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序節 ― 戻ってきた名の朝

 朝は、白くなかった。


 黒冠宮の朝は、外界の朝のように、窓辺から薄金の光が流れ込んでくるものではない。夜の底に沈んでいた黒晶が、内側から少しずつ熱を取り戻し、闇の輪郭をほどいていくように明ける。


 壁に埋め込まれた黒晶灯が、ひとつ、またひとつと淡く灯る。


 それは太陽の代わりではなかった。


 目覚めを告げる鐘でもない。


 ただ、まだ消えていないものがある、と知らせるための灯だった。


 ノアは、その淡い光の中で目を覚ました。


 最初に聞こえたのは、懐中時計の音だった。


 ちく。


 たく。


 ちく。


 たく。


 以前より、少しだけ整っている。


 完全ではない。時折、針がためらうように間を空ける。音の端には、黒潮に濡れたときのひずみがまだ残っていた。外界の時間と魔大陸の時間のあいだで、迷子になったままの小さな機械。


 それでも、動いていた。


 ノアは、まぶたを開いたまま、しばらくその音を聞いていた。


 身体が重い。


 月蝕原の黒い硝子の冷たさが、まだ背中に残っている気がした。無帰結門の前で名を呼んだとき、胸の奥から何かを引き抜かれたような感覚も、完全には消えていない。


 喉が渇いている。


 手を動かそうとして、指先が震えた。


 それでも、最初に触れたのは胸元だった。


 仮保護名札。


 薄い札は、まだそこにあった。銀糸輪も切れていない。《影の縁留め》も、足元の影の端に細く残っている。


 ノアは、名札を指で押さえた。


 微かな熱が返ってくる。


 ノア。


 その奥で、もうひとつ。


 ベル。


 はっきりした文字ではない。

 音と呼ぶにも弱い。

 けれど、確かにあった。


 ノアの目に、じわりと涙が滲んだ。


 戻った。


 そう言ってしまいたかった。


 でも、言えなかった。


 完全ではないから。


 あの門の底から戻ってきた「ベル」は、きれいな文字ではなかった。外界の身分証に当然のように刻まれていた、疑いようのない家名ではない。黒晶に傷として刻まれかけた、かすかな響きだった。


 それでも、空白ではない。


 もう、欠けているだけではない。


 ノアは息を吸った。


 吸った息が、胸の奥で震える。


「……起きた?」


 すぐ横から声がした。


 リィゼだった。


 彼女は椅子に座っていた。足元には小さな黒晶灯が置かれ、その灯に照らされて、彼女の顔はひどく疲れて見えた。髪は少し乱れ、目の下には薄い影がある。いつものような悪態を用意している顔ではなかった。


