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第三節 ― リントベルまで呼ぶ声

 影の縁留めを、検討する。


 そう記録されたあとも、すぐに契約が始まったわけではなかった。


 契約士は、黒布の巻物を完全には広げず、まずノアの前に白い石板を置いた。石板の表面には、何も書かれていない。けれど契約灯の朱墨の光が当たると、薄く文字の跡が浮かぶ。


 同意確認。

 拒否権確認。

 解除申立権確認。

 契約範囲確認。

 契約期限確認。

 第三者閲覧制限確認。


 ノアはその項目を、ひとつずつ目で追った。


 外界の契約書にも、確認項目はあった。


 署名欄。

 日付。

 契約番号。

 責任者名。

 備考欄。

 異議申立先。


 でも、そこに「怖いなら止められる」とは書いていなかった。少なくとも、ノアが扱ってきた書類には、そんな言葉はなかった。


 契約士が静かに告げる。


「これから行うのは、《影の縁留め》の仮契約です。本契約ではありません」


 ノアは顔を上げた。


「仮契約?」


「はい。旧道通過前の防護確認を目的とする一時契約です。期限は、旧道通過後三日以内、または王都レム=ヴァリスで正式裁定が下りるまで。どちらか早い方で失効します」


「ずっと残るものでは、ないんですね」


「残しません。残す場合は、別途あなたの同意が必要です」


 ノアは少しだけ息を吐いた。


 それでも、怖さは消えない。


 契約士は続けた。


「契約範囲は、あなたの影の輪郭の外縁部のみ。影そのものを切り離すことはありません。影を保管することもありません。影の動きを監視し続ける契約でもありません」


「外縁部……」


「影の端です」


 契約士は黒布へ視線を落とした。


「人が光の中に立つと、影ができます。影は本人ではありません。ですが、本人がそこにいることを示す反応でもあります。この契約では、その反応の端を、あなたの仮保護名札へ一時的に結びます」


