第一節 ― 道標に残る名
黒冠街道は、街道というより、長く置かれた沈黙のようだった。
ナハト=リムの北門を出てしばらくは、まだ街の気配が背中に残っていた。
門の向こうで誰かが戸を閉める音。朝の配給所に並ぶ足音。呼び名札が風に揺れる、かすかな木片の音。
けれど、歩くほどにそれらは遠ざかっていく。
代わりに聞こえ始めたのは、靴底が黒い敷石を踏む音だった。
街道には、外界の道のような土埃がなかった。
黒い石が、一定の幅で北へ伸びている。磨かれているわけではない。むしろ古く、ところどころ欠け、亀裂も入っている。だが、その亀裂の底からは薄い紫の光がのぞき、夜の残り火のように淡く瞬いていた。
道の両側には、灰色の荒野が広がっている。
草は少ない。
木もない。
ただ、低い岩と、名札のような細い道標が、一定の間隔で立っている。
最初、ノアはそれを普通の標識だと思った。
次の宿場までの距離。
危険地帯の警告。
黒冠街道の通行規則。
そういうものが刻まれているのだろうと。
けれど、近づくと違った。
道標には、地名ではないものが刻まれていた。
片角の母。
ノアは、思わず足を緩めた。
文字は深く刻まれているわけではない。
石の表面に、薄く浮かび上がっているだけだ。朝霧の中で、見えるような、見えないような、頼りない文字だった。
その隣の道標には、別の呼び名が残っていた。
帰らなかった兵士。
さらに先には、
白い声の子。
名を捨てた商人。
雨を待つ老犬。
帰り待ちの三人。
ノアは、息をするのを忘れそうになった。
これは地名ではない。
人の名だ。
いや、正確には、本名ではないのかもしれない。
誰かがそう呼ばれていた名。誰かがその名で道を通った痕跡。誰かが、正式な記録には残らない形で、ここに置いていった呼び名。
ノアは胸元の札に指を添えた。
仮保護名、ノア=リント。
本名候補、ノア=リントベル。
その二つの文字が、布の内側で静かに眠っている。
けれど、この道の上では、眠っているだけでは済まないのかもしれない。
リィゼは、慣れた足取りで先を歩いていた。
黒い敷石の欠けた場所を避け、道端の標を見ても立ち止まらない。
彼女にとっては、見慣れた景色なのだろう。
ノアはそれが少しだけ悔しかった。
自分だけが、いちいち驚いている。
自分だけが、この大陸の当たり前に足を取られている。
そう思ったとき、次の道標が目に入った。
海から来た娘。
胸の奥が、冷たく鳴った。
ノアは足を止めた。
黒晶灯の光ではない。
朝の霧でもない。
その文字だけが、彼女の目に強く残った。
海から来た娘。
自分のことだと思った。
第1話の浜辺。
灰角の港。
岩陰で水を吐いて目覚めた朝。
ここはどこだと訊いた自分。
流れ着いたんだよ、と答えたリィゼ。
海から来た娘。
それは、ノアのことではないのか。
胸元の銀糸輪が、かすかに冷えた気がした。
ノアが立ち止まったことに、リィゼが気づいた。
「どうした」
ノアは道標を指した。
「これ……」
リィゼは振り返り、文字を見た。
そして、少しも驚かずに言った。
「似たようなのはいくらでもいる」
「でも」
「あんたのことじゃない」
即座に否定された。
その速さに、ノアは少しむっとした。
「どうして分かるんですか」
「古い」
リィゼは道標の縁を指で叩いた。
「この浮き方は、何年も前の呼び名だ。あんたが昨日今日で残したものじゃない」
ノアは、もう一度文字を見た。
海から来た娘。
確かに、その文字は薄い。
今刻まれたものではない。
雨にも風にも削られ、何度も消えかけては、まだ完全には消えずに残っているような文字だった。
リィゼは続けた。
「この道は、そういう奴らが通ってきた道だから」
