序節 ― 黒い鏡の回廊
黒い鏡は、ノアの顔を映さなかった。
目の前に立っているはずの自分の輪郭は、鏡面の奥でほどけ、黒い水に垂らした墨のようにゆっくり広がっていく。そこに映るべき頬も、髪も、瞳もない。ただ、名札の紐に触れている指先の影だけが、かろうじて細く残っていた。
黒冠宮の奥へ続く回廊は、先ほどまでの石造りの廊下とは明らかに違っていた。
壁の左右に、背の高い鏡が並んでいる。
鏡枠は黒晶と古い銀で作られており、装飾は華美ではない。けれど、ひとつひとつの縁に細かな刻印が彫られている。名前ではない。道でもない。ノアには読めないが、それらはまるで「戻る」「失う」「呼ばれる」「離れる」といった概念を、文字になる前の形で留めたもののように見えた。
鏡面は真っ黒だった。
普通の鏡なら、向かいに立つ者の顔を返すはずだ。だが、ここに並ぶ鏡は、人の顔を映さない。光を返さない。むしろ、覗き込んだ者の内側から、何かを引き出そうとしている。
ノアは一枚目の鏡の前で立ち止まった。
黒い鏡の奥に、影が浮かぶ。
自分の影ではなかった。
細い文字のような形が、鏡の奥で揺れている。
――ノア。
それは声ではなかった。けれど、ノアは自分が呼ばれたのだと分かった。
胸元の仮保護名札が、かすかに温かくなる。
次の鏡へ視線が吸い寄せられる。
そこには、別の影があった。
――ノア=リントベル。
影が長く伸びた瞬間、胸の奥が冷えた。
名札ではなく、影の縁が震える。第八話でヴィクトルに呼ばれたときの感覚が、薄い刃のように喉元を掠めた。
ノアは反射的に一歩下がる。
リィゼがすぐに隣へ寄った。
「見すぎない」
「……はい」
「鏡のくせに、こっち見てくる感じがする」
リィゼは低く言い、鏡を睨んだ。
その言い方はいつも通りだった。だが、ノアの袖に触れるリィゼの指には、わずかな力が入っている。
リィゼも警戒している。
ノアはそのことに気づき、少しだけ呼吸を取り戻した。
さらに奥の鏡に、別の呼び名が映る。
――外洋損耗記録対象。
鏡面に白い書類のような薄い影が広がった。
ノアの胃が縮む。
白手袋。
整った声。
安全確保後。
接触汚染疑い。
その言葉たちが、鏡の奥からこちらへ滲み出してくるようだった。
ノアは唇を結んだ。
リィゼの手が袖を掴む。
「ノア」
その一言で、白い影は少しだけ薄れた。
ノアは小さく頷く。
「大丈夫です」
「その大丈夫、だいぶ信用ならない」
「……怖いです」
「そっちのほうが信用できる」
回廊の奥で、レギオン=エルドラドが立ち止まった。
黒冠儀の間では黒冠の前に立っていた魔王は、今は長い黒金の外套を静かに揺らし、鏡の列を見渡している。傍らには、黒い鞘に納められた剣がある。
ヴェイル=エルドラド。
名を聞かされたわけではない。だが、ノアにはその名が胸の奥に沈んでいた。第十話の終わり、黒い鞘の奥で金とも黒ともつかない光が脈打ったときから、ノアはあの剣をただの武器として見ることができなくなっていた。
レギオンはノアへ向き直る。
「この鏡は、君の顔を映すものではない」
声は静かだった。
「君がどこへ帰ろうとしているのかを映す」
ノアは、鏡の列を見た。
どこへ帰ろうとしているのか。
外界。
そう答えればいいはずだった。
けれど、鏡の中にはもう複数の呼び名が揺れている。
ノア。
ノア=リントベル。
外洋損耗記録対象。
それだけではなかった。
奥の鏡には、さらに別の影がある。
――帰還希望者。
――危険な門。
――漂着者。
それぞれが、違う形のノアを作っていた。
仮保護名で立つノア。
外界の本名を持つノア。
記録上の対象として扱われるノア。
帰りたいと言ったノア。
外界への侵入路になりうると恐れられたノア。
港に流れ着いた、何も分からなかったノア。
どれも自分だ。
でも、どれかひとつだけにされるのは怖い。
「もし」
ノアは、ゆっくり声を出した。
「もし、映ったものが間違っていたら」
レギオンはすぐには答えなかった。
黒い鏡のひとつに、レギオンの姿は映らない。ただ、彼/彼女の足元から伸びる影だけが、黒い水面の上に静かに立っている。
「間違っているものほど、正しい帰り道の顔をしている」