 ノアは胸元に触れた。


 服の内側にある仮保護名札。


 ノア=リント。


 そこに足りない音のことは、今は考えないようにした。


「それで、旧道に呼ばれたら影が震えるんですか」


「はい。旧道、名裂き、外界回収系呼称、その他、あなたの名傷に強く干渉する呼びかけがあった場合、返答より先に影が反応します」


「返答より先に」


「それが目的です」


 契約士は、ノアの目を見た。


「呼ばれたあとで判断するのでは遅い場合があります。あなたが返事をしてしまう前に、危険を知るための契約です」


 ノアは、ノイ=カランで見た旧道の灯を思い出した。


 帰りたいなら、門へ。


 あの声は、まだはっきり聞こえていない。


 けれど、もし本当に呼ばれたら。


 自分は返事をしないでいられるだろうか。


 帰れるかもしれないと言われたら。

 リントベルまで呼ばれたら。

 外界へ戻れると示されたら。


 そのとき、自分は本当に立ち止まれるのか。


 ノアは、答えられなかった。


 リィゼが壁際から言う。


「ノア」


 短い呼び声だった。


 ノアは振り向く。


 リィゼは腕を組んだまま、こちらを見ていた。


「迷ってるなら、まだ止められる」


「止めたら、旧道には行けませんよね」


「別の道を探す」


「手遅れになりませんか」


「何の」


「外界回収印も、名裂きの谷も、旧道の灯も」


「なるかもしれない」


 リィゼはあっさり言った。


 ノアは少しだけ目を見開く。


 リィゼは続けた。


「でも、あんたが無理に契約して、途中で壊れたら、それこそ手遅れだ」


 その言い方は乱暴だった。


 けれど、リィゼの声には苛立ちではなく、不安があった。


 ノアはそれに気づいてしまい、胸が詰まった。


「壊れません」


「それを決めるのは根性じゃない」


 ガルドが低く言った。


 彼は扉の近くに立ち、外の気配を警戒したままこちらへ視線を向けていた。


「契約は、我慢比べじゃない。耐えられないものを耐えたら強い、という話でもない」


「……はい」


「怖いなら、怖いまま選べ」


 ガルドの声は、いつもと同じく硬かった。


 だが、その言葉は妙にまっすぐノアの中へ入ってきた。


 怖いまま選ぶ。


 怖くなくなるのを待っていたら、たぶん何も選べない。


 ノアは膝の上の手を見下ろした。指が冷えている。爪の先が少し白い。


 それでも、声は出せる。


「契約士さん」


「はい」


「これは、私をメギド=ノクスに所属させる契約ではないんですよね」


「違います」


「私の本名を、別のものに変える契約でもない」


「違います」


「帰りたいという気持ちを消すものでもない」


「違います」


「私が返事をする前に、危ないと知らせるだけ」


「正確には、危険な呼称干渉を検知し、本人および同行者へ警告する契約です」


 少しだけ、外界の契約書のような言い回しだった。


 ノアはほんのわずかに口元を緩める。


「分かりました」


 契約士は、まだ筆を取らなかった。


「同意しますか」


 その問いは、静かだった。


 けれど審査室の空気が、その一言で引き締まった。


 ノアは、すぐには答えなかった。


 血は拒んだ。

 声も拒んだ。

 髪も、夢も拒んだ。


 差し出せないものは、差し出さなくていいと言われた。


 では、これは。


 影の縁。


 自分の輪郭の外側。

 そこにいる証の端。


 それをほんの少し、仮保護名札へ結ぶ。


 完全に納得したわけではない。


 怖い。

 嫌だ。

 正直に言えば、逃げたい。


 でも、旧道に呼ばれて返事をしてしまう自分のほうが、もっと怖かった。


 ノアは、ゆっくり息を吸った。


「同意します」


 言った瞬間、胸元の札が微かに冷えた。


 逃げたい気持ちと、言ってしまったという緊張が一緒に押し寄せる。


 契約士は、すぐに確認した。


「《影の縁留め》仮契約。対象者ノア、本人同意あり。契約範囲、影外縁部のみ。契約目的、旧道および名傷関連呼称干渉の警告。契約期限、旧道通過後三日以内、または王都裁定まで。解除申立権、本人保持」


