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第二節 ― 閉じた鍵と、渡さない記録

 小記録室を出ると、廊下の空気が少し冷たく感じられた。


 ノアは一度だけ立ち止まり、胸元の仮保護名札に触れた。そこにはまだ、先ほど黒晶板に書かれたばかりの名が、かすかに響いている。


 ノア=リントベル。


 最後まで書けた。


 その事実は、胸の奥に小さな灯のように残っていた。けれど、温かさだけではない。最後の「ベル」はまだ揺れている。黒晶に刻まれた傷のように、音のように、完全な文字にはなりきれず、彼女の内側で細く震えていた。


 書けたからといって、終わったわけではない。


 むしろ、書けたからこそ、これから何に見つかるのか分からない。


 ノアは、廊下の壁に埋め込まれた黒晶灯を見た。


 黒冠宮の灯は、白く照らさない。闇を消すのではなく、闇の輪郭を見えるようにする。その光の下で、壁面の彫り模様が深く浮かび上がっていた。鍵。冠。影。門。閉じた円環。そして、途中で途切れた線。


 帰属裁定所の奥へ進むほど、空気は静かになっていく。


 リィゼが隣で、漂着者帳を抱え直した。


「あんた、歩ける?」


「はい」


「本当に?」


「……少し、足は重いです」


「じゃあ重いって言えばいいじゃん」


「歩けないほどではありません」


「頑固」


「リィゼほどじゃありません」


 リィゼは、呆れたように鼻を鳴らした。


 そのやり取りが、ほんの少しだけノアの緊張をほどいた。


 だが、すぐ前を歩くオルフェの背中は硬かった。彼は黒晶記録板を抱え、必要以上に言葉を発しない。小記録室でノアの名を書いた直後だというのに、まだ筆を置いた人の顔ではなかった。


 次に扱うものが、もっと厄介だと分かっているのだろう。


 廊下の先に、監査室があった。


 黒い扉の上部には、冠ではなく、鍵の紋が刻まれている。閉じるための鍵。だが、扉に近づくと、その紋の中央には細い隙間があり、完全に閉じきってはいないようにも見えた。


 オルフェが扉の前で止まる。


「この先では、ザイ=ヴェルムでの閉門派急進班の行動、および外界回収官ヴィクトル=ヘイズの接触について、監査記録の照合が行われています」


 ノアは喉を鳴らした。


 ザイ=ヴェルム。


 黒鍵結界。

 帰路封じ。

 足元の影を縫い止められ、帰りたいという感覚そのものを黒い布で覆われるような恐怖。


 そして、ヴィクトル。


 白手袋。

 外界式の礼装。

 丁寧な声。

 ノア=リントベルと、正確に呼んだ声。


 ノアの足が、一瞬だけ止まる。


 リィゼが、すぐに気づいた。


「無理して入らなくてもいいんじゃない」


 ノアは首を横に振った。


「聞きます」


「全部?」


「全部は、無理かもしれません。でも……私のことなのに、聞かないままにはしたくないです」


 オルフェは少しだけ振り返った。


「あなたが当事者であることは記録されています。ただし、体調への影響を考慮し、直接審問席に立つ必要はありません。隣室から一部を聞く形にできます」


「隣室?」


「はい。あなたに向けて行われる審問ではありません。監査対象は、セヴラ=クロウゼルおよびヴィクトル=ヘイズです」


 ノアは頷いた。


 自分が責められる場ではない。


 そう言われても、胸の奥は固くなった。


 扉が開く。


 監査室そのものではなく、その横に設けられた小さな傍聴室だった。黒晶の薄い壁で区切られており、向こうの声は聞こえるが、姿はぼんやりとしか見えない。


 部屋には椅子が三つだけ置かれていた。


 ノアが座ると、リィゼが当然のように隣へ腰を下ろした。オルフェは立ったまま、黒晶記録板を開く。


 薄い黒晶壁の向こうに、二つの影が見えた。


 一人は、背筋を伸ばした女性。


 セヴラ=クロウゼル。


 もう一人は、白い手袋をした男。


 ヴィクトル=ヘイズ。


 二人の間には距離があった。


 それは物理的な距離だけではない。二つの制度、二つの正しさ、二つの恐れが、同じ部屋に置かれているようだった。


 先に声が聞こえたのは、裁定官だった。


「ザイ=ヴェルムにおける黒鍵結界起動、および本人同意なき帰路封じ未遂について、閉門派監察セヴラ=クロウゼルの見解を確認する」


 セヴラの声は、いつものように硬かった。


「黒鍵結界の起動自体は、封鎖区画の規定内です。ただし、急進班による帰路封じの実行は、手続き上も倫理上も越権です。本人同意、または王都裁定を経ない帰路封じは、閉門術式ではありません。拘束です」


