第二節 ― 帰りの娘さん
ノイ=カランが見えたのは、夕方に近いころだった。
黒冠街道の黒い敷石は、そこで少しだけ幅を広げている。
道の両側には低い石垣が現れ、その向こうに、霧をまとった家並みが沈んでいた。
宿場というには、静かすぎる場所だった。
外界の宿場なら、旅人を呼び込む声や、馬車の軋む音や、酒場の騒ぎがある。
少なくとも、人が集まる場所には人の熱があるはずだった。
けれどノイ=カランには、それが薄い。
家々の窓には灯りがある。
煙突からは細い煙も上がっている。
軒先には干した薬草や布が吊るされ、道端には水桶も置かれている。
生活はある。
それなのに、宿場全体が、誰かの名前を呼ぶ前の沈黙に包まれているようだった。
ノアは、胸元の札を押さえた。
銀糸輪は、先ほどの旧道以来、強くは反応していない。
けれど完全に静まっているわけでもなかった。
ときおり、細い糸が肌の近くで震える。
何かが、こちらを見ている。
あるいは、聞いている。
そんな感覚があった。
「ここが、ノイ=カラン……」
ノアが呟くと、リィゼが短く頷いた。
「黒冠街道の中継宿場。表向きはね」
「表向き?」
「泊まれる。食べられる。道を聞ける。そういう意味では普通の宿場」
「普通じゃない意味では?」
「呼び名がずれる」
あまりにも簡単に言われたので、ノアは一瞬返事が遅れた。
「ずれるって……」
「昨日の自分と、今日の自分が、同じ呼び名で通るとは限らないってこと」
ガルドが先頭を歩きながら言った。
「怖がらせる言い方をするな」
「事実だろ」
「事実でも順番がある」
ガルドは振り返らずに続けた。
「ノイ=カランは、悪意の宿場じゃない。逃げてきた者が、一晩だけ古い名から離れるための場所でもある。名前を追われている者には、助かることもある」
オルフェが補足する。
「ただし、帰還希望者には反応が出やすい。帰る先を探す名は、ここで別の呼び名に引っかかりやすいのです」
「……つまり、私には危ないってことですか」
「注意が必要、ということです」
オルフェはいつものように、断定を避けた。
その慎重さに、ノアは少し苛立ち、同時に少しだけ安心した。
危ない、とだけ言われたほうが分かりやすい。
けれど、分かりやすい言葉は、たいてい何かを削る。
ノアは、ナハト=リムでそれを知った。
宿場の入口には、古い木の門があった。
門扉は開いている。
通行を拒むための門ではない。
ただ、ここから先は別の場所だと知らせるために立っているようだった。
門の上には、黒く焼いた木札が掲げられている。
ノイ=カラン。
その下に、小さな文字でこう書かれていた。
本名を預ける必要はありません。
返事のできる名をお申し出ください。
ノアは、その文をじっと見た。
本名を預ける必要はありません。
普通なら安心する言葉なのだろう。
けれど今のノアには、それが逆に不気味だった。
本名を預けなくてよい場所。
つまり、本名以外の何かで一晩を過ごす場所。
自分は、何と呼ばれれば返事ができるのか。
第4話でオルフェに問われた言葉が、また胸に戻ってきた。
門をくぐると、霧が少し濃くなった。
道の左右に、宿屋や小さな食堂、荷置き場が並んでいる。
どの軒先にも古い名札が吊るされていた。
南から来た者。
角を隠す親子。
影だけの客。
昨日の名を置いた人。
声を貸した旅人。
それは看板なのか、記録なのか、祈りなのか分からなかった。
ノアは、ひとつひとつを読まないようにした。
読めば、何かがこちらを向く気がした。
リィゼが横目で見る。
「目を逸らしすぎると転ぶよ」
「見すぎるなって言ったのはリィゼです」
「見ろとは言ってない。道は見ろ」
「難しいこと言わないでください」
「この大陸、だいたい難しいよ」
言い返せなかった。
宿は、宿場の中央近くにあった。
大きくはないが、古びた良い建物だった。
黒い石の土台に、濃い木材の壁。
窓には薄い布がかかり、内側から暖かい灯りが漏れている。
入口の上には、白木の札が吊られていた。
《名置きの宿》。
その下に、やはり小さな文字がある。
今夜の名で、お入りください。
ノアは思わず立ち止まった。
「……今夜の名」
ガルドが扉へ手をかける。
「迷うな。迷っていると、宿のほうに拾われる」
「宿に?」
「呼び名をだ」
冗談なのか本気なのか分からない。
いや、たぶん本気だ。
ガルドが扉を開けると、暖かい空気が流れてきた。
