第一節 ― 帰還灯の底
名裂きの谷へ降りる道は、道と呼べるほど確かなものではなかった。
黒い硝子の大地が、谷の縁で砕け、薄い階段のように下へ続いている。だが、その一段一段は石ではない。名を失った誰かの記憶が、かろうじて形を保っているような、頼りない足場だった。
踏めば、音がする。
こつん。
ではない。
ふ、と息が漏れるような音。
誰かが呼ばれかけて、返事をする前に声を失ったような、短くて細い音だった。
ノアは一段目に足を置き、思わず立ち止まった。
足元の黒い硝子に、自分の影が映っている。影の端には、《影の縁留め》の細い黒い線が結ばれていた。その線は、胸元の仮保護名札へ繋がり、そこからさらに谷底へ向かって、わずかに震えている。
警告ではない。
けれど、安心でもない。
行け、と示しているようで、行くな、と引き止めているようでもある。
ノアは喉の奥を鳴らした。
背後でガルドが言う。
「足元だけを見るな」
「え?」
「下だけ見ていると、引かれる。前も見ろ」
短い言葉だった。
ノアは顔を上げた。
谷底に、灯があった。
月蝕原の上から見たときよりも近い。ひとつひとつの灯が、もうただの光ではなくなっている。形がある。匂いがある。かすかな声がある。
旧道の灯によく似ていた。
けれど、違う。
旧道の灯は、こちらを呼んだ。
帰りたいなら、門へ。
帰れるよ。
戻れるよ。
失ったものを返してあげるよ。
そう囁き、こちらの足を動かそうとした。
だが、谷底の灯は呼ばない。
ただ、残っている。
消えきれずに。
帰りきれずに。
呼ばれたまま、返事をどこにも届けられずに。
リィゼが、ノアの少し前で足を止めた。
いつもなら、真っ先に危険を見て、悪態をつき、道を選ぶ彼女が、動かない。
漂着者帳を胸に抱いたまま、灯を見つめていた。
「リィゼ?」
ノアが呼ぶと、リィゼの肩がわずかに震えた。
彼女は返事をしなかった。
ただ、灯を見ていた。
谷底に最初に見えた灯は、小さな紙片のようだった。
薄い紙に、かすれた文字が残っている。
完全な名ではない。
けれど、そこにはたしかに誰かがいた。
次の灯には、偽名証の端が巻きついていた。朱印の半分だけが残り、名前の一部は黒く焼け落ちている。仮に呼ばれた名。外界でも魔大陸でも定まれなかった名。けれど、その者にとっては、消えるよりましだった名前。
さらに奥には、船札のような灯があった。
白い鳥の羽根に似た形。
そこに、かすかに《白腹鴉》号の影が浮かぶ。
帰れる船を待っていた誰かの名。
その隣には、泥水に沈んだように濁った灯がある。ノイ=カランの宿場で、名が濁り、呼び名と願いと偽りが混ざってしまった者の残り香。
そして、もっと奥。
黒い板のような灯に、震える筆跡が残っている。
帰りたい。
それだけ。
名前ではない。
身分でもない。
所属でもない。
ただ、帰りたい。
その言葉だけが、名の代わりに灯っている。
リィゼの唇が動いた。
いつものように、何かを吐き捨てようとしたのだろう。
くそ、とか。
最悪、とか。
趣味が悪い、とか。
けれど、声は出なかった。
喉の奥で詰まり、別の言葉になった。
「……こんなに、いたのかよ」
その声は、ノアがこれまで聞いたリィゼの声の中で、いちばん小さかった。
怒っている。
でも、それだけではない。
悔やんでいる。
傷ついている。
怖がっている。
リィゼ=ノルカは、拾名屋だ。
灰角の港で、流れ着いた者の名を拾う。
仮でも呼べる名をつける。
漂着者帳に記す。
消えないようにする。
その彼女の目の前に、拾えなかった名が、数えきれないほど揺れている。
拾おうとして間に合わなかった名。
港まで届かなかった名。
帰れると信じて、港ではなく旧道へ向かった名。
拾われる前に、白腹鴉号へ乗ってしまった名。
ノイ=カランで濁り、呼べなくなった名。
