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序節 ― 黒冠街道の終点

 ザイ=ヴェルムを越えたあと、黒冠街道はしばらく無言だった。


 道そのものが、そうであるかのように。


 黒鍵石柱の並ぶ封鎖区画は背後へ遠ざかり、旧道分岐に見えた黒い裂け目も、もう視界にはない。けれどノアの中には、まだその裂け目が残っていた。


 黒い紙を縦に裂いたような、細い傷。


 あれは谷というより、世界の端がめくれた跡に見えた。

 名が落ちる場所。

 帰りたいと願った声が、別の何かに裂かれる場所。


 見てはいけなかった。


 そう思う。


 だが、見なければならなかったのだとも思う。


 自分が呼ばれていたものの形を知らないまま、帰りたいと言い続けることは、もうできなかった。


 黒冠街道の石畳は、王都へ近づくにつれ、少しずつ表情を変えていった。


 ヴァル=クレイアを出たころの黒冠街道は、ただ黒い道だった。異郷の石を敷き詰めた、見知らぬ大陸の道。けれど今、足元の石には細い銀黒の線が走っている。石と石の継ぎ目に黒晶の粒が埋め込まれ、昼の光を受けても、夜明け前のような淡い光を内側に抱いていた。


 進むたびに、街道が何かを記録しているように感じる。


 誰が通ったのか。

 どの名で通ったのか。

 どこから来て、どこへ行こうとしているのか。


 ノアは、足元の影を見た。


 影はついてきている。


 ザイ=ヴェルムで縫い止められたときのような重さは、もうない。けれど完全に元通りでもなかった。黒冠街道の石に触れるたび、影の縁がほんの少しだけ硬くなる。


 王都へ近づいている。


 影がそれを知っているのだ。


 ノアは胸元の仮保護名札に触れた。


 ノア。


 今は、その名で立つ。


 何度も、何度も繰り返している言葉だった。


 だが、今日はその言葉の響きが少し違う。


 これまでは、自分が崩れないための支えだった。

 名を失いかけても、外界から切り離されても、まだここに立っていると確かめるための仮の足場だった。


 けれど今は、その名のまま王都へ呼ばれている。


 仮保護名ノア。

 本名候補、ノア=リントベル。


 黒冠宮の召喚状は、そう読まれた。


 仮の名であり、欠けた本名であり、それでも裁定の場へ上がる名。


 ノアは唇を結んだ。


 私は、また記録の中に入れられる。


 そう思うと、胸が重くなる。


 けれど、グリム=ラハドで知ったこともある。

 記録されることそのものが怖いのではない。


 怖いのは、記録の中に自分の声がないことだ。


 ヴィクトルの書類には、自分の声がなかった。

 ラウドの封鎖術式にも、自分の拒否がなかった。


 では、黒冠宮にはあるのだろうか。


 自分の声を残す余白が。


 そう考えたとき、前を歩いていたリィゼが振り返った。


「顔、固い」


 ノアは瞬きをした。


「また顔ですか」


「うん。だいぶ固い。石畳といい勝負」


「王都に呼ばれているんです。固くもなります」


「まあ、それはそう」


 リィゼはそう言って、少し歩調を落とした。


 黒紫の髪が風に揺れ、腰の潮名鈴が小さく鳴る。ザイ=ヴェルムを出てから、リィゼはいつもより近くを歩いていた。軽口は叩くが、ノアの影から目を離さない。


「足は?」


「歩けます」


「影は?」


「少し硬いです。でも、引っ張られてはいません」


「胸の札は?」


「冷たいです」


「気分は?」


 ノアは少しだけ考えた。


「逃げたいです」


 リィゼは、意外そうに目を丸くした。


 それから、少し笑った。


「正直でよろしい」


「でも、逃げる場所がありません」


「それも正直」


 ノアは小さく息を吐いた。


 逃げたい。


 その言葉を口にできただけで、少しだけ呼吸が楽になった。


 王都へ行くと決めた。

 でも、怖くないわけではない。


 魔王に会うのが怖い。

 裁定されるのが怖い。

 ヴィクトルとまた同じ場に立つのが怖い。

 セヴラに見られるのも怖い。

 自分の帰りたいという願いが、国家の言葉に置き換えられていくのが怖い。


 それでも、戻ることはできなかった。


 背後にはザイ=ヴェルムがある。

 その奥には旧道の裂け目がある。


 前には王都がある。


 どちらも怖いなら、少なくとも自分の足で選んだ方へ進むしかない。


 リィゼが前を指した。


「見えるよ」


 ノアは顔を上げた。


 最初、それは遠くの山影に見えた。


 黒い輪郭が、地平の向こうに沈んでいる。雲ではない。城壁でもない。もっと大きく、もっと低く、地面そのものが冠を戴いているような影。


