表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
64/65

第三節 ― 黒冠宮の仮裁定

 黒冠儀の間へ向かう道は、あのときと同じだった。


 黒晶で組まれた長い回廊。

 壁面に刻まれた、冠と鍵と、名を失った者たちの古い紋様。

 足音を吸い込む床。

 通る者の影を、少しだけ濃く映す黒い石。


 けれど、ノアの感じ方は違っていた。


 第十話でここを歩いたとき、ノアは自分が裁かれに行くのだと思っていた。被告ではないと説明されても、心は納得していなかった。帰りたいと言っただけなのに、国家と外界の境界問題にされ、ヴィクトルとセヴラと王都のあいだに立たされ、自分の願いが自分だけのものではなくなっていくことが怖かった。


 今も、怖い。


 それは変わらない。


 けれど、足元の影の感触が違った。


 《影の縁留め》は、もうただの警告ではない。旧道の声に震えるだけのものでもない。無帰結門の前で、ノアの身体を現実側へ残し、ヴェイル=エルドラドの隔てに応じた影だ。


 守られた。


 けれど、守られただけではない。


 その影で、ノアは立った。


 リィゼが隣を歩いている。


 彼女は漂着者帳を両腕で抱えていた。帳面の中には、戻ってきた名片が仮留めされている。いつもなら肩にかけて軽く扱うそれを、今はまるで灯籠を抱えるように慎重に持っている。


 ガルドは一歩後ろにいた。


 いつも通り無口で、壁にも天井にも視線を走らせている。黒冠宮の中で襲撃があるとは思えない。それでも彼は、ノアが倒れかければすぐ支えられる位置を外さなかった。


 オルフェは黒晶記録板を胸に抱え、歩調を乱さない。先ほどノアの名を最後まで書いた筆は、もう収められている。けれど、彼の指先にはまだわずかに緊張が残っていた。


 エルネアは少し離れて、ノアの呼称層と名傷の状態を診断板で追っている。名前を書けた直後だからこそ、安定したわけではない。揺れたまま残った「ベル」は、今も微細な反応を返している。


 セヴラは、さらに前を歩いていた。


 黒鍵を携えた背中は、相変わらず硬い。味方の背中ではない。けれど、敵の背中でもなかった。


 疑う者。


 閉じる者。


 けれど、奪うためには閉じないと約束した者。


 ノアは、その背中を見ながら歩いた。


 黒冠儀の間の扉が開く。


 広間の中央には、黒冠があった。


 第十話で見たときと同じように、それは玉座の上には置かれていない。誰かの頭上に戴かれるものではなく、異なる種族、異なる名、異なる傷を持つ者たちを、同化させずに束ねるための象徴として、広間の中央に安置されている。


 黒冠の傍らに、剣があった。


 《ヴェイル=エルドラド》。


 黒い鞘。

 金とも黒ともつかない、深い光を内側に抱いた剣。

 第十二話で無帰結門の前に伸び、ノアの名を奪う線だけを隔てた剣。


 剣は抜かれていない。


 ただ、そこにある。


 それだけで、広間の空気の一部が薄く隔てられているようだった。何かが名に触れようとしたとき、ぎりぎりのところで止めるための沈黙。


 その背後に、レギオン=エルドラドがいた。


 魔王。


 けれど、やはりその姿は、ノアがかつて想像した魔王とは違う。


 美しい、という言葉だけでは足りない。中性的で、年齢も性別も一目では定まらず、柔らかな気配と、国家そのものの重さが同時にある。優しげに見えるのに、目だけはどこまでも遠くを見ている。


 レギオンは、ノアを見た。


「ノア」


 今の呼び名で呼んだ。


 ノアの胸元の名札が、静かに震える。


 続いて、レギオンは黒晶板へ視線を移した。


「ノア=リントベル」


 今度は、最後まで呼んだ。


 ベルの部分が、ノアの内側でかすかに揺れる。だが、崩れない。痛みもない。ただ、まだ慣れない名が、慎重に自分の輪郭を確かめるように響いた。


 ノアは、深く息を吸った。


「はい」


 返事をした。


 その一言だけで、胸が詰まりそうになった。


 黒冠儀の間には、裁定官たちの席もあった。七魔侯の代理記録席、帰属裁定所の監査席、閉門派監察席、庇護籍管理院の記録席。ヴィクトルの姿はない。彼は監査後、王都管理下の別室へ移されている。


