第一節 ― 疑われず呼ばれていた自分
エル=ネフリドは、鏡の中で杖を軽く回した。
黒冠宮の重い空気も、レギオンの冷たい視線も、セヴラの警戒も、まるで気にしていない。白い獣紳士は、舞台の上で次の幕を選ぶ役者のように、左右へ並ぶ黒い鏡を眺めていた。
「さて」
杖の先が、こつん、と床を叩く。
いや、床ではない。
鏡の向こう側のどこかを叩いた音が、こちらの回廊へ遅れて届いたのだ。
「帰るという言葉は、とても便利だ。人はそれを、何か温かなものだと思いたがる。家、故郷、名、誰かの声。けれどね、ノア嬢」
エル=ネフリドは一枚の鏡の前で足を止めた。
「帰り道ほど、よく偽物が混じる」
レギオンの目が細くなる。
「余計な演出はするな」
「おや、陛下。演出がなければ、人は自分の心すら見落とすものだよ」
「見せすぎれば、心は裂ける」
「だからこそ、私は美しく見せる。裂け目もまた、形を知らねば縫えない」
レギオンは不快そうに沈黙した。
ノアは、そのやり取りを聞きながら、目の前の鏡から目を離せなかった。
エル=ネフリドが選んだ鏡は、ほかの鏡と同じ黒い面を持っていた。けれど、杖の先が鏡枠に触れた瞬間、墨を垂らしたような黒が少しずつ薄れていった。
最初に見えたのは、机だった。
古い木の机。
角が少し丸くなっていて、右端に小さな傷がある。インク壺を置く場所には、濃い染みが輪のように残っている。引き出しの取っ手は少し緩んでいて、開けるたびにかすかな金属音がした。
ノアは息を止めた。
知っている。
その机を、自分は知っている。
鏡の中に、書架が浮かび上がる。
天井まで届く古い書架。外界の記録院にある書架だ。背表紙の色が褪せた台帳。革紐で束ねられた航路記録。雨の日には紙が湿気を含んで、部屋全体に古い紙とインクの匂いが満ちた。
でも、今そこにある記録帳は濡れていない。
黒潮の水に濡れてもいない。
漂着の泥で汚れてもいない。
角も潰れていない。
ただ、机の上に整然と置かれている。
ノアの手が、無意識に胸元を探った。
仮保護名札ではない。
外界にいたころ、自分が首から下げていた身分証の位置を探していた。
鏡の中の机の上に、それはあった。
壊れていない身分証。
透明な保護板の奥に、きちんと名前が書かれている。
ノア=リントベル。
文字は欠けていない。
滲んでいない。
誰かに疑われる必要もなく、そこにある。
ノアの喉が震えた。
遠くで懐中時計の音がする。
かち、かち、かち。
規則正しい音だった。
メギド=ノクスへ来てから、時間はいつも揺らいでいた。黒潮、旧道、名裂き、影の縁留め。どれも時間をまっすぐには流してくれない。
けれど、鏡の中の時計は、何も知らないように音を刻んでいる。
朝に書類を受け取る。
昼前に照合を終える。
午後には不足分を整理する。
夕方には記録庫へ戻す。
そんな日常の速度。
ノアは、胸が締めつけられるのを感じた。
そこに、自分はいた。
誰かが廊下の向こうから声をかける。
「ノア=リントベル」
身体の奥が大きく揺れた。
名札が冷たくなるより先に、涙が出そうになった。
その声には、確認も警戒もなかった。
外界記録の照合でもない。
回収対象の呼称でもない。
危険な反応を試すための声でもない。
ただ、職場で誰かを呼ぶ声だった。
ノア=リントベル。
それだけでよかった。
呼ばれて、返事をする。
はい、と。
返事をしても、影は震えない。
胸元の札を押さえなくていい。
誰も、呼称反応を記録しない。
誰も、安全確保後に意思を確認すると言わない。
誰も、あなたは危険な門だと言わない。
ただ、名前を呼ばれる。
ただ、そこにいる。
ノアは、ふらりと一歩、鏡へ近づいた。
「ノア」
リィゼの声が飛んだ。
袖を掴まれる。
その手がなければ、もう一歩近づいていた。
「待って。近づきすぎ」
「でも」
ノアは、自分の声が震えているのを聞いた。
「でも、あそこに」
ある。
帰る場所が。
そう言いかけて、言葉が止まった。
エル=ネフリドが鏡の中で、にこりと笑った気がした。
「近づきたくなるだろう」
白い獣紳士の声は、妙に優しかった。
「良い鏡だ。欲しいものを、最初から醜くは見せない。帰り道とは、たいていそういうものだよ」
レギオンが低く言う。
「ノア。見るなら、細部を見ろ」
細部。
ノアは、胸元の仮保護名札を握ったまま、鏡の中を見直した。
机。
書架。
身分証。
懐中時計。
呼ぶ声。
どれも懐かしい。
どれも、帰りたいと思わせる。
けれど、よく見ると、何かが違った。
廊下に立つ同僚の顔が見えない。
輪郭はある。外界式の制服を着ている。手に書類を持っている。だが、顔だけがぼやけている。誰だったのか思い出そうとすると、胸の奥が白く霞む。
