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終節 ― 諦めずに済む道

 黒冠儀の間に、長い沈黙が落ちていた。


 ノアの声は、もう響いていない。


 けれど、言葉の形だけが、まだ広間のどこかに残っているようだった。


 じゃあ、私はここで諦めろってことですか。


 自分で放った言葉なのに、今になって胸の奥が痛む。


 魔王に向かって、あんなふうに言ってしまった。


 怖くなかったわけではない。むしろ、怖かった。怖かったからこそ、言葉が止まらなかった。外界にも、閉門派にも、王都にも、自分の願いが別の名前で呼ばれていくことが、もう耐えられなかった。


 回収。

 危険な門。

 境界裁定対象。

 外界記録上の現存者。

 帰還路形成媒体。


 どれも、間違いではないのかもしれない。


 けれど、そのどれもが、ノア自身の「帰りたい」から少しずつ離れていく。


 黒冠の前に立つレギオン=エルドラドは、ノアを責めなかった。


 そのことが、逆に苦しかった。


 怒鳴られれば、身を縮められた。

 諦めろと冷たく言われれば、泣くことができたかもしれない。


 けれど魔王は、諦めろとは言わなかった。


 諦めずに済む道を作れ。


 それは、拒絶よりも重い言葉だった。


 レギオンは黒冠に添えていた手を離した。


 広間の灯が、ゆっくりと明るさを取り戻す。黒冠に組み込まれた異なる素材――黒晶、古い金属、朱墨の薄片、骨のような白い欠片、名札めいた板、銀糸――それらが、一つずつ沈黙していく。


「黒冠宮として、仮裁定を下す」


 声は静かだった。


 だが、その瞬間、広間の空気が変わった。


 セヴラが姿勢を正す。

 オルフェが記録板を構え直す。

 ヴィクトルの白手袋の指が、書類箱の取っ手にそっと触れる。

 リィゼはノアのすぐ隣で、息を殺していた。

 ガルドは無言のまま、ノアの後方に立っている。


 レギオンの目が、広間にいる全員を一度ずつ見た。


「第一。仮保護名ノア、本名候補ノア=リントベルを、外界へ即時引き渡すことは認めない」


 ヴィクトルの表情は崩れなかった。


 だが、白手袋の指が一瞬だけ止まった。


 ノアは息を吸う。


 外界へ、すぐには渡されない。


 その事実が胸に落ちるまで、少し時間がかかった。


「第二。ノアを閉門派の管理下へ置き、本人同意なき帰路封じを施すことも認めない」


 セヴラは目を伏せずに頷いた。


「承知しました」


 その声には、安堵も反発もなかった。ただ、受け止める者の硬さがあった。


 レギオンは続ける。


「第三。ノアは、王都庇護下の境界裁定対象とする。以後、黒冠宮の許可なく、外界側、閉門派、その他いかなる機関も、単独で接触、移送、封鎖、帰路操作を行ってはならない」


 ノアは胸元の札を握った。


 王都庇護下。


 それは、自由になったという意味ではない。


 むしろ、自分がさらに大きな枠組みの中に置かれたことを意味している。


 けれど、少なくとも今ここでは、外界へ回収されることも、帰りたい願いを閉じられることもない。


 リィゼが、小さく息を吐いた。


「……よかった」


 聞こえるか聞こえないかの声だった。


 ノアは隣を見た。


 リィゼはすぐに口を引き結ぶ。


「まだ全然よくないけど」


「はい」


「でも、少しは」


「はい」


 ノアは小さく頷いた。


 少しだけ。


 それでも、確かに少しだけ息ができた。


 レギオンの声は続く。


「第四。外界記録院特別回収官ヴィクトル=ヘイズ。王都監視下での滞在を許可する。ただし、ノアへの単独接触、名の強制呼称、外界式照会線の接続、回収印の再起動を禁じる」