帰りたいと言ったまま、どこにも着けなかった名。
リィゼは震える手で漂着者帳を握りしめた。
革表紙が、小さく軋む。
「これ、漂着物じゃない」
彼女は言った。
「拾えるものじゃ、ない」
ノアは息を止めた。
リィゼは、それでも目を逸らさなかった。
「でも、名だ」
その言葉に、谷底の灯がかすかに揺れた。
呼ばれたのではない。
聞かれたのだ。
リィゼの声が、谷底の名に届いたように。
ノアは灯を見つめた。
一つ一つは小さい。
指先で覆えるほどの光。息を吹きかければ消えそうな弱い火。だが、その中には、誰かの人生があった。
帰りたい、と言った誰か。
帰れるかもしれない、と信じた誰か。
帰れないと分かっても、それでも名前だけは消されたくなかった誰か。
ノアの胸が締めつけられる。
自分と同じだ。
いいえ、自分だけではない。
自分は、たまたまリィゼに拾われた。
仮保護名を得た。
ナハト=リムで偽名証を得た。
グリム=ラハドで影の縁留めを選べた。
王都で裁定を受け、黒い鏡を見た。
ここにいる灯たちは、そのどこかへたどり着けなかったのだ。
あるいは、たどり着く前に「帰れる」と言われてしまった。
ノアは、息を吐いた。
その息すら、谷に落ちると名前の欠片になってしまいそうで怖かった。
オルフェが、黒晶板を開く。
彼は筆を持っていたが、書き出せずにいた。
筆先が震えている。
「これは……名簿ではありません」
彼の声が、谷底に低く落ちる。
「人数の記録でも、失踪者一覧でもない。名前の形を残しているものと、願いだけが名の代わりになっているものが混ざっています」
彼は一度、唇を結んだ。
記録官として、何を書けばよいのか迷っている顔だった。
「けれど、名簿にしなければ、また消える」
リィゼが振り向く。
「名簿にしたら、固定されるんじゃないの」
「はい。だから通常の名簿にはできません」
オルフェは黒晶板を見つめる。
「これは、所有記録でも、戸籍でも、死亡記録でもありません。庇護記録に近い。けれど、庇護対象本人の意思確認ができない。仮保護名もない。名片と帰還願望の残滓だけが残っている」
「じゃあ、どうするの」
「今は、位置と反応だけを記します。名そのものは、拾える形になるまで書きません」
彼は筆を下ろした。
黒晶板に、文字ではなく細い点が刻まれていく。
ひとつ。
またひとつ。
灯の位置。
反応の強弱。
名傷の裂け方。
旧道との接続。
外界記録との接触痕。
名を書くのではない。
だが、消えたことにもしない。
その慎重さに、ノアは胸を押さえた。
記録すること。
記録しないこと。
どちらも、守るために選ばなければならない。
エルネアが、灯のそばに膝をついた。
彼女は直接触れない。
黒晶の診断板をかざし、灯の周囲に浮かぶ細い亀裂を読む。
「どれも裂かれています」
エルネアの声は静かだった。
「完全には残っていない。名の中心が欠けているもの、呼び手だけが残っているもの、帰還先の記憶だけが灯になっているものもあります」
「治せますか」
ノアは思わず聞いた。
エルネアは、すぐに首を振らなかった。
その沈黙が、答えだった。
「治す、という言葉が適切かは分かりません」
彼女は言う。
「これは傷ですが、同時に、残った形でもあります。無理に塞げば、残っているものまで消えるかもしれない」
「じゃあ……」
「支えることはできます。崩れないように。拾える形になるまで、裂け目を広げないように」
エルネアの指先が、診断板の上で細い術式を描く。
灯のひとつが、少しだけ安定した。
消えそうだった火が、わずかに芯を持つ。
リィゼがそれを見て、唇を噛んだ。
「全部は、無理だよね」
誰にともなく言った声だった。
エルネアは、嘘を言わなかった。
「はい」
リィゼは目を伏せる。
「分かってる」
その言葉に、ノアの胸も痛んだ。
