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第三節 ― ヴェイル=エルドラド

 ベル。


 その響きが、黒い鏡の奥からこぼれた瞬間、回廊の空気が変わった。


 旧道の灯が、ただ揺れたのではない。


 灯のひとつが、ノアの名札に触れた。そう感じた。


 胸元の仮保護名札が、熱くなる。熱いのに、芯だけが氷のように冷たい。ノアは思わず両手で札を押さえた。紙と金具と銀糸でできたはずのそれが、今は心臓の外側にもう一つ心臓を持っているように、細かく震えている。


「ベルって……」


 リィゼが低く呟く。


 いつもの軽さはなかった。


「ノア=リントベルの、ベル?」


「分かりません」


 ノアは答えた。


 本当に分からなかった。


 リントベル。


 外界の記録に残っているはずの名前。

 ヴィクトルが正確に呼んだ名前。

 自分が取り戻したいと思っている名前。


 けれど、いま鏡の奥から触れてきた「ベル」は、ただの姓の一部とは思えなかった。


 もっと古い。

 もっと遠い。

 誰かの名の破片と、どこかで絡み合った響き。


 ノアの足元で、影が広がる。


 《影の縁留め》が震えている。


 警告。

 でも、それだけではない。


 影が何かを探している。

 名札からこぼれ落ちそうになるものを、必死に拾おうとしている。


 オルフェが記録台の前で筆を構えた。


「鏡面反応、変質。旧道灯火の一部が対象者の仮保護名札および影縁に接触。音素反応、ベル――」


 そこまで書きかけて、彼の筆が止まった。


 黒晶板の上に浮かんだ文字が、ぐにゃりと歪む。


 ベル。


 その一語だけが、黒い水の中に落ちた墨のように広がり、別の文字へ変わろうとした。


 ノア。

 ノア=リント――

 ノア=リントベル。

 帰還希望者。

 回収対象。

 門。


 文字が重なった。


 記録板の上で、いくつもの呼び名が互いを押し潰すように現れては消える。


 オルフェの顔色が変わった。


「これは……」


 彼は筆を握りしめたまま、記録を続けようとする。けれど、筆先が黒晶板に触れた瞬間、文字が一つの形へ固定されかけた。


 ノア=リントベル。


 その文字が、鋭く光る。


 同時に、ノアの胸が締めつけられた。


 名前が戻るのではない。


 名前に閉じ込められる。


 そんな感覚だった。


 オルフェは即座に筆を離した。


 黒晶板の文字が崩れ、再び黒い粒となって散る。


「記録を停止します」


 オルフェの声は硬かった。


「これは、記録できません。記録した瞬間、どれか一つの呼び名に固定されます」


 ノアは息を呑んだ。


 記録できない。


 オルフェがそう言った。


 記録官である彼が。


「固定されると、どうなるんですか」


 ノアの声はかすれていた。


 オルフェは迷ったように一瞬だけ沈黙し、それから正直に答えた。


「その呼び名以外のあなたが、切り落とされる恐れがあります」


 リィゼが鋭く息を吸った。


「そんな記録、するな」


「しません」


 オルフェは即答した。


「記録官として、今は記録しないことを記録します」


 その言葉が、ぎりぎりのところでノアを支えた。


 記録しないことも、記録される。


 今のノアを、どれか一つの呼び名に閉じ込めないために。


 だが、鏡は止まらなかった。


 旧道の灯が、外界の記録院の風景と重なっていく。


 古い書架。

 白く抜けた窓。

 身分証。

 ヴィクトルの白手袋。

 帰還灯。

 黒い裂け目。

 名の灯。

 道の奥の門。


 すべてが一枚の鏡の中で重なる。


 ノアの耳に、声が流れ込んできた。


 ノア。


 リィゼの声に似ている。


 ノア=リント――


 外界の同僚の声に似ている。


 ノア=リントベル。


 ヴィクトルの声だ。


 帰還希望者。


 裁定記録の声。


 回収対象。


 白い書類の声。


 門。


 閉門派の恐れ。


 門。


 旧道の囁き。


 門。


 名裂きの裂け目。


 呼び名が重なりすぎて、どれが自分を呼んでいるのか分からなくなる。


 ノアは足元が揺れるのを感じた。


 床が傾いたのではない。


 自分の中の「私」が傾いている。


 ノアなのか。

 ノア=リントベルなのか。

 帰還希望者なのか。

 回収対象なのか。

 門なのか。


 違う。


 違うはずなのに、声が重なるたび、自分の輪郭が薄くなる。


 ノアは立っていられなくなり、膝を折りかけた。