ノアは息を呑んだ。
「それでは、どうやって見分ければいいんですか」
「ひとりでは難しい」
レギオンは言った。
「だから、この場を用意した」
その言葉に合わせるように、回廊の奥の黒晶灯が順に灯る。
ノアは初めて、自分たち以外にもこの回廊に立ち会う者たちが配置されていることに気づいた。
オルフェ=セプティアは、黒い記録台の横に立っていた。いつもの記録板に加え、鏡面反応を受けるための薄い黒晶板が三枚、宙に浮いている。彼の表情はいつもより硬い。
ガルド=ヴァレムは、回廊の入口側に立っている。剣は抜いていない。だが、いつでもノアの身体を引き戻せる距離を測っているようだった。
セヴラ=クロウゼルは、反対側の鏡列の前にいる。黒鍵を手にしていた。抜き放っているわけではないが、指が柄にかかっている。閉門監察として、鏡の奥から伸びる線を遮断する役なのだと分かる。
そして、回廊の奥には黒い硝子で仕切られた監視席があった。
そこにヴィクトル=ヘイズがいる。
白手袋。
外界式の礼装。
穏やかな微笑。
硝子越しなので声は届かない。ノアへの単独接触は禁止されている。けれど、彼がそこにいることだけで、鏡のひとつに白い書類の影が濃くなる気がした。
ノアは視線を逸らした。
ここにも彼はいる。
外界は、まだこちらを見ている。
レギオンが静かに言った。
「鏡前宣誓を行う」
その言葉と同時に、床の黒晶線が細く光った。
ノアの足元を中心に、小さな円が描かれる。
帰属裁定所の境界円より小さい。だが、性質は似ていた。誰かを拘束する円ではなく、ここに立っていることを確認する円。
オルフェが一歩進み出る。
「ノアさん。これは契約ではありません。確認です」
「確認」
「はい。あなたは、自分の意思で鏡を見る。嫌になったら中断できます。ただし、見なければ黒冠裁定は次へ進めません」
ノアは喉を鳴らした。
中断できる。
それは大事な言葉だった。
グリム=ラハドで、拒否していいと知らされたときの感覚が蘇る。
拒否できないものは、庇護ではない。
ここでも、そうなのだ。
オルフェは続ける。
「鏡に映るものを、即座に真実とは断定しません。外界記録、旧道呼称、名裂きの誘導、あなた自身の願い。それらを区別するため、私が記録補助を行います」
「記録できるんですか」
ノアが問うと、オルフェは少しだけ目を伏せた。
「できる範囲で」
正直な答えだった。
「鏡の中には、記録すると危険なものもあるかもしれません。その場合、私は記録を止めます」
「止めて、いいんですか」
「はい。記録することが対象を傷つけるなら、それは記録官の敗北です」
ノアは、その言葉を胸に留めた。
記録は大事だ。
外界の記録があるから、自分はノア=リントベルだったと信じられる。
けれど、記録が強すぎれば、人を閉じ込めることもある。
そのことを、ノアはもう知っている。
リィゼがノアの横に立った。
「私は?」
オルフェが答える。
「拾名屋リィゼ=ノルカ。あなたには、ノアさんが鏡の中で呼ばれすぎた場合、現在の仮保護名で呼び戻す役を担っていただきます」
リィゼは鼻を鳴らした。
「最初からそのつもり」
ノアはリィゼを見る。
「お願いします」
「お願いされなくてもやる」
リィゼは、少し乱暴に言った。
でも、その乱暴さが優しかった。
ガルドが腕を組んだまま低く言う。
「俺は身体を見ていればいいんだな」
レギオンが頷く。
「鏡の中で名が引かれたとき、身体も傾くことがある。倒れる前に支えろ」
「分かった」
セヴラが黒鍵を鳴らした。
「旧道、外界回収線、名裂き側から線が伸びた場合は、私が遮断します」
ノアはセヴラを見た。
セヴラもこちらを見る。
「私は、あなたを信じたわけではありません」
その言葉は冷たかった。
けれど、続きは違った。
「ただ、あなたの願いを旧道に売るつもりもない」
ノアは、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
セヴラは返事をしなかった。
それでよかった。
ノアは、彼女が優しい言葉をくれる人ではないことを知っている。けれど、黒鍵を持つ彼女がそこに立っていることは、確かに守りのひとつだった。
