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第一節 ― ノア=リントベルと書く

 帰属裁定所の小記録室は、黒冠儀の間とはまるで違っていた。


 そこには玉座も、黒冠も、広い円形の境界円もない。高い天井も、各派の代表が並ぶ席も、裁定官たちの重い沈黙もなかった。


 あるのは、黒晶でできた細長い机と、壁一面に収められた記録筒。灯りは少なく、机の中央に置かれた黒晶灯だけが、静かな朱墨色を含んだ光を落としている。


 ここは、誰かを裁く場所ではない。


 名を失いかけた者を、もう一度、消えないように書く場所だった。


 ノアは、椅子に座っていた。


 まだ身体に力が入りきらない。庇護回復室からここまで歩くあいだ、リィゼに何度も「無理なら言え」と言われた。けれど、ノアは自分の足で歩きたかった。


 この部屋に入ることだけは、誰かに運ばれてはいけない気がした。


 自分の名を、もう一度書くのだ。


 なら、自分の足で来なければならない。


 机の上には、三つのものが置かれていた。


 仮保護名札。


 壊れた身分証。


 懐中時計。


 名札は、灰角の港で拾われてから、ずっとノアを支えてきたものだ。薄い札に書かれた「ノア」という仮の呼び名は、何度も彼女をこちら側へ引き戻した。


 壊れた身分証は、外界にいた証だった。角は欠け、表面は濡れた跡で歪み、印章もかすれている。けれど、第十二話のあと、空白だった末尾に、かすかな黒晶色の傷が残っていた。


 ベル。


 まだ文字ではない。


 でも、ただの欠損でもない。


 懐中時計は、その隣で小さく音を刻んでいる。


 ちく。


 たく。


 少し間を置いて、また。


 ちく。


 その音は完全ではなかった。だが、止まってはいない。


 その横に、リィゼの漂着者帳が置かれた。古びた革表紙の内側で、戻ってきた名片たちが小さく灯っている。さらにその向こうに、オルフェの黒晶記録板が並ぶ。


 王都の記録と、港の帳面。


 外界の身分証と、魔大陸の仮保護名札。


 壊れた時計と、影の縁留め。


 ノアは、それらを見つめながら、指先を膝の上で握り込んだ。


 逃げたい、と思った。


 ここまで来て、まだそう思う自分がいた。


 書きたい。


 ノア=リントベルと、最後まで書きたい。


 でも、怖い。


 ベルと書いた瞬間、また門が開くのではないか。

 外界の回収線が、自分の名前を見つけて伸びてくるのではないか。

 無帰結門の底で、帰れない名たちがまた震えるのではないか。

 自分の名が、また誰かを呼ぶ罠になるのではないか。


 そして、もうひとつ。


 メギド=ノクスの記録に「ノア=リントベル」と書かれたら、自分はこの大陸に固定されてしまうのではないか。


 帰りたいと願うことさえ、王都の制度の中へしまわれてしまうのではないか。


 ノアは息を吸った。


 その不安を隠したまま書くことはできなかった。


 オルフェ=セプティアは、机の向こう側に立っていた。


 いつもよりも慎重な顔をしている。筆を持ってはいるが、まだ黒晶板には触れていない。彼の前に置かれた記録板は空白だった。


 書けるのに、書かないでいる。


 そのことが、ノアにはありがたかった。


 オルフェは、静かに口を開いた。


「これから、あなたの本名候補を再記録します」


 ノアは、ゆっくり顔を上げた。


「はい」


「この記録は、外界記録の複写ではありません。王都戸籍への編入でもありません。あなたをメギド=ノクスの民として固定するものでも、外界へ返還するための照合票でもありません」


 言葉をひとつずつ置くように、オルフェは続ける。


「あなたが、自分の名を見失わないための庇護記録です」


 ノアの胸元で、仮保護名札が微かに震えた。


「それでも、記録である以上、影響はあります。名を最後まで書くことで、あなたの呼称層は一時的に強く反応する可能性がある。外界回収線、旧道呼称干渉、無帰結門の残存線に触れる可能性も、ゼロではありません」