 ガルドが背後から肩を支える。


「立て」


 短い声だった。


 命令のようで、支えだった。


「倒れるなら支える。だが、まだ行くな」


 まだ行くな。


 その言葉で、ノアは自分がどこかへ引かれかけていたことに気づいた。


 鏡の向こうへ。

 旧道へ。

 外界記録の中へ。

 名裂きの裂け目へ。


 どこでもいいから、自分を一つに決めてくれる場所へ。


 リィゼが正面からノアの両腕を掴んだ。


「ノア。私を見る」


「リィゼ……」


「名前、呼ぶよ。何回でも呼ぶ。今ここにいるのは、ノア」


 その声が、重なった呼び名の中に一本だけ通る。


 仮保護名。


 でも、今ここで呼ばれる名。


 ノアはそれに縋った。


 監視席の黒い硝子の向こうで、ヴィクトルが動いた。


 これまで彼は、礼儀正しく沈黙していた。王都の仮裁定に従い、単独接触を禁じられ、硝子越しに立ち会っているだけだった。


 だが、今は違った。


 彼の白手袋が、硝子に触れている。


 表情に、初めて明確な焦りに近いものが浮かんでいた。


 外界記録上は、ノア=リントベルで固定すべきなのだろう。


 それが、彼の理屈だ。


 外界に記録がある。

 ならば、その名へ戻す。

 事故以前の所属へ戻す。

 異常状態を照合し、隔離し、安定させる。


 けれど、鏡はそれを単純な救済として映さなかった。


 ノア=リントベルという名で固定することが、今のノアを救うとは限らない。


 その事実が、鏡に映ってしまった。


 ヴィクトルの微笑が消えている。


 彼は硝子越しに何かを言おうとした。だが、声は届かない。監視官がすぐに横へ立ち、彼の動きを遮る。


 その一瞬、ノアは見た。


 ヴィクトルの目にあったのは、怒りではない。


 不快感だった。


 ノアが、外界の記録だけでは扱えないものになっていくことへの不快感。


 鏡の中で、エル=ネフリドが小さく笑った。


「おやおや。外界の紳士殿は、ずいぶん落ち着かない様子だ」


 レギオンの声が冷たく響く。


「見るべきものを見ているだけだ」


「彼にとっては、見たくないものだろうね。正確な記録が、必ずしも人を救うとは限らない。なんとも不都合な真実だ」


「黙れ」


「まだ何も言っていないよ」


「言う前からうるさい」


 エル=ネフリドは楽しげに肩をすくめた。


 次の瞬間、鏡がさらに変質した。


 黒い裂け目が広がる。


 旧道の灯が一斉にノアへ傾く。


 外界記録院の書類が、白い鳥の群れのように舞い上がる。


 そのすべてから、細い線が伸びた。


 黒い線。

 白い線。

 赤黒い線。

 古い銀のような線。


 それらがノアの名札へ、影へ、喉へ、胸へ、髪へ、指先へ伸びてくる。


 呼び名がさらに近づく。


 ノア。

 ノア=リントベル。

 帰還希望者。

 回収対象。

 門。

 ベル。

 ベル。

 ベル。


 最後の音だけが、異様に近い。


 ノアは悲鳴を上げそうになった。


 そのとき。


 黒冠宮の回廊に、別の音が響いた。


 剣が抜かれる音ではない。


 鞘の奥で、光が脈打つ音。


 レギオンの傍らにある《ヴェイル=エルドラド》が、はっきりと反応していた。


 黒い鞘の表面に、金とも黒ともつかない光が走る。


 光は眩しくなかった。むしろ影のように深い。だが、その影の中に金の芯があった。夜の底に沈めた太陽の欠片のような、不思議な輝き。


 剣は抜かれない。


 レギオンは柄に手をかけてもいなかった。


 それでも、ヴェイルは動いた。


 黒い鞘の奥から、細い黒金の線が一本、静かに伸びる。


 それは鏡とノアの間に走った。


 壁ではなかった。


 檻でもなかった。


 ノアを囲い込む線ではない。


 ノアへ伸びていた無数の線だけを、選び取るように隔てる。


 外界記録の白い線が、黒金の縁に触れて止まる。

 旧道の黒い線が、そこで滑るように逸れる。

 名裂きの赤黒い線が、火花のように散る。

 「ベル」と鳴る音だけが、黒金の線に触れて小さく震えた。


 ノアの胸の圧迫が、少しだけ緩む。


 呼び名はまだ聞こえる。


 けれど、引かれない。


 名前を奪う手が、自分へ直接届かなくなった。


 レギオンが静かに言った。


「ヴェイルは門を開く剣ではない」


 その声は、回廊のすべての鏡に染み込むように響いた。


「奪わせないために隔てる剣だ」


 ノアは、黒金の線を見つめた。


 隔てる。


 閉じるのとは違う。


 拒絶するのとも違う。


 守るために、奪おうとするものだけを分ける。


