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第一節 ― 紙に書けない者たち

 グリム=ラハドの門をくぐった瞬間、ノアは息をするのを忘れた。


 そこは、血の匂いがする場所ではなかった。


 少なくとも、ノアが想像していたような場所ではない。


 路地裏に粗末な露店が並び、赤黒い布の下で怪しげな商人たちが針や小瓶を売っている。誰かが声を殺して泣き、誰かが腕を切り、誰かが命と引き換えに契約書へ署名する。


 血契の市。


 その名前から、ノアはそんな光景を思い描いていた。


 けれど、門の内側に広がっていたのは、もっと静かで、もっと整った場所だった。


 通りは黒い石で敷かれている。黒冠街道の石よりも細かく、石と石の継ぎ目には朱色の細い線が流れていた。血ではない。火でもない。朱墨を薄く水でのばし、石畳の隙間へ流し込んだような光だった。


 道の両側には、低く重い建物が並んでいる。


 庁舎。

 契約所。

 監査院。

 庇護記録局。

 契約不服申立所。

 未成年庇護契約相談窓口。

 解除審査室。


 看板の文字は、どれも黒い板に朱の光で浮かび上がっていた。派手ではない。だが、読もうとすれば必ず目に入る。隠すつもりがない文字だった。


 ノアは思わず立ち止まりかけた。


 すぐ横で、リィゼが小さく言う。


「立ち止まるな。後ろも詰まる」


「あ……ごめんなさい」


 ノアは慌てて前へ進んだ。


 門の内側には、彼女たち以外にも多くの人がいた。


 外套を深く被った者。

 片腕だけが異様に大きい者。

 背中に薄い羽の痕跡のようなものを持つ子ども。

 首元を布でぐるぐるに巻いた少年。

 自分の影を踏まないよう、足元を見ながら歩く老婆。

 書類の束を抱え、誰かに付き添われている職人風の男。


 だが、誰も叫んでいない。


 誰も強引に腕を引かれていない。


 皆、何かを待っていた。


 順番を待ち、呼ばれるのを待ち、確認されるのを待っている。


 それが、ノアにはかえって異様だった。


 恐怖や混乱がないわけではない。通りに並ぶ人々の顔は、どれも硬い。子どもは保護者の服の裾を握り、老人は杖を持つ手を震わせ、若い男は何度も自分の喉元に触れている。


 けれど、そこには制度があった。


 列がある。

 番号がある。

 説明係がいる。

 拒否するための窓口さえある。


 無秩序な闇市ではない。


 それどころか、ノアが知っている外界の役所よりも、ずっと丁寧で、ずっと重い空気をまとった制度都市だった。


 通りの中央には、赤黒い契約灯が一定間隔で並んでいる。灯火は炎のように揺れず、黒い硝子の内側で朱墨の滴がゆっくり上下しているように見えた。


 その光の下で、契約士たちが声を低くして庇護契約を読み上げている。


「対象者、北裂れのユム。本人申告名、ユム。旧名反応あり。ただし発声時に喉部裂傷を伴うため、以後の読み上げは代替符号にて行います」


「同意確認。本人は頷きで応答可能。保護者同席。監査官、確認を」


「確認しました。本人に対し、契約拒否権、解除申立権、第三者介入拒否権を説明済みです」


「では、声帯保護を目的とする声留め仮契約に入ります。本契約は本人の声を奪うものではなく、旧名発声時の裂傷を防ぐため、特定音域を一時的に庇護瓶へ避難させるものです」