 けれど、外界記録院の席だけは空席として残されていた。


 空の席。


 それが、問題が終わっていないことを示していた。


 レギオンは言った。


「本件は、通常の帰属裁定では終わらない」


 広間に静かな緊張が走った。


「第七話以降確認された旧道の灯。グリム=ラハドにおける保護契約強化。外界回収官ヴィクトル=ヘイズの接触。ザイ=ヴェルムでの帰路封じ未遂。名裂きの谷。無帰結門エンド=レス。そして、第十二話で帰還灯より戻った名片」


 ひとつずつ、言葉が置かれていく。


 それは事件の列挙ではなかった。


 ノアが歩いてきた道そのものだった。


「これらは、ノア一人の帰還希望としては扱えない。だが同時に、ノア個人の願いを国家の都合で潰すことも認めない」


 ノアは、唇を引き結んだ。


 第十話で、レギオンは言った。


 君ひとりを帰すだけなら、この国にとっては害のほうが大きい。


 あのときは、痛かった。


 王都に来ても、帰ることは許されないのかと思った。自分の願いが、国の害として扱われたようで苦しかった。


 でも今なら、少し分かる。


 ノアひとりの帰還が成立すれば、無帰結門はさらに多くの者へ「帰れる」という幻を見せただろう。外界回収線はそれを補強し、閉門派はやはり門は危険だと証明されたと言い、帰りたい者の名はまた罠に流されたかもしれない。