 近づくにつれ、その形が少しずつ見えてきた。


 黒い城壁。


 その内側に幾重にも重なる塔。

 塔と塔をつなぐ高架回廊。

 黒晶灯の列。

 空へ向かって伸びる針のような尖塔。

 そして中央に、巨大な冠のような宮殿の影。


 黒冠宮。


 まだ遠い。


 それでも、ノアはその名を直感した。


 あれが、メギド=ノクスの中心。


 外界が魔大陸と呼び、閉門派が守ろうとし、漂着者が流れ着き、無籍者が名を得て、契約士が紙に書けない者を守り、黒鍵衆が門を閉じようとする――そのすべてを束ねる場所。


 王都レム=ヴァリス。


 ノアは立ち止まりかけた。


 ガルドが後方から声をかける。


「止まるな。見えてからが長い」


「はい」


 返事をして歩き出す。


 ガルドの言う通りだった。


 王都は見えているのに、なかなか近づかなかった。黒冠街道はゆるやかな丘を越え、黒い橋を渡り、低い関門をいくつも通る。そのたびに、召喚状の確認が行われた。


 オルフェが黒冠宮の伝令符を示す。

 セヴラが閉門監察印を示す。

 ガルドが護送責任者として名を告げる。

 リィゼは少し不機嫌そうに拾名屋の札を見せる。


 ノアは、そのたびに胸元の仮保護名札へ手を添えた。


「仮保護名、ノア」


 関門の記録官が読み上げる。


 リントベルまでは読まない。


 オルフェが事前に伝えているのだろう。呼称反応あり。推奨呼称ノア。


 そう扱われることに安堵しながら、ノアは同時に、自分の本名がまた少し遠くなるような寂しさも覚えた。


 ノアでいれば立っていられる。


 でも、ノア=リントベルとして帰りたい。


 その二つは、まだひとつにならない。


     *


 王都の外門は、想像していた城門とは違っていた。


 巨大であることは確かだ。


 黒い石の門柱が左右にそびえ、その上には冠をかたどった鉄と黒晶の装飾がかかっている。だが、門は人を威圧するためだけのものではなかった。


 門の左右には、いくつもの受付窓口がある。


 庇護籍確認。

 仮名通行。

 変異症状申告。

 外界接触歴申告。

 職能登録。

 家族名変更。

 亡命者再登録。

 無籍者相談。


 その列に、人々が並んでいた。


 角を持つ役人が書類を確認している。

 翼を畳んだ書記官が、宙に浮かぶ黒晶板へ文字を刻んでいる。

 顔の半分が黒晶化した衛兵が、幼い子どもの目線に合わせて膝を折っている。

 片腕が金属義肢のドワーフ技師が、門の横で黒晶灯を調整している。

 耳の長いエルフの女性が、庇護籍申請の列で老いた魔族の手を支えている。

 影の尾を持つ子どもが、受付の脇で母親らしき人物に叱られている。


 ノアは、その光景に言葉を失った。


 異形の都。


 外界なら、そう呼ばれるかもしれない。


 だが、ここでは誰もがただ忙しそうだった。


 役人は次の書類を求め、子どもは退屈して足を揺らし、商人は荷の通行許可を急かし、兵士は列の整理をしている。角も、尾も、義肢も、黒晶化した肌も、翼も、ここでは風景の一部だった。


 怖くない、とは言えない。


 ノアの知らないものばかりだ。


 けれど、そこに暮らしがあった。


 ヴァル=クレイアは、漂着者の入口だった。

 ナハト=リムは、無籍者が今の呼び名で生きる街だった。

 グリム=ラハドは、紙に書けない者を守る市だった。

 ザイ=ヴェルムは、閉じるための区画だった。


 そしてレム=ヴァリスは、そのすべてを抱えている。


 捨てられた者たちの墓場ではない。

 ただの逃亡者の集積地でもない。


 ここで、人々は暮らしている。


 ノアは、胸の奥が静かに揺れるのを感じた。


「ここが、魔族の王都」


 リィゼが言った。


 その声には、普段の軽さとは違うものがあった。


「外界がまとめて捨てた名前を、まとめて引き受けた街だよ」


 ノアは、リィゼを見た。


「リィゼも、ここに来たことがあるんですか」


「あるよ。拾名屋の登録更新で何回か。好きかって言われたら微妙だけど」


「どうしてですか」


「でかい役所は苦手」


 リィゼは顔をしかめる。


「あと、王都は何でも記録する。拾った名も、捨てた名も、使わなくなった名も。必要なのは分かるけど、息が詰まる」


「分かる気がします」


 ノアは門の奥を見た。


 通りの先には、いくつもの行政庁舎が並んでいる。黒い石造りだが、装飾は冷たすぎない。窓辺には小さな黒晶灯が灯り、通りには市場もある。香辛料の匂い。焼いた穀物の匂い。油の匂い。金属を打つ音。子どもの声。書記官の呼び出し。