 ノアは思わず、その声のする方を見た。


 少年がいた。


 十二、三歳ほどに見える。首に白い布を巻き、椅子に座っていた。顔色は悪く、唇は乾いている。隣には母親らしい女性がいて、少年の肩を抱いていた。


 契約士が小さな硝子瓶を持っている。


 瓶の中には、何も入っていないように見えた。けれど契約灯の光を受けると、内側に薄い震えが走った。


「……あれは?」


 ノアが小声で聞くと、オルフェが答えた。


「声留め用の庇護瓶です。声そのものを封じるのではなく、危険な音だけを一時的に避難させます」


「危険な音?」


「発音した瞬間、本人の名傷が反応する音です。あの少年は、おそらく本名の一部が喉の記録と癒着しています」


 ノアには、すぐに意味が分からなかった。


 名前が、喉と癒着する。


 そんなことがあるのか。


 そう思いかけて、ノアは自分の胸元に触れた。


 仮保護名札。

 銀糸輪。

 ノア=リント。

 届かないベル。


 ここへ来てから、ありえないと思ったことは、いくつも現実だった。


 少年は契約士の問いに、かすかに頷いた。母親が泣きそうな顔で、その肩を撫でる。


 契約士は急かさない。


「もう一度、確認します。嫌なら、今ここで止められます」


 少年は、喉を押さえたまま、もう一度頷いた。


 その頷きを、監査官が記録する。


「本人同意、確認」


 その言葉を聞いた瞬間、ノアの胸の中で何かが小さく引っかかった。


 同意。


 ここでは、その言葉が何度も口にされている。


 血契の市という名前から想像していたものとは違う。もっと乱暴で、もっと一方的で、もっと搾取的な場所だと思っていた。


 だが、この街では、契約そのものより先に、拒否できるかどうかが確かめられている。


 それでも、怖いものは怖かった。


 道の先で、別の契約が行われていた。


 そこでは、年配の男が長机の前に座っている。片方の腕は、肘から先が黒い金属で補われていた。作業用の義手に見える。男の手元には、外界式の契約書が置かれていた。煤けた紙。古い押印。ヴァルテリアで見慣れた形式の書類。


 ノアの足が、自然と遅くなった。


 ヴァルテリア式の書式だった。


 行の幅。署名欄の位置。証人欄の囲み方。契約番号の打ち方。


 ノアには、それが海運系か工房系の労務契約書だと分かった。


 男の前にいる記録官が、静かに読み上げる。


「外界契約上、対象者は死亡扱い。死亡日、八年前。契約上の補償金は親族名義にて受領済み。本人は帰還不能。旧契約による身分回復を望まず、メギド=ノクス内職工庇護籍の継続を希望」


 男は頷いた。


「俺は、もうあの書類の中じゃ死んでる。なら、こっちで生きてる証明だけでいい」


 その声は、低く、少し掠れていた。


 ノアはその場から目を離せなかった。


 死亡扱い。


 契約上は死んだ者。


 その言葉が、胸に鈍く刺さる。


 もし自分が外界へ戻れなければ。


 船の事故報告書に、ノア=リントベルの名はどう記されるのだろう。


 行方不明。

 死亡推定。

 乗船記録なし。

 名簿照合不能。


 あるいは、最初から乗っていなかったことになるのかもしれない。


 ノアは唇を噛んだ。


 帰りたい。


 その気持ちは、まだ変わらない。


 でも、あの職人は帰らないことを選んでいる。


 帰れないのではなく、帰らない。

 外界の書類では死んでいるから、こちらで生きている証明を求めている。


 その選択を、ノアはすぐには理解できなかった。


 けれど、間違っているとも言えなかった。


「外界の契約書は残酷ですか」


 気づけば、ノアはそう呟いていた。


 オルフェがわずかに視線を向ける。


「契約書そのものは、ただの器です」


「では、何が残酷なんですか」


「記されなかったものを、存在しなかったものとして扱えることです」


 ノアは黙った。


 オルフェの声は淡々としている。


「外界の制度にも、多くの優れた点があります。記録、補償、責任、継承、証明。紙に残すことによって、守れるものは確かに多い」


 彼は一度、通りを見た。


「ですが、紙に書けない者は、その制度から落ちます」


 ノアの胸元の札が、服の内側で冷たく感じられた。


「名前を書けない者。書けば傷つく者。書かれた瞬間に追跡される者。外界の書類では死亡扱いになっている者。旧契約を回復すれば、かえって処刑や捕縛の対象になる者。そういう者たちに、紙の記録だけで生きろとは言えません」