 自分だけが帰る道は、帰り道ではなかった。


 けれど、だからといって帰りたい気持ちが消えたわけではない。


 レギオンは、黒冠の前に立った。


 その声は、広間の隅々まで届いた。


「黒冠宮は、以下の仮裁定を下す」


 オルフェが記録板を開く。


 リィゼが漂着者帳を抱き直す。


 セヴラは黒鍵の柄に手を添えた。


 ノアは、ただ立っていた。


 裁かれる者としてではなく。


 証言する者として。


「第一。ノア=リントベルを、王都庇護下の境界裁定対象から、往還路第一証人へ移行する」


 往還路第一証人。


 その言葉が、広間に落ちた。


 ノアは、すぐには意味を飲み込めなかった。


 帰還希望者ではない。

 回収対象ではない。

 危険な門でもない。

 漂着者であるだけでもない。


 証人。


 見た者。

 名が奪われる仕組みを知った者。

 自分だけの帰還を拒み、帰れない名を呼び戻した者。


 その言葉の重さが、ゆっくり胸に沈んでくる。


「第二。ノア=リントベルの帰還希望は、引き続き本人意思として裁定記録に残す」


 ノアは顔を上げた。


 帰還希望。


 消されなかった。


 王都は、ノアの帰りたい気持ちを危険として封じなかった。

 メギド=ノクスの民として閉じるために、願いを書き換えなかった。


 本人意思として、残す。


 それだけで、胸が熱くなる。


「第三。ノア=リントベルを外界へ即時返還することは認めない」


 分かっていた。


 それでも、言葉にされると痛い。


 ノアの指先が少しだけ震えた。


 リィゼが横目で見る。何も言わない。ただ、そこにいる。


「第四。ノア=リントベルに帰路封じを施すことも認めない」


 今度は、セヴラの黒鍵がかすかに鳴った。


 ノアは息を吐いた。


 帰すことはできない。


 でも、帰りたい願いを封じることも認めない。


 二つの禁止のあいだに、ノアの立つ場所ができる。


 狭く、危うく、けれど確かにある場所。


「第五。無帰結門エンド=レスは完全消滅していない。これを黒冠宮直轄の継続調査対象とする」


 広間の空気が少し重くなる。


 勝ったわけではない。


 第十二話でノアたちが断ち切ったのは、一部の奪取線だ。門そのものは、まだ世界のどこかに暗い輪郭を残している。


「第六。第十二話で戻った名片は、リィゼ=ノルカの漂着者帳、およびオルフェ=セプティアの庇護記録による共同保全対象とする」


 リィゼが、小さく息を呑んだ。


 漂着者帳を抱く手に力がこもる。


 王都が拾ったのではない。

 王都が所有するのでもない。


 リィゼが拾った。

 オルフェが記録する。

 王都が保全する。


 その順番が、裁定として認められた。


 レギオンの視線がリィゼへ向く。


「リィゼ=ノルカ」


「……はい」


 珍しく、リィゼの声が硬かった。


「君の帳は、王都の記録板では拾えなかった名に触れた。今後、その帳は第一次拾名記録として扱われる。ただし、王都の所有物にはしない」


 リィゼは、少しだけ目を見開いた。


「……いいんですか」


「よくはない」


 レギオンは静かに答えた。


「前例がない。面倒も多い。庁内で反対も出るだろう」


「じゃあ、なんで」


「必要だからだ」


 それだけだった。


 リィゼは、唇を噛むようにして頷いた。


「……分かりました。拾えるだけ、拾います」


 その声は、小さい。


 けれど、広間に残った。


「第七。戻った名片の分類を、庇護記録上は帰還未了名、裁定上は往還保留名とする」


 オルフェの筆が走る。


 帰還未了名。

 往還保留名。


 ノアは、その言葉をまた胸の中で繰り返した。


 帰れたわけではない。

 消えたわけでもない。


 まだ、途中にある名。


「第八。セヴラ=クロウゼルは閉門派監察として、往還路の危険性監査に加わる」


 セヴラが、黒鍵を持ったまま一礼した。


「承知しました」


 レギオンは、セヴラを見た。


「君の役目は閉じることだけではない」


「承知しています」


「恐れることをやめろとは言わない。だが、恐れを理由に本人の願いを壊すことは認めない」


 セヴラは一瞬だけ沈黙した。


 そして、深く頭を下げた。


「以後、閉じる前に、名を呼びます」


 ノアは、その言葉を聞いて目を伏せた。


 約束が、王都の前でもう一度形になった。


「第九。ヴィクトル=ヘイズによるノア=リントベルへの単独接触を禁じる。外界記録院との交渉は、黒冠宮管理下でのみ行う」


 空席の外界記録院席が、黒晶灯の光を受けて沈黙している。


 ヴィクトルはいない。


 けれど、彼の声はまだ残っている。


 この件は、終わっていません。


 ノアは、その言葉を思い出した。


 怖くないと言えば嘘になる。


 でも、今はひとりで聞いているわけではない。


「第十。ノア=リントベル本人の意思表明は、以後すべて裁定記録に残す」


 ノアは、はっとした。


 レギオンの視線が、まっすぐ向けられている。


「ノア」


「はい」


「君の意思は、後回しにしない。王都も、外界も、閉門派も、君の名を扱うなら、君の言葉を記録に置く」


 ノアの喉が詰まった。


 後で、ではない。


 安全確保後、でもない。


 王都裁定後、でもない。


 今ここにある意思として、記録される。


 ノアは、胸元の名札を握った。


 レギオンは、そこで少し声を和らげた。


「君は、帰れなかった者ではない」


 広間が静まる。


「まだ帰っていない者だ」


 ノアは、息を吸うことも忘れた。