レギオンは最後に、ヴェイル=エルドラドへ手を添えた。
剣は抜かれない。
だが、黒い鞘の奥で、ほんの薄く光が揺れた。
「私は、名が奪われそうになった場合のみ介入する」
「名が……奪われる」
ノアの声が小さくなる。
「鏡はただ映すだけではない。見る者の帰路像が外から干渉されていれば、その線が鏡面に現れる。旧道も、名裂きも、外界記録も、それぞれの形で君を引く」
「全部が、私を」
「君だけではない。帰りたいと願った者は、いつも何かに引かれる」
レギオンはノアを見る。
「だから忘れるな。鏡の中で何が見えても、すぐに選ぶな。帰る道に見えるものほど、まず疑え」
ノアは息を吸った。
帰る道に見えるものほど、まず疑え。
それはあまりに悲しい忠告だった。
帰りたい人間にとって、帰り道を疑うことほどつらいことはない。
でも、旧道は帰り道の顔をしていた。
ヴィクトルの書類も、帰る場所を保証する記録の顔をしていた。
閉門派の鍵も、守るためという顔をしていた。
顔だけでは分からない。
ノアは、自分の指が震えていることに気づいた。
胸元の仮保護名札を握る。
ノア。
今は、その名で立つ。
「私は」
声が掠れた。
ノアは一度言葉を止め、もう一度息を吸う。
「自分の意思で、鏡を見ます」
床の円が淡く光った。
オルフェが静かに記録する。
「本人意思、確認」
リィゼが隣で言った。
「嫌になったら言って」
「はい」
「言えなかったら?」
「……呼んでください」
「呼ぶ。何回でも」
その言葉に、ノアは頷いた。
レギオンがヴェイルから手を離す。
「では、始める」
回廊の鏡が、一斉に暗くなった。
もともと黒かったはずの鏡が、さらに深い黒へ沈む。そこに映っていた呼び名の影が消え、代わりに奥行きが生まれた。
鏡の奥に、道がある。
ノアはそう感じた。
実際には、何も見えていない。ただ黒い面が並んでいるだけだ。けれど、その奥に足音の余白がある。誰かが歩ける幅がある。戻れるかもしれないと錯覚させるだけの深さがある。
ノアは手を伸ばしかけた。
リィゼが即座に袖を引く。
「まだ」
「……はい」
ノアは手を下ろした。
そのとき。
こつん。
杖の音がした。
回廊の奥ではない。
鏡の向こう側からだった。
こつん。
二度目の音。
黒い鏡の一枚に、場違いな影が映る。
シルクハット。
細い杖。
白い獣のような輪郭。
黒冠宮の重い空気に、まるで従う気のない立ち姿。礼儀正しいようで、どこか芝居がかっていて、こちらの緊張をわざと面白がっているような気配。
リィゼが短剣へ手を伸ばす。
ガルドの気配が鋭くなる。
セヴラの黒鍵が半ば抜かれた。
レギオンだけが、明らかに嫌そうな顔をした。
「……来たか」
声に、隠す気のない不快感が混じっていた。
鏡の中の影が、軽く帽子を持ち上げる。
顔ははっきり見えない。
それでも、微笑んでいることだけは分かった。
「やあ、ノア嬢」
声は柔らかく、優雅で、どこか人をからかうようだった。
「帰り道を探すには、少しばかり鏡が多すぎる夜だね」
ノアは、息を止めた。
白い獣紳士。
黒冠宮の鏡に映る、場違いな観測者。
エル=ネフリド。
その名を知っていたわけではない。
けれど、目の前の存在がただの幻ではないことだけは、ノアにも分かった。
影の縁留めは警告を発していない。
旧道ではない。
外界でもない。
名裂きでもない。
だが、危険ではないとも言えない。
レギオンが冷たく言った。
「相変わらず、ひとの傷口に杖を差し込むのが好きだな」
鏡の中の紳士は、楽しげに杖を回した。
「傷口ではないよ、陛下。扉だ。もっとも、扉と傷口は、しばしば同じ形をしているけれどね」
ノアの胸が、小さく震えた。
扉と傷口。
帰り道と罠。
名と裂け目。
それらが、同じ形をしている。
エル=ネフリドの声が、今度はまっすぐノアへ向いた。
「さて、漂着者のお嬢さん」
彼は鏡の中で、軽く身を屈める。
「帰るとは、どこへ戻ることかな。場所か。名か。それとも――誰かに疑われず呼ばれていた自分か」
ノアは答えられなかった。
鏡の列が、静かに黒く揺れる。
その奥で、まだ見えない帰り道が、ノアの返事を待っていた。




