第二節 ― 罠にされた帰り道
鏡の奥に、灯がともった。
最初は一つだけだった。
黒い面の奥、遠い闇の底に、小さな赤黒い光が浮かぶ。朱墨の灯に似ている。けれど、グリム=ラハドの灯とは違った。あの街の灯は、契約と祈りを混ぜた色をしていた。怖くても、そこには人を守るための制度があった。
いま鏡に浮かんだ灯は、もっと細い。
吹けば消えそうで、それでいて消えない。
誰かが、どうしても消したくなくて握っていた最後の火のようだった。
次に、もう一つ。
その隣に、さらに一つ。
黒い鏡の奥で、灯が増えていく。
一つ一つは小さい。けれど、数が増えるにつれ、ノアはそれが道の両側に並んでいるのだと分かった。
黒い道。
古い石畳。
割れた標識。
半分だけ埋もれた道しるべ。
濡れてもいないのに湿ったように光る路面。
旧道だ。
第七話で、遠くに見えた灯。
第八話で、夜の底から声が届いた道。
第九話で、ザイ=ヴェルムの奥に黒い裂け目として見えたもの。
それらがいま、鏡の中で一本の道になっている。
ノアは喉の奥が冷えるのを感じた。
見覚えがあるわけではない。歩いたこともない。けれど、呼ばれたことがある。呼ばれた声を、身体が覚えている。
帰りたいなら、門へ。
その言葉がまだ聞こえていないのに、影の縁が先に震えた。
リィゼが即座にノアの袖を掴む。
「ノア」
「まだ、大丈夫です」
「まだ、って言った時点で大丈夫じゃない」
リィゼの声は低かった。
普段なら軽口に聞こえる言葉も、今は刃のように緊張している。彼女の金紫の瞳は、鏡の中の灯をじっと見つめていた。
そして、息を呑む。
「……名だ」
その声が、かすかに震えた。
ノアはリィゼを見た。
「名?」
「灯に見えるけど、違う。あれ、名だよ」
リィゼは、鏡から目を逸らさない。
「拾われる前の名。偽名証に残った端。帰るって書き残した呼び名。誰かが最後まで持ってた、帰り先の音」
ノアは鏡を見た。
灯の一つが、かすかに揺れる。
すると、その火の中に、文字のようなものが見えた。
完全な名前ではない。
呼べる形でもない。
けれど、それが誰かの名だったことだけは分かる。
セノ。
ノアは、その響きを胸の中で聞いた。
誰かの名前。
あるいは、誰かが最後に名乗ったもの。
次の灯には、破れた紙片のような影が巻きついていた。
偽名証の端だけが残った者。
さらに奥には、薄い黒い板のような灯がある。そこには、筆跡だけが残っている。
帰りたい。
そう書き残して消えた者。
別の灯は、船の帆の形をしていた。白腹鴉号。名前だけを聞いたはずの船が、ノアの中で黒い海を渡る影になって浮かんだ。
さらに遠くには、濁った水に沈むような名があった。
ノイ=カランで名が濁った者。
リィゼの指が、ノアの袖を強く掴んだ。
「……あれ、拾えなかった名だ」
その声は小さかった。
ノアはリィゼを見る。
彼女の顔から、いつもの強気が消えていた。怒っているのではない。怖がっているのでもない。もっと深いところで、拾名屋として傷ついている顔だった。
名を拾う者の前に、拾えなかった名が並んでいる。
それがどんな光景なのか、ノアには完全には分からない。
けれど、リィゼの手が震えていることだけは分かった。
ノアは、自分の袖を掴むリィゼの手に、そっと反対の手を添えた。
リィゼは驚いたようにこちらを見た。
ノアは何も言わなかった。
言えば、リィゼが怒る気がした。大丈夫ですか、と聞けば、きっと大丈夫じゃなくても大丈夫と言う。
だから、ただ触れた。
今度は自分が、ここにいると知らせるために。
エル=ネフリドが、鏡の中で旧道の入口に立っていた。
白い獣紳士の姿は、黒い道にはあまりにも不釣り合いだった。場違いなシルクハット。細い杖。暗闇に浮く白い輪郭。けれど、その不釣り合いさこそが、彼が道に呑まれていない証のようにも見えた。
「見えるかい、ノア嬢」
彼は杖の先で、道の両側に並ぶ灯を示す。
「これらは帰還希望者の名だ。ある者は本名を抱えていた。ある者は偽名しか持てなかった。ある者は帰る場所を失ってなお、帰りたいという言葉だけを持っていた」