 記録官が筆を走らせる。


「確認しました」


 オルフェが頷く。


「審査官確認。強制性なし」


 エルネアも静かに続けた。


「観測者確認。本人の精神的拒否反応は残存。ただし、同意撤回可能性を説明済み。現時点で続行可能」


 リィゼが小さく息を吐いた。


「……じゃあ、やるならさっさとやろう。ノアが途中で考えすぎる前に」


「考えすぎて悪いですか」


「悪くない。長引くと顔色が悪くなる」


 ノアは反論しようとして、自分でも顔が白い自覚があったので黙った。


 契約士は黒布幕を広げた。


 それは、机の上ではなく床へ敷かれた。


 正方形に近い布だった。けれど、布の端が見えにくい。黒すぎるのだ。部屋の光がそこだけ吸われ、朱墨の契約灯さえ布の表面で深く沈んでしまう。


「靴のまま、中央へ」


 ノアは立ち上がった。


 足が少し重い。


 リィゼがすぐ横に来ようとしたが、契約士が手で制した。


「契約中は、影が重ならないように」


 リィゼは一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに下がった。


「ノア」


「はい」


「気持ち悪くなったら、すぐ言え」


「分かっています」


「分かってても言わないことがあるから言ってる」


 ノアは小さく頷いた。


「言います」


 その返事に、リィゼはようやく黙った。


 ノアは黒布の中央に立った。


 部屋の灯が調整される。


 天井の黒晶灯がひとつずつ落とされ、代わりに床際の朱墨灯が明るくなる。横から光が差し、ノアの影が布の上へ伸びた。


 影は、思ったより細かった。


 自分の影なのに、知らないもののように見える。


 肩の線。

 髪の輪郭。

 外套の裾。

 胸元に下がる仮保護名札の小さな形。


 そのすべてが、黒布の上に浮かび上がる。


 契約士は膝をつき、小さな筆を取った。


 筆の軸は黒晶でできていた。先端には、墨というより液状の黒い光が含まれている。朱墨灯に照らされても、色を返さない。深い夜を溶かしたような筆だった。


「今から影の外縁をなぞります。身体には触れません。痛みがあれば、すぐに言ってください」


「はい」


「呼び名をひとつ確認します。契約中は、ノアと呼びます」


「はい」


「本名候補は呼びません」


 その配慮に、ノアは少しだけ喉が詰まった。


「……お願いします」


 契約士が筆を下ろした。


 影の足元から、ゆっくりと輪郭がなぞられていく。


 何も感じない。


 そう思った直後、足の裏がかすかに冷えた。


 床が冷たいわけではない。靴越しでもない。もっと内側、自分の足がそこにあるという感覚の外側を、誰かが細い糸で触れたような感覚だった。


 ノアは息を止めた。


「痛みは」


 エルネアの声が飛ぶ。


「ありません。冷たいだけです」


「続行可能?」


「……はい」


 筆は、影の輪郭をなぞっていく。


 足。

 外套の裾。

 指先。

 肩。

 髪。


 身体には触れられていない。


 けれど、自分の周囲の空気を一枚ずつ剥がされているようだった。


 ノアは、胸元の札を握りたくなった。だが契約中に動いてよいのか分からず、手を動かせなかった。


 リィゼの視線を感じる。


 ガルドの沈黙を感じる。


 オルフェの筆記音を感じる。


 エルネアの観測具が、小さく震える音を感じる。


 自分はひとりで黒布の上に立っているのに、完全にひとりではない。


 そのことが、ノアをぎりぎり支えていた。


 筆が、影の頭部の輪郭へ近づく。


 ノアの喉が鳴った。


 そこは、自分の名が入っている場所のような気がした。


 契約士は速度を落とした。


「ノアさん」


「はい」


「少し揺れます」


「揺れる?」


 聞き返す間もなく、影が動いた。


 布の上の影が、水面のように揺れた。


 ノアは思わず身体を強張らせる。


 自分は動いていない。

 なのに影だけが、ひと呼吸遅れて波打つ。


 足元が抜けるような感覚があった。


 視界が一瞬、遠くなる。


「ノア」


 リィゼの声がした。


 今度は、旧道の呼び声ではない。


 ちゃんと、目の前の人の声だった。


 ノアはそこへ意識を戻した。


「大丈夫です」


「禁止ワード」


 リィゼが即座に言った。


 こんなときに、とノアは思った。


 けれど、そのせいで少しだけ呼吸が戻った。


「……気持ち悪いです。でも、続けられます」


「確認しました」


 エルネアが言う。


「続行可能。ただし反応あり」


 契約士は筆を止めず、影の輪郭を最後までなぞった。


 そして、ノアの胸元の仮保護名札へ向けて、空中に細い線を引くように筆を動かした。


 黒い筆先から、糸のような光が伸びる。


 光と呼ぶには暗い。

 影と呼ぶには細い。


 それは、黒布の上の影の端から、ノアの胸元へ向かって静かに伸びた。


 ノアは、札に触れていないのに、胸元を軽く引かれたような感覚を覚えた。


