第三節 ― 私だけの帰り道
船の空洞は、黒かった。
《白腹鴉》号の腹の中へ続く通路は、船倉ではなかった。木材の匂いも、潮の匂いもない。代わりに、乾いた紙の匂いがした。古い記録簿を閉じたまま長く置いておいたときの、埃とインクが混ざった匂い。
ノアは、その匂いを知っていた。
外界の記録院。
ずっといた場所。
戻りたいと思い続けた場所。
自分がノア=リントベルとして疑われずに立っていられた場所。
通路の奥に、白い光が差している。
谷底の灯とは違う。
旧道の呼び声とも違う。
ヴィクトルの回収線のような冷たさとも違う。
もっと柔らかい。
窓から差し込む午後の光のような、机の上の紙を白く照らす光だった。
ノアは足を止めた。
リィゼがすぐ隣で警戒する。
「ノア」
「……分かってます」
そう答えた声は、自分でも驚くほど頼りなかった。
分かっている。
ここは谷底だ。
《白腹鴉》号の空洞だ。
帰れる船などではない。
この先にあるものは、無帰結門へ続く罠のはずだ。
それでも。
光の向こうから、時計の音が聞こえた。
ちく、たく。
ちく、たく。
懐中時計の音。
ノアのものと同じ音だった。
いや、違う。
壊れていない音だ。
止まらず、濡れず、魔大陸の黒潮にも歪められず、正しい間隔で時を刻む音。
ノアの胸が震えた。
ガルドが背後から低く言う。
「見るな、とは言わない」
ノアは振り返らなかった。
ガルドは続ける。
「だが、見たものを本物だと思うな」
「……はい」
答えながらも、ノアは光から目を逸らせなかった。
通路の壁に、紙片が貼りついている。
白腹鴉号の乗船札。
帰還契約書。
名前の欠けた偽名証。
ノイ=カランで濁った宿帳の断片。
誰かが書いた「帰りたい」の文字。
それらが、白い光を浴びるにつれて形を変えていく。
契約書が、外界式の受付票になる。
乗船札が、記録院の入館証になる。
偽名証の端が、正式な身分証になる。
欠けていた文字が、自然に埋まっていく。
ノア=リントベル。
ノアは息を呑んだ。
光の奥に、一つの部屋が現れた。
記録院の閲覧室だった。
高い書架。
整然と並んだ記録箱。
窓際の机。
インク瓶。
乾いた紙。
磨かれた床。
壁にかけられた時計。
何も濡れていない。
何も壊れていない。
机の上には、ノアの記録帳が置かれていた。
黒潮に濡れていない。
ページは破れていない。
文字も滲んでいない。
その隣には、身分証がある。
角は欠けていない。
印章も乱れていない。
名前は、最後まで書かれている。
ノア=リントベル。
その文字を見た瞬間、ノアの胸元の仮保護名札が、細かく震えた。
痛みではない。
歓びに近い痛みだった。
戻れる。
そう思ってしまった。
ここなら、戻れる。
ノア=リントベルという名を、最後まで書ける。
誰にも疑われない。
仮保護名でも、本名候補でもない。
ただの自分の名前として、そこにある。
部屋の奥から、誰かが顔を上げる。
輪郭ははっきりしない。
けれど、怖くない。
その人は、ノアを見ると、ごく自然に微笑んだ。
「ノア=リントベル」
呼ばれた。
ノアは、膝から力が抜けそうになった。
そこには、旧道の甘さはなかった。
無帰結門の湿った囁きもなかった。
ヴィクトルの白い手続きの冷たさもなかった。
ただ、当たり前に呼ばれた。
ノア=リントベル。
その名を疑わず、確かめもせず、危険な門とも、回収対象とも、帰還希望者とも呼ばず。
ただ、名前として。
ノアは唇を震わせた。
「……はい」
返事をしそうになった。
その瞬間、リィゼが腕を掴む。
「まだ」
ノアは肩を震わせた。
リィゼの声は低い。
「まだ返事しない」
「でも……」
「分かってる。分かってるけど、まだ」
リィゼの手も震えていた。
ノアだけが揺れているのではない。
リィゼにも、この光景の意味が分かっている。
ノアがどれほどこれを欲しかったのか、分かってしまっている。
閲覧室の中では、誰かがノアの机を整えていた。
椅子の背に、いつもの外套がかかっている。
机の上には、補助記録官としての仕事が残っている。
途中まで書きかけの照合票。
乾いた羽根ペン。
返却予定の記録箱。
そこには、ノアが失ったはずの日常があった。
