序節 ― 月蝕原へ続く道
黒い鏡は、閉じなかった。
第十一話の終わりに映し出された月蝕原は、ただの幻ではなかった。鏡面の奥で、黒い硝子の大地はまだ静かに揺れている。空には喰われた月の輪郭だけが残り、遠くには帰れない名の灯が、息をするように瞬いていた。
ノアは、鏡の前から動けずにいた。
胸元の仮保護名札は、まだ微かに震えている。
痛みはない。
けれど、札の内側に小さな鐘が閉じ込められているようだった。鳴りきらない音が、紙と金具と銀糸の奥で震え続けている。
ベル。
完全な言葉ではない。
音として聞こえたわけでもない。
それでも、ノアには分かってしまった。
自分の名前の一部。
ノア=リントベル。
その後半にあるはずのものが、鏡の奥で、無数の帰れない名と絡まりながら揺れている。
リィゼが、隣で低く息を吐いた。
「……ほんとに、行くんだね」
問いではなかった。
確認だった。
ノアは、すぐには答えられなかった。
行く。
そう決めたはずだった。
けれど、決めたことと、足を踏み出すことは違う。
鏡の奥に見えているのは、ただの道ではない。旧道よりも深く、名裂きの谷よりも遠く、帰りたいという願いそのものが流される場所だ。
そこへ行けば、自分の名がどう使われていたのか分かるかもしれない。
自分の「ベル」を取り戻せるかもしれない。
でも、同時に、失うかもしれない。
ノアという仮保護名も。
ノア=リントベルという本名候補も。
帰りたいという願いも。
全部。
ノアは唇を噛んだ。
「怖いです」
そう言うと、リィゼは少しだけ肩をすくめた。
「知ってる」
「でも、見に行かないと……分からないままです」
「うん」
「私の名前が、誰かを呼ぶ罠に使われているなら、止めたいです」
「うん」
「でも」
ノアは、黒い鏡の奥を見た。
月蝕原の遠くで、名の灯が瞬く。
「でも、私……まだ帰りたいです」
その言葉を口にした瞬間、胸が痛んだ。
第十話でも言った。
第十一話でも言った。
それでも、何度言っても、後ろめたさが消えない。
帰りたい。
ただそれだけの願いだったはずなのに。
今は、その願いが誰かを危険にするかもしれない。
誰かの名を奪う門と繋がっているかもしれない。
リィゼは、ノアを見上げた。
怒らなかった。
呆れたようにも笑わなかった。
「帰りたいままでいいんじゃない」
ノアは目を瞬いた。
リィゼは鏡の奥を睨むように見たまま、続けた。
「帰りたいって思わなかったら、あんたはここまで来てない。帰りたいって言った人たちの名を、なかったことにしたくないって言ったのも、あんたが帰りたいからでしょ」
「……はい」
「だったら、それは捨てなくていい」
リィゼは、ノアの袖を軽く掴んだ。
「ただ、呼ばれたから行くな。帰れるって言われたから行くな。自分で見て、自分で選んで歩け」
その言葉は、第十一話でリィゼが言った言葉に似ていた。
帰りたいなら帰ればいい。
でも、呼ばれたから行くな。
自分で選んで歩け。
ノアは、小さく頷いた。
「はい」
背後で、低い声がした。
「選ぶなら、倒れるな」
ガルドだった。
いつも通り、必要なことだけを言う声。
振り返ると、彼は腕を組んで立っていた。黒い鏡の光を浴びても、その表情は変わらない。けれど、彼の立つ位置は、ノアがもし鏡の方へ引かれたとき、すぐに身体を引き戻せる場所だった。
「倒れたら、支えてくれるんじゃないんですか」
ノアがかすかに言うと、ガルドは眉を動かした。
「支える。だが、立つ気のない奴は支えにくい」
リィゼが横から言った。
「言い方」
「事実だ」
「だから言い方」
ノアは、ほんの少しだけ笑いそうになった。
こんな場所で、笑えるはずがないと思っていた。
けれど、二人のやり取りは、黒い鏡の奥から伸びてくる冷たさを少しだけ遠ざけてくれた。
オルフェ=セプティアは、回廊の記録台の前で黒晶板を並べ替えていた。
第十一話では、彼は記録を止めた。
