表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
40/65

終節 ― 閉じる門、呼ぶ旧道

 ノアの言葉が、朱墨の灯の下に落ちた。


 後で、じゃない。

 私の意思は、今ここにあります。


 それは大声ではなかった。

 誰かを圧倒するための叫びでもなかった。


 けれど、グリム=ラハドの庁舎前に集まった者たちの間で、その声は不思議なほどはっきり届いた。


 契約士が顔を上げる。

 庁舎の扉近くにいた監査官が、手にしていた記録板を止める。

 通りを行き交っていた者たちも、声を潜める。


 ヴィクトル=ヘイズは、微笑を崩さなかった。


 白手袋の指先が、差し出していた書類の角を静かに押さえている。その仕草は整っていて、礼儀正しく、非の打ちどころがない。だからこそ、ノアには恐ろしかった。


 怒らない。

 脅さない。

 荒げない。


 ただ、こちらの意思が手続き上の障害でしかないように、穏やかにそこに立っている。


「もちろんです」


 ヴィクトルは柔らかく言った。


「あなたの意思は尊重されるべきものです。外界記録院も、それを軽んじるつもりはありません」


 ノアの影が、足元でまた小さく震えた。


 今の言葉は、優しい。


 優しいはずだった。


 けれど、その優しさは、どこかで扉を閉めている。


「ですが、現在のあなたは魔大陸由来の構文汚染、黒月潮接触痕、ならびに名傷反応を有する状態にあります。意思確認の有効性そのものに疑義が生じる可能性がある」


 ノアは、息を詰めた。


 ヴィクトルは続ける。


「ですから、まず安全な外界管理下へ移動し、汚染と干渉の影響を除去したのち、正式にあなたの意思を確認する必要があります」


 言っていることは、整っていた。


 安全確保。

 干渉の除去。

 正式な意思確認。


 ヴァルテリアの書類なら、正しい言葉として通るのかもしれない。


 けれどノアには、その奥にある空白が見えた。


 今の自分の言葉は、正式ではないのか。


 魔大陸で助けられ、仮保護名札を持ち、影の縁留めまで受けた自分の意思は、汚染されたものとして後回しにされるのか。


 胸の奥で、何かが冷えていく。


「つまり」


 ノアは、喉を締めつけられながら言った。


「今の私は、私の意思を持っていないかもしれない、という扱いですか」


 ヴィクトルはすぐには答えなかった。


 その沈黙が、答えだった。


 リィゼが一歩前に出る。


「便利な言い方だな。本人が嫌だって言ったら、汚染のせいにできる」


「誤解です」


 ヴィクトルはリィゼへ視線を向けた。


「こちらはノア=リントベルさんの安全を最優先に考えています」


「名前だけは綺麗に呼ぶんだな」


 リィゼの声が低くなる。


「そのくせ、本人の声は信用しない」


 ヴィクトルの表情は変わらなかった。


 だが、その目の奥で、何かがわずかに冷たく動いた。


「あなたは?」


「リィゼ=ノルカ。拾名屋だ」


「なるほど。漂着者案内人ですか」


「そういう雑な分類で済ませたいなら、勝手にどうぞ」


 ガルドが、リィゼの肩の前へ腕を出した。


 止めるためというより、これ以上前へ出るなという合図だった。


「ここでの接触は終わりだ」


 ガルドの声は低く、短い。


「ノアは現在、メギド=ノクスの仮保護下にある。正式照会は王都を通せ」


「王都へ照会する準備はあります」


「なら、ここでは退け」


 ヴィクトルは、少しだけ首を傾けた。


「退く理由がありません。私は暴力的接触を試みていませんし、対象者に対し正式な帰還手続きを提示しているだけです」