全部は無理。
どれほど願っても、すべての灯を拾うことはできないのかもしれない。
けれど、だから見ないでいいわけではない。
そのときだった。
ノアの足元で、《影の縁留め》がひときわ強く震えた。
黒い硝子の地面に落ちていた影が、谷底の灯のひとつへ向かって伸びる。
セヴラがすぐに黒鍵を構えた。
「動かないでください」
ノアは動かなかった。
動けなかった。
灯の一つが、ゆっくりと浮かび上がっていた。
他の灯よりも淡い。輪郭が定まらず、光というより音が形を持ったもののように見える。小さな鐘の舌にも、濡れた紙片にも、誰かの喉からこぼれた最後の息にも見えた。
それが、ノアの影に触れた。
触れた瞬間、胸元の仮保護名札が熱を持つ。
ノアは息を呑んだ。
音がした。
鐘の音ではない。
文字でもない。
けれど、確かに分かる。
「……ベル」
声に出した途端、谷底の灯が一斉に小さく震えた。
リィゼがノアを見た。
「また……」
ノアは胸元を押さえる。
身体の芯が冷えていく。
それは完全な「ベル」ではなかった。
外界の身分証に書かれていたリントベルの後半。
家名としてのベル。
自分の本名候補の一部。
そのどれとも違う。
でも、そのすべてに触れている。
ベル。
その音は、ノアの名前の欠けた部分であり、同時に、谷底の帰れない名たちと絡み合っていた。
灯の糸が見える。
細く、薄く、絡まり合った糸。
ノアの名札へ伸びる糸。
旧道へ伸びる糸。
無帰結門の奥へ落ちていく糸。
白腹鴉号の残響へ繋がる糸。
ノイ=カランの濁った音へ沈む糸。
ノアの膝が震えた。
「私の名前が……」
喉がうまく動かない。
「誰かを呼んでいたの?」
それは、ほとんど悲鳴に近かった。
自分の名が欠けていることは怖かった。
呼ばれても安定しないことが怖かった。
ノア=リントベルと呼ばれるたび、自分が外界へ引き戻されるのか、旧道へ引かれるのか分からないことが怖かった。
けれど、それとは違う恐怖が今、胸に広がっている。
自分の欠けた部分が、他の誰かを呼んでいたのだとしたら。
帰りたいと願った人たちを、罠へ誘う音として使われていたのだとしたら。
ノアは、手で口を押さえた。
吐き気に似たものが込み上げる。
リィゼがすぐに隣へ来る。
「ノア、違う。あんたが呼んだわけじゃない」
「でも」
「違う」
リィゼの声は強かった。
「勝手に使われてるんでしょ。あんたがやったんじゃない」
「でも、私の名前です」
ノアは震えながら言った。
「私の名前が、誰かの帰りたいを……」
言葉が続かなかった。
谷の縁で、こつん、と杖の音がした。
エル=ネフリドが立っていた。
いつの間に現れたのか、誰も分からない。月蝕原の薄闇の中、白い獣紳士は、黒い谷底を覗き込むように立っている。
彼は灯を見ていた。
ノアではなく。
灯を。
「呼んでいた、というより」
エル=ネフリドは言った。
「呼び声に、使われていたのだろうね」
ノアは顔を上げた。
エル=ネフリドの声は軽くなかった。
いつものような芝居がかった響きはある。けれど、その奥には、どこか冷えた観測者の確かさがあった。
「旧道は、帰りたいという願いを呼ぶ。無帰結門は、その願いをどこにも着かせない。だが、呼び声には媒体が要る。帰れると信じさせるための音。失ったものが戻ると思わせるための響き。誰にとっても少し懐かしく、誰かにとっては確実に自分のものだと思える名片」
「それが……ベル?」
「その一部だろう」
エル=ネフリドは杖の先で、淡い灯を示した。
「ベルは、君だけのものではない。鐘の音でもある。帰還を告げる音でもある。家名でもある。呼び戻す響きでもある。だからこそ、使いやすかった」
ノアは青ざめた。
使いやすかった。
その言い方が、あまりにもひどかった。
名が、道具のように扱われている。