「そして、帰れない名を見捨てなかった最初の証人だ」


 その言葉は、裁定というより、名付けに近かった。


 帰れなかった者ではない。


 まだ帰っていない者。


 ノアは、ようやく自分の立っている場所の輪郭を知った気がした。


 帰れなかったのではない。

 帰ることを諦めたのでもない。

 ただ、まだ帰っていない。


 そして、その途中で見たものを、見なかったことにはしない。


 レギオンは続けた。


「君をこの国の民として閉じるつもりはない」


 ノアの胸が震える。


「だが、君の名を外界へ売るつもりもない」


 ヴィクトルの白い手袋が脳裏をよぎる。


「君の帰りたいという願いは、君のものとして記録する」


 その瞬間、ヴェイル=エルドラドが、かすかに反応した。


 黒い鞘の奥で、金とも黒ともつかない光が一度だけ脈打つ。


 剣がノアを選んだわけではない。


 ノアの名を照らしたわけでもない。


 ただ、今の言葉に応じて、奪わせないための隔てが静かに鳴ったようだった。


 ノアは、剣を見た。


 そして、レギオンを見た。


「私は……」


 声が震える。


 けれど、言わなければならなかった。


 これは裁定への返答ではない。


 自分の意思表明だ。


 記録に残る、自分の言葉。


「私は、まだ帰りたいです」


 広間の空気が揺れる。


 セヴラは何も言わない。

 リィゼは隣で息を詰めている。

 オルフェの筆が、黒晶板の上で止まらず待っている。


 ノアは続けた。


「外界へ帰りたい。ノア=リントベルとして、私がいた場所を確かめたい。私がいたことを、なかったことにされたくない」


 言いながら、胸が痛んだ。


 ここまで来ても、まだ帰りたい。


 それを言うことが、少し怖かった。


 でも、レギオンは遮らない。


 誰も遮らない。


「でも」


 ノアは、リィゼの漂着者帳を見た。


 戻ってきた名片。

 全部ではない。

 でも、拾えた灯。


「帰りたいという言葉を、誰かを消すための罠にはさせません」


 声が少しずつ強くなる。


「私の名前も、誰かの帰り道の餌にはさせません。帰れない人たちの名を、どこにも着かない門へ流させたくありません」


 ノアは、胸元の名札を握りしめた。


「だから、私は探します。帰る道を。でも、私だけが帰れる幻じゃない道を」


 オルフェの筆が、黒晶板に音もなく走った。


 ノア本人意思。


 帰還希望、継続。


 無帰結門による帰還願望利用への拒否。


 往還路調査への参加意思あり。


 リィゼが、小さく息を吐いた。


「言ったね」


 ノアは、ほんの少しだけ笑った。


「はい。言いました」


「じゃあ、もう取り消せないよ」


「取り消しません」


 ガルドが後ろで低く言った。


「倒れるなよ」


 ノアは振り返らずに答える。


「倒れたら、支えてください」


「支えるが、歩くのはお前だ」


「はい」


 その短いやり取りに、広間の緊張がわずかにほどけた。


 レギオンは、静かにノアを見ていた。


 その瞳には、優しさだけではないものがある。


 国家としての計算。

 魔王としての責任。

 この道が危険であることを知っている者の沈黙。


 それでも、彼は言った。


「仮裁定は以上だ」


 黒冠の周囲の光が、一度深く沈んだ。


 裁定官たちが記録を閉じる。


 庇護籍管理院の者が黒晶筒に封をする。


 閉門派監察席では、セヴラが黒鍵を下げる。


 リィゼは漂着者帳を抱えたまま、いつもより少しだけ背筋を伸ばしていた。


 ノアは、その場に立ち尽くしていた。


 肩に、重さが乗った気がする。


 証人。


 それは、守られるだけの立場ではない。


 見たものを忘れない責任がある。

 拾えなかった名のことも、完全には戻らなかったベルのことも、外界へ帰りたい願いのことも、すべて抱えたまま立つ必要がある。


 けれど、同時に。


 選択権も、そこに残された。


 帰りたいと記録された。


 帰路封じは認められなかった。


 外界への即時返還も認められなかった。


 そのあいだに、ノアの道が生まれた。


 まだ細い。


 まだ危うい。


 けれど、無帰結門の幻ではない。


 自分の足で探す道だ。


 レギオンが、最後に言った。


「ノア=リントベル」


「はい」


「次は、君が最初に流れ着いた場所へ戻るといい」


 ノアは目を瞬いた。


「灰角の港へ、ですか」


「そうだ。名は、拾われた場所で一度呼び直すとよい」


 リィゼが隣で、少しだけ笑った。


「じゃあ、帰ろっか」


 帰る。


 その言葉に、ノアの胸が小さく震えた。


 外界ではない。


 でも、灰角の港も、もうただの漂着地ではない。


 ノアが最初に拾われた場所。


 ノアという仮の名を得た場所。


 そして今、ノア=リントベルとしてもう一度立ちに行く場所。


 ノアは、黒冠とヴェイル=エルドラドへ一礼した。


「行きます」


 そう言うと、胸元の名札が小さく震えた。


 ノア。


 その奥で、ベルがかすかに応える。


 完全ではない。


 でも、消えていない。


 黒冠儀の間を出るとき、ノアは一度だけ振り返った。


 黒冠は、静かにそこにある。


 ヴェイル=エルドラドは、抜かれないまま沈黙している。


 あの剣は道を開かない。


 けれど、奪わせないために隔てる。


 ノアは、その沈黙に背を向けた。


 次に向かうのは、灰角の港。


 すべてが始まった、黒い海の朝だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