「対象者じゃない」


 ノアの口から、言葉がこぼれた。


 自分でも驚くほど鋭い声だった。


 ヴィクトルがノアを見る。


 ノアは、影が震えるのを感じながら、それでも顔を上げた。


「私は、対象者じゃありません」


 言いながら、すぐに自分の中で矛盾が軋んだ。


 さっきまで契約庁の中で、自分は対象者として扱われていた。

 仮保護名、本名候補、帰還希望、黒潮反応、旧道呼称干渉。


 いくつもの言葉で分類された。


 けれど、あそこでは拒否できた。

 嫌だと言えた。

 保留できた。

 同意と拒否の境目を確かめてもらえた。


 同じ対象者という言葉でも、違う。


 この男の書類の中には、拒否する自分が入っていない。


 ノアは、それをようやく理解した。


「私は、ノアです」


 胸元の札が冷える。


 仮保護名の名が、自分を支える。


「ノア=リントベルです。でも、あなたの書類の中の回収物じゃありません」


 白手袋の指が、わずかに動いた。


 ヴィクトルは何かを言いかけた。


 そのとき、通りの奥で、別の足音が止まった。


 硬い靴音だった。


 朱墨の灯が並ぶ道の向こうから、黒い監察外套をまとった一団が近づいてくる。


 先頭にいたのは、背の高い女だった。


 外套の襟は高く、胸元には黒い封蝋を象った徽章が留められている。赤ではなく、黒。光を吸うような封印の色。彼女の歩みは静かで、周囲の者たちは自然と道を開けた。


 リィゼの表情が、明らかに硬くなった。


「……来たか」


 オルフェもすぐに姿勢を正す。


「セヴラ=クロウゼル」


 ノアは、その名を聞いて息を呑んだ。


 セヴラ=クロウゼル。


 第七話で見た封鎖通達。

 旧道に残された閉門派の封蝋。

 王都へ上げるべき案件として扱われた名。


 閉門派。


 外界への門を閉じるべきだと主張する者たち。


 セヴラは、ノアを見なかった。


 少なくとも、最初には。


 彼女の目はまっすぐヴィクトルへ向けられていた。


 静かな目だった。


 怒りに燃えているわけではない。憎悪に歪んでいるわけでもない。けれど、その静けさは、すでに結論を知っている者のものだった。


「やはり」


 セヴラは言った。


「外界は回収に来た」


 その一言で、ノアは何も言えなくなった。


 外界は回収に来た。


 さっきまで、ノアは反論しようとしていた。


 自分は誰かを危険にしたいわけではない。

 ただ帰りたいだけだ。

 自分が存在していた証明を取り戻したいだけだ。


 でも、セヴラの言葉は、ノアの胸の奥を正確に押さえた。


 自分の帰り道を辿って、外界は本当に来た。


 ヴィクトルが、礼儀正しくセヴラへ向き直る。


「あなたは?」


「黒冠議会閉門監察、セヴラ=クロウゼル」


 セヴラの声は、刃のように冷たいわけではなかった。


 むしろ、低く抑えられている。


 感情で叫ぶ者ではない。だからこそ、言葉の一つ一つが重い。


「外界記録院の特別回収官が、グリム=ラハド庇護契約庁の前で、仮保護下の漂着者へ直接接触した。記録に残します」


「こちらも正式な身分を提示しています」


「身分を提示すれば、門を越えてよいと思っている」


「門?」


 ヴィクトルの声に、わずかな疑問が混じった。


 セヴラは答えた。


「あなたが立っている場所のことです」


 朱墨の灯が、彼女の横顔を照らしている。


「外界にとっては、ただの市かもしれない。だが、ここは紙に書けない者たちの庇護が行われる場所です。本名を出せば裂ける者、外界では死んだことにされた者、記録から落とされた者たちが、自分の輪郭を守るために来る場所です」