 仮保護名札が、服の内側で震える。


 銀糸輪が、きゅっと締まる。


 痛くはない。


 でも、確かに結ばれた。


 影の端が、札の裏側に触れた。


 ノアは息を吸い損ねた。


 寒気が、背筋を上がった。


 自分のそこにいる証の端を、ほんの少し外へ預けた。


 そんな感覚だった。


 自分の身体はここにある。

 名前も、まだ自分の中にある。

 声もある。髪もある。夢も渡していない。血も流していない。


 それなのに、足元の影だけが、もう完全には自分だけのものではないような気がした。


「《影の縁留め》仮契約、接続完了」


 契約士の声が聞こえた。


「本人確認」


 ノアは、少し遅れて答えた。


「……ノアです」


「呼称安定」


 記録官が筆を動かす。


「仮保護名札との接続、微弱。過固定なし。帰属反応なし」


 帰属反応なし。


 その言葉に、ノアはほんの少し安心した。


 これは、メギド=ノクスへ所属する契約ではない。


 自分はまだ、帰りたいと言える。


 契約士は立ち上がった。


「契約は完了しました。黒布から出ても構いません」


 ノアは一歩踏み出した。


 その瞬間、影が半拍遅れてついてきた。


 ほんの一瞬だけ。


 だが、はっきりと分かった。


 ノアは足を止める。


「今」


「影が遅れましたか」


 契約士が尋ねる。


「はい」


「初期反応です。数刻で落ち着くはずです。強い呼称干渉がある場合は、同じような遅れや震えが出ます」


 ノアは足元を見た。


 影はもう、普通に戻っている。


 ただ、普通に戻っていることが、むしろ不思議だった。


 リィゼが近づいてきた。


 今度は止められなかった。


「立てる?」


「立ってます」


「そういう意味じゃない」


 リィゼはノアの顔を覗き込んだ。


「吐きそう?」


「吐きません」


「じゃあ、水」


「また?」


「また」


 差し出された水筒を、ノアは受け取った。


 水を飲むと、自分の喉が思ったより乾いていることに気づく。


 ガルドは契約士に確認していた。


「これで旧道へ入れるか」


「最低限の警告は機能します。ただし、防護としては弱い。本人が強く呼び声へ応じた場合、止める力はありません」


「止めるのはこっちの仕事だ」


「その認識で正しいです」


 オルフェが記録を閉じる。


「王都報告には、影の縁留め仮契約を追記します」


 エルネアは、ノアの胸元の銀糸輪を観察していた。


「接続は安定しています。過度な帰属反応はありません。気分は?」


「変です」


「具体的に」


「自分の影を、少し遠くから見ている感じがします」


「許容範囲です。ただし、しばらく旧道の方角を長く見ないでください。影が先に反応する可能性があります」


「影が先に?」


「あなたより先に、影が呼び声を拾うかもしれません」


 ノアは足元を見た。


 自分より先に、影が呼ばれる。


 その言葉は、あまりにも不穏だった。


 それでも、さっきよりはましだと思った。


 何も知らずに呼ばれるよりは。

 返事をしてから気づくよりは。


 影が震えてくれたほうがいい。


 ノアはそう自分に言い聞かせた。


 審査室を出ると、庁舎の空気が少し濃く感じられた。


 ホールでは相変わらず契約手続きが続いている。誰かが同意を確認され、誰かが拒否し、誰かが保留を選んでいた。


 ノアは、その声を今までとは少し違う気持ちで聞いた。


 怖さは消えていない。


 けれど、拒否できるということを、彼女はもう知っている。


 庁舎の外へ出ると、空気が冷たかった。


 グリム=ラハドの街には、朝の光が差し始めていた。だが、赤黒い契約灯は消えない。昼でも、朱墨の灯は街のあちこちで静かに燃えている。


 ノアは石段の端に立ち、深く息を吸った。


 胸元の札が、ほんの少し重い。


 足元の影が、いつもより輪郭を持って見える。


 自分がそこにいる。


 その証が、いまは少しだけ外側にも置かれている。


 落ち着かない。


 でも、歩ける。


「少し休むか」


 リィゼが聞いた。


「大丈夫です」


「禁止」


「……少し休みたいです」


「よし」


 リィゼは満足そうに頷いた。


 ノアは石段の手すりに手を置いた。


 冷たい石だった。手のひらにその冷たさが伝わり、少しずつ呼吸が整っていく。


 そのときだった。


 通りのざわめきが、わずかに変わった。


 叫び声ではない。


 誰かが走ってきたわけでもない。


 だが、街の空気が、ひとつ薄く張り詰めた。


 ガルドが先に気づいた。


 彼の視線が、通りの向こうへ向く。


 リィゼも、すぐに腰の黒晶灯へ手を添えた。


 オルフェの表情が硬くなる。


 ノアは遅れて、その男を見た。


 白手袋。


 まず、それが目に入った。


 グリム=ラハドの赤黒い灯の中で、その白はひどく浮いて見えた。汚れがない。旅の埃も、黒晶の粉も、潮の染みもない。まるでこの街の空気に触れていないかのような白だった。