 ヴィクトルは静かに礼をした。


「承知しました。外界記録院としては、異議を留保します」


「留保は記録される」


 レギオンは淡々と言った。


「ただし、留保は許可ではない」


 ヴィクトルの微笑が、ほんの少しだけ薄くなった。


「心得ております」


 ノアは、彼を見た。


 彼は退かない。


 外界は諦めないと、ザイ=ヴェルムで言った。

 今もきっと、そう思っている。


 でも、少なくともこの場では、彼の手はノアへ届かない。


「第五。セヴラ=クロウゼル。閉門監察として、王都裁定に協力せよ。閉門派内の急進行為、黒鍵衆の独断、帰路封じ術式の乱用について、黒冠宮へ直接報告すること」


「承知しました」


「恐れを捨てよとは言わない」


 レギオンはセヴラを見た。


「だが、恐れだけで鍵を回すな」


 セヴラの瞳がわずかに揺れた。


「……肝に銘じます」


「第六。オルフェ=セプティア。名裂き、旧道、外界回収印、影の縁留めの反応記録を継続せよ。ノア本人の意思表明は、以後すべて裁定記録に残す」


 オルフェは深く頷いた。


「記録します。本人の沈黙、拒否、迷いも含めて」


 その言葉に、ノアは胸の奥が少し熱くなった。


 迷いも。


 迷っていていいのだろうか。


 答えを持っていなくても、まだ記録されるのだろうか。


 レギオンは最後に、広間全体へ告げた。


「第七。旧道および名裂きの谷に関する事案を、黒冠宮直轄案件へ格上げする。無帰結門エンド=レスの再活性化疑いを含め、以後、七魔侯会議へ報告する」


 無帰結門。


 ノアは、その言葉を初めて聞いた気がした。


 だが、影が反応した。


 足元の影が、細く震える。


 旧道に呼ばれたときの震えとは違う。

 名裂きの裂け目を見たときとも違う。


 もっと深い、底のない場所を指されたような震えだった。


「エンド=レス……?」


 ノアが小さく呟くと、リィゼが唇を引き結んだ。


「あとで説明する」


「今は?」


「今聞くと、たぶん立ってられない」


 ノアは、それ以上聞けなかった。


 レギオンは、ノアへ向き直った。


「ここからが、君への条件だ」


 ノアの背筋が強張る。


「自分だけの帰還を求めるなら、王都は許可できない」


 やはり、その言葉は痛い。


 分かっていても、痛い。


 ノアは胸元の名札を握りしめた。


 レギオンは続けた。


「だが、名裂きに奪われた帰還希望者たちの名を取り戻すためなら、王都は道を開く」


 ノアは顔を上げる。


 言葉の意味がすぐには入ってこなかった。


「それは……」


 声が掠れる。


「それは、私が帰ることを諦めるという意味ですか」


 広間は静まり返っていた。


 リィゼがノアを見ている。

 オルフェは筆を止めずに記録している。

 セヴラは厳しい目でこちらを見ている。

 ヴィクトルは微笑を消さない。

 ガルドは、ただ立っている。


 レギオンは答えた。


「違う」


 その声は、第三節で聞いたときと同じだった。


 静かで、深い。


「君が帰るという言葉の意味を、奪われないところまで広げるという意味だ」


 ノアは、何も言えなくなった。


 帰るという言葉の意味を、広げる。


 それは、どういうことなのだろう。


 外界へ戻ること。

 ノア=リントベルを取り戻すこと。

 事故の前の自分に戻ること。


 それが、帰ることだと思っていた。


 でも、レギオンはそれだけでは足りないと言う。


 帰りたいと願った誰かが、旧道に呼ばれて消えた。

 外界の救助に見せかけて連れ戻された者がいる。

 帰還灯を信じて名裂きの谷へ向かった者がいる。

 帰りたいという言葉が、罠や回収や封鎖の理由にされてきた。


 なら、帰るとは何なのか。


 誰かに呼ばれていくことではない。

 回収されることでもない。

 閉じられないために願いを殺すことでもない。


 ノアは、唇を震わせた。


「私は……」


 言葉が出ない。


 それでも、逃げたくなかった。


 ここで黙ったまま誰かに決められれば、また同じだと思った。


