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第二節 ― カランの残響

 谷底に、船が浮かんでいた。


 水はない。


 波もない。


 それなのに、船は確かに浮かんでいる。黒い谷の中ほど、無数の帰還灯がゆっくり流れていくその上を、白い腹を持つ鴉のような影が、音もなく漂っていた。


 《白腹鴉》号。


 名前だけなら、ノアは何度も聞いた。


 帰れる船。

 夜に来る船。

 外界へ戻れる船。

 漂着者を元いた場所へ運ぶ船。


 けれど、目の前にあるそれは、船ではなかった。


 船の形をしているだけだった。


 船体は木でも鉄でもない。折れた偽名証の端、濡れた契約書、名前の欠けた乗船札、誰かの髪に結ばれていた小さな札、帰りたいと書かれた紙片。そうしたものが、何層にも重なって、船の腹を作っていた。


 白い、と思った。


 けれど近づくと、それは白ではなかった。


 色を失った名前の集まりだった。


 もう誰にも呼ばれなくなった名が、紙のように薄くなり、互いに貼りつき、船底の形を保っている。


 帆は裂けていない。


 だが、風を受けていない。


 帆に見えるものは、帰還希望者たちが見た夢の膜だった。外界の空。故郷の夜明け。誰かの家の灯。記録院の窓。港の桟橋。どれも薄く重なり、どれも本物にはならないまま、白い帆として張られている。