杖の先が、こつん、と旧道を叩く。
道が揺れた。
灯が、一斉にかすかに傾く。
ノアは息を呑んだ。
鏡の中の道を、人影が歩いていた。
はっきりとは見えない。輪郭だけだ。背の低い者。肩に荷物をかけた者。片腕を抱えて歩く者。子どもの手を引く者。ふらつきながらも灯を目指す者。
彼らは、恐れていないように見えた。
いや、恐れてはいる。
でも、それ以上に信じている。
灯の向こうに、自分の帰る場所があると。
誰かの声がする。
おかえり。
遅かったね。
どこに行っていたの。
もう大丈夫。
ノアの胸が痛くなる。
それは、ノアが聞きたかった言葉でもあった。
帰っていい。
ここにいていい。
あなたは、あなたのままでいい。
鏡の中の人影たちは、その声に導かれて歩く。
彼らの周囲に、匂いが生まれる。
焼きたてのパンの匂い。
潮風の匂い。
雨の上がった石畳の匂い。
子どものころに使っていた毛布の匂い。
煤けた工房の匂い。
外界の街の匂い。
もう存在しないはずの家の匂い。
ノアは、自分の足が前へ出そうになるのを感じた。
これは鏡だ。
本物ではない。
そう分かっているのに、身体の奥が反応する。
帰りたい。
ただそれだけの言葉が、あまりにも強い。
セヴラの声が飛んだ。
「近づかないでください」
ノアは肩を震わせた。
セヴラは黒鍵の柄に手を置いたまま、鏡を睨んでいる。
「これは旧道の帰還誘導です。感覚に訴えてきます」
「感覚……」
「故郷の匂い、家族の声、失った名が戻る予感。どれも本人にとって最も逆らいにくい形を取ります」
ノアは唇を噛んだ。
そうなのだ。
命令されれば拒める。
手続きを突きつけられれば怖がれる。
危険だと言われれば反発できる。
でも、「帰っておいで」と言われたら。
それが自分の本当に欲しかった声に似ていたら。
人は、どれほど抗えるのだろう。
鏡の中の人影が、道を進む。
灯が彼らを導く。
やがて、道の先が見えた。
最初は門に見えた。
古い石造りの門。左右には柱があり、その向こうに柔らかな光がある。ノアの知らないはずの誰かの家の入口にも、記録院の門にも、港町の帰着門にも見えた。
けれど、見つめるほどに形が変わる。
門ではない。
裂け目だ。
黒い紙を縦に裂いたような傷。第九話の終わりに見た、ザイ=ヴェルムの奥の黒い裂け目。それが、鏡の中で大きく口を開いている。
人影たちは気づかない。
いや、気づけないのかもしれない。
彼らの目には、そこが家に見えている。港に見えている。家族の待つ灯に見えている。失った名前が戻る場所に見えている。
一人が裂け目へ近づく。
灯が、ふっと吸い込まれた。
声も、匂いも、輪郭も、一瞬で消える。
残ったのは、灯の芯のような細い名の破片だけだった。
それも黒い裂け目に絡め取られ、奥へ引きずられる。
ノアの呼吸が止まった。
次の人影も、同じように進む。
また一つ、灯が吸い込まれる。
帰りたいと信じて歩いていく者たちが、次々に裂け目へ落ちていく。
叫びはない。
抵抗もない。
だって彼らは、帰れると思っている。
それが何より怖かった。
エル=ネフリドの声が、鏡の中から静かに届いた。
「これは帰り道ではない」
彼の声には、いつもの芝居がかった軽さが少しだけ薄れていた。
「帰りたいという言葉を、道の形にした餌場だ」
餌場。
ノアは、その言葉に胸を押さえた。
あまりにも残酷な言い方だった。
でも、鏡の中の光景を見れば、否定できない。
帰りたいという願いが、餌にされている。
帰る場所の形をした罠。
家族の声を真似る闇。
失った名を返すふりをして、さらに深く奪う裂け目。
ノアの足元で、《影の縁留め》が激しく震えた。
警告。
今度ははっきり分かる。
影の縁が黒く波打ち、床の円にぶつかるように揺れた。胸元の仮保護名札も冷たくなり、銀糸輪が小さな音を立てる。
旧道が、こちらに気づいた。
鏡の中の道の奥で、黒い裂け目がわずかに向きを変える。
ありえない。
裂け目に向きなどあるはずがない。けれど、ノアには分かった。
見ている。
こちらを。
そして、声が届いた。