 ノアは、自分の影を見る。


 影は震えている。

 けれど、縫い止められてはいない。


 ここにある。


 ノアは胸元の仮保護名札を握り、ゆっくりと言った。


「私は、まだ帰りたいです」


 広間が、その言葉を受け止める。


 ノアは続けた。


「外界に私の記録があるなら、見たいです。ノア=リントベルとして、そこにいた私を取り戻したいです」


 ヴィクトルの目が、ほんのわずかに動いた。


 ノアは、今度は彼を見た。


「でも、回収されるために帰るのは嫌です」


 ヴィクトルの微笑が、少しだけ固くなる。


 ノアは次にセヴラを見た。


「危ないからって、帰りたい気持ちを閉じられるのも嫌です」


 セヴラは黙って受け止める。


 ノアは黒冠へ視線を戻した。


「旧道に呼ばれて、名裂きの谷へ行くのも嫌です。私の帰りたいを、誰かの罠にされるのも嫌です」


 声が震える。


 でも、止まらなかった。


「だから……」


 ノアは息を吸った。


「私だけが帰れる道を、帰り道とは呼びたくありません」


 言った瞬間、胸の奥が痛くなった。


 自分で、自分の願いを遠くしたような気がした。


 今までなら、ただ帰りたいと言えばよかった。帰れるなら帰りたい。外界へ戻れるなら戻りたい。それだけだった。


 でも、もうそれだけではない。


 それだけでは、旧道に呼ばれた誰かを置いていく。

 名裂きに奪われた名を置いていく。

 帰りたいという願いが罠になる構造を、そのままにしてしまう。


 ノアは、そんな強い人間ではない。


 怖い。

 帰りたい。

 逃げたい。


 それでも、言ってしまった。


 私だけが帰れる道を、帰り道とは呼びたくありません。


 リィゼが小さく息を呑んだ。


「ノア……」


 ガルドが静かに目を伏せる。


 オルフェは記録する手を止めなかった。だが、その筆先はほんの少しだけ震えていた。


 セヴラは、ノアを見つめていた。厳しい顔のまま。


 それでも、その目には先ほどまでとは違う色があった。


 ヴィクトルだけが、沈黙していた。


 微笑は残っている。


 だが、その奥に、初めて明確な不快感が見えた。


 ノアが外界を拒否したからではない。


 もっと別のもの。


 ノアの願いが、外界の回収手続きで扱える範囲から、少しだけはみ出した。


 そのことへの不快感。


 レギオンは、黒冠の前で静かに頷いた。


「記録せよ」


 オルフェだけでなく、広間そのものが応じた。


 黒冠の周囲の黒晶灯が、一つずつ淡く光る。ノアの言葉が、広間の床を通り、壁を通り、黒冠へ触れていくようだった。


「ノアの意思表明を、黒冠裁定記録へ」


 広間のどこかで、細い音が鳴った。


 それは鍵の音にも、筆の音にも、遠い鐘の音にも聞こえた。


 ノアは、自分の言葉がこの場所に残ったことを感じた。


 そのときだった。


 黒冠の背後、レギオンの傍らに置かれていたものが、微かに脈打った。


 最初は、灯の反射かと思った。


 黒い鞘。


 細長く、重く、装飾を抑えた剣が、黒冠の台座の近くに立てかけられている。これまでノアは、そこに剣があることに気づいていなかった。


 いや、気づけなかったのかもしれない。


 剣は、そこにありながら、見る者の意識から少し外れるように存在していた。


 黒い鞘の奥で、金とも黒ともつかない光が一瞬だけ脈打つ。


 ノアの影が、同時に震えた。


 《影の縁留め》が反応している。


 警告ではない。

 外界でもない。

 旧道でもない。


 もっと古い、もっと深い何か。


 ノアは胸元の名札を押さえた。


「今の……」


 リィゼも剣を見ていた。


「何、あれ」


 オルフェはすぐに記録しようとした。


 だが、筆が止まった。


 彼の顔に、珍しく困惑が浮かぶ。


「記録……できない?」


 セヴラが警戒するように黒鍵へ手を伸ばす。


 ヴィクトルの表情が、ここで初めて明確に歪んだ。


 不快。


 それははっきりと見えた。


 白い手袋の指が、書類箱を強く握る。


 レギオンだけが、剣を見ていた。