「そういう奴ら……」
「流れ着いた奴。逃げてきた奴。帰りそこねた奴。帰りたいって言えなかった奴。帰る気がなくなった奴。いろいろ」
ノアは、言葉を失った。
自分は特別なのだと思っていた。
いや、特別でありたかったわけではない。
ただ、自分の身に起きていることは、自分だけの異常だと思っていた。
名前の末尾が欠けること。
身分証の文字が滲むこと。
帰還希望という欄が黒く染まること。
帰りたいという願いが、誰かの罠になること。
その全部が怖かった。
だからこそ、自分ひとりの問題だと思っていたほうが、まだ分かりやすかった。
けれど、この道には無数の呼び名が残っている。
片角の母。
帰らなかった兵士。
白い声の子。
名を捨てた商人。
帰り待ちの三人。
海から来た娘。
ノアの知らない誰かたち。
けれど、彼女と同じように、どこかから来て、どこかへ向かい、何かの名を抱えてこの道を通った人たち。
「こんなにたくさん」
ノアは、声を低くした。
「帰れない人がいるんですか」
リィゼは、すぐには答えなかった。
朝霧の中で、彼女の潮名鈴が小さく鳴る。
「帰れない奴だけじゃない」
リィゼは言った。
「帰った奴もいる。残った奴もいる。途中で名前だけ置いていった奴もいる」
「名前だけ……?」
「本名を持っていけなかった奴。過去の呼び名を置いていった奴。逆に、ここで呼ばれた名を置いて外へ出た奴」
ノアには、すぐには理解できなかった。
名前は、持っていくものだと思っていた。
失くしてはいけないもの。取り戻すもの。証明するもの。
置いていく、という考え方が分からない。
けれど、ナハト=リムで出会った人々を思い出す。
本名を忘れた医者。
本名を呼ばれると身体が崩れる黒猫の姉。
青い角の少年。
墓前のナナ。
彼らにとって、名前はただ守るだけのものではなかった。
ときには遠ざけ、ときには封じ、ときには別の名で明日を生きるものだった。
オルフェが、少し後ろから言った。
「黒冠街道は、結論を急がないための道です」
ノアは振り返った。
オルフェは、道標の並びを静かに見ていた。
朝霧の中で、彼の白い手袋だけが妙に明るい。
「帰る者も、残る者も、まだ選べない者も通ります。ここでは、最初から答えを決める必要はありません」
「でも、道標には残るんですね」
「はい」
「決めていないのに?」
「決めていない、という状態も残ります」
ノアは、胸の内側を押さえた。
決めていないことも残る。
それは、少し怖い。
けれど、少しだけ救いでもあった。
彼女の偽名証相談控えには、本人保留と記されている。
偽名証を発行するとも、しないとも決めていない。
帰るとも、残るとも決められない。
本名を完全に取り戻したわけでも、仮保護名だけで生きると決めたわけでもない。
その曖昧さを、外界なら弱さと呼ぶかもしれない。
けれど、この道は、それすら残す。
結論を急がないための道。
ノアは、その言葉を心の中で繰り返した。
ガルドが前方で立ち止まった。
「おい」
短い声だった。
緊張が混じっている。
リィゼがすぐに顔を上げる。
オルフェも記録筒を握り直した。
ノアは遅れて、ガルドの視線の先を見る。
道端に、一本だけ傾いた道標があった。
他の道標よりも低く、半ば地面に埋もれている。
文字はほとんど消えていた。
だが、黒い染みが表面に浮いている。
黒潮反応。
ノアは、その色を見間違えなかった。
第2話の《白腹鴉》号の札。
第3話のエリオ=カラン――の名欠け札。
第4話の共同住宅で消えた帰還希望者の仮保護名札。
第5話の偽名証控え。
第6話の管理室の札。
全部同じだった。
黒い潮が、紙や石の上に染み出すような反応。
リィゼが膝をつき、道標へ顔を近づけた。