 セヴラの目が、ノアへ向いた。


 初めて、まっすぐに。


 ノアは身体を強張らせた。


 罵られると思った。

 外界人と呼ばれると思った。

 門を開く災厄だと責められると思った。


 けれど、セヴラはそうしなかった。


「あなたが悪いとは言わない」


 その言葉は、予想よりも静かだった。


「あなたが望んでこの大陸へ来たのではないことも、帰りたいと願うこと自体を罪にできないことも、理解しています」


 ノアは、少しだけ目を見開いた。


 セヴラは理解している。


 その事実が、ノアにはむしろ苦しかった。


 理解しているのに、許せないものがあるのだ。


「だが」


 セヴラは続けた。


「あなたを追ってくる者がいる以上、あなたの帰還希望は、この大陸にとって危険な門になる」


 門。


 ノアの足元の影が、また小さく震えた。


 門。


 旧道が呼んでいる門。

 外界が開こうとしている門。

 閉門派が閉じようとしている門。


 自分の帰りたいという願いが、そのすべてに触れている。


「私は……」


 ノアは言いかけた。


 でも、続きが出てこなかった。


 私は、誰かを危険にしたいわけではありません。


 そう言いたかった。


 自分はただ、戻りたいだけだ。

 自分の記録を取り戻したい。

 ノア=リントベルとして存在していた証明を、外界へ持ち帰りたい。


 それだけだ。


 でも、その「それだけ」の道筋に、ヴィクトルが立っている。


 回収官。

 接触汚染。

 確保対象。

 安全確保後に意思確認。


 ノアは、自分の反論が弱くなるのを感じた。


 セヴラは、それを見逃さなかった。


 ただし、責めるようには言わなかった。


「あなたの願いが悪いのではない」


 彼女は言った。


「願いを道に変えようとする者たちがいる。その道を使って、外界は入ってくる。回収の名で。救助の名で。調査の名で。保護の名で」


 ヴィクトルが穏やかに口を挟む。


「随分な言いようです。外界は必ずしも侵略者ではありません」


「では、なぜ彼女の意思を今確認しない」


 セヴラの返しは早かった。


 ヴィクトルは沈黙した。


 セヴラは一歩、彼へ近づく。


「なぜ、外界管理下に置いた後でなければならない。なぜ、魔大陸での彼女の発言は正式ではない。なぜ、あなたの書類は彼女を帰還者ではなく、損耗記録と呼ぶ」


 ノアは息を詰めた。


 セヴラは、ヴィクトルの敵だ。


 でも、今言っていることは、ノアが感じた恐怖と同じ場所を指している。


 そのことが、さらに苦しかった。


 敵の言葉が、完全には間違っていない。


 だから、簡単に拒めない。


 オルフェが間に入った。


「双方、ここでの接触は終了してください。ノアさんは王都裁定前の仮保護対象です。外界回収官の直接接触、閉門監察の介入、ともに王都報告へ上げます」


「当然です」


 セヴラは頷いた。


「閉門派としても、王都へ正式報告します。外界回収官は、すでにグリム=ラハド内で接触を試みた。これで、警戒段階を引き上げる根拠ができました」


 ノアは顔を上げた。


「警戒段階……?」


 セヴラはノアを見る。


「あなた個人への処罰ではありません」


 先回りするように言った。


「だが、あなたの移動、接触、通信、帰還経路探索には監察がつきます。閉門派は、あなたの自由な帰還路探索に反対します」


 ノアの胸が、ずしりと重くなった。


 自由な帰還路探索。


 その言葉が、まるで罪のように響く。


「私は、監視されるんですか」


「はい」


 セヴラは否定しなかった。


「あなたが悪いからではない。あなたの後ろに、外界が来ているからです」


 ノアは、ヴィクトルを見た。


 彼は静かに立っている。


 礼儀正しく、清潔で、穏やかで、正しい外界の姿をして。


 そして、その存在だけで、ノアの立場を危険なものへ変えていた。


 リィゼが低く言った。


「セヴラ。ノアを閉じ込める気か」


「今すぐではありません」


「今すぐじゃなければいいって話じゃない」


「では、外界回収官を自由に近づけるべきだと?」


 リィゼは言葉を詰まらせた。


 セヴラの視線は冷たい。


 けれど、悪意だけではない。


 そこには恐れがあった。


 ノアは、その恐れが自分へ向けられているのではなく、自分の背後へ向けられているのだと気づいた。


 外界。


 帰りたい場所。


 でも、メギド=ノクスの人々にとっては、奪いに来る場所でもある。


 ガルドが短く告げた。


「今日はここまでだ。ノアを宿舎へ戻す。ヴィクトル=ヘイズ、正式照会が必要なら王都へ送れ。セヴラ=クロウゼル、監察報告も同じだ」


「異議はありません」


 セヴラは言った。


 ヴィクトルも、穏やかに頷く。


「承知しました。ノア=リントベルさん」


 また、その名。


 影が震える。


 ノアは歯を食いしばった。


 ヴィクトルは微笑した。


「私はあなたを見捨てません。外界は、あなたの帰還を諦めません」


 本来なら、救いの言葉だったはずだ。


 でも、今のノアには、それが鍵のかかる音に聞こえた。


 外界は諦めない。

 閉門派は閉じようとする。

 旧道は呼んでいる。


 その真ん中に、自分の帰りたいという願いが置かれている。


 ノアは、返事をしなかった。


 返事をすれば、何かに結ばれてしまう気がした。


 影が、足元で黒く震えていた。


     *


 その夜、グリム=ラハドの宿舎は、ひどく静かだった。


 庇護契約庁に隣接した宿舎で、外壁は黒い石造り、窓には細い朱墨灯が吊るされている。灯は強く光らず、部屋の隅に赤黒い影を作っていた。


 ノアに与えられた部屋は狭くはなかった。


 寝台が一つ。

 机が一つ。

 水差しと洗面器。

 窓辺には、影契約を受けた者が眠るときのための低い足元灯。

 扉の外には庇護官が一人。

 廊下の角にはガルド。

 向かいの部屋にはリィゼ。


 守られている。


 それは分かる。


 だが、同時に、見張られてもいる。


 その二つを、もう完全には分けられなかった。


 ヴィクトルは一時的に退けられた。


 庇護契約庁の管轄内でこれ以上ノアへ接触しないよう、正式に通告されたという。だが、彼がグリム=ラハドを去ったわけではない。外界回収官として、街の外縁にある客館に滞在を認められた。