帰りたいなら、門へ。
ノアの身体が硬直した。
前にも聞いた声だった。
第八話の夜、グリム=ラハドの宿舎で、眠れずにいたとき。
旧道の方角から届いた声。
返事をしそうになった自分を、《影の縁留め》が止めた。
いま、その声はもっと近かった。
鏡の奥からだけではない。耳元で囁かれているようでもあり、胸の奥から自分の声で響いているようでもある。
帰りたいなら、門へ。
帰りたい。
そうだ。
帰りたい。
ノア=リントベルとして、疑われずに呼ばれていた自分へ帰りたい。
記録院へ。
身分証へ。
壊れていない名前へ。
誰かが自然に呼んでくれる日常へ。
帰りたいなら、門へ。
ノアは唇を開いた。
返事を。
しそうになった。
「ノア!」
リィゼの声が、回廊を切り裂いた。
仮保護名。
ノア。
それは本名ではない。外界記録に刻まれた完全な名前でもない。
けれど、今ここでノアを呼び戻すための名だった。
リィゼの声は強かった。
怒っていた。
怖がっていた。
必死だった。
「返事するな!」
ノアの身体が震えた。
息が戻る。
影の縁が、足元で激しく波打ちながらも、床の円へ戻ってくる。
ノアは自分が鏡へ向かって半歩進んでいたことに気づいた。
リィゼが袖どころか腕を掴んでいる。
ガルドもすでに背後へ来ていた。ノアの肩がこれ以上前へ傾けば、すぐに引き戻せる位置にいる。
オルフェが記録台で叫ぶ。
「旧道呼称干渉、強度上昇。対象者、返答直前に拾名呼称により停止」
セヴラが黒鍵を抜いた。
その音は、鏡の中の旧道まで届いたようだった。
黒い鍵の刃が、回廊の空気を裂く。
「閉じます」
セヴラは床へ黒鍵を立てた。
こつん、ではない。
重い音がした。
黒鍵の先端から黒い線が走り、床の円を越え、鏡面へ突き刺さる。鏡の中からこちらへ伸びていた見えない線が、その瞬間だけ姿を現した。
細い。
黒い。
濡れた髪のような線。
それがノアの影へ絡みかけていた。
ノアは息を呑む。
セヴラが低く唱える。
「拒入。遮断。封路」
黒鍵が光る。
鏡の中の旧道が揺れた。
帰りたいなら、門へ。
声が歪む。
帰りたい、なら――
線が切れた。
ノアの影が大きく跳ね、次いで床へ落ち着いた。
リィゼがノアの腕を掴んだまま、荒く息を吐いている。
「ばか」
声が震えていた。
「返事しかけた」
「……はい」
「はいじゃない」
「ごめんなさい」
「謝るのも違う」
リィゼは怒っていた。
けれど、その怒りの奥にあるものが分かったから、ノアは何も言い返せなかった。
怖かったのだ。
ノアが、ほんの半歩で鏡の向こうへ行ってしまうかもしれなかったから。
セヴラが黒鍵を床から抜いた。
鏡の中の旧道はまだ映っている。けれど、先ほどまでの誘うような近さは薄れていた。灯は遠くなり、裂け目も道の奥へ退いている。
セヴラはノアを見た。
「これが、私たちが恐れているものです」
声は静かだった。
責めてはいない。
だが、容赦もない。
「あなたが悪いのではない。ですが、帰りたいという願いは、このように使われる」
ノアは何も言えなかった。
セヴラの言葉は、第九話で聞いた閉門派の主張と同じ根を持っている。
門は、望んだ形でだけ開くわけではない。
鍵は、自分が鍵だと知らなくても扉を開ける。
あのときノアは傷ついた。
人間ではなく鍵として見られていると感じた。
今も、その痛みは消えていない。
でも、鏡を見てしまった。
帰りたいという願いが、実際に道の形をした罠へ変えられているところを見てしまった。
だから、反論できなかった。
私は違う。
私は罠になんかならない。
私は誰かを危険にしない。
そう言いたかった。
でも、さっき返事をしかけた。
ノア自身が。
帰りたいという声に引かれて、半歩進んだ。
それが事実だった。
沈黙が落ちる。
鏡の中では、灯がまだ揺れている。
名たちが、道の両側に並んでいる。
ノアは震えながら、それを見た。
怖い。
自分の願いが怖い。
帰りたいと思うこと自体が、誰かに利用されるかもしれない。
なら、願わなければいいのか。
帰りたいと言わなければ、旧道は呼ばないのか。