 膝の上には、漂着者帳があった。


 両手で抱えるようにしている。


 まるで、少しでも力を抜けば、中に留めたものがこぼれてしまうと恐れているようだった。


 ノアはかすれた声で言った。


「……寝てないんですか」


「寝たよ」


「嘘です」


「じゃあ、ちょっと目を閉じてただけ」


「それは寝たって言いません」


「うるさいな。病人は黙って水飲め」


 リィゼはそう言って、寝台の脇に置かれていた水差しを取った。


 口の悪さはいつも通りだった。


 けれど、手つきは慎重だった。水を注ぐ音さえ大きく立てないようにしている。


 ノアは身体を起こそうとした。


 背中に鈍い痛みが走る。


「無理しない」


 リィゼがすぐに支えた。


 その手が、いつもより温かい。


 ノアは少しだけ身体を起こし、差し出された杯に口をつけた。水は冷たかった。喉を通るたび、月蝕原の黒い乾きが少しずつほどけていく。


 飲み終えてから、ノアはリィゼの膝の上を見た。


 漂着者帳。


 厚い革表紙の端から、薄い灯が漏れている。


 ノアは、息を止めた。


「……拾えたんですね」


 リィゼは、すぐには答えなかった。


 帳面を抱く手に力が入る。


「全部じゃない」


「はい」


「ちゃんとした名前になったわけでもない」


「……はい」


「人が戻ったわけじゃない。死んだ人が生き返ったわけでも、行方不明の誰かが帰ってきたわけでもない」


 リィゼは、ひとつひとつ言葉を置いた。


 自分に言い聞かせるように。


 期待しすぎないように。


 それでも、失望で塗りつぶさないように。


「でも、消えなかった」


 彼女は、ようやくノアを見た。


「消えたことには、ならなかった」


 ノアは、言葉を探した。


 けれど、うまく見つからなかった。


 ただ頷く。


 それだけで、胸が痛かった。


 リィゼは帳面を少しだけ開いた。


 ページの上に、いくつかの小さな灯が留まっていた。


 文字ではないもの。

 文字になりかけているもの。

 焦げ跡のような線。

 濁った水滴のような音。

 端の欠けた呼び名。

 「帰りたい」と書かれていた最後の一画。


 その中の一つに、ノアは見覚えがあった。


 セノ。


 完全な名前ではない。

 けれど、あの門の底で一瞬浮かび上がった灯と同じ揺れ方をしている。


 リィゼの指が、その灯のそばで止まった。


「これ、多分セノだと思う。でも、まだ確定できない。オルフェが、勝手に確定するなって」


「オルフェさんが?」


「うん。確定した瞬間に、違う形で固定されるかもしれないって。だから今は、拾った場所と反応だけ」


 リィゼはページを閉じた。


 灯は、革表紙の内側で小さく瞬いた。


「……あいつ、ずっと記録室にいる」


 リィゼが顎で部屋の奥を示した。


 ノアは視線を向けた。


 そこは、庇護回復室と隣接した名片保全室だった。


 黒晶でできた薄い仕切りの向こうに、長い卓がある。卓の上には、小さな黒晶灯籠が並んでいた。ひとつひとつの灯籠の中に、帰還灯の名片が保全されている。


 どれも弱い。


 今にも消えそうなものばかりだ。


 それでも、消えていない。


 オルフェ=セプティアは、その灯籠の前に立っていた。


 彼は筆を持ったまま、動かない。


 黒晶板にはすでに多くの記録が刻まれている。だが、その筆先は次の行へ進めず、灯籠の前で宙に止まっていた。


 ノアが目を覚ましたことに気づいたのか、オルフェは静かに顔を上げた。


「ノアさん」


 いつもの落ち着いた声だった。


 けれど、疲れが隠せていない。


「気分は」


「……重いです。でも、起きられます」


「無理に起きる必要はありません。名を通した後の反動が残っています。肉体よりも、呼称の層が疲弊しています」


 呼称の層。


 ノアはその言葉に、胸元を押さえた。


 オルフェは、回復室へ入ってきた。


 手には黒晶板を持っている。


「戻った名片について、暫定整理を始めています」


「暫定……」


「はい。生存者としては記録できません。死亡者とも断定できません。失踪者だけでは足りない。回収物と呼ぶことはできませんし、王都所有の記録として扱うこともできません」