 男は、通りの中央をゆっくり歩いてきた。


 整った外界式の礼装。濃い灰色の上衣に、きちんと留められた襟元。胸には、銀と黒で作られた徽章がある。


 記録院の徽章。


 ノアは、それを見た瞬間、息を呑んだ。


 ヴァルテリア式だ。


 この大陸で、あの形を見るとは思わなかった。


 男の髪は淡い灰金で、後ろへ丁寧に撫でつけられている。年齢は三十代ほどだろうか。顔立ちは整っており、目元には穏やかな笑みさえある。けれど、その笑みは温度を持たない。


 彼は、ノアたちの数歩手前で立ち止まった。


 まず、ガルドへ視線を向ける。


 次に、オルフェ。


 リィゼ。


 エルネア。


 最後に、ノア。


 その順番が、妙に正確だった。


 危険人物、責任者、同行者、観測者、対象者。


 そう分類されたようで、ノアの背中に冷たいものが走った。


 男は帽子を取った。


 そして、丁寧に頭を下げた。


「お初にお目にかかります」


 声は、驚くほど礼儀正しかった。


 外界の庁舎で聞く声だ。


 窓口ではなく、上位記録官が正式な通知を読み上げるときの声。相手を侮辱しない。声を荒げない。けれど、すでに結論が決まっている声。


 ノアの足元で、影がほんのわずかに揺れた。


 まだ、警告というほどではない。


 男は、ノアを見た。


「ノア=リントベルさん」


 その瞬間、世界の音が遠ざかった。


 ノアは息を呑む。


 リントベル。


 呼ばれた。


 ノア=リントベル。


 この大陸で、誰も安定して呼べなかった名。


 ナハト=リムでは、ノア。

 仮保護名では、ノア=リント。

 書類では、欠けた名。

 銀糸輪は、呼ぶだけで締まった。


 自分自身でさえ、声に出すのを避けていた名。


 それを、この男は正確に呼んだ。


 胸元の札が、冷えた。


 銀糸輪が締まる。


 だが、それ以上に、ノアの心が揺れた。


 外界の声だ。


 自分を知っている声。

 自分の名を最後まで呼べる声。

 欠けたベルを、ためらいなく戻してくれる声。


 ノアは一瞬、男へ駆け寄りそうになった。


 この人なら。


 この人なら、帰してくれるのではないか。


 ヴァルテリアの記録へ、ノア=リントベルを戻してくれるのではないか。

 船の名簿を照合し、事故報告書に自分の証言を載せ、壊れた懐中時計の時刻を確認し、黒月潮で消えた記録を回復してくれるのではないか。


 男は、穏やかに続けた。


「あなたを救いに来ました」


 救いに。


 その言葉は、あまりにも欲しかったものに近かった。


 ノアは動けなかった。


 リィゼが、低く言う。


「ノア」


 その声で、ノアはようやく瞬きをした。


 男の視線が、わずかにリィゼへ移る。


「失礼。先に名乗るべきでした」


 彼は懐から身分証を取り出した。


 黒革の証票入れ。銀の縁。ヴァルテリア式の記録院印。


「ヴィクトル=ヘイズ。ヴァルテリア記録院、外界損耗記録回収室、特別回収官です」


 回収官。


 その単語が、ノアの耳に引っかかった。


 救助官ではない。


 保護官でもない。


 回収官。


 ガルドが一歩前に出た。


「ここはメギド=ノクス庇護契約庁の管轄内だ。外界の回収官が勝手に対象者へ接触する場所じゃない」


 ヴィクトルは少しも動じなかった。


「承知しております。ゆえに、非礼のないよう正式な身分を提示しました」


「正式かどうかを決めるのは、お前ではない」


「もちろんです」


 ヴィクトルは穏やかに頷く。


「しかし、ノア=リントベルさんはヴァルテリア籍を有する外界人です。現在、魔大陸滞留中であっても、外界側記録の対象者であることに変わりはありません」


 対象者。


 また、その言葉。


 ノアは胸元を押さえた。