 リィゼが小さく舌打ちした。


「怖がらせる言い方」


「怖いことを隠して書くほうが危険です」


 オルフェは、リィゼを見ずに答えた。


 リィゼは何も言い返さなかった。


 オルフェは、改めてノアを見る。


「だから、確認します」


 黒晶灯の光が、彼の筆先に小さく映った。


「ノア。これから、あなたの本名候補を再記録します。書くことを、望みますか」


 部屋の空気が、静かに重くなった。


 ノアは机の上の身分証を見た。


 ノア=リント――


 外界から流れ着いたとき、そこから先は読めなかった。


 自分でも、自分の名が欠けていることをうまく認識できなかった。

 呼ばれるたびに不安定になった。

 リントベルと呼ばれると揺れた。

 ヴィクトルに正確に呼ばれたときは、帰れるかもしれないと思ってしまった。

 無帰結門の底で、自分だけの帰り道を見せられたときは、その名に返事をしたくなった。


 ノア=リントベル。


 その名は、帰りたい願いそのものだった。


 同時に、罠でもあった。


 ノアは、手を胸元に当てた。


 仮保護名札の下で、心臓が速く打っている。


「書きたいです」


 声は小さかった。


 けれど、部屋の中ではっきり聞こえた。


「でも……怖いです」


 オルフェは頷いた。


 急かさない。


 リィゼも黙っている。


 ノアは、自分の言葉が崩れないように、ゆっくり続けた。


「ベルって書いたら、また誰かに使われるんじゃないかって怖いです。私の名前が、また帰りたい人たちを呼ぶ罠になるんじゃないかって」


 指先が震える。


 それでも止めなかった。


「外界の回収線に見つかるのも怖いです。今度こそ、後で意思を確認すると言われて、連れていかれるんじゃないかって思います」


 ヴィクトルの声が、一瞬だけ耳の奥に蘇る。


 安全確保後に確認します。


 ノアは唇を噛み、さらに言った。


「それに……ここに書いたら、私はもう外界に帰れなくなるんじゃないかって。それも、怖いです」


 言ってしまった。


 部屋が静まり返る。


 この大陸で、ここまで守られて、それでも帰れなくなることを恐れている。


 そのことに、後ろめたさがあった。


 けれど、リィゼは怒らなかった。


 彼女は机に片肘をつき、漂着者帳の表紙を指先で軽く叩いた。


「だから、ひとりで書かない」


 ノアはリィゼを見た。


 リィゼは、少しだけ乱暴な声で言う。


「私の帳面と、王都の記録と、あんたの意思を合わせて書く。あんたの名前を、誰か一人の手に預けない。外界にも、王都にも、門にも、私にも」


「リィゼにも?」


「当たり前でしょ。私だって、勝手に拾ったらだめなんだよ」


 彼女は少しだけ目を伏せた。


「第十二話で、分かった。拾うって、持って帰ることじゃない。消えないように、呼べる場所を作ることなんだと思う」


 ノアは、言葉を失った。


 リィゼは、照れ隠しのように顔をしかめる。


「だから、あんたの名前も同じ。私が持つんじゃない。王都が持つんでもない。あんたが見失わないように、一緒に支える」


 オルフェが頷いた。


「その通りです」


 彼は黒晶記録板の前に立ち直る。


「この記録は、あなたを所有するためのものではありません。あなたが、自分の名を見失わないための庇護記録です。外界への返還票でも、魔大陸への帰属証明でもない」


 そして、はっきりと言った。


「あなたの帰還希望は、この記録とは別に、本人意思として残します」


 ノアの胸が、少しだけほどけた。


「……帰りたいって、書いてもいいんですか」


「はい」


 オルフェは迷わず答える。


「それはあなたの意思です。消す理由はありません」


 ノアは、目を伏せた。


 自分の名前を書くこと。


 帰りたいという願いを消さないこと。


 その両方が、ここでは矛盾しないと言われている。


 外界では、帰るなら外界の記録に戻れと言われた。

 閉門派には、帰る願いが危険な門になると言われた。

 無帰結門には、自分だけが帰れる幻を見せられた。


 でも、ここでは。


 帰りたいまま、今の自分を記録していいと言われている。


 ノアはゆっくり頷いた。


「書くことを、望みます」


 オルフェは筆を取った。


 その瞬間、黒晶灯の光が少しだけ強くなった。


 リィゼは漂着者帳を開く。ページの上に、戻ってきた名片が小さく灯った。セノと思われる灯、白腹鴉号の乗船札に残っていた呼び名、ノイ=カランに沈着していた音。それらは不安げに揺れたが、散らなかった。