 遠ざけられただけ。


 消えたわけではない。


 セヴラもまた、去ってはいなかった。


 閉門監察として、彼女は王都へ報告を送る。それだけでなく、ノアの移動に監察をつけるよう要請するという。セヴラの言葉は、ノアの胸に残り続けていた。


 あなたの帰還希望は、この大陸にとって危険な門になる。


 ノアは寝台に腰かけたまま、足元を見ていた。


 影がある。


 低い足元灯に照らされて、ノアの影は床の上へ薄く伸びている。普通の影に見える。けれど、時折、何もないのに輪郭がかすかに震えた。


 自分が守られている証。


 同時に、危険に近づいている証。


 ノアは、両手で膝を握った。


 眠れるはずがなかった。


 机の上には、オルフェが残していった簡易報告の写しがある。正式なものではない。ノアにも確認できる範囲の要約だ。


 影の縁留め仮契約、実施。

 外界回収官ヴィクトル=ヘイズ、接触。

 ノア=リントベル呼称時、影縁反応あり。

 閉門監察セヴラ=クロウゼル、介入。

 王都報告、緊急扱い。


 ノアはその文字を見るのがつらくなり、紙を裏返した。


 また、自分が記録になっている。


 でも、今回は違う。


 そこには、拒否したことも、同意したことも、影が震えたことも、全部書かれている。


 自分の意思は、消されていない。


 それでも、重い。


 扉が小さく叩かれた。


「ノア。起きてる?」


 リィゼの声だった。


 ノアは少し迷ってから、返事をした。


「起きています」


 扉が開く。


 リィゼは寝間着ではなく、まだ外套を羽織っていた。腰の黒晶灯も外していない。完全に休む気がない格好だった。


「寝てないと思った」


「リィゼも寝ていませんよね」


「私は見張りの交代待ち」


「それ、休んでないです」


「休んでる。座ってるし」


 言いながら、リィゼは遠慮なく部屋に入ってきた。


 手には温かい飲み物の入った小さな杯を二つ持っている。片方をノアへ渡し、もう片方を自分で持つ。


 ノアは杯を受け取った。


 甘くはない。少し苦く、草の匂いがする。


「何ですか、これ」


「眠れない奴用の茶。効くかは知らない」


「知らないんですか」


「私は飲んでも寝ないから」


「それ、効いてないのでは」


「味は悪くない」


 ノアは少しだけ笑いかけた。


 笑いにはならなかったが、口元の力は少し抜けた。


 リィゼは寝台の横ではなく、床に腰を下ろした。ノアの影に重ならない位置を選んでいる。その何気ない配慮に、ノアは気づいた。


 しばらく、二人とも黙っていた。


 朱墨灯の光が、壁をゆっくり揺らす。


 やがて、ノアが言った。


「私、帰りたいだけなんです」


「知ってる」


「誰かを危険にしたいわけじゃない」


「それも知ってる」


「でも、ヴィクトルさんは本当に来ました」


「うん」


「私の名前を、最後まで呼びました」


 リィゼは、杯を持ったまま少し黙った。


 ノアは続けた。


「嬉しかったんです。一瞬」


 言うのが、苦しかった。


「リントベルって呼ばれて。ああ、外界にはまだ、私の名前を呼べる人がいるんだって。私を戻してくれる人が来たのかもしれないって」


「うん」


「でも、違った」


 ノアは杯の中を見つめた。


 湯気が揺れている。


「私を見ていませんでした。私の名前を呼んだのに、私を見ていなかった」


 リィゼは、何も茶化さなかった。


 ノアはそれがありがたくて、余計に苦しくなった。


「セヴラさんの言葉も、間違っているって言えませんでした。私の後ろから、本当に外界が来たから。私が帰りたいと言った道を辿って、ああいう人が来るなら……」


 ノアの声が詰まる。