名前が出てこない。
いつも隣の机にいた人。
休憩時間に甘い菓子を分けてくれた人。
濡れた記録帳の扱いにうるさかった先輩。
いるはずなのに、見えない。
机の上の書類にも違和感があった。
ノアは目を凝らす。
そこには文字がある。欄もある。印もある。けれど読めるのは、自分の名前だけだった。
ノア=リントベル。
ノア=リントベル。
ノア=リントベル。
他の欄は白い。
所属も、日付も、担当も、記録番号も、空白。
自分の名前だけが、何度も、何度も書かれている。
ノアの背筋に冷たいものが走った。
窓の外を見る。
外界の街があるはずだった。
石畳の通り。低い屋根。遠くの記録院塔。霧の日にぼやける街灯。雨上がりに水溜まりへ映る灰色の空。
でも、窓の外は白く抜けていた。
何もない。
街の輪郭がない。
空も、建物も、人の流れも、ただ白く塗りつぶされている。
そして、記録院の廊下の奥。
ぼやけた同僚たちのさらに向こうに、白い手袋が見えた。
ノアの息が止まる。
ヴィクトル=ヘイズ。
顔は見えない。
けれど、白手袋だけで分かった。
彼がそこにいる。
穏やかに。
礼儀正しく。
待っている。
ノア=リントベルさん。
あなたを救いに来ました。
安全確保後に確認されます。
鏡の中の懐かしい部屋に、その言葉が混ざる。
ノアは、一歩下がった。
リィゼの手が袖を離さない。
「見えた?」
リィゼが小さく聞く。
ノアは頷けなかった。
代わりに、掠れた声で言う。
「顔が……見えません」
「誰の」
「同僚の。街も、白くて。書類には、私の名前しかありません」
オルフェが記録しようとして、筆を止めた。
「帰路像の欠落。本人記憶の不全か、外界記録による単独名固定の影響か、判別不能」
エル=ネフリドが楽しそうに杖を鳴らした。
「判別不能。実に良い言葉だね。分かったつもりになるより、ずっと誠実だ」
レギオンは彼を睨んだ。
エル=ネフリドは気にしない。
鏡の中で、彼はノアの机のそばへ歩いていく。まるでそこが本物の部屋であるかのように、黒い杖で床を叩き、書類の上を覗き込んだ。
「さて、ノア嬢」
彼は振り返る。
「君が帰りたいのは、この建物かい」
ノアは、鏡の中の記録院を見た。
古い書架。
机。
時計。
記録帳。
懐かしい。
でも、答えられなかった。
この建物に戻れば、それでいいのか。
ただ廊下を歩き、机に座り、記録帳を開けば、自分は帰ったことになるのか。
顔のない同僚たちの中で。
窓の外が白いままでも。
「……分かりません」
ノアは言った。
エル=ネフリドは頷く。
「では、この土地かい」
鏡の窓の外に、白い光が広がる。
外界。
帰るべき場所。
自分がいた大陸。
自分が知っているはずの街。
事故の前の世界。
でも、そこは白く抜けている。
土地の匂いがしない。
石畳の硬さも、雨上がりの冷えた空気も、紙束を抱えて走った階段の感触も、薄れている。
「……分かりません」
声がさらに小さくなった。
エル=ネフリドは、少しだけ目を細める。
優しげな、けれど逃がさない目だった。
「では、この名かい」
鏡の中の身分証が、大きく映る。
ノア=リントベル。
欠けていない名前。
何度見ても、胸が痛くなる。
取り戻したい。
それは本当だ。
ノア=リントベルとして呼ばれたい。
自分が自分だった証が欲しい。
でも、ヴィクトルが呼ぶその名は、ノアを回収対象へつなげた。外界記録が示すその名は、ノアの今の声を後回しにした。
名は欲しい。
でも、名だけを差し出されても、そこに自分がいなければ怖い。
ノアは、ようやく気づいた。
自分が鏡に近づきたくなった理由。
それは建物ではなかった。
土地でもなかった。
名前だけでもなかった。
呼ばれるたびに疑われないこと。
返事をしても、影が震えないこと。
自分の声が、本当に自分の声だと信じてもらえること。
ノア=リントベルと呼ばれたとき、誰もそこに汚染や回収や危険を見ないこと。
ノアは、胸元の仮保護名札を握りしめた。
「……疑われずに」
声が震えた。
リィゼが隣で息を止める。
「疑われずに、呼ばれていた自分です」
言葉にした瞬間、鏡の中の記録院がわずかに揺れた。
机も、書架も、身分証も、懐中時計も、すべてが水面のように揺れる。
ノアは、自分の中で何かが崩れたのを感じた。
帰りたい。
ずっとそう思っていた。
それは外界へ戻りたいという意味だった。もちろん、それは嘘ではない。外界に戻りたい。自分がいた場所を確かめたい。壊れていない身分証を見たい。自分の名が記録から消えていないことを知りたい。
でも、それだけではなかった。