名裂きは餌を失うのか。
閉門派は安心するのか。
外界も、回収する必要がなくなるのか。
違う。
ノアは、胸の奥で何かが小さく熱を持つのを感じた。
違う。
帰りたいと願った人たちが悪かったのではない。
罠を作ったものが悪い。
願いを道具にしたものが悪い。
帰るという言葉を、餌場に変えたものが悪い。
ノアは拳を握った。
指が震える。
それでも、言わなければと思った。
ここで黙れば、自分の中の「帰りたい」が恐怖に塗りつぶされる。
「だからって」
声が小さく漏れた。
セヴラがノアを見る。
リィゼも、オルフェも、ガルドも、レギオンも、鏡の中のエル=ネフリドも。
ノアは、顔を上げた。
「だからって、帰りたいって言った人たちの名を、なかったことにはできません」
声は震えていた。
でも、消えなかった。
「罠にされたから危ないって、閉じるのは分かります。怖いのも、分かります。さっき、私も返事をしそうになりました。だから、危ないって言われる意味も、少しは分かります」
ノアはセヴラを見た。
「でも、あの灯は、罠そのものじゃありません。あれは、帰りたいって思った人たちの名です」
リィゼの目が揺れた。
拾名屋である彼女には、きっとそれが一番分かる。
「だったら、危ないから全部閉じるだけじゃ、あの人たちはずっとあそこに置かれたままです。帰りたいって願ったことごと、危険なものにされてしまう」
言葉にするほど、胸が痛んだ。
ノアは、自分の中にも同じ灯があることを感じていた。
もし自分が旧道に呑まれたら、自分の名もあの道の灯になるのだろうか。
誰かを誘うための灯に。
帰りたいという言葉を、また別の誰かへ差し出す餌に。
そんなのは嫌だ。
「私は、それが嫌です」
ノアは言った。
「帰りたいって言ったことが、罠の一部になるなんて嫌です。私の名も、あの人たちの名も、そんなふうに使われたままにしたくありません」
鏡の中で、エル=ネフリドが静かに微笑んだ。
今回は、からかうような笑みではなかった。
レギオンは何も言わない。
だが、ヴェイル=エルドラドの黒い鞘の奥で、ごく微かな光が揺れた。
セヴラは、しばらくノアを見つめていた。
「……あなたの願いは、危うい」
セヴラは言った。
「はい」
「危ういものを、危ういまま抱えて進むことになります」
「はい」
「私は、それを無条件に信じることはできません」
「分かっています」
ノアは、今度は目を逸らさなかった。
「でも、信じてもらうために、帰りたいを捨てることもできません」
セヴラの黒鍵が、微かに鳴った。
それは、否定の音ではなかった。
リィゼが小さく息を吐く。
「……ほんと、面倒くさい」
「すみません」
「謝るところじゃない」
リィゼは乱暴にノアの腕を離した。
けれど、すぐそばからは離れなかった。
そのとき、鏡の中の灯の一つが揺れた。
道の奥ではない。
ノアのすぐ前、鏡面の近くにあった小さな灯。
それは、他の灯よりも淡かった。形も定まっていない。名として呼べるほどはっきりしておらず、音になる前の震えだけを持っている。
灯が、鏡面の内側からノアの影へ触れた。
物理的に触れたわけではない。
でも、足元の影の縁が、小さく震えた。
ノアの胸元の仮保護名札が冷たくなり、次いで内側から熱を持つ。
音がした。
鐘のような音。
いいえ。
名の一部のような音。
ベル。
完全な言葉ではない。
ただ、かすかな響き。
ベル。
ノア=リントベル。
その後半だけが、遠い水底から浮かび上がるように、ノアの胸に触れた。
ノアは息を止めた。
「今……」
リィゼがすぐに身構える。
「ノア?」
「ベルって」
声が震える。
「今、ベルって聞こえました」
オルフェが記録しようとして、筆を止めた。
セヴラが黒鍵を構え直す。
レギオンの目が、ヴェイル=エルドラドへ向いた。
黒い鞘の奥で、金とも黒ともつかない光が、もう一度、微かに脈打つ。
鏡の中で、エル=ネフリドが杖を鳴らした。
こつん。
「おや」
白い獣紳士は、楽しげに、しかしどこか慎重に言った。
「どうやら、次の幕は少し早く始まりそうだね」