 ノアは身分証に手を添えた。


 壊れた外界の証。

 欠けたままの自分の過去。


 もう片方の手で、懐中時計に触れる。


 ちく。


 たく。


 不完全な時間が、今も動いている。


 オルフェの筆先が、黒晶板に触れた。


 まず、ノ。


 黒晶の表面に、細い光が刻まれる。


 ア。


 仮保護名札が、微かに温かくなる。


 =。


 ノアの影の縁留めが、足元で細く震えた。


 リント。


 ここまでは、比較的安定していた。


 身分証にも残っていた部分。


 ノア自身も、何度も聞いて、何度も揺れながら、それでも保持してきた部分。


 そして、オルフェの筆が止まる。


 ベル。


 まだ書かれていない二文字の前で、空気が変わった。


 リィゼの帳面の名片が、一斉に小さく震える。


 セヴラはいない。レギオンもいない。ヴェイル=エルドラドの黒金の隔ては、ここには直接届いていない。


 けれど、ノアの影の縁留めが細く黒金を帯びた。


 第十二話で門から名を奪わせなかった線が、まだ微かに残っている。


 オルフェはノアを見た。


 最後の確認。


 ノアは、唇を引き結び、頷いた。


 筆が動く。


 ベ。


 黒晶板の表面に刻まれた文字が、一瞬、傷のように割れた。


 ノアの胸元で、名札が熱を持つ。


 リィゼの漂着者帳のページから、小さな灯が揺れ上がる。


 ベル。


 谷底の音が、遠くで返った。


 ノアは息を止める。


 その音は、もう誘いではなかった。


 帰りたいなら、門へ。


 そう囁く声ではない。


 ただ、遠くから呼び戻された名たちが、まだここにいると知らせるような、弱い反応だった。


 オルフェは筆を止めない。


 ル。


 最後の線が刻まれた瞬間、黒晶板全体が静かに震えた。


 ノア=リントベル。


 初めて、最後まで書かれた。


 その文字のうち、「ベル」の部分だけが不安定に揺れている。


 黒晶に刻まれた文字なのに、まるで水面に映った月のように細かく震える。時折、傷のように裂け、次の瞬間には音のように繋がる。


 完全な文字には見えない。


 けれど、消えない。


 ノアは、それを見つめた。


 目の奥が熱くなる。


 泣きそうだと思ったときには、もう涙がこぼれていた。


「……書けた」


 自分の声が、ひどく幼く聞こえた。


 ノア=リントベル。


 外界へ帰れたわけではない。


 記録院の席に戻れたわけでもない。

 壊れた身分証が元通りになったわけでもない。

 ベルが完全に安定したわけでもない。


 でも、書けた。


 消えずに、最後まで。


 リィゼが、黒晶板を覗き込んだ。


 彼女はしばらく黙っていた。


 それから、少しだけ掠れた声で言った。


「……やっと、最後まで書けたな」


 ノアは涙を拭わずに頷いた。


「まだ、ちゃんと戻ったわけじゃない」


「うん」


「ベルも、まだ揺れてる」


「うん」


「帰れたわけでも、ないです」


「うん」


 リィゼは、ノアを見た。


 そして、短く言った。


「でも、消えてない」


 その一言で、ノアはとうとう声を詰まらせた。


 消えてない。


 その言葉が、こんなに重いとは思わなかった。


 ずっと欲しかったのは、完全な帰還だった。


 外界へ戻り、記録院へ戻り、壊れていない身分証を持ち、ノア=リントベルと疑われずに呼ばれること。


 でも今、ノアは知っている。


 消えずに書けること。


 それだけでも、どれほど難しく、どれほど大切なのかを。


 オルフェは、黒晶板の下に小さな注記を加えた。


 本人意思確認済。


 記録目的:庇護。


 帰還希望:継続。


 所有記録に非ず。


 返還票に非ず。


 帰属固定に非ず。


 ノアは、その一行一行を見た。


 自分の名前が、誰かに奪われないように、いくつもの言葉で守られている。


 オルフェは筆を置いた。


「記録完了。ただし、安定化は未了です。今後も経過観測が必要です」


 リィゼがすぐに言う。


「はいはい、つまりまだ面倒ってことね」


「はい。非常に面倒です」


「そこは否定しなよ」


「事実ですので」


 ノアは、涙の残る顔で少しだけ笑った。


 懐中時計が、机の上で小さく鳴る。


 ちく。


 たく。


 黒晶板の「ベル」が、その音に合わせるように一度だけ震えた。


 ノアは、胸元の名札に触れた。


 仮保護名のノア。


 最後まで書かれたノア=リントベル。


 その二つは、まだぴったり重ならない。


 でも、敵同士ではなくなった気がした。


 仮の名と、本名候補。


 今ここで呼ばれる自分と、帰りたい場所にいた自分。


 そのあいだに、細い橋がかかった。


 とても弱く、不安定で、今にも崩れそうな橋。


 けれど、確かにある。


 ノアは、黒晶板の文字をもう一度見た。


 ノア=リントベル。


 完全ではない。


 でも、もう空白ではない。


 その事実だけで、今は十分だった。

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