序節 ― 黒冠街道に落ちる影
グリム=ラハドの朝は、夜の残り香を捨てきれない。
空は白みはじめていた。遠くの丘の縁には薄い光が差し、黒い石畳の上にも朝の色が落ちている。それでも、血契の市に並ぶ朱墨の灯は消えなかった。
庁舎の門。
契約所の軒先。
影を測る布幕の吊られた回廊。
声留めの小瓶を運ぶ庇護官の手元。
夜の間ずっと揺れていた赤黒い灯は、朝になっても静かに燃え続けていた。血の色ではない。炎の色でもない。紙の奥へ沈んだ朱墨が、まだ乾ききらずに息をしているような光だった。
ノアは、宿舎の窓辺に立って、その灯を見ていた。
ほとんど眠れなかった。
寝台に横にはなった。目も閉じた。リィゼに渡された苦い茶も飲んだ。だが、眠りの入口へ近づくたびに、足元の影がかすかに震えた。
――帰りたいなら、門へ。
深夜に届いた声は、もう聞こえない。
けれど、その言葉が通った跡だけが、まだ自分の中に残っている。
耳で聞いたのではない。
心で聞いたのでもない。
名前の奥、帰りたいと願う場所のすぐそばに、誰かが細い指を差し入れてきたようだった。
ノアは、窓硝子に映った自分を見る。
少し青白い顔。
乱れを直したはずなのに、どこか落ち着かない髪。
服の内側に隠した仮保護名札。
その札に結ばれた銀糸輪。
そして、足元の影。
朝の光と朱墨の灯が混ざる床の上で、ノアの影は薄く伸びていた。一見すれば、ただの影だ。昨日までのものと何も変わらない。
だが、ノアには分かる。
そこに、ほんの細い結び目がある。
自分の影の縁が、仮保護名札とつながっている。
自分が返事をする前に、危険を知らせるための結び目。
守られている。
そう思おうとした。
けれど同時に、足元にもう一つの目ができたようでもあった。自分より先に危険を見るもの。自分より先に呼び声に気づくもの。自分より先に、帰りたいという願いへ触れられるもの。
ノアは、胸元の札を押さえた。
ノア。
今は、その名で立つ。
リントベルを失ったわけではない。
帰ることを諦めたわけでもない。
だが、あの名を呼ばれることが、必ずしも救いではないと知ってしまった。
ヴィクトル=ヘイズ。
外界記録院、外界損耗記録回収室、特別回収官。
彼は、ノア=リントベルと正確に呼んだ。
この大陸で、誰も安定して呼べなかった名。自分でさえ声に出すのをためらっていた名。欠けていたはずのベルまで、彼はためらいなく戻してくれた。
その瞬間、ノアは嬉しかった。
それは否定できない。
外界はまだ、自分を呼べる。
外界には、自分の名を完全に知っている人がいる。
そう思った。
だが、彼の書類の中で、自分は帰還者ではなかった。
外洋損耗記録対象。
魔大陸漂着生存個体。
接触汚染疑い。
回収優先度、高。
救いに来た、と彼は言った。
でも、彼が見ていたのはノアではなく、回収すべき記録だった。
ノアは窓から目を逸らした。
部屋の机の上には、オルフェが置いていった仮報告の写しがある。昨夜、裏返したままにしていた紙だ。
見なくても、中身は覚えている。
影の縁留め仮契約、実施。
外界回収官、接触。
閉門監察、介入。
旧道呼称干渉、深夜反応。
王都報告、緊急扱い。
自分の一日が、項目になって並んでいる。
昨日までは、そのことが息苦しかった。
今も、苦しい。
だが、グリム=ラハドでは拒否も同意も記録された。自分が嫌だと言ったことも、考えると答えたことも、影の縁なら同意すると決めたことも、全部、書かれた。
書類にされることが怖いのではないのかもしれない。
ノアは、ようやくそう思った。
怖いのは、書類の中に、自分の声がないことだ。
扉が叩かれた。
「起きてる?」
リィゼの声だった。
ノアは振り返る。
「起きています」
「まあ、寝てないとは思ってた」
扉が開き、リィゼが顔を出した。
昨日と同じ短外套。腰には黒晶灯と潮名鈴。髪はいつもより少し雑に結ばれている。彼女もあまり眠っていないのだと、ノアにはすぐ分かった。