 リィゼが低く呟いた。


「……船じゃない」


 ノアも頷けなかった。


 船ではない。


 でも、船の姿をしている。


 それが何よりも悪質だった。


 帰りたい者は、船を信じる。

 水を渡れば、向こう岸に着くと思う。

 乗れば、どこかへ運ばれると思う。


 だから、船の姿をしている。


 帰れない名を運ぶために。


 船は音を立てなかった。


 軋みもない。帆の鳴る音もない。水を切る音もない。


 けれど、名前だけが聞こえた。


 乗れば帰れる。


 次の夜に船が来る。


 外界へ戻れる。


 名前を取り戻せる。


 契約すれば、安全に帰れる。


 声は、船の中からではなかった。


 船体を作っている名片そのものが、かつて聞かされた言葉を繰り返しているのだ。


 ノアは、胸の奥が冷えるのを感じた。


 第2話の夜を思い出す。


 帰れる船は夜に来る。


 その言葉を聞いたとき、ノアは信じたかった。


 どこかで疑ってはいた。

 怖いと思っていた。

 でも、信じたかった。


 だって、帰りたかったから。


 外界へ。

 記録院へ。

 ノア=リントベルという名が当たり前にあった場所へ。


 あのときの自分が、もしリィゼに止められなかったら。


 もしガルドやオルフェたちに出会わず、もしナハト=リムの審査を受けず、もしグリム=ラハドで影の縁留めを選ばず、ただ「帰れる」と言われた夜に船へ乗っていたら。


 ノアは、谷底の船を見た。


 自分の名も、あの船の腹に貼りついていたのかもしれない。


 リィゼが漂着者帳を抱きしめる。


「……あれ、みんな乗ったんだ」


 声が掠れていた。


「帰れると思って。名前を戻せると思って。乗ったんだ」


 オルフェが黒晶板をかざした。


 板の表面に、船の輪郭が映る。


 だが、記録しようとした瞬間、輪郭が崩れた。


 船名として書けば、船になる。

 遺物として書けば、遺物になる。

 事件証拠として書けば、証拠になる。


 けれど、それでは足りない。


 オルフェは筆を止め、苦しそうに息を吐いた。


「《白腹鴉》号は、実在した船の残骸ではありません」


 彼は慎重に言葉を選んでいる。


「これは、船という形式を利用した帰還誘導構文です。帰れるという期待を集め、帰還希望者の名を強く発火させ、その発火した名を谷の奥へ流すための……」


 そこで声が詰まる。


 リィゼが吐き捨てるように言った。


「装置」


 オルフェは目を伏せた。


「はい」


 ノアは、船を見上げた。


 装置。


 その言葉が、胸に重く落ちる。


 船ではない。


 人を運ぶものではない。


 願いを燃やし、名を流す装置。


 エルネアが船体に近づきすぎない距離で膝をついた。


 診断板に、細い亀裂が無数に走る。彼女は眉を寄せた。


「名傷の層が、複数重なっています。ひとり分ではありません。数十、いえ……もっと多い」


「治せる?」


 リィゼが聞いた。


 エルネアは首を横に振った。


「今の状態では無理です。これは傷口ではなく、傷口を積み重ねて作られた器です。下手に崩せば、中の名片ごと散ります」


 リィゼが唇を噛む。


「じゃあ、どうすんだよ」


「まず、どこへ流しているのかを見極める必要があります」


 エルネアの声は静かだったが、硬かった。


「この船は終点ではありません。中継です」


 その言葉に、船の影がわずかに揺れた。


 谷の奥へ向けて、薄い線が伸びている。


 黒い線。

 赤黒い線。

 白く抜けた線。


 それらが絡まりながら、さらに深い場所へ落ちていく。


 エル=ネフリドが、船の帆先に腰かけるように現れた。


 白い獣紳士は、浮かぶ船影の上に足を組み、杖の先で空中を軽く叩く。


「実に悪趣味だろう」


 レギオンがいれば即座に黙れと言っただろう。けれど、今この場にはいない。


 ノアはエル=ネフリドを見た。


「あなたは、知っていたんですか」


「知っていた、という言い方は難しいね。私は観測する。だが、観測したものすべてに手を伸ばすわけではない」


「それは、見捨てるのと違うんですか」


 言った瞬間、自分の声が少し強くなったことにノアは気づいた。


 エル=ネフリドは怒らなかった。


 むしろ、少し嬉しそうに見えた。


「違わないこともある」


 その答えは、あまりに正直だった。


「けれど、見捨てられたと呼ぶには、彼らを最初に見捨てた者が多すぎる。外界の記録。魔大陸の隙間。帰りたいと願う心につけ込む商人。閉じることでなかったことにしようとする者。救助という名で回収しようとする者。そして、帰り道の形をした門」


 エル=ネフリドは、谷の奥を見た。


「この船は、ひとりの悪党が作った棺ではない。多くの正しさと、多くの怠慢と、多くの願いが、少しずつ板を貼ったものだ」


 ノアは言葉を失った。


 そこへ、別の音が混ざった。


 カラン。


 谷底の灯のいくつかが、同時に震える。


 カラン。


 それは鐘の音にも似ていた。

 空の器を叩いた音にも似ていた。

 誰かの姓にも、土地の名にも、船底に残った合図にも似ていた。


 ノアは振り返る。


 船の影の下に、ぼんやりと人影が浮かんでいた。


 ひとつは大きく、歪んでいる。


 ゼブ=カラン。


 ノアが直接知る姿ではない。だが、残響として分かる。人の輪郭に、契約書の帯が巻きつき、口元には笑みの形だけが残っている。彼が手を差し出すたび、帰還灯がひとつ揺れ、名が濁る。