「だから、血や影を使うんですか」


「そうです」


 オルフェは、そこで一拍置いた。


「ただし、それが正しいからではありません」


 ノアは顔を上げた。


「正しいからでは、ない?」


「必要だからです」


 その言葉は、重かった。


 正しい制度だから続いているのではない。

 必要だから、ここまで来てしまった。


 ノアは赤黒い灯を見上げた。


 灯の中で、朱墨のような光がゆっくり沈んでいく。


 美しいとは思えなかった。


 だが、ただ醜いとも言えなかった。


 通りの奥で、老婆が椅子に座っていた。


 白い髪をきちんと結い、膝の上に両手を重ねている。背筋は伸びているのに、足元の影だけが異様に長かった。朝の光の向きとは合わない。老婆の身体は小さく痩せているのに、影だけが年老いた巨人のように、椅子の下からずるりと伸びていた。


 黒布幕を持った庇護官が、影の端をそっと押さえている。


「影齢、実年齢と不一致。影のみ老衰進行。本人確認、現在名にて安定。影剥離はなし。影縫い延長契約、本人希望」


「延長すると、影の痛みは残りますか」


 老婆が静かに聞いた。


 庇護官は、すぐには答えなかった。


「完全には消えません。ですが、影が先に逝くことは防げます」


「それなら、お願いします」


「同意確認をもう一度」


「同意します」


 老婆の声は、驚くほど穏やかだった。


 ノアはぞっとした。


 影が先に逝く。


 そんな言葉を、日常の手続きの中で使わなければならない人がいる。


 そしてその人は、泣き叫ぶのでもなく、静かに延長契約を願っている。


 リィゼが横で、低く言った。


「見るのがきついなら、目を逸らしてもいい」


「……目を逸らしたら、失礼な気がします」


「見るだけで分かった気になるほうが失礼なときもある」


 ノアは答えられなかった。


 リィゼの言葉は、ときどき刃物のようにまっすぐ来る。


 けれど、傷つけるためではない。


 ノアが分かったつもりにならないよう、引き戻している。


 リィゼは続けた。


「ここにいる奴らは、見せ物じゃない」


「分かっています」


「分かってるならいい」


 きつい言い方だった。


 でも、必要な言葉だった。


 ノアは視線を少し下げた。


 通りの端では、小さな子どもが髪を一房切られていた。


 変異児だろうか。片方の目だけが金色に光り、耳の後ろに小さな鱗が浮いている。まだ幼い。七歳か八歳くらいに見えた。母親らしい女性が背後に座り、子どもの肩を抱いている。


 契約士は鋏を持っていたが、動きはとても慎重だった。


「切るのは、この一房だけです。本人が嫌と言ったら止めます」


 子どもは唇を尖らせた。


「痛くない?」


「髪だから、痛くありません。でも、嫌な感じはするかもしれません」


「嫌だったら?」


「止めます」


「ほんと?」


「契約士が嘘をついたら、あちらの監査官に怒られます」


 監査官が真面目な顔で頷いたので、子どもは少しだけ笑った。


「じゃあ、ちょっとだけ」


 鋏が鳴る。


 切られた髪は、銀糸で結ばれ、小さな黒い筒に収められた。


「暴走時連絡用の髪紐、仮登録。本人同意、保護者同意、監査官確認」


 髪を切られた子どもは、すぐに自分の頭を触った。


「変じゃない?」


「変じゃない」


 母親が涙ぐみながら答える。


「かっこいいよ」


 ノアは胸の奥が苦しくなった。


 髪を預ける。


 それは、ノアにとっては怖いことだった。


 身体の一部を切り離すなんて、と反射的に思う。


 だが、あの子にとっては、自分を見失ったときに戻ってくるための糸なのだ。


 守るため。


 たしかに、そうなのかもしれない。


 でも。


 怖い。


 理解はできる。

 理屈も分かる。

 目の前で、それによって救われる人がいることも見える。


 それでも、自分が同じことをされると思うと、体の奥が拒んだ。


 ノアは自分の髪に触れた。


 漂着してから何度も潮で乱れ、切れかけ、リィゼに櫛を借りてようやく整えた髪。外界にいた頃なら、ただの実用的な髪型だった。記録補佐として邪魔にならない長さ。それだけだった。


