序節 ― 朱墨の灯が見える街
ノイ=カランの灯が、背後で小さくなっていく。
朝の街は、まだ完全には目覚めていなかった。黒冠街道沿いの宿場町らしく、早い時刻から荷馬車の音や、黒晶灯を消して回る者の足音はあった。だが、昨夜見た旧道の灯の気配だけは、朝になっても消えなかった。
あれは、ただの灯ではなかった。
外れた道の奥に、誰かが置いたもの。
あるいは、道そのものが誰かを呼ぶために灯したもの。
ノアは、歩きながら何度も背後を振り返りそうになった。
振り返っても、もう見えない。
それは分かっている。
正規の黒冠街道は、広く、硬く、黒い石で敷かれている。夜になれば淡く光り、旅人を王都へ導く道だと聞いた。道そのものに記録があり、通る者の足跡を覚え、消えかけた者を簡単には呑まない。
けれど今、一行が進んでいるのは、その街道から少し外れた枝道だった。
道幅は狭い。石畳の継ぎ目には灰色の草が入り込み、黒晶の光も弱い。道の脇には低い岩と、ねじれた灌木が続いている。朝露を含んだ枝が、通り過ぎるたびに小さく震えた。
遠くには、正規街道の黒い線がまだ見えている。
だが、一歩ずつ離れるたびに、ノアの胸の奥で何かが重くなっていった。
王都へ向かうはずだった。
ノイ=カランで見つかった旧道の灯。外界式の回収印。閉門派の封蝋。名裂きの谷へ向かう反応。
それらはすべて、王都へ上げる案件として扱われることになった。
オルフェはそう説明した。
ノアにも、その意味は分かる。
これはもう、港で偶然拾われた漂着者ひとりの問題ではない。ナハト=リムの一時保護でも、偽名証発行所だけで処理できる問題でもない。旧道が呼び、外界が印を残し、閉門派が関わっている。ならば、王都レム=ヴァリスで裁定すべき事案になる。
そこまでは理解できた。
けれど、王都へ行く前に、ノア自身の保護契約を強化しなければならない。
その説明を受けたとき、ノアはすぐに返事ができなかった。
紙の仮保護名だけでは、旧道の呼称干渉に耐えられない。
そう言われた。
紙。
仮保護名。
ノア=リント。
その札は、今も胸元にある。服の内側に隠しているのに、歩くたびに冷たい縁が肌へ触れた。自分を守るための札だと、もう分かっている。これがなければ、ナハト=リムでも、黒冠街道でも、ノアは自分を指す呼び名をうまく固定できなかったかもしれない。
それでも、あの札にはベルがない。
ノア=リントベル。
自分がそうであることを、ノアはまだ諦めていない。
だが、世界はそこまで受け取ってくれない。
紙に書いた名ですら足りないなら、次は何を使うのか。
血。
影。
声。
髪。
夢の断片。
オルフェが口にした言葉を思い出すたび、ノアの胃の奥がきゅっと縮んだ。
契約だという。
庇護のためだという。
本人の同意なしには行わないとも言われた。
けれど、それでも怖かった。
書類に署名するのとは違う。身分証を見せるのとも違う。自分の身体、自分の声、自分の眠り、自分の影。そういう、自分から切り離せないものを何かに預けるという考えそのものが、ノアにはどうしても受け入れがたかった。
「顔、硬いぞ」
横から声がした。
リィゼ=ノルカだった。
彼女はいつもの短外套を羽織り、腰に黒晶灯と潮名鈴を提げている。灰紫の髪は後ろで雑に結ばれていたが、今日はその結び目にも、小さな黒い紐が巻かれていた。道中用の護符か、拾名屋の道具か、ノアには分からない。
ノアは前を見たまま答えた。
「普通です」
「その返事がもう普通じゃない」
「どう答えたら満足なんですか」
「怖いなら怖いって言えばいい」
あまりに簡単に言われたので、ノアは少しだけ息を呑んだ。
怖い。
その言葉は、喉の近くまで来ていた。
だが、口に出したら、何かが決まってしまう気がした。
「怖いって言ったら、契約しなくて済みますか」
「内容による」
「ほら」
「でも、嫌だって言う権利はある」
リィゼは、石を蹴るように軽く言った。
「嫌だって言わないまま我慢して、あとで倒れるやつのほうが面倒だ」
「私、そんなに倒れてますか」
「漂着して、海水吐いて、密輸船に乗りかけて、名裂きに引かれて、旧道に呼ばれてる外界人としては、まあまあ立ってる」
「褒めてます?」
「半分くらい」
ノアは小さく息を吐いた。
笑えたわけではない。
けれど、胸の奥に固まっていたものが、ほんの少しだけ動いた。
リィゼの言葉は乱暴だ。優しく言い換える気もない。だが、その乱暴さは、ノアを無理に納得させようとしない。怖がっていることを責めない。怒っていることを、間違いだとも言わない。
それが、少しだけ楽だった。
道の後方では、ガルド=ヴァレムが歩いていた。