 オルフェは、そこで一度言葉を切った。


 彼ほど記録に慣れた人が、言葉を選んで迷っている。


 その事実が、戻ってきたものの不安定さを物語っていた。


「だから、新しい分類が必要です」


 リィゼが眉を寄せる。


「また書類?」


「書類です」


「こういうとき、ほんと王都って面倒」


「面倒で済むなら、必要な面倒です」


 オルフェは真面目に答えた。


「分類がなければ、扱えません。扱えなければ、保護できません。保護できなければ、消えたものとして処理されます」


 リィゼは、言い返せなかった。


 漂着者帳を抱えたまま、唇を噛む。


 ノアは、オルフェの黒晶板を見た。


 そこには、まだ仮の項目名が刻まれていた。


 帰還未了名。


 往還保留名。


 ノアは、小さく読み上げた。


「帰還、未了名……」


 オルフェが頷いた。


「王都庇護記録上の分類です。帰還が完了していない名。帰れたわけではないが、帰る願いごと消えたわけでもない名」


「往還保留名は?」


「裁定上の扱いです。外界へ戻す、魔大陸へ帰属させる、死亡記録へ移す。そのいずれにも即時分類せず、往還の可能性を保留する名」


 ノアはその言葉を、胸の中で繰り返した。


 帰還未了名。


 往還保留名。


 それは、谷底から拾われた灯たちのための言葉だった。


 けれど、ノアは思ってしまった。


 自分も同じだ、と。


 帰ったわけではない。

 魔大陸に完全に帰属したわけでもない。

 死んだわけでも、消えたわけでもない。


 まだ、帰っていない。


 まだ、ここにいる。


 ノアは、かすかに笑おうとして失敗した。


「私みたいですね」


 リィゼがちらりとこちらを見る。


 オルフェは、すぐには否定しなかった。


「似ています」


 正直な答えだった。


「ただし、あなたは意思を表明できます。そこが決定的に違います」


「意思……」


「はい。あなたは、帰りたいと言える。拒否もできる。選び直すこともできる」


 オルフェは黒晶板を閉じた。


「戻った名片には、それができません。だから、私たちは慎重に扱わなければならない」


 リィゼが、漂着者帳を抱え直した。


「私の帳面だけじゃ、足りないんだよね」


「足りません」


 オルフェははっきり言った。


 リィゼの表情が少し強張る。


 だが、オルフェは続けた。


「ですが、王都記録だけでも足りません」


 リィゼが目を瞬いた。


「戻った名片は、最初にあなたの漂着者帳へ触れました。王都の記録板ではなく。ノアさんの名札だけでもなく。あなたの帳面に、です」


「……だから?」


「共同保全が必要です」


 オルフェは、静かに言った。


「リィゼ=ノルカの漂着者帳を第一次拾名記録として扱い、王都庇護記録がそれを補強する。名片を王都が所有するのではなく、拾われた事実を王都が保護する形にします」


 リィゼは、しばらく何も言わなかった。


 その顔から、いつもの皮肉が消えている。


「私の帳面を、王都記録が見るってこと?」


「必要な範囲で。もちろん、あなたの同意が前提です」


「同意」


「はい」


 リィゼは、ふっと小さく笑った。


 疲れた笑いだった。


「変なの。王都の記録官が、港の拾名屋に同意を聞くんだ」


「聞きます」


 オルフェは真面目に答えた。


「聞かなければ、庇護記録ではありません」


 その言葉に、ノアはグリム=ラハドを思い出した。


 血契。

 声留め。

 髪紐契約。

 夢見留め。

 影の縁留め。


 差し出せないものを拒否していい、と言われた場所。


 拒否できない契約は庇護ではありません。


 あのときから、ずっと続いている。


 本人の意思。

 拒否の記録。

 奪わないための制度。

 消さないための記録。


 ノアは、胸元の名札を握った。


 メギド=ノクスは怖い。


 今でもそう思う。


 血や影や名を制度にするこの大陸は、外界の常識から見れば異様だ。王都も、黒冠宮も、無帰結門も、あまりに遠い。


 けれど、ここには拒否が記録される。


 同意が必要だと言う人たちがいる。


 消えかけた名を、無かったことにしないために、面倒な分類を作ろうとする記録官がいる。


 リィゼは、しばらく漂着者帳を見ていた。


 そして、短く言った。


「いいよ」


 オルフェがわずかに目を細める。