「私の願いは、危ないんでしょうか」


 リィゼはすぐには答えなかった。


 それが、かえって誠実だった。


 やがて彼女は言った。


「願いは危なくない」


 ノアは顔を上げる。


「でも、願いを道具にする奴はいる」


 リィゼは杯を両手で包んだまま、視線を落としている。


「帰りたいって気持ちは、ノアのものだ。でも、それを使って門を開けたい奴がいる。回収したい奴もいる。閉じ込めたい奴もいる。だから、ややこしい」


「私が帰ると言うだけで?」


「だけ、じゃないんだよ。ここでは」


 リィゼの声は静かだった。


「名は道になる。呼び名は綱になる。帰還希望は灯になる。あんたが悪いわけじゃない。でも、あんたの願いを見つけた何かが、それを使おうとする」


 ノアは、足元の影を見た。


 ちょうどそのとき、影の輪郭がかすかに震えた。


 ノアは息を止める。


 リィゼもすぐに気づいた。


「今の、外?」


「分かりません」


 ノアは胸元の札に触れた。


 冷たい。


 まだ、強い反応ではない。


 でも、影が先に気づいた。


 リィゼは立ち上がり、窓辺へ行った。


 外を見る。


 宿舎の中庭には、朱墨灯がいくつか並んでいる。庇護官の影がゆっくり動いているだけで、異常は見えない。


「外には何もいない」


 リィゼが言った。


 ノアは頷こうとして、止まった。


 何もいない。


 それでも、呼ばれている気がする。


 遠く。


 グリム=ラハドの赤黒い灯の外。

 正規の黒冠街道から外れた、さらに奥。

 ノイ=カランで見た旧道の灯があった方角。


 そこから、何かが近づいてくる。


 声ではない。

 まだ声ではない。


 けれど、空気の底に、言葉の形が沈んでいる。


 ノアは立ち上がった。


 リィゼがすぐに振り返る。


「ノア?」


「聞こえる、かもしれません」


 自分でも曖昧な言い方だった。


 聞こえるのではない。


 でも、分かる。


 影が震えている。


 胸元の札が、冷えている。


 銀糸輪が、少しずつ締まっていく。


 部屋の朱墨灯が、細く揺れた。


 外から風が入ったわけではない。


 なのに、灯が揺れる。


 ノアは、唇を噛んだ。


 そのとき。


 声が届いた。


 遠い。


 とても遠い。


 けれど、耳の外ではなく、名前の内側に触れる声。


 ――帰りたいなら、門へ。


 ノアの身体が、反射的に動きかけた。


 返事をしそうになった。


 はい、と。

 どこへ行けばいいのか、と。

 私は帰りたい、と。


 喉の奥まで言葉が上がった。


 その瞬間、足元の影が黒く震えた。


 強い震えだった。


 床の上の影が、水面のように波打ち、ノアの足首を引くように重くなる。


 ノアは息を呑み、膝が崩れそうになった。


 リィゼが駆け寄り、肩を支える。


「返事するな」


 短い声。


 強い声。


 ノアは歯を食いしばった。


 返事をしたい。


 帰りたい。


 その言葉に、心の芯が引かれる。


 門へ。


 門があるなら。

 帰れるなら。

 自分の名前を戻せるなら。


 だが、影が震えている。


 これは警告だ。


 契約士が言った。

 返答より先に、危険を知らせる契約。


 ノアは、両手で自分の口を押さえた。


 声を出さないために。


 帰りたい。


 でも。


 呼ばれたから行くんじゃない。


 回収されるために帰るんじゃない。


 誰かを危険にするために帰るんじゃない。


 胸の奥で、言葉がひとつずつ形になる。


 それは、叫びではなかった。

 誓いというほど強くもなかった。


 ただ、今の自分をつなぎ止めるための、小さな文だった。