 乗れば帰れる。

 名を整えてやる。

 契約すれば安全だ。

 外界に戻るには手続きが要る。

 その名では戻れない。

 こちらで預かっておこう。


 彼の言葉に合わせて、帰還希望者たちの名が薄い朱墨で塗り替えられていく。


 ノアは息を呑んだ。


「これが……ゼブ=カラン」


 オルフェが黒晶板へ視線を落とす。


「残響です。本人そのものではありません。ですが、彼が行った契約の痕跡が、船に強く残っている」


 セヴラの目が冷える。


「利用者か」


 エル=ネフリドが頷いた。


「そう。利用者だ。発明者ではないかもしれないが、扱い方を覚えた」


 ゼブの残響が、名の灯へ触れる。


 すると、灯の一部が「カラン」という音へ沈む。


 ノアはその様子を見て、ようやく理解し始めた。


 カランは、単なる姓ではない。


 血筋でも、家名でもない。


 帰れない名が、一時的に宿る音。


 空白になりかけた名が、消える前に引っかかる器。


 だから、便利だった。


 帰還希望者の名を濁らせるにも。

 契約の中に隠すにも。

 白腹鴉号へ流すにも。

 無帰結門へ送るにも。


 リィゼが低く言う。


「じゃあ、カランって名前を名乗ってた人たちは……」


 問いは最後まで続かなかった。


 もう一つの人影が現れたからだ。


 ゼブの残響よりも薄い。


 まだ若い輪郭。

 怯えたように肩を丸め、両手で自分の喉を押さえている。


 エリオ=カラン。


 ノアは、その名をなぜか胸の中で聞いた。


 少年とも青年ともつかない残響は、ゼブの後ろで震えている。彼の名札は胸にあるが、そこに書かれた「カラン」の文字が、何度も濁っては別の名前に変わりかけていた。


 彼は加害者の隣にいる。


 けれど、同じ顔ではない。


 ノアには分かった。


 エリオは、完全な加害者ではない。


 彼もまた、「カラン」という音に呑まれかけた者だ。


 残響のエリオが、声にならない声を出す。


 ぼくの名前じゃない。


 そう聞こえた。


 いや、違う。


 ぼくの名前でもある。


 さらに違う。


 ぼくの名前にされた。


 その三つが、重なって聞こえた。


 ノアの胸が痛む。


 ゼブ=カランが音を利用した。

 だが、エリオ=カランは音に利用された。


 同じ「カラン」を持っていても、立っている場所が違う。


 オルフェが苦しげに記録する。


「カラン音素、家名ではなく、帰還不能名の仮泊音として機能。ゼブ=カランはそれを契約に利用。エリオ=カラン――は、音素の宿主化による名濁り被害の疑い」


 リィゼが唇を噛む。


「悪いやつを見つけて殴れば終わり、じゃないんだ」


 ガルドが低く答えた。


「殴る相手はいる」


「いるけど」


「ああ。殴っても、全部は終わらない」


 その言葉が、谷底に落ちる。


 ノアは、白腹鴉号の空洞を見た。


 第12話の敵は、ゼブ個人ではない。


 もちろん、ゼブのしたことは消えない。利用した者の責任はある。


 けれど、それだけではない。


 帰りたい願いを利用する仕組み。

 消えかけた名に仮の音を与え、それを契約に変え、船へ流し、門へ送る仕組み。

 その仕組みが、人を加害者にも被害者にも変えていく。


 ノアは、胸元の仮保護名札を押さえた。


 ノア。


 この名だって、仮のものだ。


 もし誰かが悪意を持って扱えば、同じように利用されるのかもしれない。


 そのとき、谷の空気が変わった。


 黒い灯の中に、一本の白い線が走った。


 あまりにまっすぐだった。


 谷底の灯は、どれも揺らぎ、欠け、濁り、絡み合っている。旧道の線も、無帰結門へ向かう線も、どこか湿っていて、ねじれていて、闇を含んでいる。


 けれど、その白い線だけは違った。


 清潔で。

 まっすぐで。

 冷たかった。


 ノアの身体が、反射的に固まる。


 リィゼがすぐに叫ぶ。


「ノア!」


 けれど、呼ばれるより早く、声が届いた。


「ノア=リントベル」


 その声は旧道の声ではなかった。


 甘くない。

 懐かしさを装わない。

 家族の声でも、記録院の同僚の声でもない。


 礼儀正しく、整っていて、現実的だった。


 ヴィクトル=ヘイズ。


「外界記録への帰還線を確認しました。こちらへ」


 白い線が、ノアの胸元へ伸びる。


 ノアは息を呑んだ。


 帰れるかもしれない。


 そう思ってしまった。


 旧道の声は怖い。

 白腹鴉号の声は嘘だと分かった。

 無帰結門の灯は罠だと知った。


 でも、この声は外界のものだ。


 記録院の手続き。

 身分証。

 照合。

 帰還線。


 ノア=リントベルとして、外界へ戻れるかもしれない。


 ノアの足が、白い線の方へ半歩動きかけた。


 その瞬間、谷底の淡い灯が強く震える。


 ベル。


 ノアの名札の奥で、音が引かれた。


 ただ呼ばれたのではない。


 引っ張られた。


 白い回収線が、ノアの「ベル」に触れた瞬間、無帰結門へ流れる黒い線と重なったのだ。


 白腹鴉号の船体が軋まないまま歪む。


 谷底の灯が、一斉にノアの方を向く。


 ベル。

 ベル。

 ベル。


 名前の一部が、また呼び声に変えられようとしている。


 ノアは胸を押さえた。


「いや……っ」


 セヴラが動いた。


 黒鍵を、谷底の黒い硝子へ突き立てる。


 硬い音が響いた。


 黒鍵から黒い線が走り、白い回収線の前へ立ちふさがる。


「外界の手続きが、門の餌になっている」


 セヴラの声は、氷のように冷たかった。


「まだ分からないのですか」


 白い線の向こうから、ヴィクトルの声が返る。


「彼女の帰還先は外界にあります。そちらの迷信的な門と混同しないでいただきたい」


 迷信。


 その言葉に、リィゼが歯を剥いた。


「この谷見て、まだそんなこと言うの?」


 ヴィクトルの声は揺れない。


「私は確認できる記録に基づいています。ノア=リントベルは外界記録に存在する。魔大陸滞在は事故による一時的異常状態です。帰還線を確保し、照合を行うことが、彼女の安全確保に繋がります」