誰かの帰りたいを引くための、音の釣り針のように。
セヴラが黒鍵を握りしめる。
「誰が使っている」
エル=ネフリドは肩をすくめた。
「誰、と言えるほど単純なら、鍵で閉じやすかっただろうね。仕組みだよ。人が作り、願いが育て、旧道が覚え、無帰結門が喰った。ゼブ=カランのような者は利用した。白腹鴉号のようなものは運んだ。ヴィクトルの外界記録のようなものは、別方向から引いた」
「つまり、誰も責任を取らない構造か」
ガルドの声が低くなる。
「いや」
エル=ネフリドは笑わなかった。
「責任を取らない構造ほど、多くの人間が少しずつ責任を持っている。だから厄介なのさ」
ノアは、淡い灯を見た。
ベル。
それは自分の名の一部に似ている。
取り戻したい。
そう思っていた。
今も思っている。
ノア=リントベルと、最後まで書きたい。
自分の名を、欠けない形で呼ばれたい。
疑われずに返事をしたい。
けれど、その「ベル」が誰かを罠へ誘っていたかもしれないと知った瞬間、取り戻したいという願いそのものが怖くなった。
もし取り戻すことで、もっと多くの名が門へ落ちるなら。
もし自分の完全な名前が、他の帰れない名たちを沈めることで成り立つなら。
ノアは、どうすればいいのだろう。
胸元の仮保護名札が震える。
ノア。
今ここで、自分を支えている名。
それすら、急に薄いものに感じた。
リィゼが、ノアの手を強く握った。
「ノア」
仮保護名で呼ぶ声。
ノアは、その声にすがるように息を吸った。
「取り戻すのが、怖いです」
正直に言った。
リィゼの手が、さらに強くなる。
「うん」
「自分の名前なのに。ずっと、戻したかったのに。今は……戻したら、誰かを傷つけるみたいで怖い」
「だったら、勝手に戻されないようにしよう」
リィゼは言った。
「取り戻すんじゃなくて、拾う。拾って、確かめる。何に使われてたのか、誰と絡んでるのか、見てから決める」
ノアはリィゼを見た。
リィゼは、谷底の灯を睨んでいる。
その顔には、まだ怒りと悔しさがあった。けれど、それだけではない。拾名屋として、目の前の名を見捨てないという意地があった。
「名前は、持ち主に返すものだよ」
リィゼは低く言った。
「罠の道具にされたままにするもんじゃない」
ノアの目に、涙が滲んだ。
自分の名を取り戻すことが怖い。
でも、罠にされたままにするのはもっと嫌だ。
谷底の灯が、また微かに震える。
ベル。
それはノアを呼んでいるのか。
助けを求めているのか。
それとも、まだ罠として機能しているのか。
分からない。
分からないから、見に行くしかない。
エル=ネフリドが、杖で谷の奥を示した。
「この先に、カランの残響がある。白腹鴉号の空洞もね。君のベルが、どのように呼び声へ編み込まれたのか、もう少しはっきり見えるだろう」
セヴラが言う。
「進めば、さらに引かれます」
「はい」
ノアは頷いた。
声はまだ震えていた。
けれど、今度は視線を逸らさなかった。
「それでも、行きます。怖いまま、見ます」
ガルドが、短く息を吐く。
「なら、歩け」
リィゼがノアの手を離さずに言う。
「転びそうになったら引っ張るから」
オルフェが黒晶板を閉じずに持ち直す。
「記録を続けます。確定はしません。消しもしません」
エルネアが診断板を掲げる。
「名傷反応、拡大に備えます」
セヴラが黒鍵を構える。
「奪う線は閉じます」
ノアは、胸元の名札に触れた。
ノア。
今ここで呼ばれている名。
そして、その奥で震える、まだ戻らないベル。
谷底の灯が、奥へ続いている。
ノアは一歩を踏み出した。
足元の黒い硝子に、微かな波紋が広がる。
その波紋の奥で、遠い船影が揺れた。
白い腹を持つ鴉の名をした船。
帰れると嘘をついた船。
名を運び、願いを燃やし、無帰結門へ流した空洞の船。
次の谷底で、それが待っていた。