 でも今は、それすら自分の一部に思えた。


 これ以上、何かを失いたくない。


 ノアは手を下ろした。


 そのとき、通りの奥から小さな鈴のような音がした。


 音のした方を見ると、透明な薄い水盤がいくつも並ぶ部屋が見えた。開いた扉の向こうで、水盤の表面が淡く光っている。眠っている者の夢を見るためのものだろうか。


 水盤の前には、若い女性が座っていた。目を閉じ、両手を膝の上に置いている。その隣で、庇護官が静かに説明していた。


「夢見留めは、あなたの夢を読む契約ではありません。名裂きが夢の中から呼ぶ場合に、入口だけを記録するものです」


「中身は?」


「本人の許可なしには見ません」


「本当に?」


「本当に。許可なく見た場合、契約士側が処罰されます」


 女性は長く沈黙した。


 それから、小さく頷いた。


 ノアはもう、何も言えなかった。


 どこまでなら預けられるのか。


 血。

 声。

 髪。

 影。

 夢。


 どれも、ただの物ではない。


 どれも、自分の輪郭だ。


 その輪郭を、守るために少しだけ外へ預ける。


 そんな考え方を、ノアは知らなかった。


 グリム=ラハドの中央庁舎は、街の奥にあった。


 高い建物ではない。むしろ、横に広く、地面に深く根を張っているように見える。黒い石壁には無数の細い溝があり、その溝を朱墨の光がゆっくり流れていた。


 入口の上には、こう刻まれている。


 庇護契約庁。


 その下に、小さな文字が続いていた。


 同意なき契約は、契約にあらず。


 ノアはその文字を見つめた。


 リィゼが横で言った。


「読める?」


「読めます」


「じゃあ、覚えとけ。ここで一番大事な文だ」


 ノアは頷いた。


 だが、胸の重さは消えない。


 同意なき契約は、契約にあらず。


 正しい。


 たぶん、とても正しい。


 けれど、同意を求められるということは、選ばなければならないということだ。


 怖いから嫌だと言える。


 でも、嫌だと言ったあと、自分は旧道へ行けるのか。


 行けないなら、それは本当に自由なのか。


 ノアは、その問いを飲み込めなかった。


「難しい顔をしていますね」


 声がした。


 振り返ると、庁舎の石段の上に、エルネア=グラナートが立っていた。


 旅装ではなく、淡い灰色の外套に小型の観測箱を下げている。髪はきちんとまとめられ、目元にはいつもの冷静な光があった。だが、ナハト=リムで別れたときよりも、少し急いで来たように見える。