記録した瞬間、どれか一つの呼び名にノアを固定してしまう危険があったからだ。
だが、今度は違う。
月蝕原へ向かうなら、記録は必要になる。
記録しなければ、戻ってきた名がまた失われる。
記録しすぎれば、名を所有物のように固定してしまう。
その間を選ばなければならない。
オルフェは、筆先を見つめたまま言った。
「今回は、通常記録ではなく、庇護記録の形式を使います」
「庇護記録……?」
ノアが聞き返すと、オルフェは頷いた。
「名を確定するためではなく、消えないよう一時的に受け止める形式です。完全な名前として書けないもの、帰属先が不明なもの、本人意思の確認ができないものを、所有せず、封じず、失わせないために記します」
リィゼが静かに言った。
「拾名屋の帳面に近い?」
「近いです。ただ、王都記録として扱うには不安定すぎる」
「不安定な名前ばっかりなんだから、安定させようとしすぎる方が危ないでしょ」
「その通りです」
オルフェは、ためらわずに認めた。
「だから、今回はあなたの漂着者帳と照合します。リィゼ=ノルカ。戻ってきた名があれば、最初にあなたが拾ってください。私は、それを王都側で庇護記録にします」
リィゼは一瞬、言葉を失った。
それから、胸元の漂着者帳を押さえた。
「……私が?」
「はい」
「王都の記録官が、拾名屋の帳面を頼るの?」
「この件に関しては、王都記録だけでは足りません」
オルフェは真面目な顔で言った。
「拾えなかった名を拾うには、拾う者が必要です」
リィゼは唇を引き結んだ。
何か言い返そうとして、やめた。
代わりに、短く言う。
「分かった」
その声は小さかった。
けれど、重かった。
セヴラ=クロウゼルは、黒鍵を手にしたまま、鏡の前へ進んだ。
彼女はノアを見ずに、月蝕原の奥を見ている。
「私は、旧道の侵入線と外界回収線を遮断します」
声は硬い。
「ただし、あらかじめ言っておきます。危険が一定値を超えた場合、私は道を閉じます」
ノアの胸がわずかに強張った。
セヴラは続ける。
「あなたの願いを閉じるためではありません。名を奪う線を、それ以上通さないためです」
ノアは、セヴラを見た。
第九話で、彼女はノアの帰路を危険な門として見ていた。
その恐れは、今も消えていないのだろう。
けれど、同じではない。
今のセヴラは、ノアを閉じ込めるために鍵を持っているのではない。
ノアの名を、旧道や無帰結門や外界回収線へ奪わせないために、黒鍵を持っている。
「分かりました」
ノアは言った。
「でも、閉じる前に、呼んでください」
セヴラが初めてノアを見た。
「呼ぶ?」
「はい。閉じなければならないくらい危ないなら、たぶん私は、何かに引かれていると思います。だから……閉じる前に、私の名前を呼んでください」
セヴラは黙った。
その沈黙は、拒絶ではなかった。
リィゼが横から言う。
「仮保護名でね。変にフルネーム呼ぶとややこしいから」
セヴラは目を細める。
「承知しました」
短い返事だった。
だが、それで十分だった。
そのとき、回廊の入口側から足音がした。
エルネア=グラナートが現れた。
深い紅を帯びた外套を肩にかけ、手には薄い黒晶の診断板を持っている。彼女はノアの胸元の名札と足元の影を一目見て、眉を寄せた。
「……ずいぶん深く反応していますね」
「エルネアさん」
ノアは少し驚いた。
彼女は静かに頷いた。
「名傷管理の補助として呼ばれました。月蝕原へ入るなら、名の裂け目がどこまで広がるか分かりません。あなたの名だけではなく、戻ってくる名片も崩壊する可能性があります」
エルネアは診断板を掲げる。
黒晶の表面に、ノアの影の輪郭が薄く映った。
「私は、傷の広がりを抑えます。治すことはできません。ただ、裂けすぎないよう支えるだけです」
「それでも、助かります」
「助かる、で済むならいいのですが」
エルネアは淡々と言った。
その声音に冷たさはない。むしろ、感情を抑えているからこそ、危険の大きさが伝わってくる。