 その理屈は整っていた。


 整いすぎていた。


 ノアは、白い線を見つめる。


 それは汚れていない。


 黒い谷の中で、唯一まっすぐに見える。


 だからこそ、怖い。


 その線は、谷底の灯の絡まりを見ない。

 ベルに絡んだ名たちを見ない。

 カランの残響を見ない。

 白腹鴉号の空洞を見ない。


 ただ、ノア=リントベルという外界記録だけを見ている。


 だから、ノアを引く。


 その途中で、ノアの名が裂けても。


 他の帰還灯が巻き込まれても。


 セヴラの目が、完全に冷えた。


「迷信ではない」


 彼女は黒鍵を深く押し込んだ。


 白い線と黒い線がぶつかり、火花ではなく、小さな文字片が散る。


「いま、その手続きが彼女の名を裂いている」


 ヴィクトルの声が、わずかに硬くなった。


「閉門派の監察官が、外界記録院の正式手続きを妨害するのですか」


「妨害します」


 セヴラは即答した。


 ノアは彼女を見た。


 セヴラは、ノアの味方になったわけではない。


 彼女は今でも、帰還路を危険視している。

 ノアが外界への門になる可能性を否定していない。

 開くことに賛成しているわけでもない。


 けれど。


「私は、外界へ売るために門を閉じているのではありません」


 セヴラの声が、谷に響いた。


「この大陸に入った者を、外界の檻へ戻すために鍵を持っているのでもありません。閉じるべきは、本人の願いではない。名を奪う線です」


 黒鍵が震える。


 白い回収線が、一度大きくたわんだ。


 その瞬間、ノアの胸元の名札へ伸びていた白い力がわずかに緩む。


 リィゼがノアを引き寄せる。


「こっち」


 ノアはよろめきながら、リィゼの手に支えられた。


 ガルドが背後に立ち、ノアの肩を押さえる。


「立て」


「……はい」


「今の声は聞くな」


「でも」


「帰れるかもしれない、と思ったか」


 ノアは答えられなかった。


 ガルドは責めなかった。


「思うのはいい。足を出す前に止まれ」


 ノアは歯を食いしばった。


 白い線の向こうで、ヴィクトルの声がまだ続いている。


「ノア=リントベル。あなたの意思確認は安全確保後に行われます。現在の環境は不安定です。こちらへ」


 その言葉が、また胸に触れる。


 後で。


 安全確保後。


 意思確認。


 第8話のグリム=ラハドで、ヴィクトルが言った言葉。


 ノアの中で、何かがはっきりした。


 怖い。

 帰りたい。

 外界へ戻りたい。


 でも、自分の意思を後回しにして引かれるのは違う。


 ノアは白い線を見た。


 声は震えていた。


 それでも言った。


「後で、じゃない」


 ヴィクトルの声が止まる。


 ノアは胸元の名札を握りしめた。


「私の意思は、今ここにあります」


 白い線が、わずかに乱れた。


 セヴラの黒鍵が、その乱れを逃さず遮断する。


 完全に切れたわけではない。


 ヴィクトルの回収線は、なお遠くからノアを見ている。


 けれど、今は届かない。


 谷底に沈黙が落ちた。


 白腹鴉号の影が、再びゆっくり揺れる。


 船の奥で、ゼブ=カランの残響が歪む。エリオ=カランの薄い影が、両手で喉を押さえたまま、谷の奥を見る。


 カラン。


 ベル。


 帰れる。


 戻れる。


 安全に。


 そうした音が、また静かに絡まり始める。


 エル=ネフリドが、船の帆先で杖を鳴らした。


「さて、ノア嬢。見えただろう」


 彼は谷の奥を示す。


「嘘の船も、正しい手続きも、帰りたい心には同じ場所を触る。問題は、どちらが綺麗かではない。君の名を、誰が何のために引くかだ」


 ノアは、白く消え残る回収線の跡を見た。


 それから、白腹鴉号の空洞を見た。


 どちらも違う。


 でも、どちらも自分を引く。


 ノアは深く息を吸った。


 自分の足で歩かなければならない。


 呼ばれたからではなく。

 回収されるためでもなく。

 罠にされた名を見ないふりするためでもなく。


 谷の奥で、船影がゆっくり傾いた。


 《白腹鴉》号の空洞の腹が開く。


 中には、道があった。


 船倉ではない。


 帰れると信じた者たちの名が通った、黒い通路。


 その先で、無帰結門へ続く暗い光が瞬いている。


 ベルに似た音が、もう一度だけ、ノアの胸に触れた。


 今度は誘いではなかった。


 問いのようだった。


 ノアは、震える手で名札を押さえたまま、船の空洞を見つめた。


 その奥に、自分だけに差し出される帰り道が待っている気がした。

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