リィゼは部屋に入るなり、ノアの顔を見て眉を寄せた。
「顔、白い」
「鏡を見たので知っています」
「開き直る元気はある、と」
「元気ではありません」
「なら正直でよろしい」
リィゼはそう言って、窓辺に近づいた。ただし、ノアの影には重ならない位置で止まる。
ノアはその動作に気づいた。
「気を遣わせていますね」
「気を遣うくらいはする」
「リィゼが?」
「失礼だな。拾名屋は繊細な仕事なんだぞ」
軽口の形をしているのに、リィゼの目は笑っていなかった。
彼女は窓の外を見る。
グリム=ラハドの朱墨灯。
黒い石畳。
庁舎の前を行き交う契約士と庇護官。
そして、そのさらに向こう、街の外縁に伸びる黒冠街道。
「出発は?」
ノアが聞くと、リィゼは答えた。
「もうすぐ。ガルドが宿舎前で準備してる。オルフェは庁舎で最終確認。エルネアは王都へ送る観測記録をまとめてる」
「エルネアさんは同行しないんですか」
「グリム=ラハド側に残って、昨日の契約反応と深夜の旧道反応をまとめるってさ。王都で合流するか、記録だけ先に送るかは状況次第」
ノアは少しだけ不安になった。
エルネアがいると、すべてが安心というわけではない。むしろ彼女の観測具を見ると、今でも少し身構えてしまう。
それでも、彼女はノアを検体ではなく本人として扱った。
嫌なら止めてよい。
疑ってよい。
拒否してよい。
そう言ってくれた。
リィゼは、ノアの表情を見て肩をすくめた。
「大丈夫。置いていかれるわけじゃない。エルネアはエルネアで、たぶん一番怖い記録の仕方をする」
「怖い記録?」
「感情を入れずに、相手が言い逃れできない形で事実を書く」
ノアは少しだけ想像して、納得した。
「それは……怖いですね」
「だろ」
リィゼは窓枠に指をかけた。
「ヴィクトルもセヴラも、王都報告に乗った。もう、なかったことにはできない」
ヴィクトル。
セヴラ。
その二つの名が並んだだけで、ノアの胸が重くなる。
「ヴィクトルさんは」
「街の外縁客館。庇護契約庁から直接接触禁止の通告済み。まあ、あいつが本当に何もしないかは知らない」
「セヴラさんは?」
「監察隊をつけるってさ」
ノアは窓硝子に映る自分を見た。
「私を監視するために」
「外界が近づかないかを見るため、でもある」
「同じことではありませんか」
「似てるけど、ちょっと違う」
リィゼは軽く言った。
「ノアを疑ってる奴もいる。ノアの後ろにあるものを疑ってる奴もいる。閉門派っていっても、そこは一枚じゃない」
「セヴラさんは?」
「後ろを見てる」
リィゼの答えは早かった。
「ノア本人を嫌ってるわけじゃない。少なくとも、昨日の様子だとそう見えた」
「でも、私の帰還希望は危険な門だと言いました」
「それは本気で思ってる」
ノアは、胸元の札を握った。
帰りたい。
その言葉が、昨日までより重い。
自分の中にある一番まっすぐな願いだと思っていた。目覚めるたびに、見知らぬ大陸にいる自分を支えるための芯だった。
ここは私の場所ではない。
私は帰る。
ノア=リントベルとして、外界へ戻る。
そう思うことで、立っていられた。
けれど今、その願いの周りにはいくつもの手が伸びている。
外界は回収する。
閉門派は閉じる。
旧道は呼ぶ。
どれも、ノアの「帰りたい」に触れてくる。
ノア自身に選ばせる前に。
「私、どうしてこんなことになっているんでしょう」
小さく呟いた。
リィゼはすぐには答えなかった。
しばらくして、窓の外を見たまま言った。
「漂着したから」
「それは知っています」
「じゃあ、生き残ったから」
ノアは顔を上げた。
リィゼの横顔は、静かだった。
「死んだことにできたら、外界は書類を閉じられる。メギド=ノクスは漂着記録として処理できる。旧道も、呼ぶ相手を失う。でも、ノアは生きてる。名が裂けかけても、生きてる。帰りたいって言ってる」
