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終節 ― 帰れない名が流れる先

 その響きが、回廊の奥へ沈んでいった。


 ベル。


 遠い水底から浮かび上がる泡のような、かすかな音。


 ノアはその音を追いかけそうになって、けれど足を動かさなかった。リィゼの手がまだ傍にある。ガルドの気配が背後にある。セヴラの黒鍵が、鏡から伸びる線を警戒している。オルフェは筆を止めたまま、記録しないことを記録しようとしている。


 そして、ヴェイル=エルドラドの黒金の線が、ノアと鏡のあいだに細く走っていた。


 閉じ込めるためではない。


 奪わせないために。


 その線があるから、ノアは鏡を見続けることができた。


 鏡の中で、エル=ネフリドが杖をゆっくり持ち上げる。


「では」


 白い獣紳士は、芝居の幕を変えるように、黒い鏡の奥を見た。


「少しだけ、幕を上げようか」


 レギオンの声が低く響く。


「余計な深度までは開くな」


「もちろん。私は親切な案内人だからね」


「お前の親切ほど信用できないものはない」


「ひどいな。信用しなくていいと言っているじゃないか。見るのは、ノア嬢だ」


 エル=ネフリドはそう言って、杖の先で鏡面を叩いた。


 こつん。


 乾いた音がした。


 その瞬間、旧道の灯も、外界記録院の白い書類も、黒い裂け目も、一度すべて溶けた。


 鏡の奥が、さらに開く。


 そこには、夜があった。


 けれど、それはただの夜ではなかった。


 月のない夜。


 いいえ、月が消えたのではない。


 月が、喰われたあとだけが空に残っている。


 黒い空の高みに、欠けた月の輪郭だけが薄く浮かんでいた。光はない。輪郭だけがある。そこに月があったという記録だけが、空に貼りついているようだった。


 その下に、大地が広がっている。


 黒い硝子の大地。


 平らで、冷たく、どこまでも続いているようで、けれど踏めば割れてしまいそうな脆さを持っていた。表面には薄い水が張っているようにも見える。風が吹いていないのに、足跡のない水面がかすかに揺れる。


 月蝕原。


 誰かがそう教えてくれたわけではない。


 けれど、ノアにはその名が胸の中へ沈んできた。


 黒い鏡のさらに奥。

 帰り道の顔をした罠の、その先。

 帰れなかった名が流れ着く、月の欠けた原。


 ノアは息を忘れた。


 遠くに、無数の灯が揺れている。


 一つ一つは小さい。


 けれど、数えきれないほどあった。


 旧道の両側に並んでいた灯よりも、さらに多い。遠くの星野のように、黒い硝子の大地に散っている。赤いもの、白いもの、青く濁ったもの、名の形を失ってただの燐光になったもの。


 リィゼが、小さく息を呑んだ。


「……多すぎる」


 その声は、怒りにも悲しみにもなりきれず、ただ震えていた。


 拾名屋である彼女には、そこにあるものの意味が分かるのだろう。


 ノアにも、もう分かってしまう。


 あれは灯ではない。


 帰りたいと願った名だ。


 帰れなかった者。

 帰りたいと言った者。

 帰れると信じて罠に落ちた者。

 外界に戻されるはずだった者。

 閉門に阻まれた者。

 名を裂かれた者。

 誰かに呼ばれたかった者。

 もう一度だけ、自分の名前で返事をしたかった者。


 そのすべてが、灯になっている。


 ノアの胸が痛んだ。


 自分の問題だけではない。


 その言葉は、第十話から何度も聞いてきた。

 レギオンにも言われた。

 自分でも言った。


 けれど、今初めて、本当に見た。


 自分の帰りたいは、この灯たちの流れと繋がっている。


 ノアだけが帰れる道を作ったとしても、この灯は残る。

 ノアだけが回収されたとしても、この灯は消えない。

 ノアだけが閉じられたとしても、次の誰かがまた呼ばれる。


 遠くに、谷があった。


 まだ完全には見えない。


 黒い霧の向こうに、地面が大きく裂けている。その裂け目は、先ほど旧道の先に見えたものよりも広く、深い。谷というより、世界の紙面に書かれた名を、巨大な爪で引き裂いた跡のようだった。