レギオン=エルドラドは、黒い鏡の手前に立っていた。
月蝕原へは入らない。
それは、すでに決まっていた。
魔王が現地へ踏み込みすぎれば、ノアの選択ではなく、王の介入になってしまう。第十話でレギオンが言った「王都にも願いを渡すな」という言葉を、ノアは覚えている。
王は、道を与えない。
けれど、道を奪わせもしない。
レギオンの傍らには、《ヴェイル=エルドラド》があった。
黒い鞘は静かだ。
だが、ノアが月蝕原を見つめるたび、奥で黒金の光がわずかに脈打つ。
「ノア」
レギオンが言った。
今の呼び名で。
ノアは顔を上げた。
「はい」
「私は同行しない」
「分かっています」
「だが、ヴェイルの隔ては届かせる」
レギオンは剣に手を置いた。
「この剣は門を開かない。君の名を取り戻しもしない。だが、奪おうとする線を隔てることはできる」
「はい」
「勘違いするな。これは許可ではない」
レギオンの目は静かだった。
「君が選ぶための最低限の余白だ」
ノアはその言葉を胸に受け止めた。
最低限の余白。
帰れる保証ではない。
勝てる保証でもない。
名を取り戻せる保証でもない。
でも、選ぶ前に奪われないための余白。
それだけでも、今のノアには必要だった。
黒い鏡の中で、こつん、と杖の音がした。
エル=ネフリドが、月蝕原の入口に立っていた。
彼は同行者ではない。
けれど、どこにでも現れる。
黒い硝子の大地の上に、白い獣紳士の輪郭だけが浮かんでいる。シルクハットを少し傾け、杖を片手に、まるで観劇の席へ案内する案内人のように微笑んでいた。
「準備は整ったようだね」
レギオンが冷たく言う。
「余計な手出しをするな」
「私は手出しなどしないよ。問いを置くだけだ」
「問いで人は死ぬ」
「答えでも死ぬ。なら、選べるだけ問いの方がましだろう?」
レギオンは返事をしなかった。
エル=ネフリドは、今度はノアを見た。
「ノア嬢。帰れない名の流れる先を見に行く覚悟は?」
ノアは、鏡の奥を見た。
月蝕原。
黒い硝子の大地。
遠くに揺れる名の灯。
その先にある、まだ見えない谷。
怖い。
その感情は消えない。
けれど、怖くなくなるまで待っていたら、きっと何も選べない。
「あります」
声は震えた。
でも、言った。
エル=ネフリドは満足げに笑う。
「よろしい。では歩こう。帰りたいという言葉が、どれほど重いかを確かめに」
黒い鏡の面が、水のように揺れた。
最初に足を踏み入れたのは、セヴラだった。
黒鍵を先に立て、鏡面の向こうへ入る。彼女の姿は一瞬だけ歪み、次の瞬間、月蝕原の入口に立っていた。
続いてガルド。
彼は何も言わずに入り、ノアの少し前で立ち止まった。
オルフェが記録板を抱え、慎重に足を踏み入れる。
エルネアが続き、診断板の光を抑えながら周囲を確認する。
リィゼは最後までノアの隣にいた。
「行ける?」
「はい」
「嘘でも?」
「……半分くらい」
「上出来」
リィゼは先に鏡へ足を入れ、ノアへ手を差し出した。
ノアはその手を見た。
第1話で、灰角の港に流れ着いたとき。
リィゼはノアを拾った。
あのときノアは、何も分からず、ただ帰りたいと言っていた。
今も、帰りたい。
けれど、あのときとは違う。
帰れない名たちがいることを知ってしまった。
自分の名が、その罠に使われているかもしれないと知ってしまった。
そして、それでも自分の願いを捨てたくないと思っている。
ノアはリィゼの手を取った。
鏡面を越える瞬間、冷たい水に全身を沈められたような感覚があった。
息が詰まる。
黒い光が視界を覆う。
次の瞬間、足元に硬い感触が戻った。
黒い硝子の大地。
月蝕原。
ノアは、そこに立っていた。
空気は冷たかった。
風はないのに、耳元で遠い海鳴りのような音がする。黒潮の音にも似ていた。けれど、それだけではない。誰かが名前を呼ぶ前の息遣いが、無数に重なっているようだった。