リィゼはノアを見る。
「だから、面倒なことになってる」
「面倒、ですか」
「うん。でも、それは悪いことじゃない」
「そうでしょうか」
「死んで片づくより、ずっといい」
ノアは言葉を失った。
リィゼの言葉はいつも、少し乱暴だ。慰める形をしていない。けれど、そのぶん、嘘が少ない。
死んで片づくより、ずっといい。
それは、たぶん本当にそうだった。
ノアは生きている。
だから、書類になりきれない。
だから、回収物になりきれない。
だから、危険な門かもしれなくても、閉じ込められるだけでは済まない。
生きているから、選ばなければならない。
廊下から足音が近づいてきた。
今度は重い足音だった。
ガルドだ。
扉が開いたままだったので、彼はそのまま顔を出した。
「出るぞ」
短い。
リィゼが口を尖らせた。
「相変わらず説明がない」
「説明はオルフェがする」
「便利に使ってるな」
「適材適所だ」
ガルドはノアを見た。
「歩けるか」
ノアは反射的に「大丈夫です」と言いかけて、止めた。
リィゼがこちらを見ている。
禁止ワード。
ノアは小さく息を吐いた。
「歩けます。けれど、あまり眠れていません」
ガルドは頷いた。
「なら、速度を落とす」
それだけだった。
責めない。
励まさない。
ただ、条件として受け取る。
ノアは、少しだけ肩の力が抜けた。
「ありがとうございます」
「礼はいらん。倒れられるほうが面倒だ」
「皆さん、面倒って言いますね」
「事実だ」
リィゼが笑った。
「ほら、面倒って言われるくらい生きてる」
「それ、励ましですか」
「かなり」
ノアは、今度こそ小さく笑った。
笑うには疲れていた。
それでも、ほんの少しだけ。
*
宿舎の前には、すでに一行の荷がまとめられていた。
グリム=ラハドの朝の通りは、昨日よりもはっきり見えた。朱墨の灯に慣れたせいかもしれない。庁舎の壁に刻まれた文字、契約士の長衣の刺繍、黒布幕を運ぶ庇護官の手元。すべてが、昨日ほど恐ろしいだけのものには見えない。
怖いことには変わりなかった。
だが、そこにいる人たちが何を守ろうとしているのか、少しだけ分かった気がした。
庁舎の階段下で、エルネアが待っていた。
灰色の外套に観測箱を下げ、手元には封印された記録筒を持っている。寝不足なのか、目元にわずかな影があった。けれど姿勢は崩れていない。
「ノアさん」
呼ばれて、ノアは立ち止まる。
「はい」
エルネアは、ノアの足元を見た。
「影の状態は?」
「朝になってからは、少し落ち着いています。旧道の方角を考えると、重くなります」
「考えるだけで反応しますか」
「はい」
エルネアは記録板に短く書いた。
「予想より感応性が高いですね。旧道側が近いのか、ノアさんの帰還希望との結びつきが強いのか、判断が必要です」
「強いと、危ないんですか」
「危ないというより、利用されやすい」
エルネアは顔を上げた。
「あなたが悪いという意味ではありません」
先回りするような言葉だった。
ノアは少しだけ目を伏せる。
エルネアは続けた。
「願いは、それだけでは罪ではありません。ただ、強い願いは道を作ります。特に、名と場所と帰属が傷ついている場合、願いが術式の取っ掛かりになることがある」
「私の帰りたいが、旧道に見つかるんですね」
「はい」
エルネアは否定しなかった。
「そして、おそらく外界回収印にも」
ノアの胸が重くなる。
ヴィクトルの白手袋が脳裏に浮かんだ。
エルネアは記録筒をオルフェへ渡した。
「グリム=ラハド側の初期観測記録です。王都へ先行送付する分と、あなたが携行する分を分けてあります」
オルフェは受け取って頷く。
「確認しました。王都到着前に返答がある可能性は?」
「低いです。ただし、ヴィクトル=ヘイズとセヴラ=クロウゼルの接触が同時に上がれば、黒冠宮側は無視できません」