 そこから、声はしない。


 声がないことが、かえって恐ろしかった。


 灯は、ゆっくりとその谷へ流れていく。


 急流ではない。

 無理やり引きずられているようにも見えない。


 ただ、ほかに行き先を知らないものたちが、少しずつ、少しずつ、そこへ向かっている。


 エル=ネフリドが杖を軽く傾けた。


「見えるかい、ノア嬢」


 彼の声は、いつもより遠かった。


「あれが、帰れない名の流される先だ」


 ノアは鏡の向こうを見つめた。


 名裂きの谷。


 その奥に、さらに何かがある。


 谷の奥。霧の底。灯が流れ込んでいく先。


 そこには、門があるのだろう。


 無帰結門エンド=レス。


 まだ見えない。


 けれど、そこにあると分かる。


 帰ることも、失うことも、終わることもできず、名を流し続ける場所。


 ノアの足元で、《影の縁留め》が震えた。


 警告ではなかった。


 少なくとも、これまでのような危険を知らせる震えではない。


 それは、方角を示す震えだった。


 こっちだ、と。


 この先だ、と。


 震える影が、黒い鏡の奥に映る月蝕原へ向かって、細く伸びている。


 ノアは喉を鳴らした。


 怖い。


 怖いに決まっている。


 あそこへ行けば、自分の名も裂かれるかもしれない。

 帰りたいという願いを、今度こそ奪われるかもしれない。

 ベルという響きも、完全に失うかもしれない。


 それでも。


 灯の中に、一つだけ、ノアの胸を強く引っかくものがあった。


 遠くの灯。


 ほかの灯と同じように揺れているのに、なぜか目が離せない。


 それは文字ではなかった。


 音でもなかった。


 けれど、ノアには分かった。


 ベル。


 自分の名の一部。


 そして、自分だけのものではなくなってしまったもの。


 その灯は、ほかの帰れない名たちと絡み合っていた。一本の糸ではなく、複数の細い線が結びつき、ほどけかけ、また絡まり、谷の奥へ引かれている。


 ノアは胸元の仮保護名札を押さえた。


「ベル……」


 声にした瞬間、その灯がかすかに震えた。


 リィゼがすぐに言う。


「ノア、近づきすぎないで」


「分かっています」


 そう答えたつもりだった。


 でも、自分の声が遠かった。


 レギオンが一歩前へ出る。


 ヴェイル=エルドラドの黒金の線が、ノアの前で静かに脈打つ。


「そこから先は、鏡越しでも危険だ」


 ノアはレギオンを見た。


 魔王は、月蝕原を見ていなかった。


 ノアを見ていた。


 鏡の奥の恐怖ではなく、それを見ているノア自身が、どこまで耐えられるかを見ている。


 ノアは唇を震わせた。


「これを見に行けば」


 言葉が喉に引っかかる。


 それでも、聞いた。


「私は帰れるんですか」


 回廊が静まり返った。


 リィゼが息を止める。

 オルフェの筆が動かない。

 セヴラの黒鍵が低く鳴る。

 ガルドの気配が、わずかに硬くなる。


 ヴィクトルのいる監視席は、黒い硝子の奥で沈黙していた。彼がどういう顔をしているのか、ノアからは見えない。けれど、外界の白い手が、まだこちらを見ている気配はあった。