空には、喰われた月の輪郭だけがあった。
光はない。
でも、暗闇ではない。
大地のあちこちに、名の灯が揺れているからだ。
ノアは足元を見た。
自分の影が、黒い硝子の上に落ちている。
《影の縁留め》が震えた。
警告ではなかった。
胸を刺すような危険の震えではない。
もっと細く、もっと確かに、方角を示す震え。
影の先が、月蝕原の奥へ伸びている。
リィゼがそれを見て、顔をしかめた。
「……あんたの影、道を覚えてるみたいだね」
ノアは胸元の名札を押さえた。
名札も、影と同じ方角へ微かに震えている。
「私の名が、あそこに繋がっているんだと思います」
セヴラがすぐに言った。
「繋がっているなら、切るべきです」
黒鍵の刃が、月蝕原の淡い光を吸い込むように鈍く光る。
ノアは、ゆっくり首を振った。
「切ったら、分からなくなります」
「分からなくなる方が、安全な場合もあります」
「でも、私の名前が何に使われているのか、分からないままになります」
セヴラは沈黙した。
ノアは続けた。
「それに、私の名だけじゃありません。あそこにある灯も、きっと繋がっています。切ったら……その人たちの名も、また見えなくなるかもしれない」
セヴラの目がわずかに細くなる。
反論はなかった。
ただ、黒鍵を握る手に力が入った。
「ならば、切らずに遮ります。奪いに来た線だけを」
「お願いします」
ノアは頭を下げた。
セヴラは答えなかった。
けれど、その沈黙には、拒絶よりも重い承諾があった。
一行は、月蝕原を進み始めた。
足音が響く。
こつ、こつ、と。
黒い硝子の大地は、踏むたびに薄く波紋を広げた。その波紋の中に、時折、別の景色が映る。
灰角の港。
ノイ=カランの濁った宿場。
グリム=ラハドの朱墨の灯。
ザイ=ヴェルムの黒鍵石柱。
黒冠宮の鏡。
そして、外界の記録院。
ノアは一瞬、足を止めかける。
リィゼがすぐに呼ぶ。
「ノア」
ノアは息を吸った。
「大丈夫です」
「信用はしないけど、聞いとく」
「はい」
進むほど、灯は増えていった。
遠くから見れば星のようだった灯は、近づくにつれて一つ一つの輪郭を持ち始める。
名前の形を保っているもの。
紙片のように裂けているもの。
声だけになっているもの。
誰かの手書きの一文字だけが残っているもの。
偽名証の端に染み込んだ呼び名。
船の乗船札に残った名。
帰りたい、と震えるだけの灯。
ノアは、その一つ一つから目を逸らせなかった。
リィゼは、ほとんど喋らなくなっていた。
漂着者帳を胸に抱え、灯を見るたびに唇を噛む。いつものように軽口で空気を動かすことができないほど、ここにある名の数は多かった。
オルフェは震える筆で、直接名を書かず、位置と反応だけを記している。
エルネアは灯の傷を見て、時折、診断板へ細い線を刻む。
ガルドは無言で周囲を見ている。剣は抜いていない。だが、彼の肩越しの空気は常に張り詰めていた。
やがて、黒い硝子の大地が途切れた。
その先に、谷があった。
深く、広く、底の見えない裂け目。
黒い霧が、谷底からゆっくり立ち上っている。
その霧の中で、無数の灯が揺れていた。
名裂きの谷。
ノアは、その名前を声に出さなかった。
言えば、谷がこちらを向く気がした。
谷の奥から、かすかな音がした。
ベル。
ノアの胸元の名札が震える。
影の縁留めが、谷へ向かって細く伸びた。
リィゼが息を呑む。
セヴラが黒鍵を構える。
エルネアの診断板に、細かい亀裂のような光が走る。
オルフェの筆が止まる。
ガルドが、ノアの背後に立つ。
鏡の縁のどこかで、エル=ネフリドの杖が鳴った。
「さて」
白い獣紳士の声が、月蝕原の薄闇に軽く響く。
「ここからが、帰り道の底だ」
ノアは、名裂きの谷の入口に立ったまま、拳を握った。
帰りたい。
その願いは、まだ胸にある。
けれど今、その願いの先には、自分ひとりでは抱えきれないほどの名の灯が、黒い谷底で揺れていた。