 セヴラの黒鍵は、線を閉じる。

 ヴィクトルの記録は、線を固定しようとする。

 旧道は、線を誘う。

 名裂きは、線を裂いて奪う。


 ヴェイルは、そのどれとも違った。


 ノアの願いを閉じない。

 名を固定しない。

 帰り道を示すわけでもない。


 ただ、奪わせない。


 レギオンは続けた。


「無帰結門に対抗するには、門を開くだけでは足りない。開いた先で、名を奪われないための隔てが要る」


 無帰結門。


 その名が出た瞬間、鏡の奥の裂け目が大きく波打った。


 黒い道の先にあるものが、ただの谷ではないことが伝わってくる。


 帰ったことにならない門。

 進んでも、戻っても、どこにも結びつかない門。

 帰りたいという願いだけを吸い上げ、名を宙吊りにする場所。


 ノアは、ようやく少しだけ理解した。


 自分が求めているのは、単なる帰還ではない。


 外界へ戻ることだけなら、ヴィクトルに従えばいいのかもしれない。

 危険を避けるだけなら、セヴラたちに帰路を閉じてもらえばいいのかもしれない。

 呼ばれるまま進むだけなら、旧道に返事をすればいいのかもしれない。


 でも、それでは名が奪われる。


 自分の名も。

 帰りたいと願った人たちの名も。


 帰る道を作るには、開くだけでは足りない。


 奪われないように守りながら進む必要がある。


 帰りたいという願いを、空白へ流させないために。


 ノアは震えながら、ヴェイルの黒金の線を見た。


 それは優しい光ではなかった。


 強く抱きしめるものでもない。


 でも、そこには確かに守る意志があった。


 エル=ネフリドが鏡の中で愉快そうに杖を鳴らす。


「おや、陛下の剣が随分と親切だ。珍しいこともあるものだね」


「黙れ」


 レギオンの返答は即座だった。


 エル=ネフリドは笑った。


「いいとも。黙るとも。ほんの少しだけね」


「その少しが信用ならない」


「信用など、私に向けるものではないよ。問いに向けるものだ」


 白い獣紳士は、ノアを見る。


 その目は、笑っていた。


 けれど、軽くはなかった。


「だが、ノア嬢には聞こえただろう」


 ノアは唇を結んだ。


 ベル。


 あの音が、まだ胸の奥で震えている。


 エル=ネフリドは言う。


「君の名は、ただ欠けているのではない。誰かが、どこかで、その欠けた部分を道具にしている」


 ノアの背筋が冷えた。


 欠けているだけではない。


 失っただけでもない。


 自分の名前の一部が、どこかで使われている。


 帰り道の灯として。

 誰かを誘う音として。

 無帰結門へ流れる線として。


「ベル、が……?」


 ノアは呟いた。


 エル=ネフリドは答えない。


 代わりに、杖の先で鏡の奥の灯を指した。


 そこには、先ほどノアの影に触れた淡い灯がまだ揺れていた。名としては不完全。けれど、他の灯と絡み合い、旧道の奥へ細い線を伸ばしている。


 ノアは、その灯を見つめた。


 怖い。


 自分の名が、自分の知らないところで、罠の一部になっているかもしれない。


 それは恐怖だった。


 だが、同時に怒りでもあった。


 ノア=リントベル。


 その名は、自分のもののはずだ。


 まだ全部を取り戻せていなくても。

 呼ばれるたびに揺れてしまっても。

 外界記録に固定されるのが怖くても。


 それでも、自分の名前だ。


 誰かを騙して旧道へ誘うための灯ではない。


 誰かの帰りたいを喰うための餌ではない。


 ノアは拳を握った。


 まだ膝は震えている。

 喉も痛い。

 目の奥も熱い。


 でも、言葉は出た。


「私の名前を」


 声は小さかった。


 リィゼが隣で黙って見ている。


 ガルドの手は、まだノアが倒れないよう背後にある。


 オルフェは筆を止めたまま、ノアの声だけを聞いている。


 セヴラは黒鍵を構えたまま、ノアから目を逸らさない。


 レギオンは、ヴェイルの線の向こうで静かに立っている。


 エル=ネフリドは、鏡の中で微笑んでいる。


 ノアは、もう一度言った。


「私の名前を、誰かの帰り道の罠に使わせたくありません」


 その言葉が回廊に落ちた瞬間、ヴェイル=エルドラドの黒金の線が、かすかに強く光った。


 鏡の中の淡い灯が震える。


 ベル。


 もう一度、遠い音がした。


 けれど今度は、ノアを引く音ではなかった。


 どこかで助けを求めるような、かすかな響きだった。

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