 その言葉を聞いた瞬間、ノアの胸がかすかに痛んだ。


 第9話でオルフェが叫んだ言葉。


 本人同意のない帰路封じは庇護ではありません。

 それは閉門ではなく、拘束です。


 セヴラは、その言葉を今、自分の側の責任として言っている。


 裁定官が問う。


「では、ノア=リントベルの帰還希望を危険視する立場は撤回するか」


「撤回しません」


 即答だった。


 リィゼが隣で、わずかに身を固くする。


 セヴラの声は続いた。


「往還路が侵入路になる危険は消えていません。無帰結門は一部機能を損ないましたが、完全に消滅したわけではない。外界回収線も、旧道呼称干渉も、なお残存しています。ノア=リントベルの名が媒介となる可能性も、完全には否定できません」


 ノアは、手を膝の上で握りしめた。


 危険。


 媒介。


 その言葉は、今でも胸に刺さる。


 けれど、セヴラの次の言葉は違った。


「ですが、本人の願いを壊して門を閉じることには、もう賛成しません」


 ノアは顔を上げた。


 黒晶壁の向こうで、セヴラの影が動く。


「私は今でも、門を開くことに賛成はしません。往還路が侵入路になる危険は消えていない。けれど、あなたの願いを壊して門を閉じることにも、もう賛成しません」


 その言葉は、裁定官へ向けたものではなかった。


 薄い黒晶壁の向こうから、まっすぐこちらに届いていた。


 ノアは、息を止める。


 セヴラは、自分を全面的に認めたわけではない。

 帰還希望を支持したわけでもない。

 往還路を開けと許したわけでもない。


 それでも、ノアを危険物として封じるだけの対象にはしないと言った。


 裁定官が淡々と続ける。


「今後、往還路調査が継続される場合、閉門派監察として参加する意思はあるか」


「あります」


「目的は」


「監査です」


 セヴラの声は揺れない。


「道が開かれるなら、その道を疑う者が必要です。誰が通るのか。何が通るのか。誰の願いが利用され、誰の名が奪われるのか。疑うことで、守れるものもある」


 ノアは、その言葉を黙って聞いた。


 疑われることは怖い。


 外界で回収対象として見られたことも、閉門派に危険な門として見られたことも、ノアを深く傷つけた。


 けれど、セヴラの言う疑いは、それだけではないのかもしれない。


 閉じるためだけではなく。

 奪われないために疑う。


 ノアは、椅子の縁を握った。


 言わなければ、と思った。


 でも、ここは傍聴室だ。


 声を出してよいのか迷った瞬間、セヴラが言った。


「ノア=リントベル」


 正式に、最後まで呼ばれた。


 ノアの胸元の名札が微かに震える。


 けれど、痛みはなかった。


 セヴラの声は、少し間を置いて続く。


「聞こえているなら、ひとつだけ確認します」


 ノアは思わずオルフェを見た。


 オルフェが静かに頷く。


 ノアは黒晶壁に向かって答えた。


「聞こえています」


 セヴラは言った。


「あなたが道を探すなら、私はその道を疑います。疑うことで、守れるものもある。私は、その立場を変えません」


 ノアは目を伏せた。


 そして、静かに答えた。


「分かりました」


 リィゼが少し驚いたようにノアを見る。


 ノアは言葉を続けた。


「でも、それでも……勝手に閉じる前に、私の名前を呼んでください」


 黒晶壁の向こうで、セヴラの影が止まった。


「危ないと思ったら、止めてもいいです。疑ってもいいです。でも、私の願いを閉じる前に、私に聞いてください。私の名前を呼んでください」


 ノアは、胸元の名札を握った。


「私は、答えます」


 少しの沈黙があった。


 長くはない。


 けれど、その沈黙の中に、ザイ=ヴェルムの黒鍵結界も、第12話で外界回収線を断った黒鍵も、すべて含まれている気がした。


 やがて、セヴラが答えた。


「約束します。ノア」


 ノア。


 仮保護名。


 セヴラは、今あえてその名を呼んだ。


 リィゼが小さく息を吐く。


 ノアも、胸の奥で細く絡まっていた糸が少しだけほどけるのを感じた。


 許したわけではない。

 すべてが解けたわけでもない。


 けれど、約束は残った。


 勝手に閉じない。


 閉じる前に呼ぶ。


 それだけで、ノアは少しだけ息がしやすくなった。


 しかし、その息は長く続かなかった。


 裁定官の声が、次の監査対象を告げる。


「続いて、外界記録院所属、ヴィクトル=ヘイズ。第8話相当事案、グリム=ラハドにおけるノア=リントベルへの接触、および第12話相当事案、無帰結門干渉中の外界回収線接続について確認する」