大柄な体に旅用の外套をまとい、肩越しに背後の道を見ている。彼はほとんど口を開かない。けれど、何も見ていないわけではなかった。岩の影。道端の草の揺れ。遠くの街道を行く荷馬車。鳥の飛び方。そういうものを、すべて視界の端に入れている。
ノアは、何度か振り返った。
そのたびに、ガルドと目が合う。
「何か見えるか」
ガルドが低く聞いた。
「いえ」
「なら前を見ろ」
「後ろが気になるんです」
「気になるなら、気になったことを言え。黙って振り返るな」
叱られた、と思った。
けれど、ガルドの声に苛立ちはない。
ノアは少しだけ迷ってから、口を開いた。
「旧道のほうから……見られている気がします」
リィゼの足が、わずかに止まりかけた。
ガルドも、視線だけを左後方へ向ける。
枝道の向こうに、旧道は見えない。黒冠街道からさらに外れ、昨夜の灯が揺れていた方角は、今は低い丘と灰色の林に隠れていた。
それでも、ノアには分かった。
何かがある。
声ではない。
音でもない。
けれど、背中の少し後ろ、名札の紐の内側、自分の名前を聞き間違えたときに感じるような小さな引っかかりが、ずっと残っている。
「札は」
ガルドが言った。
ノアは胸元に手を当てた。
服の内側で、仮保護名札の縁が冷えていた。
「少し、冷たいです」
「銀糸輪は」
ノアは札の紐に結ばれた小さな輪に触れた。エルネアから渡された、名揺れを知らせる簡易輪。
指先に、かすかな違和感があった。
締まっているというほどではない。痛いわけでもない。
ただ、息を吸うたびに、輪がほんの少しだけ重くなる。
「……少し、締まっている気がします」
オルフェ=セプティアが、すぐに記録筒を開いた。
彼は一行の少し前を歩いていたが、ノアの言葉を聞くと迷わず立ち止まった。白い手袋をはめた手が、細い黒晶板を取り出す。
「時刻、黒冠街道枝道第三区間。対象、ノア。仮保護名札に冷感。銀糸輪に軽度収縮。視認可能な呼称源なし。旧道方角より非音声性注視感覚を申告」
淡々とした声だった。
ノアは眉を寄せる。
「それ、全部記録するんですか」
「はい」
「気のせいかもしれません」
「気のせいであったことも、後で必要になる場合があります」
オルフェは顔を上げた。
その表情は、いつもどおり整っている。感情が読みにくい。だが、第4話で初めて会ったときほど冷たくは見えなかった。
「名傷は、後から見返したときに意味が出ることがあります。今、正しいかどうかを急いで決める必要はありません」
ノアは返事をしなかった。
記録。
その言葉には、まだ少しだけ安心する。
けれど同時に、恐ろしくもある。
ヴァルテリアでは、記録とは人を社会へ戻すためのものだった。少なくとも、ノアはそう信じていた。事故の記録。積荷の記録。乗客名簿。保険証書。契約番号。どれも、失われたものを確認し、補償し、責任の所在を明らかにするためにあるはずだった。
だが、メギド=ノクスへ来てから、ノアは知ってしまった。
記録されないことで守られる者がいる。
記録されたせいで追われる者がいる。
そして、自分の名は、記録しようとしても最後まで残らない。
ノア=リントベル。
その名を心の中で呼ぶ。
銀糸輪が、また少しだけ重くなった。
ノアは唇を噛んだ。
「呼ぶな」
ガルドが言った。
ノアは肩を揺らした。
「声に出してません」
「顔に出てる」
「顔で名前を呼べるんですか」
「ここでは、呼べることがある」
冗談ではなかった。
ノアは言葉を失う。
リィゼが横から言った。
「今は、ノアでいい」
その声は、軽くなかった。
ノアはリィゼを見た。
リィゼは前を向いたまま歩いている。金紫の瞳は、道の先を見ていた。だが、その横顔は少しだけ硬い。
「リントベルを捨てろって意味じゃない。道の上で全部握りしめるなって意味」
「……全部握りしめないと、落としそうなんです」
「分かる」
リィゼが短く答えた。
その一言が、思いがけず胸に残った。
分かる。
軽く言われたのに、軽くなかった。
リィゼも、何かを落とさないようにしてきたのだろうか。
ノアは聞きかけて、やめた。
今はまだ、聞けるほど近くない気がした。けれど、いつか聞いてみたいと思った。そのことに、自分で少し驚いた。
しばらく、一行は黙って歩いた。
枝道はゆるやかに下りはじめた。丘を越えた先、空の色が少し変わる。朝の白さの下に、赤黒い薄明かりが混じっている。
最初、ノアは火事かと思った。
だが、煙は上がっていない。
光だけが、低い地平に滲んでいる。
血の色ではなかった。
夕焼けでもない。
もっと沈んだ赤。乾いた朱。黒晶灯の紫とも違う。紙の上に落とした朱墨が、水を吸って広がるときのような色だった。
「あれが、グリム=ラハド?」
ノアが聞くと、リィゼが頷いた。
「血契の市」
「……本当に赤いんですね」