「ありがとうございます」


「ただし、勝手に中身をいじらないで」


「もちろんです」


「あと、王都の都合で変な名前つけないで」


「分類名については、今後検討が必要ですが」


「長ったらしくするなって言ってる」


「努力します」


 リィゼは少しだけ鼻を鳴らした。


 ほんの少し、いつもの彼女に戻ったようだった。


 そのとき、保全室の奥で灯がひとつ揺れた。


 黒晶灯籠の中の小さな名片が、弱く震える。


 ノアの胸元の名札も、それに応じた。


 ベル。


 かすかな音が、内側から返る。


 ノアは息を呑んだ。


 リィゼがすぐにこちらを見る。


「大丈夫?」


「はい。今のは……怖い感じじゃありませんでした」


 エルネアの声が、保全室の奥からした。


「共鳴です。奪取反応ではありません」


 彼女は黒晶灯籠の列の前に立っていた。診断板を片手に、戻った名片の状態を確認している。疲れた顔をしているが、手元は正確だった。


「ノアさんの『ベル』と、帰還灯の一部に共鳴が残っています。危険がないとは言えませんが、現時点では門へ引かれる反応ではありません」


「じゃあ、まだ繋がってるってこと?」


 リィゼが聞く。


 エルネアは頷く。


「はい。ただし、繋がりには種類があります。奪う線、呼ぶ線、支える線、記憶する線。第12話で、奪う線の一部は隔てられました。今残っているのは……おそらく、呼び戻した痕跡です」


 ノアは、名札を見下ろした。


 自分の名の一部が、まだ誰かと繋がっている。


 以前なら、それは恐怖でしかなかった。


 自分の名前が、自分だけのものではないようで怖かった。

 誰かの罠に使われるのではないかと怖かった。

 呼ばれたら、また引かれるのではないかと怖かった。


 今も怖い。


 けれど、少しだけ違う。


 これは、奪われた跡だけではない。


 呼び戻した跡でもある。


 ノアは、灯籠の中の弱い光を見つめた。


「この人たちは……これから、どうなるんですか」


 誰もすぐには答えなかった。


 リィゼも。

 オルフェも。

 エルネアも。


 完全な答えなど、まだないのだ。


 オルフェが、静かに言った。


「分かりません」


 その言葉は冷たく聞こえなかった。


 レギオンが第11話で言った言葉を、ノアは思い出した。


 分からないことを分からないと言うために、王がいる。


 オルフェは続ける。


「だから、記録します。保全します。調べます。勝手に結論を出さないために」


 エルネアも言う。


「名傷の崩壊を抑えます。戻せるものと、戻せないものを見極めるには時間が要ります」


 リィゼは、漂着者帳をぎゅっと抱いた。


「私は、拾う」


 短い言葉だった。


 けれど、その中に、灰角の港からここまで続いてきた彼女のすべてがあった。


 ノアは、ゆっくり頷いた。


「私も」


 声にした瞬間、三人がノアを見た。


 ノアはまだ寝台の上にいる。立ち上がることもできない。名を通した反動で、手は震え、喉も痛い。


 それでも、言った。


「私も、見ます。知らないままにしません。私の名前が関わっているなら、なおさら」


 リィゼが眉を寄せた。


「あんたはまず休め」


「はい。休みます。でも、逃げません」


「言い方が頑固」


「リィゼに言われたくないです」


「言うようになったじゃん」


 リィゼが少しだけ笑った。


 その笑い方を見て、ノアはようやく少し息を吐けた。


 黒冠宮の朝は、まだ淡い。


 外界の朝のように、すべてを明るく照らしてはくれない。


 けれど、黒晶灯籠の中で、戻ってきた名片は静かに灯っている。


 完全ではない。

 人が戻ったわけではない。

 すべてを救えたわけでもない。


 でも、もう無かったことにはならない。


 ノアは、胸元の名札に触れた。


 ノア。


 その奥で、ベルに似た音がかすかに震える。


 消えていない。


 まだ、ここにある。


 窓の外で、レム=ヴァリスの朝が少しだけ深くなった。


 黒い王都の屋根の向こうに、遠く灰角の港へ続く空が見える気がした。


 ノアは目を閉じなかった。


 この朝を、見ていたかった。


 帰れなかった名たちが、初めて消えない朝を迎えるところを。

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