 私は、帰りたい。

 でも、返事は私が選ぶ。

 道は、私が選ぶ。


 影の震えが、少しだけ弱まった。


 部屋の扉が開く。


 ガルドが入ってきた。廊下の庇護官も後ろにいる。オルフェとエルネアも、すぐに続いた。


「反応は」


 ガルドが聞く。


 リィゼが答える。


「旧道。声あり。ノアは返事してない」


 オルフェがすぐに記録板を開く。


「時刻、深夜第二刻。対象ノア。影の縁留め強反応。旧道方角より呼称干渉。内容は?」


 ノアは、まだ口元を押さえたまま、かすかに答えた。


「帰りたいなら、門へ」


 その言葉を口にした瞬間、影がまた震えた。


 今度は弱い。


 オルフェは慎重に頷く。


「復唱による軽度反応あり。記録します」


 エルネアがノアのそばに膝をついた。


「呼吸はできますか」


 ノアは頷いた。


「返事はしていませんね」


「……していません」


「よく止めました」


 その言葉に、ノアは急に力が抜けそうになった。


 よく止めた。


 そんなふうに言われると思っていなかった。


 リィゼが肩を支えたまま、少しだけ笑う。


「ほら、効いたじゃん。影のやつ」


「気持ち悪かったです」


「そこは同意する」


 ノアは、震える息を吐いた。


 怖かった。


 今も怖い。


 でも、返事をしなかった。


 それだけは確かだった。


 ガルドは窓の外を見た。


「旧道が近いな」


「向こうから呼んでいるというより、ノアさんの帰還希望に引っかかっている可能性があります」


 オルフェが言う。


 セヴラの言葉が、ノアの頭をよぎる。


 あなたの帰還希望は、この大陸にとって危険な門になる。


 ノアは目を閉じた。


 その通りかもしれない。


 でも、それで願いを捨てられるわけではなかった。


 帰りたい。


 その気持ちは、まだある。


 ただ、もう「私だけ帰れればいい」とは言えない。


 帰り道を探すことは、誰かが踏み込む道を作ることでもある。

 呼ばれるままに行けば、自分は回収されるかもしれない。

 閉じられるままに諦めれば、自分の名は戻らないかもしれない。


 ならば、選ばなければならない。


 誰かの声に従うのではなく。


 外界の回収でも、閉門派の恐れでも、旧道の甘い呼び声でもなく。


 自分で。


 リィゼが、隣で静かに言った。


「じゃあ、次は自分で道を選ばなきゃね」


 その声は、いつものように軽くしようとしていた。


 けれど、軽くはなりきっていなかった。


 ノアはリィゼを見た。


 リィゼの金紫の瞳には、眠気も、苛立ちも、不安もあった。けれど、その奥に、揺るがないものがある。


 帰りたいと言う権利はある。

 でも、生きて選ばなければならない。


 ノアは、小さく頷いた。


「はい」


 足元の影は、まだ少し震えている。


 けれど、それはもうノアを引きずる震えではなかった。


 警告の余韻。

 自分がまだここにいるという証。


 窓の外では、グリム=ラハドの朱墨の灯が夜の底に並んでいた。


 閉じようとする門がある。

 呼ぶ旧道がある。

 回収しようとする外界がある。


 そのすべての間で、ノアは胸元の仮保護名札を握った。


 ノア。


 今は、その名で立つ。


 リントベルを捨てたわけではない。

 帰ることを諦めたわけでもない。


 ただ、次にその名を呼ぶときは、誰かに引かれてではなく、自分の意思で呼びたい。


 朱墨の灯が、窓硝子に淡く映る。


 ノアの影は、その灯の下で静かに揺れながら、彼女の足元に留まり続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