帰りたいのは、疑われずに自分でいられた状態だった。
ノア=リントベルと呼ばれたとき、ただ自然に返事をしていた自分。
その返事が、本当に自分の意思だと誰にも疑われなかった自分。
それが、帰りたい場所だった。
ノアの目に涙が滲んだ。
悔しかった。
今の自分は、どこへ行っても疑われる。
外界では、魔大陸構文の影響を受けた意思かもしれないと言われる。
閉門派には、外界への門になるかもしれないと見られる。
旧道には、帰りたいという願いを餌にされる。
名裂きには、名そのものを裂かれようとしている。
ノアの声は、いつも何かに囲まれている。
それでも、自分の声なのに。
鏡の中のエル=ネフリドは、優しく笑った。
その優しさは、本物かどうか分からない。
でも、声は柔らかかった。
「では、その自分がもう同じ場所にいなかったら?」
ノアは、息を止めた。
鏡の中の記録院が、少しずつ変わっていく。
机の上の身分証に、薄い朱印が浮かぶ。
接触汚染疑い。
ノアの名前の横に、別の言葉が重なる。
外洋損耗記録対象。
魔大陸漂着生存個体。
回収優先度、高。
隔離照合待ち。
懐中時計の音が歪む。
かち、かち、かち。
一定だったはずの音が、不規則になる。
記録院の廊下の奥に、ヴィクトルの白手袋が近づく。ぼやけた同僚たちは道を空ける。誰も、ノアの名前を自然には呼ばない。
代わりに、書類の上の文字だけが呼ぶ。
ノア=リントベル。
ノア=リントベル。
ノア=リントベル。
それは名前なのに、鎖の音に似ていた。
ノアは首を横に振った。
「やめて」
声が漏れる。
リィゼが即座にノアの肩を掴む。
「ノア」
その呼び声で、鏡の中の文字が少し薄れる。
リィゼは続けた。
「戻って。今ここにいるのは、ノア」
ノアは震えながら息を吸った。
ノア。
仮保護名。
でも、今ここで自分を支えている名。
それに掴まるように、ノアは足元の円を見た。
まだ立っている。
黒い鏡の中へ入ってはいない。
ここにいる。
エル=ネフリドは、少しだけ首を傾げた。
「外界に戻れば、君はノア=リントベルと呼ばれるかもしれない。だが、その名は以前と同じ響きをしているかな」
ノアは答えられない。
「身分証は戻るかもしれない。記録も照合されるかもしれない。だが、その声は、もう一度疑われるかもしれない」
分かっている。
分かってしまった。
ヴィクトルは、ノアをノア=リントベルと呼んだ。
正確に。丁寧に。
でも、その声はノアを救わなかった。
彼の呼ぶ本名は、外界の記録へノアを引き戻す線だった。
ノアは泣きそうになった。
それなら、自分は何を求めればいいのだろう。
外界へ戻っても、以前の自分はいないかもしれない。
記録院に戻っても、補助記録官としてではなく、接触汚染疑いの対象として扱われるかもしれない。
ノア=リントベルという名前が戻っても、その名前で呼ばれるたびに、自分の意思は疑われるかもしれない。
それでも。
それでも、胸の奥で言葉は消えなかった。
ノアは涙をこらえ、鏡を見た。
「それでも」
声が震える。
「それでも、私は帰りたいです」
リィゼの手に力が入る。
セヴラが黙ってこちらを見ている。
オルフェの筆が、静かにその言葉を記録する。
ガルドは何も言わない。
レギオンは、目を伏せずにノアを見ている。
ノアは続けた。
「同じ場所に、同じ自分がいないかもしれないって分かっても、それでも、私は確かめたいです。私がいた場所を。私の名前を。疑われずに呼ばれていた自分が、本当にあったのかを」
鏡の中の記録院が、静かに揺れた。
白く抜けた窓の外に、ほんの一瞬だけ、街灯の輪郭が戻った気がした。
顔のない同僚の一人が、何かを言いかける。
けれど声にはならない。
それでよかった。
今のノアには、すべてを取り戻すことはできない。
でも、消えたわけではない。
確かめたい。
それは、帰りたいと同じくらい切実な願いだった。
エル=ネフリドは、満足そうに杖を鳴らした。
こつん。
黒い鏡の中の記録院が、ゆっくりと暗くなっていく。
「よろしい」
白い獣紳士は、芝居の幕を閉じるように帽子を持ち上げた。
「帰りたいと、まだ言える。疑われるかもしれないと知ってなお、それでも確かめたいと言える。ならば、君の願いはまだ生きている」
ノアは息を吐いた。
願いが生きている。
その言葉は、少しだけ胸に温かかった。
だが、エル=ネフリドの次の声は、柔らかいまま残酷だった。
「なら、次は帰り道の顔をした罠を見よう」
鏡の中で、杖がもう一度鳴る。
こつん。
黒い記録院の影が消え、代わりに遠い旧道の灯が、鏡の奥でひとつ、またひとつと灯り始めた。