「触るなよ」
ガルドが言う。
「触らない」
リィゼはそう言いながら、拾名帳を取り出した。
直接触れず、帳の隅に挟んだ薄い黒晶片を道標へかざす。
黒晶片が、わずかに曇った。
ノアの胸元の銀糸輪が、今度ははっきりと冷えた。
「っ……」
小さく息が漏れる。
オルフェがすぐにこちらを見た。
「反応しましたか」
「少しだけ」
ノアは、札を押さえた。
「痛くはないです。でも、冷たい」
エルネアから渡された銀糸輪は、黒晶札の紐に結ばれている。
そこから肌に近い場所へ、細い冷気が伝わっていた。
オルフェは記録した。
「黒潮反応近接時、銀糸輪に冷感。痛覚なし」
「本当に記録するんですね」
「必要です」
分かっていても、少し落ち着かない。
リィゼが道標を見ながら言った。
「……これ、セノに近い」
ノアは息を呑んだ。
「セノさんの?」
「完全に同じじゃない。けど、呼び名の端が似てる」
リィゼは黒晶片を角度を変えてかざした。
薄い文字が、ほんの一瞬だけ浮かぶ。
南……の……。
ノアは目を凝らした。
南窓のセノ。
完全には読めない。
けれど、その呼び名を知っているから、そう見える。
リィゼは顔をしかめた。
「駄目だ。薄い」
ガルドが道標の根元を確認する。
「方向は?」
オルフェが黒晶板を取り出し、道標から伸びる薄い染みを写した。
黒い潮染みは、石の表面だけに浮いているのではなかった。
道の亀裂へ細く入り、北へ向かって伸びている。
正規の黒冠街道に沿っている。
その先には、ノイ=カランがある。
ガルドは低く言った。
「当たりだな」
誰も喜ばなかった。
彼は続ける。
「嬉しくない当たりだが」
ノアは、道標の前にしゃがんだ。
リィゼに「触るな」と言われる前に、自分で手を止めた。
指先は、道標の少し手前で宙に浮いたままになる。
この染みの先に、セノの名があるのだろうか。
あるいは、セノだったものの残りがあるだけなのだろうか。
帰りたいって言っただけなのに。
あの声が、耳の奥に残っている。
ノアは唇を噛んだ。
「行きましょう」
声は、思ったより硬くなった。
リィゼがノアを見る。
「焦るな」
「分かっています」
「分かってる顔じゃない」
ノアは言い返そうとして、やめた。
たしかに、分かっていないのかもしれない。
自分はまだ焦っている。
消えた人の名を見つけたい。
自分の名が同じように裂ける前に、原因を掴みたい。
でも、焦ればまた罠に近づく。
第2話の夜の船を、ノアは忘れていない。
「……焦ってます」
認めると、リィゼが少しだけ目を細めた。
「認めるなら、まだまし」
ガルドが歩き出した。
「進む。だが、道標から目を離すな。黒潮が濃くなったら止まる」
オルフェが頷き、一行は再び黒冠街道を進んだ。
朝霧は少しずつ薄れていく。
荒野の灰色が、白い光を受けて広がっていく。
けれど、道標の文字は消えなかった。
片角の母。
帰らなかった兵士。
白い声の子。
名を捨てた商人。
帰り待ちの三人。
海から来た娘。
南窓に似た、欠けた呼び名。
それらが、歩くノアの横を過ぎていく。
自分だけではない。
その事実は、慰めにはならなかった。
むしろ、胸に重く積もった。
自分だけなら、ただ自分の名を取り戻せばよかった。
自分だけなら、怖くても、怒っても、帰りたいと叫べばよかった。
けれど、この道には、あまりに多くの呼び名が残っている。
帰りたかった人。
帰れなかった人。
帰らなかった人。
残ることを選んだ人。
まだ選べないまま歩いた人。
その中に、自分の名も加わるのだろうか。
ノア=リント。
ノア=リントベル。
帰りの娘。
嫌だ。
彼女は胸元の札を握った。
まだ、勝手に決められたくない。