「血の色って言うと、観光客が嫌がるからな」
「観光客が来る場所なんですか」
「来ない」
「じゃあ、誰に気を遣ってるんですか」
「初めて来た外界人とか」
リィゼは少しだけ口の端を上げた。
ノアは、遠くの灯を見つめた。
街はまだ輪郭しか見えない。低い壁。いくつもの塔。赤黒い灯を掲げた門。門の外には、順番を待つ人影の列があるように見えた。
血契。
その言葉だけなら、ノアはもっと野蛮なものを想像していた。
血を売る市場。
身体を刻む儀式。
命を抵当にする契約。
だが、遠くから見えるグリム=ラハドは、思ったより静かだった。
静かすぎるほどだった。
灯は燃えているのに、街全体が大声を出していない。赤黒い光だけが、朝の空気の中で整然と並んでいる。
ノアは、それがかえって怖かった。
叫び声が聞こえる場所なら、逃げればいい。
刃物を振りかざす者がいるなら、危険だと分かる。
だが、整えられた制度の中で、自分の影や声や血を扱う場所は、どう怖がればいいのか分からない。
「ノア」
オルフェが呼んだ。
その呼び方に、ノアは顔を上げる。
ノア。
リントでも、リントベルでもない。
今の道中で使うと決められた呼び名。
以前なら、訂正していたかもしれない。
今も、訂正したい気持ちはある。
けれど、ノアは返事をした。
「はい」
オルフェは黒晶板を閉じた。
「グリム=ラハド到着後、まず庇護契約庁へ向かいます。そこで候補契約の説明を受けます。ただし、決定はその場で強制されません」
「本当に?」
「はい」
「拒否したら?」
「拒否として記録されます」
「それだけですか」
「少なくとも、正規手続き上は」
その言い方に、ノアは少しだけ目を細めた。
「正規手続き上は、って何ですか」
「私は制度の説明をしています。現場であなたがどう感じるかまでは、制度では保証できません」
正直すぎる答えだった。
ノアは、少しだけ笑いそうになった。もちろん、楽しくはない。
「オルフェさんって、安心させるのが下手ですね」
「よく言われます」
「誰に?」
「主に、リィゼさんに」
「私はもっと直接言うぞ」
リィゼがすぐに返した。
「オルフェは言い方が硬い。あと、冗談が分かりにくい」
「改善を検討します」
「それが硬い」
ノアは今度こそ、ほんの少しだけ息を漏らした。
笑いと呼ぶには弱い。けれど、胸の奥にあった冷えが、わずかにゆるんだ。
その瞬間だった。
胸元の札が、冷えた。
銀糸輪が、きゅっと締まる。
ノアは息を止めた。
声は聞こえない。
けれど、遠くの赤黒い灯の向こうではない。
もっと左。
グリム=ラハドへ向かう道ではなく、旧道の方角。
そこから、何かがこちらを見ている。
呼んではいない。
まだ。
だが、ノアが少しでも気を緩めれば、呼ばれる前に返事をしてしまいそうな気がした。
帰りたいなら。
その言葉が、頭の中に浮かぶ。
誰かが言ったわけではない。
それなのに、ノアの身体はその続きを知っているようだった。
帰りたいなら、門へ。
「ノア」
今度はリィゼが呼んだ。
ノアは、はっと息を吸った。
「返事するな」
リィゼの声が低い。
「まだ何も言われてません」
「言われる前に、顔が返事してる」
また顔か、と言い返す余裕はなかった。
ガルドが一歩、ノアの後ろへ回る。オルフェが黒晶板を開き直す。
ノアは、自分の両手を握った。
爪が手のひらに食い込む。
痛みがある。
今ここに、自分の身体がある。
ノアは小さく息を吐いた。
「私は……ノアです」
リィゼが視線だけを向けた。
ノアは続けた。
「今は、ノアで返事をします」
銀糸輪の締めつけが、ほんの少し緩んだ。
完全に消えたわけではない。
旧道の方角にある気配も、まだ残っている。
けれど、ノアは一歩前へ進んだ。
赤黒い灯が、さっきよりも近い。
グリム=ラハドの門が、ゆっくりと形を持ちはじめていた。
高い門ではない。威圧する城門でもない。だが、門柱には何重もの文字と印が刻まれている。紙に書かれたものではない。石に掘られたものでもない。光そのものが、門の表面で朱墨のように滲み、乾き、また浮かんでいる。
そこに、どれだけの名が預けられてきたのだろう。
どれだけの血が、影が、声が、髪が、夢が、ここで「本人のもの」として確認されてきたのだろう。
ノアは、喉の奥が乾くのを感じた。
ここで、自分は何を差し出すことになるのか。
血か。
影か。
声か。
髪か。
夢か。
それとも。
帰りたいという願いそのものか。
ノアは胸元の札に触れた。
ノア=リント。
そこに足りない音を、今は呼ばない。
呼べば、どこかが応えてしまう気がした。
だから彼女は、その代わりに、自分の手を強く握った。
グリム=ラハドの朱墨の灯が、朝の底で静かに揺れていた。