「エルネアさん」


 ノアは思わず名を呼んだ。


 自分でも、少し安心した声になったのが分かった。


 エルネアは石段を降りてくる。


「ナハト=リム側の記録を受け取りました。旧道反応と外界回収印が同時に出た以上、観測担当を外れるわけにはいきません」


「同行するんですか?」


「少なくとも、契約審査までは」


 ノアは小さく息を吐いた。


 安心した。


 検査は怖かった。エルネアの扱う観測具も、今でも少し怖い。


 けれど、彼女はノアを物のようには扱わなかった。嫌なら止めると言った。分からないことを分からないと言った。


 それが、今のノアには大きかった。


 エルネアは、ノアの顔をじっと見た。


「怖いですか」


 あまりにまっすぐ聞かれて、ノアは言葉に詰まった。


 リィゼの「怖いなら怖いって言え」と同じ意味なのに、エルネアの声は静かで、逃げ道がない。


 ノアはしばらく黙った。


 それから、小さく頷いた。


「怖いです」


 口にした瞬間、胸の奥で固まっていたものが少しだけほどけた。


「血とか、声とか、髪とか、影とか……そういうものを契約に使うって聞いて、怖くないわけがありません」


「正常な反応です」


 エルネアは即座に言った。


 ノアは目を瞬いた。


「正常……なんですか」


「はい。怖がらないほうが危険です」


 エルネアは庁舎の入口を振り返った。


「契約は、便利な救済ではありません。人の輪郭に触れる行為です。疑ってください。怖がってください。質問してください。納得できなければ拒んでください」


「でも、拒んだら旧道には」


「行けない可能性があります」


 エルネアは曖昧な慰めを言わなかった。


 ノアの喉が詰まる。


 エルネアは続けた。


「それでも、拒否権はあります。選択肢の一方が危険だからといって、同意を省略してよい理由にはなりません」


 ノアは、庁舎の入口に刻まれた文字をもう一度見た。


 同意なき契約は、契約にあらず。


「疑っても、いいんですね」


「疑わない契約こそ危険です」


 エルネアの声は静かだった。


「守ると言われたときほど、何から、誰が、何を使って、どこまで守るのかを確認してください。庇護と拘束は、とても近いところにあります」


 ノアは、その言葉を胸の中で繰り返した。


 庇護と拘束は近い。


 それは、この数日の自分にも当てはまる気がした。


 保護されている。

 でも、自由ではない。


 守られている。

 でも、行き先は決められていく。


 自分は帰りたいと言っている。

 けれど、その帰り道は危険だと、皆が知っている。


 だからこそ、ノアはここにいる。


 守られるために。

 旧道へ進むために。

 そして、自分の名をこれ以上裂かれないために。


 エルネアはノアの胸元を見た。


「銀糸輪、反応していますか」


「道中で、少し」


「痛みは?」


「ありません。重くなる感じだけです」


「では、契約前記録に入れます」


 オルフェが頷いた。


「私の記録と照合しましょう」


「お願いします」


 二人の会話は手早かった。


 研究者と審査官。

 観測と記録。

 ノアには分からない専門語がいくつか交わされた。


 リィゼはその横で腕を組み、少し不満そうに言った。


「難しい話をする前に、ノアに水を飲ませたほうがいい」


「必要ですか」


 オルフェが真面目に聞く。


「顔が白い」


 リィゼは即答した。


 ノアは反射的に言った。


「大丈夫です」


 ガルドが低く言った。


「その返事は禁止にするか」


「禁止って」


「お前の大丈夫は信用が薄い」


 ノアは言い返そうとしたが、リィゼが水筒を差し出してきたので、受け取るしかなかった。


 水は少し冷たかった。


 飲み込むと、乾いていた喉に痛いほど染みる。


 自分が思っていたより緊張していたことに、ノアはそこで気づいた。


 庁舎の中へ入ると、空気が少し冷たくなった。


 中は薄暗い。けれど暗いのではなく、光が抑えられている。壁際には朱墨の契約灯が並び、天井からは黒い布幕が幾重にも垂れていた。


 広い玄関ホールには、いくつもの受付がある。


 血契相談。

 声留め申請。

 影縫い更新。

 髪紐登録。

 夢見留め観測。

 契約解除審査。

 未成年庇護確認。

 外界契約無効化相談。


 ノアは最後の文字に目を止めた。


 外界契約無効化相談。


 そこには、何人かの人が並んでいた。

 皆、古い書類を持っている。

 外界の紙だ。

 薄茶け、折れ、何度も読み返された跡のある契約書。


 あの人たちは、外界の契約から逃げてきたのだろうか。


 それとも、外界の契約に殺されたことになっているのだろうか。


 ノアは、自分の壊れた身分証を思い出した。


 ヴァルテリアの記録が、自分を守ってくれると信じていた。


 今も、どこかで信じたい。


 けれど、その同じ制度から落ちた者たちが、ここに列を作っている。


 その事実は、ノアの足元を静かに揺らした。


 受付の奥から、ひとりの契約士が現れた。


 年齢は分かりにくい。若くも見え、ひどく年を重ねているようにも見える。黒い長衣の袖口には、朱色の細い刺繍がある。手袋はしていない。指先に、古い墨の染みのような跡が残っていた。