昼近くになったころ、一行は古い分岐道に差しかかった。
正規の黒冠街道は、そのまま北へ伸びている。
黒い敷石は、まだどうにか整っている。道標も立っている。古いが、通る者を拒む気配はない。
もう一方の道は、東北へ斜めに折れていた。
そちらは、道と呼ぶには荒れていた。
黒い敷石は割れ、隙間から灰色の草が伸びている。
道の入口には、太い鎖が渡されていた。鎖には黒い布札がいくつも結ばれ、風もないのに小さく震えている。
その道標は、黒く塗りつぶされていた。
文字を読ませないための塗り。
ノアは、第6話の禁域記録を思い出した。
読ませないためではなく、反応させないため。
そう聞いたはずだった。
だから、見てはいけない。
そう思った。
でも、目が離せなかった。
黒く塗られた道標の下で、何かが白く浮いた。
ほんの一瞬。
名裂きの谷。
ノアの心臓が、強く鳴った。
見えた。
確かに見えた。
声に出してはいない。
けれど、読んでしまった。
銀糸輪が、きゅっと締まった。
「っ……!」
息を呑んだ瞬間、リィゼの手がノアの肩を掴んだ。
強い力だった。
「そっちはまだ見るな」
リィゼの声は低かった。
ノアは、肩を掴まれたまま、旧道から視線を引き剥がした。
黒く塗りつぶされた道標。
鎖。
揺れる布札。
その奥へ続く、壊れた黒い道。
見てはいけないものを見た。
その感覚が、喉の奥に残っている。
ガルドが、旧道の前に立った。
「反応したか」
オルフェがノアの札を確認する。
「銀糸輪に締め反応。呼称接触の可能性があります」
「読んだ?」
リィゼが訊く。
ノアは、すぐには答えられなかった。
言えば、その名をもう一度呼んでしまう気がした。
だから、小さく頷いた。
リィゼは舌打ちした。
「だから見るなって言っただろ」
「まだ言われる前でした」
「言う前に見るな」
「無理です」
言い返した声は、少し震えていた。
リィゼはそれ以上責めなかった。
代わりに、ノアの肩を掴む力を少しだけ緩めた。
「今は、まだそっちじゃない」
その言葉は、第6話のエルネアの言葉と重なった。
口に出さない判断は正しいです。今は、まだ。
今は、まだ。
ノアは深く息を吸った。
名裂きの谷。
その奥にあるという、無帰結門。
どこにも着かない門。
帰りたいという名だけを吸い上げ、どこにも帰結させない門。
そこへ向かうには、まだ早い。
怖いからではない。
怖いのは事実だ。
でも、それだけではない。
今の自分は、まだ名前の守り方を知らない。
呼ばれた名への返事の仕方も、拒み方も、道の読み方も知らない。
このまま旧道へ入れば、また誰かに呼ばれてしまう。
帰れると囁かれ、足を踏み出してしまう。
ノアは胸元の札を握った。
「分かっています」
今度は、ちゃんと言えた。
「今は、まだ見ません」
リィゼは彼女を見て、短く頷いた。
「それでいい」
ガルドが正規の街道を指した。
「ノイ=カランへ向かう。旧道は後だ」
オルフェが記録筒を閉じる。
「分岐確認。旧道封鎖有効。名裂き関連反応あり。対象者ノア=リント、視認反応あり。継続観察」
「それ、全部あとで読むんですか」
ノアが思わず訊くと、オルフェは真面目に答えた。
「必要があれば」
「必要がないことを祈ります」
「祈りも記録しますか」
「しなくていいです」
リィゼが、今度は小さく笑った。
笑い声はすぐに消えたが、旧道の冷たさからノアを少しだけ引き戻した。
一行は、分岐を離れた。
背後で、黒く塗られた道標が静かに遠ざかる。
ノアは振り返らなかった。
ただ、胸元の札の上から、銀糸輪の冷たさを感じていた。
道は続いている。
結論を急がないための道。
けれど、その先には、確かに裂け目がある。