 王都とは、もっと静謐で、もっと威圧的な場所だと思っていた。


 だが、ここは生きている。


 重い。


 でも、生きている。


 ガルドが低く言った。


「見とけ」


 ノアは振り返る。


「何をですか」


「この国の中枢だ。おまえの帰還希望を裁く場所であり、おまえが危険にするかもしれん場所でもある」


 その言葉は厳しかった。


 リィゼが少し睨む。


「言い方」


「必要だ」


 ガルドはノアを見た。


「怖がるなとは言わん。だが、見ないまま裁定に立つな」


 ノアは黙った。


 厳しい。

 けれど、正しい。


 自分が帰りたいと言うことで、この街が危険になるかもしれない。


 そう言われている。


 反発したい。


 でも、第9話を越えた今、その言葉を完全には否定できなかった。


 ヴィクトルは来た。

 旧道は呼んだ。

 名裂きの谷は、道の奥で裂けていた。


 そしてこの街には、帰れなかった者たちが生きている。


 ノアは、ゆっくり頷いた。


「見ます」


 声は小さかった。


「怖くても、見ます」


 ガルドはそれ以上何も言わなかった。


     *


 外門の審査が終わると、一行は王都内部へ入った。


 レム=ヴァリスの通りは広い。


 ただし、整然としているだけではない。大通りから細い路地が枝分かれし、役所街の隣に市場があり、市場の奥に庇護院があり、その向こうに工房区の煙突が見える。都市そのものが、異なるものを一つに押し固めず、層として重ねているようだった。


 通りの中央には、黒冠をかたどった低い碑が立っている。


 碑文にはこう刻まれていた。


 ――同じ名を強いず、同じ冠の下に立つ。


 ノアは、その文字を目で追った。


 同じ名を強いず。


 外界では、所属を明らかにすることが重要だった。

 姓、戸籍、職能、契約、住所、所属組織。


 それらは人を守るものでもある。


 けれど、メギド=ノクスでは、同じ名を強いないことが、国の理念になっている。


 ノアにはまだ、それが完全には分からない。


 分からないが、必要とされた理由は少し分かる。


 同じ名で呼ばれることに耐えられなかった者がいる。

 外界の名が鎖になった者がいる。

 本名を呼ぶと喉が裂ける者も、契約番号で返還を求められた者も、ここにはいる。


 同じ名を強いないこと。


 それは、ただ自由なだけではない。


 傷を踏まないための制度なのだ。


 オルフェが隣に来た。


「疲れていませんか」


「疲れています」


「正直でよろしいです」


「皆さん、それを言いますね」


「今後も言います。あなたは正直に状態を申告した方がよい」


 ノアは苦笑した。


「王都では、全部記録されるんですか」


「必要なものは」


「必要かどうかは、誰が決めるんですか」


 オルフェは少し考えた。


「本来は、制度が決めます。ですが、制度が拾い損ねるものもある。だから、審査官や記録官がいます」


「拾い損ねるもの」


「本人の声です」


 ノアは、胸の奥で何かが小さく震えるのを感じた。


 オルフェは続けた。


「第8話と第9話で、あなたは何度も拒否しました。血、声、髪、夢。帰路封じ。外界回収。旧道への返答。それらの拒否は、すべて記録されています」


「……私の声も?」


「はい」


 オルフェははっきり頷いた。


「少なくとも、私の記録には」


 ノアは、少しだけ目を伏せた。


 それだけで全部が救われるわけではない。


 けれど、何も残らないよりはいい。


 自分が嫌だと言ったこと。

 自分が選んだこと。

 自分がまだ帰りたいと言ったこと。


 それが、どこかに残る。


 その事実だけで、ノアは少しだけ立っていられる気がした。


 前方で、セヴラが足を止めた。


「黒冠宮の外郭門です」


 ノアは顔を上げる。


 そこに、黒冠宮があった。


 遠くから見た冠の影は、近くで見るとさらに巨大だった。


 宮殿というより、黒い都市の中にもう一つの都市があるように見える。高い外壁、幾重もの門、黒晶の尖塔、空へ伸びる冠型の梁。壁には豪奢な金飾りではなく、無数の名札のような小さな黒板が埋め込まれていた。