 ヴィクトルの影が、黒晶壁の向こうでわずかに動いた。


 その立ち姿は、相変わらず整っていた。


 白手袋。

 外界式の礼装。

 乱れのない姿勢。


 ノアは、喉の奥が固くなるのを感じた。


 リィゼが小声で言う。


「無理なら、耳ふさいでいいよ」


「聞きます」


「……分かった」


 リィゼはそれ以上言わず、ただノアの隣に座っていた。


 ヴィクトルの声が聞こえる。


 礼儀正しく、静かで、よく通る声。


「まず、用語を修正させていただきます。『回収線』という表現は、貴国側の解釈です。外界記録院における正式呼称は、外洋損耗記録対象に対する帰還補助線です」


 ノアの指先が冷える。


 帰還補助線。


 言葉が違うだけで、あの白い線の冷たさが消えるわけではない。


 裁定官が問う。


「グリム=ラハドにおいて、本人意思確認前に移送を求めた事実は」


「安全確保を優先したものです。対象者は魔大陸特有の名傷環境下にあり、旧道呼称干渉、黒潮反応、接触汚染疑いを含む複数の危険因子に晒されていました。外界記録上、ノア=リントベルは外界所属の記録官補助員です。事故による漂着であるなら、外界記録院が保護、照合、帰還手続きを行うのが妥当です」


 言葉は整っている。


 怒鳴らない。

 責めない。

 侮辱しない。


 だからこそ、ノアは怖かった。


 ヴィクトルの言葉の中で、ノアの意思はいつも後ろに置かれる。


 安全確保の後。

 照合の後。

 記録の後。

 手続きの後。


 ノアという本人は、そのすべてが済んだあとに、ようやく確認されるものになってしまう。


 裁定官が次の問いを投げる。


「第12話相当事案において、あなたの帰還補助線は無帰結門の残存線と重なり、対象者の名傷を拡大させた疑いがある」


「その解釈には同意できません」


 ヴィクトルは即答した。


「外界記録院の手続きは、対象者の正式記録に基づくものです。ノア=リントベルは外界記録に存在する。外界への帰還線を確認し、接続を試みることは、対象者の安全確保に資する行為です。貴国のいう無帰結門なる現象との混同は、記録上認められません」


 セヴラの声が、低く割り込んだ。


「混同ではありません。あなたの線は、門の餌になった」


 ヴィクトルは、わずかに間を置いた。


「閉門派監察官の見解として記録します。ただし、外界記録院はその見解を採用しません」


「採用しなくても、起きた事実は消えません」


「事実とは、記録によって確認されるものです」


 その一言に、室内の空気が変わった。


 ノアは背筋を冷たくした。


 記録によって確認されるもの。


 外界では、それが正しかったのかもしれない。

 書かれ、照合され、承認されたものが、事実になる。


 けれど、魔大陸には紙に書けない者たちがいる。

 名を発音すると喉が裂ける者がいる。

 影だけが先に老いる者がいる。

 声を小瓶に避難させる者がいる。

 帰りたいと願ったまま、名片だけになった者がいる。


 彼らは、外界記録にないから存在しないのか。


 ノアは、拳を握った。


 リィゼが、低く言う。


「あいつ、本当に分かってないんだね」


 怒りというより、呆然とした声だった。


 ヴィクトルは続ける。


「ノア=リントベルは外界記録に存在します。所在確認は未完了。魔大陸の庇護記録は、外界記録に優越しません。対象者の帰還線は一時的に妨害されましたが、外界記録院としては今後も所在確認および保護手続きを継続します」