失われていない。
まだ続いている。
まるで、魔大陸へ流れ着いたことだけが、長い夢だったかのように。
ノアは、足を一歩出しかけた。
足元の黒い硝子が、白い床へ変わりかける。
その境目で、身分証の文字が輝く。
ノア=リントベル。
ベルの部分が、はっきりしている。
欠けていない。
揺れていない。
誰かの帰還灯と絡んでもいない。
完全な文字だった。
ノアの喉から、息が漏れる。
「ベルが……」
戻っている。
そう言おうとした。
その瞬間、足元で灯がひとつ消えかけた。
ノアは、はっとして下を見る。
白い床の下に、谷底が透けていた。
その奥で、小さな灯が揺れている。
帰りたい、と書き残して消えた者の灯。
その灯から、細い線が抜けていく。
線は、ノアの身分証の「ベル」へ吸い込まれるように流れた。
文字が、さらに鮮明になる。
代わりに、灯が薄くなる。
ノアの呼吸が止まった。
次に、偽名証の端だけが残った灯が揺れた。
そこからも、細い音が抜ける。
ベル。
鐘のような、帰還を告げるような、呼び戻すような音。
それがノアの名へ流れ込み、ノア=リントベルの文字を、さらに完全にしていく。
灯は小さくなった。
また一つ。
白腹鴉号に乗った者の灯が、ふっと暗くなる。
また一つ。
ノイ=カランで名を濁らせた者の灯が、泥の中へ沈む。
ノアは後ずさろうとした。
だが、白い床が足を受け止める。
優しく。
逃がさないというほど強くはない。
ただ、ここにいればいい、と言うように。
閲覧室の奥で、また声がする。
「大丈夫ですよ、ノア=リントベル」
その声は、誰のものでもあり、誰のものでもなかった。
「あなたの記録は戻りました」
別の声が続く。
「事故による空白は補正されます」
さらに別の声。
「魔大陸滞在は一時的異常状態として処理されます」
ヴィクトルの声にも似た、だがもっと柔らかく整えられた声。
「あなたは帰還できます」
ノアの目に涙が浮かぶ。
帰還できます。
その言葉を、どれほど聞きたかっただろう。
何度、誰かに言ってほしいと思っただろう。
あなたは帰れる。
あなたはまだノア=リントベルだ。
あなたがいたことは、消えていない。
あなたの席は、まだある。
ノアは、手を伸ばしかけた。
身分証へ。
壊れていない懐中時計へ。
濡れていない記録帳へ。
そのとき、谷底の灯がまた一つ消えかけた。
今度は、リィゼが気づいた。
「ノア!」
叫びだった。
だが、ノアは振り返れなかった。
振り返ったら、この部屋が消えてしまう気がした。
この声が聞こえなくなる気がした。
ノア=リントベルと、疑わずに呼んでくれる場所が、二度と戻らない気がした。
リィゼは怒鳴らなかった。
いつものように、ばか、とも言わなかった。
ただ、震える声で言った。
「帰りたいって言った人たちを、なかったことにしないで」
その言葉が、白い部屋にひびを入れた。
ノアの視界が揺れる。
閲覧室の床の下に、谷底の灯が見える。
一つ。
また一つ。
ノアの「ベル」が完全になるたび、他の帰れない名たちが沈んでいく。
ノアは、理解した。
これは、自分だけの帰り道だ。
自分だけなら帰れる。
ノア=リントベルとして記録院へ戻れる。
身分証も戻る。
懐中時計も止まらない。
ヴィクトルの書類も、回収ではなく保護手続きとして整えられる。
魔大陸での出来事は、一時的異常として処理される。
誰も責めない。
誰も疑わない。
誰も門とは呼ばない。
けれど、その代わりに。
足元の灯が、消えていく。
帰りたいと願った人たちの名が、ノアの完全な帰還の下で、なかったことにされていく。
門は完成する。
ノアひとりの帰還が成立するほど、無帰結門は「帰れる」という幻をさらに強くする。次の帰還希望者に、もっと美しい帰り道を見せることができる。
誰かがまた信じる。
乗れば帰れる。
門へ行けば戻れる。
名前を取り戻せる。
契約すれば安全に帰れる。
そして、また灯になる。
ノアの手が震えた。
「私だって」
声が漏れた。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
リィゼへか。
谷底の灯へか。