 それぞれに何かが刻まれている。


 名だろうか。


 誓いだろうか。


 帰属の記録だろうか。


 ノアが見上げていると、リィゼが小さく言った。


「あれ、全部が名前じゃないよ」


「違うんですか」


「呼び名もある。捨てた名もある。名乗れなくなった名もある。役目だけの札もある。たぶん、空白もある」


「空白?」


「まだ呼べないやつのため」


 ノアは、黒い壁を見た。


 無数の札の中に、何も刻まれていないものが確かにあった。


 空白の札。


 まだ呼べない者のための場所。


 ノアは、胸元の仮保護名札を握った。


 自分の名も、いつかあそこに刻まれるのだろうか。


 それとも、外界へ戻れば、ここにあったことは消えるのだろうか。


 考えた瞬間、影がかすかに震えた。


 ノアは足元を見る。


 旧道の反応ではない。


 外界の回収線でもない。


 もっと大きく、静かなものが、ノアを認識した気配だった。


 黒冠宮の門柱に埋め込まれた黒晶が、ゆっくりと光る。


 オルフェが伝令符を掲げた。


「黒冠宮召喚対象、到着しました。仮保護名ノア、拾名屋リィゼ=ノルカ、護送担当ガルド=ヴァレム、特例審査官オルフェ=セプティア、閉門監察セヴラ=クロウゼル」


 少し間が空いた。


 その後、門の奥から別の声が響いた。


「外界記録院特別回収官、ヴィクトル=ヘイズ。別門より到着済み」


 ノアの指が冷えた。


 ヴィクトルは、もう来ている。


 リィゼが小さく舌打ちした。


「早いな」


 セヴラの表情は動かない。


「呼ばれた以上、来るでしょう」


「来なくていいのに」


「来なければ、外界側の主張を裁定できません」


「分かってるけど嫌なんだよ」


 リィゼの言葉に、ノアは少しだけ救われた。


 嫌なものは嫌だ。


 そう言ってもいいのだと、リィゼは何度も教えてくれる。


 黒冠宮の外郭門が、低い音を立てて開き始めた。


 重い扉が左右へ動く。


 その奥には、広い石畳の中庭があった。中庭の中央には、黒冠をかたどった大きな水盤がある。水は黒く、鏡のように空を映していた。


 ノアの影が、もう一度震える。


 今度は、少し強い。


 ノアは足を止めた。


 リィゼがすぐに気づく。


「反応?」


「はい。でも……呼ばれている感じではありません」


「じゃあ何」


 ノアは、門の奥を見つめた。


 黒い水盤。

 冠の影。

 遠くに見える宮殿の扉。


 そこから何かが来るのではない。


 自分がそこへ入った瞬間、何かに数えられた。


 そういう感覚だった。


「認識された、みたいです」


 オルフェが記録板へ手を伸ばす。


「黒冠宮裁定機構による対象認識反応の可能性があります。痛みは?」


「ありません」


「重さは」


「少しだけ。怖いです」


「記録します」


 オルフェは短く書いた。


 怖いです。


 その言葉まで、記録された。


 ノアは、少しだけ不思議な気持ちになった。


 そんな主観まで記録するのか。


 けれど、今はそれがありがたかった。


 門の前で、セヴラが振り返る。


「ここから先は、帰属裁定所へ向かいます。あなたは被告ではありません」


 ノアは顔を上げた。


 セヴラは続ける。


「ですが、裁定対象です。楽な場ではありません」


「分かっています」


「分かっていない部分も多いでしょう」


 厳しい言い方だった。


 でも、ノアは腹が立たなかった。


「はい。たぶん、分かっていません」


 セヴラの目が、少しだけ変わった。


 ノアは胸元の札を握る。


「でも、分からないままでも、話します。私の声が後回しにされるのは、もう嫌なので」


 リィゼが隣で笑った。


 小さく、誇らしそうに。


 ガルドは何も言わないが、ノアの背後に立っている。


 オルフェは記録板を閉じ、頷いた。


 セヴラは、短く言った。


「では、行きましょう」


 黒冠宮の門をくぐる。


 その瞬間、ノアは思った。


 王都とは、栄光が集まる場所ではない。


 その国が隠しきれなかった矛盾が、最も濃く沈む場所である。


 黒冠の下に集められた名。

 閉じられた門。

 開きたい道。

 帰れなかった者たちの生活。

 帰りたい者たちの願い。


 そのすべてが、ここにある。


 ノアは一歩、黒冠宮の内側へ進んだ。


 影がついてくる。


 震えながらも、離れずに。


 そして遠く、まだ見ぬ黒冠儀の間の奥で、何かが静かにこちらを見た気がした。

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