 ほんの少しだけ、表情が変わる。


 驚きではない。


 懐かしさとも、警戒とも、痛みともつかない微かな変化。


「……なるほど」


 レギオンは低く呟いた。


「君の名は、ただ裂かれているだけではないらしい」


 ノアには、意味が分からなかった。


「どういう……ことですか」


 レギオンはすぐには答えなかった。


 剣の光は、もう消えている。


 黒い鞘は沈黙し、まるで最初から何も起きなかったようにそこにある。


「今の答えを急ぐ必要はない」


「でも」


「急いで名を覗くと、裂ける」


 その一言で、ノアは口を閉じた。


 名裂きの谷。


 帰りたいという名を喰う場所。


 その響きが、胸の奥で冷たく揺れる。


 レギオンは静かに告げた。


「君が本当に帰りたい場所を、まず見極める必要がある」


 ノアは眉を寄せた。


「外界では、ないんですか」


「そうかもしれない」


 レギオンの答えは、曖昧だった。


「だが、君が帰りたいと思っている場所と、外界記録が君を戻そうとしている場所と、旧道が君へ見せる場所が、同じとは限らない」


 ノアは言葉を失った。


 同じではない。


 そんなこと、考えたこともなかった。


 帰りたい場所は、外界。


 そう信じてきた。


 でも、外界記録が戻そうとしている「ノア=リントベル」は、本当に自分なのか。

 旧道が呼ぶ「門」は、どこへ続いているのか。

 自分が胸の奥で求めている帰る場所は、記録上の住所なのか、失われた名前なのか、事故の前の時間なのか、それとも別の何かなのか。


 レギオンは黒冠の奥へ視線を向けた。


「黒い鏡の回廊を使う」


 セヴラがわずかに反応した。


「陛下、それは――」


「必要だ」


 レギオンの声は静かだったが、反論を受け付けない重さがあった。


「外界記録、旧道呼称、名裂き反応、そしてヴェイルの反応。ここまで揃って、表層の裁定だけで済ませる方が危険だ」


 ヴェイル。


 ノアは、もう一度黒い剣を見る。


 ヴェイル=エルドラド。


 名前を聞いたわけではないのに、なぜかそう思った。


 剣の名が、胸の奥にかすかに触れた気がした。


 レギオンはノアへ言う。


「黒い鏡の回廊で、君の『帰りたい』を映す。外界の記録が示す帰還先ではなく、旧道が呼ぶ門でもなく、君自身の奥に残る帰路の形を見る」


「怖いもの、なんですか」


 ノアは聞いた。


 聞かずにはいられなかった。


 レギオンは少しだけ目を細めた。


「怖い」


 即答だった。


 ノアの喉が鳴る。


「だが、君はすでに怖いものをいくつも見てきた。回収の書類。帰路封じの鎖。名裂きの裂け目。今さら、鏡だけを避けても仕方がない」


「言い方」


 リィゼが思わず呟く。


 レギオンが、ほんの少しだけ笑った。


「拾名屋の言葉は率直でよい」


「褒められてる気がしません」


「褒めている」


 そのやり取りに、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩む。


 ノアも、かすかに息を吐いた。


 怖い。


 でも、逃げる理由にはならない。


 そう思える程度には、ここまで来てしまった。


 レギオンは仮裁定の終了を告げた。


「以上をもって、黒冠宮の仮裁定とする。本裁定は、黒い鏡の回廊における観測、旧道および名裂きの調査、外界記録との再照合後に下す」


 広間の黒晶灯が、静かに光を沈める。


「ノア」


「はい」


「君の願いを、小さく扱う者に渡すな」


 第三節で聞いた言葉が、もう一度届く。


「外界にも、閉門派にも、旧道にも、名裂きにも。そして、王都にもだ」


 ノアは目を見開いた。


 王都にも。


 レギオンは、ノアの驚きを受け止めるように頷く。


「黒冠も間違えることがある。だから君は、自分の声を持っていなければならない」


 ノアは胸元の名札を握った。


 ノア。


 今は、その名で立つ。


 その名で、自分の声を持つ。


「……はい」


 声は小さかった。


 でも、消えなかった。