幻の記録院へか。
自分自身へか。
「私だって、帰りたい」
涙が頬を伝った。
それは言い訳ではなかった。
正当化でもない。
本音だった。
「帰りたいよ。ずっと帰りたかった」
ノアの声が、白い閲覧室に震えながら響く。
「私の名前を、ちゃんと呼んでもらいたかった。ノア=リントベルって、疑われずに呼ばれたかった。私がいたって、なかったことにされたくなかった」
記録帳のページが揺れる。
身分証の文字が、さらに明るくなる。
部屋の奥から、優しい声がする。
「ノア=リントベル」
その声に、胸が引き裂かれそうになった。
返事をしたい。
はい、と言いたい。
ただそれだけでいい。
自分の名前を呼ばれて、返事をする。
それだけのことが、どれほど遠くなっていたのか。
ノアは口を開いた。
けれど、声は出なかった。
足元で、《影の縁留め》が震えた。
今度は警告ではない。
道標でもない。
黒い影の縁が、ノアの足首にかすかに絡みつくように揺れている。
縛るためではない。
引き戻すためでもない。
ただ、ここに足があると知らせるために。
ノアの足は、まだ現実にある。
谷底にある。
月蝕原にある。
リィゼの声が届く場所にある。
胸元の仮保護名札も震えている。
ノア。
仮の名。
でも、今ここで呼ばれている名。
その名が、ノア=リントベルという完全な幻に飲み込まれないよう、必死に残っている。
ノアは、白い閲覧室を見た。
机。
書架。
壊れていない身分証。
止まっていない懐中時計。
濡れていない記録帳。
欲しい。
全部、欲しい。
そこへ戻りたい。
その気持ちは、嘘ではない。
間違いでもない。
ノアは、涙を拭わなかった。
泣いたまま、言った。
「でも……」
白い部屋の奥で、誰かが微笑む。
帰っておいで、と。
その声を、ノアは見つめた。
「でも、これは帰り道じゃない」
床の下で、灯が揺れる。
リィゼの声が、震えながら届く。
「ノア……」
ノアは、幻を見たまま続けた。
「私は帰りたい」
はっきりと。
自分に聞かせるように。
谷底の灯に聞かせるように。
無帰結門に奪われないように。
「でも、私だけが帰れる幻を、帰り道とは呼ばない」
その言葉が落ちた瞬間、白い閲覧室の空気が止まった。
時計の音が消える。
ちく、たく。
その規則正しい音が、一拍だけ止まり、次の瞬間、ひび割れた。
身分証の文字が揺れる。
ノア=リントベル。
ベルの部分が、白い光の中で解けかける。
床の下に沈みかけていた灯が、わずかに戻った。
一つ。
また一つ。
完全に戻ったわけではない。
消えかけた火が、まだ消えずにいるだけ。
でも、それで十分だった。
ノアは、伸ばしかけていた手を下ろした。
身分証を取らなかった。
記録帳へ触れなかった。
懐中時計も、拾わなかった。
代わりに、胸元の仮保護名札を握った。
「私は、帰りたいまま行きます」
白い部屋が、少しずつ黒い船倉へ戻っていく。
記録院の書架が、名片の壁へ変わる。
乾いた床が、黒い硝子へ戻る。
壊れていない身分証が、薄い光となってほどける。
懐中時計の音が、遠い谷の底へ沈む。
けれど、最後にもう一度だけ、声がした。
「ノア=リントベル」
ノアは目を閉じそうになった。
返事をしたくなった。
でも、しなかった。
かわりに、目を開けたまま言った。
「その名前は、私が取り戻します。あなたに返してもらうんじゃない」
白い幻が、砕けた。
ノアの身体が後ろへ傾く。
リィゼが腕を掴んだ。
「ノア!」
ガルドが背中を支える。
オルフェの筆が、ぎりぎりで動かずに止まっている。
エルネアの診断板が、細い亀裂を抑え込んでいる。
セヴラの黒鍵が、幻と現実の境目へ突き立てられている。
ノアは荒く息をした。
涙はまだ止まらなかった。
でも、足は谷底にあった。
自分だけの帰り道は、目の前で砕けた。
その奥に、黒い門の輪郭が見えた。
無帰結門。
どこにも着かない帰還の門。
その門の底で、ベルに似た音が、今度は誘いではなく、苦しげに震えていた。
ノアは、リィゼの手を握り返した。
「行きます」
声は掠れていた。
けれど、もう白い幻の方は見ていなかった。
「私の名前を、罠にされたままにしない」