「でしょうね」
オルフェは珍しく、少しだけ疲れた声を出した。
「王都へ着く前に、もう一度止められる可能性があります」
ノアは顔を上げた。
「止められる?」
オルフェは視線を街の外へ向けた。
「グリム=ラハドから王都方面へ戻る黒冠街道には、閉門派の管理する封鎖区画があります。旧道との接点を監視する場所です」
リィゼが、嫌そうに呟いた。
「ザイ=ヴェルムか」
「はい」
オルフェは頷く。
「通常なら、通行記録の確認だけで通れるはずです。しかし、昨日の件があります。閉門派がノアさんの移動を問題視する可能性は高い」
「セヴラさんが?」
「セヴラさん本人が手続きを止めるとは限りません。ですが、閉門派内部には急進的な者もいます」
ノアは、胸元の札を握った。
「私が行くと、門が開くと思われているから」
その言葉を自分で口にすると、思った以上に苦かった。
オルフェはすぐに訂正しなかった。
少しだけ間を置いてから言う。
「正確には、あなたを媒体として外界、旧道、名裂きのいずれかが通路を形成する危険がある、と判断される可能性があります」
「それは、私が門だと言うのと違いますか」
オルフェは黙った。
ノアは、その沈黙で十分だった。
エルネアが静かに言った。
「あなたは門ではありません」
ノアは彼女を見る。
「ただ、あなたの名に、複数の道が結びつきかけている。それを門と呼ぶ人はいるでしょう」
「セヴラさんのように」
「はい」
エルネアは頷いた。
「だから、あなた自身が何を拒み、何を選ぶかを失ってはいけません。昨日、それを確認したばかりです」
昨日。
血を拒んだ。
声を拒んだ。
髪を拒んだ。
夢を拒んだ。
影の縁だけなら、と考え、自分で同意した。
差し出せないものを差し出さないこと。
その線を、ノアは自分で引いた。
ならば、帰りたいという願いも、勝手に差し出してはいけないのだ。
旧道にも。
外界にも。
閉門派にも。
エルネアは、ノアへ小さな黒い札を渡した。
「影反応が強くなったとき、これを握ってください。反応を消すものではありませんが、揺れ方を記録できます」
「記録用ですか」
「はい」
「守る道具ではなく」
「守るための判断材料になります」
ノアは札を受け取った。
小さく、冷たい。
でも、それは自分を縛るものではないと分かる。
「ありがとうございます」
「無理はしないでください」
「……それ、皆に言われます」
「皆、あなたが無理をすると思っているからです」
ノアは返す言葉がなかった。
リィゼが横で頷く。
「信用されてるな」
「逆では?」
「ある意味、信用」
そう言って笑うリィゼに、ノアは少しだけ呆れた。
だが、その呆れがあるだけ、心は少し動いている。
完全に凍りついてはいない。
ガルドが短く告げた。
「行くぞ」
一行はグリム=ラハドを出た。
*
黒冠街道へ戻る道は、昨日来た枝道より広かった。
グリム=ラハドの外壁を離れると、朱墨の灯の赤黒さが背後へ薄れていく。代わりに、黒い街道石が朝の光を受けて鈍く光っていた。石畳の中には、ところどころ黒晶が埋め込まれている。夜には淡く光って旅人を導くという道。
今は朝だ。
それでも、その黒晶の奥に、灯の残り火のような微光があった。
ノアは、足元を見ながら歩いた。
影は、ついてくる。
昨日、契約直後は半拍遅れた影も、今は普通に動いている。
けれど、ノアが道の左手――旧道のある方角を意識すると、輪郭がほんの少しだけ滲んだ。
リィゼはそれを見逃さなかった。
「今、揺れた?」
「少しだけです」
「どっち?」
「旧道の方角を考えました」
「考えるなって言っても考えるよな」
「はい」
「じゃあ、考えたら言え」
ノアは頷いた。
前方ではオルフェが記録筒を抱えて歩いている。時折、黒晶板を確認し、王都からの応答がないかを見ていた。