火の匂い。
薄いスープの匂い。
乾いた布と、古い木の匂い。
思っていたより、ずっと普通だった。
宿の中には、数人の客がいた。
隅の席で静かに食事をする旅人。
壁際で荷を抱えたまま眠る男。
暖炉のそばで、二人の子どもにスープを分けている女性。
怖い場所ではない。
少なくとも、最初にそう思った。
帳場には、年配の女主人がいた。
髪は白く、背は低い。
けれど目は明るく、声も穏やかだった。
「ああ、黒冠街道からのお客さんだね。霧が濃くなる前でよかった」
彼女はガルドを見て、オルフェを見て、リィゼを見た。
「庇護官さんと、裁定の方と、拾名屋さん。部屋は四つでいいかい」
「三つでいい」
ガルドが答える。
「護衛の都合で、並びを取れるか」
「二階の奥なら空いてるよ」
女主人は帳面を出した。
そこで、彼女の目がノアに向いた。
次の瞬間、女主人は当たり前のように言った。
「おや、帰りの娘さん。部屋は二階でいいかい」
ノアの身体が固まった。
音が、耳に入ってから少し遅れて意味になった。
帰りの娘さん。
胸元の銀糸輪が、きゅっと締まった。
痛みではない。
けれど、冷たい指で喉元を軽く押さえられたような感覚があった。
ノアは、反射的に言った。
「私は、そんな名前じゃない」
声が少し強くなった。
宿の空気が、ほんのわずかに止まる。
女主人は驚いたように目を瞬いた。
けれど、怒りも不快感も見せなかった。
ただ、悪気なく首を傾げる。
「そうかい。じゃあ、今夜はなんて呼べばいい?」
その問いに、ノアは息を呑んだ。
否定した。
けれど、否定した後に、自分で差し出す名が必要だった。
第4話でリィゼに言われたことを思い出す。
嫌なら、自分で呼び名を出せ。
ノアは胸元の札を握った。
ノア=リントベル。
それが自分の名前だ。
でも、この宿で、今夜返事をする名は。
「ノアです」
即座に言った。
今度は、迷わなかった。
「今夜は、ノアと呼んでください」
リィゼが、横で少しだけ満足そうに目を細めた。
女主人は、にこりと笑う。
「じゃあ、ノアさんだね」
その言葉に、銀糸輪がもう一度、ほんの少し締まった。
ノアは胸元を押さえる。
オルフェがすぐに近づいた。
「反応しましたか」
「少し」
「痛みは」
「ないです。でも……」
喉元が冷たい。
さっきの呼び名が、まだ皮膚の内側に残っている気がする。
「ただの間違いじゃないんですか」
ノアは、小さく訊いた。
女主人が悪意を持っていたようには見えない。
むしろ親切そうだった。
だからこそ、余計に怖い。
オルフェは、彼女の銀糸輪を確認しながら答えた。
「ただの間違いなら、銀糸輪は反応しません」
ノアの指先が冷えた。
「誰かに勝手に呼ばれただけで、私が変わるんですか」
その問いは、自分でも子どものようだと思った。
けれど、怖かった。
知らない誰かが、自分を別の名で呼ぶ。
それだけで、自分が少しずつずれていくのだとしたら。
自分がどれだけノア=リントベルだと言っても、周囲が別の名を重ねれば、いつかそちらへ引かれるのだとしたら。
リィゼが、低く言った。
「ここでは、誰かがそう呼んだ名も、少しだけ本当になる」
ノアは振り返る。
「そんなの、怖すぎる」
「怖いよ」
リィゼは、あっさり認めた。
「だから、返事する名前は選べ」
「選べなかったら?」
「選べるまで、黙れ」
「……黙っていればいいんですか」
「少なくとも、変な呼び名に返事するよりはまし」
乱暴な言い方だった。
けれど、今のノアには分かりやすかった。
呼ばれた名すべてに返事をしない。
自分で選んだ名を差し出す。
ノア。
その二文字は、今夜の命綱になる。
ガルドが女主人へ視線を戻した。
「悪いが、呼称記録を頼む。推奨呼称はノア。仮保護名はノア=リント。本名候補は扱わない」
女主人は慣れた様子で頷いた。
「はいよ。帰り名は封じておくね」
ノアはその言葉に反応した。
「帰り名?」
女主人は帳面を開きながら答える。
「この宿で勝手に浮く呼び名のことさ。悪気があるわけじゃないんだけどね。道が先に読んじまうことがある」
「道が……」
「あなたが強く抱えているものを、宿が呼び名にしてしまう。帰りたい子は、帰りの何々。逃げたい子は、逃げの何々。忘れたい子は、昨日の何々。気に入らなければ、自分で名乗ればいい」
女主人は、さらりと言った。
「そのために、ここには帳場があるんだから」