 レギオンは、すぐに答えなかった。


 その沈黙が、答えよりも先に胸へ落ちる。


 やがて、魔王は言った。


「分からない」


 ノアは、苦しくなって笑った。


 笑うしかなかった。


「魔王でも、分からないんですか」


「ああ」


 レギオンは静かに頷いた。


「分からないことを、分からないと言うために、王がいる」


 ノアは目を見開いた。


 その言葉は、不思議だった。


 王とは、答えを持っているものだと思っていた。

 命令し、裁き、道を示すものだと。


 けれど、レギオンは分からないと言った。


 ごまかさずに。

 希望で飾らずに。

 脅しもしないで。


 分からない、と。


 その誠実さが、痛かった。


 でも、救いでもあった。


 できると言われれば、縋ってしまう。

 無理だと言われれば、折れてしまう。


 分からない。


 その答えだけが、ノアにまだ自分で考える余地を残した。


 エル=ネフリドが鏡の中で、ふっと笑った。


「帰れるかどうかを先に保証してから歩く道など、たいてい誰かの檻だよ」


 ノアは黙った。


 その言葉は、軽やかに聞こえて、ひどく重かった。


 外界の記録は保証をくれるかもしれない。


 あなたには記録がある。

 戻る場所がある。

 だから安全確保後に保護する。


 閉門派も別の保証をくれるかもしれない。


 閉じれば危険は減る。

 帰らなければ、外界は入ってこない。

 願いを封じれば、門にはならない。


 どちらも、保証の形をしている。


 だが、その保証の先で、自分の声が残るとは限らない。


 ノアは鏡の奥を見た。


 月蝕原。

 帰れない名の灯。

 名裂きの谷。

 まだ見えない無帰結門。

 そして、その流れの中に絡め取られた「ベル」。


 帰れるかどうかは分からない。


 でも、見に行かなければ、分からないままだ。


 自分の名がどう使われているのかも。

 帰りたいと願った人たちの名がどこへ流れているのかも。

 自分が本当に帰りたい場所が、どこなのかも。


 ノアは、ゆっくりと息を吸った。


「それでも」


 声は小さかった。


 でも、今度は逃げなかった。


「それでも、見に行きます」


 リィゼがノアを見た。


「帰るため?」


 その問いは、優しかった。


 でも、甘くはなかった。


 ノアが何を選ぼうとしているのか、確かめる声だった。


 ノアはすぐには答えられなかった。


 帰るため。


 そう言いたい。


 ずっと、それだけを望んできたのだから。


 でも、今はその言葉だけでは足りない。


 ノアは月蝕原の灯を見た。


「帰るためです」


 まず、そう言った。


 その願いだけは、捨てない。


 捨てたら、きっと自分ではなくなる。


 けれど、続けた。


「でも、私だけが帰るためじゃありません」


 言葉が回廊に落ちる。


 黒い鏡が、静かに揺れた。


「私の名前が、誰かの帰り道の罠に使われているなら、止めたいです。ベルが、あの灯たちと絡んでいるなら、取り戻したい。でも、それは私のためだけじゃなくて……あそこに流れている名を、罠のままにしたくないからです」


 ノアはリィゼを見る。


「拾えるかどうかも、分かりません」


 リィゼの目が揺れた。


「分かんないよ。そんなの」


「はい」


「でも、見に行かなきゃ、拾えない」


「はい」


 リィゼは乱暴に息を吐いた。


「ほんと面倒くさい」


「すみません」


「謝るなって言ってる」


 その言葉に、ノアは少しだけ笑いそうになった。


 こんな場所で。


 こんな鏡の前で。


 でも、リィゼがそう言ってくれるから、ノアはまだここに立っていられる。


 セヴラが静かに言った。


「見に行くなら、旧道の呼称はさらに強くなります」


「はい」


「名裂きの谷に近づけば、あなたの帰還希望は利用されやすくなる」


「分かっています」


「分かっているだけでは足りません」


「それでも」


 ノアはセヴラを見た。


「閉じるだけでは、あの名たちは戻りません」


 セヴラは返事をしなかった。


 けれど、黒鍵を下ろしはしなかった。


 それは反対ではなく、警戒を持った同行の意思に見えた。


 オルフェが、ゆっくり筆を動かした。


「本人意思、記録」


 今度は文字が歪まなかった。


 彼は慎重に、一語ずつ記した。


「帰還希望は継続。ただし目的は個人帰還のみではなく、名裂きに流された帰還希望者名の確認および奪還を含む」


 ノアは、その言葉を聞きながら、胸の奥が少し重くなるのを感じた。


 自分の願いが、また記録になる。


 でも、今度は誰かに決められた記録ではない。


 自分が言ったことだ。


 自分で、そう言った。


 レギオンが静かに頷く。


「黒冠宮は、その意思を受ける」


 ヴェイル=エルドラドの黒金の線が、ほんの一度だけ脈打った。


 エル=ネフリドが鏡の中で、満足そうに帽子を持ち上げる。


「では、見に行こうか」


 白い獣紳士の杖が、月蝕原の遠くを指す。


「帰れない名が、どこへ流されているのかを」


 黒い鏡の奥で、名裂きの谷の灯が揺れた。


 無数の小さな名が、遠い風に吹かれるように瞬く。


 その中で、ベルに似た灯が、もう一度だけ震えた。


 ノアの胸元の仮保護名札が応じる。


 足元の影の縁留めも、かすかに震えた。


 警告ではない。


 今度は、道標のようだった。


 行くべき先を示す震え。


 帰りたいという願いを奪われないために。


 帰れない名が流される先を、見届けるために。


 ノアは黒い鏡の奥を見つめたまま、静かに拳を握った。


 帰りたい。


 その言葉は、まだ胸にある。


 けれど今、その先には、自分ひとりでは抱えきれないほど多くの灯が揺れていた。

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