元の漂着物をひとつずつ見分けながら、黒晶灯を低く掲げた。
壊れた木箱。
魚網に絡まった銀貨。
塩でふやけた紙束。
割れた仮面。
名前の刻まれた潮名札。
金になるものを拾う者なら、銀貨に手を伸ばしただろう。
けれど、リィゼはそれを足先で脇へ寄せただけだった。
先に拾うべきものは、名につながるものだ。
指輪。
手紙。
身分証。
荷札。
誰かの祈りが残った布。
誰かが、まだ誰かであった証。
それが拾名屋の仕事だった。
流れ着いたものを売るのではない。
流れ着いたものが、どこから来て、誰のもので、誰のもとへ返せるのかを拾う。
もちろん、返せないことのほうが多い。
だからこそ、拾う。
リィゼは濡れた紙束をつまみ上げ、灯にかざした。文字はほとんど読めない。ただ、端に残った印章が外界のものだと分かる。
「……また西の船か」
小さく呟き、彼女は紙束を革袋に入れた。
そのとき、黒晶灯の光が、岩陰で何かを捉えた。
流木ではない。
布だ。
人の腕だ。
リィゼは舌打ちして、足早に近づいた。
波に半分さらわれるようにして、ひとりの若い女性が倒れていた。濡れた上着は外界製。靴もこのあたりのものではない。顔色は悪いが、まだ青ざめきってはいない。
死体なら、潮がもっと静かに持っていく。
リィゼはしゃがみ込み、若い女性の口元に指を近づけた。
かすかに息がある。
「面倒なの拾ったな……」
そう言いながらも、彼女の手は迷わなかった。
若い女性の肩を抱き起こし、横向きにする。背を叩く。喉に詰まった海水を吐かせる。
一度。
二度。
若い女性の身体が大きく震えた。
「げほっ……!」
黒い水を吐き、若い女性が苦しげに息を吸う。
リィゼはさらに背を叩いた。
「おい。死んでるなら返事しなくていい。生きてるなら息をしろ」
「……っ、げほ……は……」
「よし。生きてるな。面倒が増えた」
若い女性は濡れた睫毛を震わせ、ゆっくりと目を開いた。
焦点の合わない瞳が、まず黒い空を見た。
次に、灰色の断崖を見た。
最後に、自分を覗き込むリィゼの顔を見た。
小さな角。
金紫に揺れる瞳。
潮に濡れた外套。
若い女性の目に、理解より先に警戒が浮かんだ。
「……ここは、どこだ」
声は掠れていた。けれど、外界語の発音ははっきりしている。
リィゼは黒晶灯を少し持ち上げ、若い女性の顔を照らした。
「ヴァル=クレイア」
若い女性は聞き覚えのない地名に、眉を寄せる。
「……ヴァル……?」
「灰角の港。メギド=ノクスの西岸だ。あんた、流れ着いたんだよ」
その名を聞いた瞬間、若い女性の顔から血の気が引いた。
メギド=ノクス。
外界の者がその名を口にするとき、そこにはたいてい、恐れか侮りが混じる。
魔大陸。
魔族の国。
帰れない者の果て。
若い女性も、その名を知っていたのだろう。
ノアは急に身を起こそうとした。だが、身体は言うことを聞かず、砂利の上に片手をついて崩れた。
「私は……船に……」
「無理に動くな。肺に海が残ってる」
「荷物は」
「あとで探す」
「身分証……私の、身分証は」
リィゼは目を細めた。
漂着者が目覚めて最初に探すものは、だいたい二つに分かれる。
武器か、名前だ。
この若い女性は後者だった。
ノアの右手は、まだ何かを握っていた。
リィゼはその指を一本ずつ開かせる。
濡れて歪んだ薄い身分証が出てきた。
外界の紙。
外界の印章。
外界の文字。
ただし、名の後半は潮に食われたように滲んでいる。
リィゼには、かろうじて最初の部分だけが読めた。
ノア。
リント――。
その先は、白く抜けていた。
若い女性は震える手でそれを奪い返そうとした。
「返せ」
「返すよ。まだ破るな。名が残ってるものは、濡れてても大事に扱え」
「私のだ」
「だから返すって言ってる」
リィゼは身分証をノアの手に戻した。
若い女性はそれを胸元に抱え込むように握った。
まるで、紙切れではなく、自分自身の輪郭を押さえているかのようだった。
「立てるか」
「……立てる」
言葉とは裏腹に、若い女性の膝はすぐに崩れた。
リィゼは小さく息を吐き、ノアの腕を自分の肩に回した。
「嘘が下手だな、外界人」
「外界人って……」
「違うのか?」
若い女性は歯を食いしばる。
「違わない。私は、メギド=ノクスの人間じゃない」
その言い方に、リィゼは一瞬だけ黙った。
怒ったわけではない。
ただ、聞き慣れた言葉だった。
流れ着いた者は、たいてい最初にそう言う。
自分はここの者ではない。
ここにいるはずがない。
帰る場所がある。
まだ、そちら側の人間だ。
リィゼは若い女性を支えながら、浜辺の上へ歩き出した。
「名前は」
「……ノア」
「続きは?」
若い女性は身分証を強く握った。
「ノア=リントベル」
リィゼはその名を胸の内で繰り返した。
ノア=リントベル。
だが、濡れた身分証に残っていたのは、ノア=リント――までだった。
潮が消したのか。
それとも、別の何かが受け取らなかったのか。
今はまだ、判断できない。
港のほうから、朝の鐘ではなく、黒晶灯の点検を知らせる低い音が鳴った。
ヴァル=クレイアが目を覚まし始めている。
灰色の断崖の上で、角のような黒い岩柱が朝靄を裂いていた。
ノアはそれを見上げ、掠れた声で言った。
「……帰らないと」
リィゼは横目でノアを見る。
「まずは歩け。生きてる漂着者は、港番に渡す決まりだ」
「私は漂着者じゃない」
「浜に落ちてた。水を吐いた。身分証が濡れてる。三つ揃ったら漂着者だ」
ノアは言い返そうとしたが、咳き込んで言葉を失った。
リィゼはノアを支え直す。
その手つきは乱暴だった。
けれど、決して突き放すものではなかった。
黒い潮は、背後でまたひとつ波を返した。
砂利の上に、ノアの足跡と、リィゼの足跡が並んで残る。
次の波が来れば消える程度の、頼りない跡だった。
けれど今はまだ、確かにそこにあった。