 契約庁で聞いた対象者とは違う。


 同じようで、違う。


 ここでは、対象者であっても拒否を聞かれた。

 この男の声に、その余白はあるのだろうか。


 オルフェが静かに前へ出た。


「ノアさんは現在、メギド=ノクス側の仮保護下にあります。外界側の記録照会は王都を通す必要があります」


「存じています。ですが、こちらにも緊急性があります」


 ヴィクトルは、白手袋の手で書類を取り出した。


 丁寧に折りたたまれた外界式の文書。


 紙質、封蝋、罫線、押印。


 ノアには、そのすべてが懐かしく、そして恐ろしく見えた。


 ヴィクトルは書類を開き、ノアへ見えるように差し出した。


「あなたの安全確保、および外界記録への復帰手続きのため、同行を求めます」


 ノアは、吸い寄せられるようにその文字を見た。


 外界記録への復帰。


 その一文だけなら、泣きたくなるほど欲しいものだった。


 だが、その下に並ぶ項目を読んだ瞬間、胸の中の熱が冷えていった。


 外洋損耗記録対象。

 魔大陸漂着生存個体。

 接触汚染疑い。

 回収優先度、高。

 所持記録帳、確保対象。

 懐中時計、確保対象。

 漂着経路、聴取対象。

 黒月潮接触痕、調査対象。


 ノアは、文字を見つめたまま動けなかった。


 どこにも、帰還者とは書かれていない。


 救助対象とも書かれていない。


 ノア=リントベルという名はある。


 けれど、その横に並ぶ言葉は、人を迎えに来たものではなかった。


 損耗記録。

 生存個体。

 接触汚染。

 確保対象。


 彼は、自分を知っている。


 でも、自分を見ていない。


 ノアは、ゆっくり顔を上げた。


 ヴィクトルは変わらず穏やかだった。


「ご安心ください。あなたの意思は、安全確保後に確認されます。まずはこちらへ」


 その言葉で、ノアの足元が震えた。


 影だった。


 黒い影が、石段の上で、ぴくりと震えた。


 旧道の方角ではない。


 名裂きの声でもない。


 目の前の外界の声に、影が反応している。


 ノア=リントベル。


 その呼び方は、自分の名だった。


 確かに、欲しかった呼び方だった。


 けれど、それはノアを人として呼ぶ声ではなかった。


 書類の対象を呼び出す声。


 回収すべき損耗記録に、正しい管理番号を読み上げる声。


 その声に、自分は一瞬、応えそうになった。


 ノアは、指先が冷たくなるのを感じた。


 影の縁留めがなければ。


 今、返事をしていたかもしれない。


 はい、と。


 私はノア=リントベルです、と。


 連れて行ってください、と。


 言ってしまっていたかもしれない。


 リィゼがノアの前へ出ようとした。


 だが、ノアはその袖を掴んだ。


 リィゼが振り向く。


「ノア?」


 ノアは、まだ少し震えていた。


 でも、前を見た。


 ヴィクトルの白手袋。

 外界式の礼装。

 記録院の徽章。

 自分の名を最後まで呼べる声。


 それらすべてを見たうえで、言った。


「後で、じゃない」


 声は、思ったより掠れていた。


 ヴィクトルが、わずかに眉を動かした。


 ノアは、もう一度息を吸う。


「私の意思は、後で確認するものじゃありません」


 胸元の札が冷たい。


 足元の影が震えている。


 けれど、声は出た。


「今ここにあります」


 グリム=ラハドの朱墨の灯が、石段の影を赤黒く照らしていた。


 ノアの影は、彼女の足元で黒く震え続けている。


 それは旧道ではなく、外界から差し出された帰り道にも反応していた。


 帰還の名をまとった回収の声に。


 ノア自身が応えるよりも先に。

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