 彼、あるいは彼女は、オルフェに向かって礼をした。


「ナハト=リム特例審査官、オルフェ=セプティア様。連絡は受けています」


「対象者、ノア。仮保護名による移動中。旧道呼称干渉、外界回収印関連、黒潮反応あり。王都送致前の庇護契約候補確認をお願いします」


「承知しました」


 契約士はノアを見た。


 視線は鋭い。だが、値踏みするような目ではなかった。


「あなたが、ノアさんですね」


 リントベルまで呼ばれなかったことに、ノアは少しだけ安堵した。


 同時に、寂しさもあった。


 その矛盾を、自分でも持て余す。


「はい」


「ここでは、あなたが返事をできる呼び名を使います。別の呼び方を希望しますか」


 ノアは迷った。


 ノア=リントベル。


 そう呼んでほしい。

 そう呼ばれたい。


 けれど、道中で銀糸輪が締まった感覚を思い出す。


 今ここで、その名を呼ばせるべきではない。


「……ノアで、お願いします」


 言うのに、少し痛みがあった。


 契約士は頷く。


「確認しました。庇護契約審査中の推奨呼称、ノア」


 その言葉を、横の記録官がすぐに書き留める。


 ノアは唇を引き結んだ。


 また記録される。


 けれど今度は、自分で選んだ呼び方が記録された。


 それは、わずかではあるが、これまでとは違っていた。


 契約士は一行を奥の審査室へ案内した。


 部屋の中央には長い机がある。机の上には、いくつもの器具が整然と並べられていた。


 細い針の入った黒い箱。

 透明な小瓶。

 銀糸の束。

 黒布の巻物。

 浅い水盤。

 朱墨の契約灯。

 白い石板。

 そして、何も書かれていない黒い契約紙。


 ノアは、そのどれもに触れたくなかった。


 でも、目を逸らせなかった。


 契約士は机の向こうに立ち、静かに言った。


「まず、候補を提示します。決定ではありません。説明後、あなたは質問できます。拒否できます。保留できます。途中で退室を求めることもできます」


 ノアは小さく頷いた。


 契約士は、一つ目の箱に手を置いた。


「第一候補、血契。もっとも強く、もっとも侵襲性が高い庇護契約です。名傷が深い場合、血の反応を基点として本人の存在を固定します。ただし、あなたの場合は初回候補として推奨しません」


 ノアの指が、膝の上で強く握られた。


 血。


 その言葉だけで、身体が強張る。


 契約士は次に、小瓶へ手を移した。


「第二候補、声留め。旧道からの呼び声に応答しにくくする効果があります。ただし、本人の返答能力にも影響するため、帰還意思の確認が必要なあなたには慎重な運用が必要です」


 声を預ける。


 帰りたいと言う声まで鈍るのだろうか。


 ノアは喉元に触れた。


 契約士は銀糸を示した。


「第三候補、髪紐契約。髪を一房預け、異常時の帰還糸とします。比較的安定していますが、身体の一部を預けることに抵抗がある場合は避けます」


 髪。


 ノアは、先ほどの子どもを思い出した。


 あの子は、少し笑っていた。


 けれど自分は、たぶん笑えない。


 契約士は水盤に視線を落とした。


「第四候補、夢見留め。名裂きが夢から呼ぶ場合に備え、夢の入口だけを記録します。夢の内容を読む契約ではありませんが、眠りの領域に触れるため、本人の心理的負担が大きい」


 夢。


 眠ることすら、ここでは守る対象になる。


 最後に、契約士は黒布の巻物へ手を置いた。


「第五候補、影の縁留め。影の輪郭を一時的に仮保護名札へ結び、呼称干渉を受けた際に警告を出します。固定力は弱いですが、侵襲性は比較的低い。あなたの現状では、まず説明すべき候補です」


 影。


 ノアは、足元を見た。


 庁舎の灯に照らされ、自分の影が椅子の下へ落ちている。


 黒く、薄く、当たり前のようにそこにあるもの。


 それすら、契約に使われる。


 ノアは顔を上げた。


 契約士が静かに見ている。


 オルフェも、エルネアも、リィゼも、ガルドも、何も言わなかった。


 急かさない。


 代わりに選ばない。


 それが、かえって重かった。


 選ぶのは、自分だ。


 この街では、同意を記録する。


 拒否も記録する。


 ならば、沈黙もまた、いつか何かを意味してしまうのかもしれない。


 ノアは乾いた唇を開いた。


「……全部、説明を聞きます」


 声は少し震えていた。


 でも、消えなかった。


「まだ、選べません。でも、知らないまま嫌だとは言いたくありません」


 契約士は頷いた。


「確認しました。説明継続。選択は保留」


 記録官が、その言葉を書き留める。


 ノアはその音を聞きながら、膝の上で握った手に力を込めた。


 血契。

 声留め。

 髪紐契約。

 夢見留め。

 影の縁留め。


 どれも怖い。


 けれど、旧道は呼んでいる。


 外界はまだ見えない。


 王都は遠い。


 そして、自分の名は、紙の上だけではもう守りきれない。


 ノアは、目の前に並ぶ器具を見つめた。


 ここで何を拒み、何を選ぶのか。


 その最初の問いが、朱墨の灯の下で、静かに始まろうとしていた。

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