ガルドは後方。昨日よりも警戒が強い。道の左右、街道から外れた岩場、低い丘の上、荷馬車の影にまで視線を配っている。
そのさらに後ろ、一定の距離を置いて、黒い外套の一団がついてきていた。
セヴラの監察隊だ。
セヴラ本人の姿は、まだ見えない。けれど、彼女の監察印を持った者たちが、ノアたちの移動を記録している。
守るためか。
疑うためか。
閉じるためか。
ノアには分からない。
ただ、背中に視線がある。
それだけは確かだった。
「気になる?」
リィゼが小声で聞いた。
「はい」
「まあ、気になるよな」
「リィゼは平気なんですか」
「平気じゃない。嫌い」
「嫌いなんですか」
「見られるのは嫌い。監察はもっと嫌い」
それなのに、リィゼは前を見て歩いている。
ノアは少しだけ首を傾げた。
「でも、怒らないんですね」
「今怒っても、得がない」
「リィゼでも、得を考えるんですね」
「私を何だと思ってる」
「すぐ怒る人」
「間違ってはいない」
リィゼは肩をすくめる。
「でも、今はノアが真ん中にいる。私が先に怒ると、ノアが怒る場所をなくす」
ノアは一瞬、意味が分からなかった。
だが、少し遅れて、その言葉が胸に落ちた。
自分が怒っていい場所。
怖いと言っていい場所。
嫌だと言っていい場所。
拒否していい場所。
グリム=ラハドで、ノアはそれを得た。
リィゼは、それを守ろうとしているのかもしれない。
ノアは小さく言った。
「私、怒っているんでしょうか」
「怒ってると思う」
「怖いのかと思っていました」
「怖いのと怒ってるのは、よく一緒に来る」
リィゼは前を見たまま言う。
「ノアは昨日、ヴィクトルに腹を立てた。自分を後回しにされたから。セヴラにも腹を立ててる。自分の願いを危険物みたいに言われたから。でも、どっちも少し正しいから、怒る場所が分からなくなってる」
ノアは黙った。
その通りだった。
ヴィクトルは怖い。
けれど、外界へ戻りたい自分の願いを、彼は知っていた。
セヴラは重い。
けれど、外界が本当に来た以上、彼女の恐れを完全には否定できない。
旧道は甘い。
けれど、あの声が罠だと影は告げた。
自分は何に怒ればいいのか。
誰を敵と呼べばいいのか。
どこへ進めば、自分の意思で選んだことになるのか。
ノアは、足元の影を見た。
黒冠街道の石の上で、自分の影は細く揺れている。
不意に、風が変わった。
リィゼが先に顔を上げる。
ガルドも足を止めた。
オルフェが黒晶板を伏せる。
「見えました」
彼が言った。
ノアは前方を見る。
街道の先に、黒い石柱が並んでいた。
最初は、枯れ木かと思った。
だが近づくにつれ、それが人工物だと分かる。
鍵の形をした石柱だった。
背の高い黒い柱が、街道の左右に等間隔で立っている。上部は鍵の歯のように複雑に刻まれ、石の表面には黒い鎖状の紋が浮かんでいた。朱墨灯とは違う、冷たい暗さ。
石柱の間には、細い黒鎖が張られている。
鎖は通行を完全に阻む高さではない。だが、そこを越えようとすれば、何かが閉じると分かる。目に見えない扉の縁を示すように、空気が硬くなっていた。
ノアの影が、足元で小さく震えた。
旧道の呼び声とは違う。
これは、閉じる力だ。
「ザイ=ヴェルム」
オルフェが低く言った。
「閉門派の封鎖区画です」
ノアは、黒い鍵型の石柱群を見つめた。
門がある。
だが、それは開くためではなく、閉じるための門だった。
背後では、セヴラの監察隊の足音が止まる。
前方の検問所から、黒鍵徽章をつけた者たちがこちらを見ていた。
外界は回収する。
旧道は呼ぶ。
閉門派は閉じる。
その三つ目が、いま、ノアの前に形を持って立っていた。
胸元の仮保護名札が冷える。
ノアはそれを握り、ゆっくり息を吸った。
ここから先は、また問われる。
何を差し出すのかではない。
何を閉じさせないのかを。
黒冠街道の上で、ノアの影は細く震えながら、それでも彼女の足元を離れなかった。