ノアは少しだけ息を吐いた。
怖い。
でも、完全に無防備な場所ではない。
呼び名が勝手に浮く。
それを封じる手続きもある。
選べるなら、選ぶ。
この大陸はいつもそうだった。
恐ろしい現象がある。
けれど、それに対抗する制度や習慣もある。
外界の常識では理解できない。
それでも、ここに住む人たちは、それを生きるための技術にしている。
女主人は帳面を回した。
「じゃあ、こちらに今夜の呼び名を」
ノアはペンを受け取った。
宿帳は厚かった。
紙は古いが、手入れされている。
ページの端には細い黒晶粉が塗られ、文字が滲みにくいよう処理されていた。
まず、オルフェが形式通りに記入する。
同行者。
庇護官、ガルド=ヴァレム。
拾名屋、リィゼ=ノルカ。
庇護裁定審査官、オルフェ=セプティア。
仮庇護対象、ノア=リント。
ノア=リント。
その文字は安定して残った。
ノアは、それを見ても、もう以前のようには怒らなかった。
けれど、胸の奥が少し痛む。
次に、備考欄へ本名候補を書くよう求められた。
ノアはペンを握り直した。
ノア=リントベル。
最後の文字まで、確かに書いた。
だが、乾く前に、ベルの部分が薄くなる。
白く抜けるというより、紙がその音を受け止めきれず、指の間からこぼすようだった。
ノア=リント――。
ノアは唇を噛んだ。
分かっていた。
分かっていたのに、やはり痛い。
女主人は何も言わなかった。
オルフェも記録するだけだった。
リィゼも、ガルドも、慰めなかった。
それが、ありがたかった。
今、慰められたら、余計に悔しかったと思う。
そのとき、宿帳の欄外に、薄い文字が浮かんだ。
誰も書いていない。
インクの色でもない。
紙の繊維が、勝手に黒ずんでいく。
帰りの娘。
ノアの手が止まった。
銀糸輪が締まる。
今度は、はっきり分かった。
呼ばれている。
宿が、道が、誰かの言葉が、自分をその名へ寄せようとしている。
帰りの娘。
自分の願いを、勝手に名前にされている。
ノアは、ペンを握る手に力を込めた。
「違う」
声は、低かった。
女主人が黙って見守る。
リィゼも口を挟まない。
ガルドは帳場の入口で、外の気配を見ている。
オルフェは記録筒を開いたまま、ノアの手元を見ていた。
ノアは、欄外に浮いた文字の下へ、自分で書いた。
ノア。
二文字。
それだけだった。
ノア=リントベルではない。
ノア=リントでもない。
帰りの娘でもない。
ノア。
今、ここで返事をする名。
ペン先が紙から離れた瞬間、その二文字は濃く残った。
黒晶粉がわずかに光り、文字の縁を支える。
銀糸輪の締めつけが、少しだけ緩んだ。
欄外の「帰りの娘」は、完全には消えなかった。
だが、薄くなった。
ノアの書いた「ノア」の下に、押し戻されるように沈んでいく。
女主人が、小さく頷いた。
「よくできました」
子どもに言うような声ではなかった。
道を通る者への、静かな敬意があった。
ノアはペンを置いた。
指先が震えていた。
リィゼが近づき、宿帳を覗く。
「上出来」
「……さっきも言われました」
「何度でも言う」
ノアは、少しだけ笑った。
笑えたことに、自分で驚いた。
怖かった。
今も怖い。
誰かに呼ばれただけで、名が動く。
宿帳に勝手な文字が浮かぶ。
帰りたいという願いが、別の呼び名へ変わる。
でも、押し返せた。
完全ではない。
けれど、自分で書いた名が残った。
ノア。
その二文字が、今夜の宿帳に濃く残っている。
ガルドが荷を持ち直した。
「部屋へ行くぞ。夜のノイ=カランは、昼より呼び声が増える」
「まだ増えるんですか」
「宿に入っただけで終わるなら、俺たちはここまで警戒しない」
ノアは、思わず窓の外を見た。
夕霧の向こうで、軒先の名札が揺れている。
帰りの娘。
その呼び名は、まだ完全には消えていない。
けれど、今夜の宿帳には、ノアの字も残った。
ノアは胸元の札を押さえ、階段へ向かった。
自分がどう呼ばれるかを、他人任せにはできない。
この大陸では、それはただの気分ではなく、生きるための技術なのだ。
階段を上がる途中、リィゼが小さく言った。
「少しは分かってきた?」
「何がですか」
「拾われる名と、自分で出す名の違い」
ノアは答えなかった。
まだ分かったとは言えない。
でも、宿帳に残った二文字の感触が、手の中に残っていた。
ノア。
今夜、彼女はその名で返事をする。