 裁定官が言う。


「黒冠宮の仮裁定により、ヴィクトル=ヘイズ、あなたのノア=リントベルへの単独接触は禁止されている」


「承知しています」


「王都管理下にない帰還補助線の接続も禁止する」


「貴国領域内における制限として記録します」


「外界記録院に対しては、正式な抗議と照会を送る」


「外界側に伝達されるでしょう」


 ヴィクトルの声は、やはり乱れない。


 その落ち着きが、かえって拒絶のように聞こえる。


 裁定官は、最後に告げた。


「あなたには、王都監視下での一時滞在解除および退去命令が出る。ただし、外界との交渉窓口を閉じるものではない。今後の接触は、黒冠宮管理下でのみ許可される」


 短い沈黙。


 そして、ヴィクトルは礼儀正しく答えた。


「承知しました」


 それで終わるかと思った。


 だが、彼はそこで一度だけ、こちらを向いたようだった。


 黒晶壁越しに、白い手袋の影がかすかに見える。


 ノアは、息を止めた。


 ヴィクトルの声が届く。


「ノア=リントベル」


 名が呼ばれた。


 胸元の名札が震える。


 だが、今度はリィゼが先に動いた。


 彼女は漂着者帳を片手で押さえ、もう片方の手をノアの腕に置く。


 ガルドはいない。セヴラも隔ての向こう。ヴェイルもここにはない。


 それでも、ノアは引かれなかった。


 足元の影の縁留めが、静かに黒く震えている。


 ヴィクトルは言った。


「外界記録院は、ノア=リントベルの所在確認を完了していません。この件は、終わっていません」


 声は丁寧だった。


 けれど、それは別れの言葉ではなかった。


 予告だった。


 ノアは、冷たくなった指先を胸元に当てた。


 この件は終わっていない。


 そうだ。


 終わっていない。


 無帰結門も完全には消えていない。

 ベルも完全には戻っていない。

 外界はまだ自分を探している。

 閉門派はまだ道を疑っている。


 けれど、ノアはもう、ただ呼ばれるだけの名ではない。


 黒晶板に、最後まで書かれた。


 リィゼの帳面と、王都の庇護記録と、自分の意思を合わせて。


 ノアは、黒晶壁の向こうへ向けて、静かに言った。


「私の意思も、まだ終わっていません」


 ヴィクトルの影が、わずかに止まる。


「私は、帰りたいです。でも、後で確認される対象には戻りません。私の意思は、今ここにあります」


 グリム=ラハドで言った言葉。


 無帰結門の前で言った言葉。


 それを、もう一度ここで言う。


 リィゼの手が、ノアの腕に少しだけ力を込めた。


 黒晶壁の向こうで、セヴラが沈黙しているのが分かった。


 その沈黙は、否定ではなかった。


 裁定官が、静かに告げる。


「記録した」


 ノアは息を吐いた。


 膝が震えている。


 それでも、椅子から崩れなかった。


 監査室の扉が向こう側で開く音がした。


 ヴィクトルの影が遠ざかる。

 白手袋の輪郭が、黒晶壁の向こうから消える。


 続いて、別の扉が開く。


 セヴラが、傍聴室の入口に姿を見せた。


 彼女は、いつものように背筋を伸ばし、黒鍵を携えていた。表情は硬い。謝罪する顔ではない。慰める顔でもない。


 ただ、ノアを正面から見ていた。


「ノア」


 また、仮保護名で呼んだ。


 ノアは立とうとしたが、リィゼに押さえられた。


「座ってな」


 ノアは少しだけ困ってから、座ったまま答えた。


「はい」


 セヴラは一歩だけ近づいた。


「あなたが道を探すなら、私は疑います」


「はい」


「危険だと判断すれば、止めます」


「はい」


「ですが、あなたの願いを壊すために鍵を使うことはしません」


 ノアは、セヴラを見つめた。


 黒鍵。


 ザイ=ヴェルムでは、ノアの影を縫い止めた恐怖の象徴だった。


 第12話では、外界回収線を断った守りの鍵だった。


 同じ鍵。


 使い方で、意味が変わる。


 ノアは小さく頷いた。


「私も、道を探します。でも、危ないと思ったら……言ってください。閉じる前に」


「約束しました」


「はい」


 セヴラは一瞬だけ、ノアの胸元の名札を見た。


「ノア=リントベルと、書けたそうですね」


 ノアは胸元に触れた。


「はい。でも、まだ揺れています」


「揺れているなら、監査対象です」


 リィゼが思わず眉を上げる。


「言い方」


 セヴラは平然としていた。


「事実です」


 ノアは、少しだけ笑ってしまった。


 本当に、少しだけ。


「はい。監査してください」


 セヴラの目が、わずかに細くなる。


 それは笑みではなかった。けれど、以前のような冷たい拒絶でもなかった。


「では、次の裁定で正式に決まるでしょう」


 オルフェが黒晶板を閉じる。


「黒冠宮の仮裁定ですね」


「はい」


 セヴラは扉の方へ視線を向けた。


「王が、あなたをどう記録するか」


 ノアは息を吸った。


 ノア=リントベル。


 帰りたい者。

 帰れなかった者ではない。

 まだ帰っていない者。


 そして、帰れない名を見捨てなかった者。


 そのすべてを、王はどう裁定するのか。


 ノアは、椅子の上で背筋を伸ばした。


 まだ足は重い。


 名も揺れている。


 けれど、もう目を逸らしたいとは思わなかった。

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