     *


 黒冠儀の間を出ると、黒冠宮の空気は少しだけ冷えていた。


 裁定が下ったあとでも、何かが終わった感じはしない。むしろ、始まってしまったのだという感覚が強かった。


 ヴィクトルは王都監視官に案内され、別の通路へ連れていかれた。


 すれ違いざま、彼はノアを見た。


 いつものような穏やかな微笑だった。


 だが、その奥には先ほどの不快感がまだ残っている。


「ノア=リントベルさん」


 呼びかけようとした瞬間、監視官が間に立った。


「単独接触は禁止されています」


 ヴィクトルはすぐに微笑を整えた。


「失礼。では、また裁定の場で」


 ノアは返事をしなかった。


 返事をしないことを、選んだ。


 ヴィクトルが去ると、リィゼが大きく息を吐いた。


「あいつ、ほんと嫌」


「はい」


「ノアがちゃんと嫌って言えるようになってきて、私は嬉しい」


「嫌って言うの、まだ怖いです」


「怖いままでいいよ」


 リィゼはそう言って、ノアの肩を軽く叩いた。


「怖いまま言えたなら、それはけっこう強い」


 ノアは返事の代わりに、小さく頷いた。


 セヴラは少し離れた場所で、王都監察官と短く言葉を交わしていた。彼女はこれから、閉門派内の報告とザイ=ヴェルムの黒鍵衆への処置に関わるのだろう。


 オルフェは記録板を見ながら、まだ先ほどの剣の反応を書けずにいるようだった。


「記録できませんか」


 ノアが聞くと、オルフェは珍しく困った顔をした。


「書くことはできます。ただ、言葉にすると落ちるものが多すぎます」


「それでも書くんですか」


「書きます。落ちるものがあると分かった上で、落ちた部分も記録します」


 ノアは、オルフェらしいと思った。


 ガルドは黒い鏡の回廊へ続く方向を見ていた。


「次も面倒そうだな」


 リィゼが睨む。


「面倒で済む?」


「済まないだろうな」


「じゃあ言うな」


 ガルドは肩をすくめる。


 そのやり取りに、ノアはほんの少しだけ笑った。


 笑えたことに、自分で驚いた。


 黒冠宮の奥へ案内される。


 そこは、これまでの黒い石の廊下とは違っていた。


 壁の左右に、細長い黒い鏡が並んでいる。


 鏡面は真っ黒で、普通の鏡のようには姿を映さない。近づくと、輪郭だけが薄く浮かび上がる。自分の顔ではなく、自分が誰かに呼ばれたときの影だけが映るようだった。


 ノアは足を止めた。


 鏡の一つに、何かが映った気がした。


 黒冠宮の廊下に似つかわしくない影。


 シルクハット。


 白い獣のような輪郭。

 細い杖。

 どこか芝居がかった立ち姿。


 ノアが瞬きをすると、影は消えた。


 だが、音が残った。


 杖の先が、鏡の向こうで床を叩く音。


 こつん。


 たった一度。


 リィゼが反射的に短剣へ手を伸ばす。


「今の、何」


 ガルドの気配が鋭くなる。


 オルフェが記録板を構え、セヴラが黒鍵を半ば抜いた。


 ノアは、鏡を見つめたまま動けなかった。


 声が聞こえた。


 近くではない。

 遠くでもない。


 鏡の向こうから、笑いを含んだような声が。


「帰る、か」


 その声は、優しげで、軽くて、どこか底が知れなかった。


「それはなかなか、厄介で愛らしい言葉だね」


 ノアの影が、静かに震えた。


 旧道の呼び声ではない。

 外界の回収線でもない。

 閉門派の鍵でもない。


 別の何か。


 白い獣紳士の気配だけが、黒い鏡の奥に残っていた。


 ノアは胸元の仮保護名札を握る。


 自分が本当に帰りたい場所。


 それを見極めるための回廊が、目の前に続いている。


 黒冠宮の奥で、鏡たちはまだ何も映さない。


 けれど、次に映るものが、ただの過去ではないことだけは分かった。


 ノアは震えながら、もう一度息を吸った。


 帰りたい。


 その言葉は、まだ消えていない。


 ただ、その意味が、今までよりも深い場所へ沈み始めていた。

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