序節 ― 黒冠街道の朝
夜が、まだ完全には明けきっていなかった。
ナハト=リムの朝は、外界の朝とは違う。
空が白むより先に、黒晶灯がひとつずつ薄くなる。
路地の奥で、誰かが戸口に吊るした呼び名札を確かめる音がする。
共同住宅の窓辺では、昨夜と同じ名前で朝を迎えられたかどうかを、指先でそっとなぞる人影がある。
ノアは、無籍者共同住宅の前に立ち、自分の胸元の札を見下ろしていた。
仮保護名、ノア=リント。
本名候補、ノア=リントベル。
帰還希望、あり。
偽名証発行、本人保留。
注意、黒潮反応あり。
その文字は、布の内側に隠されている。
外から見えるのは、ただの黒晶札の縁だけだ。
イザラ=リムウェルが、最後の確認をしていた。
彼女の手つきは静かだった。
札を検める指先に、急かすような動きはない。
けれど、その目は昨夜よりも少し厳しい。
「遮蔽は効いています。外からは、帰還希望欄は読めません」
イザラはそう言って、札をノアの首元へ戻した。
「ただし、強い呼称反応を受ければ、内側から浮くことがあります」
「浮く?」
「あなた自身が、強く返事をした場合です。特に“帰還希望者”や、それに近い呼び方には注意してください」
ノアは、喉の奥が少し冷えるのを感じた。
帰還希望者。
第6話の検査室で、その呼び名に返事をした瞬間、水盤が黒く濁った。
名ではないはずの分類が、自分を呼ぶ声になった。
その感覚は、まだ胸の奥に残っている。
「……返事をしなければ、大丈夫ですか」
「大丈夫、と言い切ることはできません」
イザラは、いつものように曖昧な希望を言わなかった。
「ですが、返事をしないことは守りになります。呼ばれた名を、全部自分のものにしないこと。これを忘れないでください」
ノアは頷いた。
呼ばれた名を、全部自分のものにしない。
外界では考えたこともない注意だった。
名前とは、誰かに呼ばれれば返事をするものだと思っていた。
違う名前なら訂正すればいい。
間違いなら、違いますと言えばいい。
けれど、この大陸では違う。
誰かが呼んだ名が、少しだけ本当になることがある。
噂が残る。
札が反応する。
道が覚える。
そして、名が裂ける。
ノアは胸元の札に指を添えた。
「私は、ノアです」
小さく言った。
イザラが顔を上げる。
ノアは、少しだけ言い直した。
「ノア=リントベルです。でも、今ここで返事をするなら、ノアでいい」
その言葉を口にするのに、ほんの少しだけ勇気がいった。
リントベルまで残らないことを認めるようで、悔しかった。
それでも、ノアという音は、自分から離れていない。
今の自分が、まだ確かに返事をできる名だった。
イザラは、わずかに表情をやわらげた。
「では、そのように記録しておきます。移動中の推奨呼称、ノア」
「そんなことまで記録するんですか」
「はい。道中で余計な呼び名を拾わないためです」
ノアは苦く笑いかけて、すぐに真顔へ戻った。
冗談ではないのだ。
ここでは本当に、それが必要なのだ。
門前には、すでにリィゼがいた。
灰紫の髪を後ろで雑に結び、短外套の下に港仕事用の道具を吊っている。
黒晶灯、潮名鈴、短い鉤縄、拾名帳。
ヴァル=クレイアの浜でノアを見つけたときと、ほとんど同じ装備だった。
ただ、今のリィゼは浜辺を歩く拾名屋ではなく、黒冠街道へ出る案内人の顔をしていた。
「遅い」
「まだ出発時刻前です」
「準備に時間かける奴ほど、道で転ぶ」
「準備しなかったら、もっと危ないんじゃないですか」
「それはそう」
リィゼはあっさり認めた。
その軽さに、ノアは少しだけ救われる。
ガルド=ヴァレムは、門の脇で荷を確認していた。
大柄な身体に、旅用の外套。
腰には武器があるが、見せつけるような吊り方ではない。
むしろ、使わずに済ませたいものを仕方なく持っている、そんなふうに見えた。
彼はノアに気づくと、荷から小さな包みを投げてよこした。
ノアは慌てて受け取る。
「何ですか、これ」
「食え」
「またですか」
「まただ。名を追う前に腹を満たせ」
包みの中には、硬いパンと干し果実が入っていた。
ノアはそれを見下ろした。
ヴァル=クレイアの詰所で、リィゼに粥を食べろと言われた朝を思い出す。
あのときの自分は、帰れる船の噂に頭を奪われていた。
食べ物の味も分からなかった。
今も不安はある。
けれど、ノアは包みを開け、干し果実を一つ口に入れた。
甘さが、少しだけ舌に残る。
「……食べました」
「全部食え」
「今すぐですか」
「歩きながらでもいい。捨てるな」
ガルドはそれだけ言って、再び荷の確認に戻った。
オルフェ=セプティアは、門の中央に立っていた。
朝霧の中でも、その姿はどこか浮いて見える。
整った外套。
白い手袋。
裁定審査官の細い記録筒。
旅装ではあるのに、荒れた街道へ向かう者というより、どこかの法廷へ向かう者のようだった。
彼はノアへ視線を向ける。
「移動中の名傷記録は、私が保持します」
「ずっと記録するんですか」
「はい」
「少し、落ち着かないです」
「落ち着かないことも記録しますか」
「しなくていいです」
即答すると、リィゼが横で吹き出した。
オルフェは表情を変えずに続ける。
「冗談です」
「今の、冗談だったんですか」
「はい」
ノアは、少しだけ疲れた目で彼を見た。
オルフェの冗談は分かりにくい。
けれど、第4話で初めて会ったときより、ほんの少しだけ距離が近くなった気がした。
そのとき、背後から金属の細い音がした。
エルネア=グラナートが、門へやって来るところだった。
彼女は旅の外套を着ていない。
観測箱も小型のものだけ。
どうやら、同行する装備ではなかった。
ノアは、少し意外に思った。
「エルネアさんは、来ないんですか」
「今回は、途中までです」
エルネアは言った。
「私はナハト=リム側で観測記録を受けます。必要があれば、グリム=ラハド方面で合流します」
「そうですか……」
思ったより、残念だった。
検査は怖かった。
でも、エルネアはノアを物として扱わなかった。
分からないことを分からないと言い、嫌なら止めると言った。
その人が同行しないことに、ノアは少し不安を覚えた。
エルネアは、その不安に気づいたようだった。
「代わりに、これを」
彼女は小さな銀糸の輪を差し出した。
指輪ほどの大きさではない。
腕に通すには細すぎる。
黒晶札の紐に結びつけるための観測具だった。
「名揺れを知らせる簡易輪です。呼び名があなたの記録に干渉した場合、締まるか、緩みます」
ノアはそっと受け取った。
冷たい。
けれど、嫌な冷たさではなかった。
夜明け前の水のような冷たさだった。
「痛いんですか」
「通常は、かすかな違和感程度です。痛みが出たら、すぐに誰かへ知らせてください」
「誰かって」
「リィゼさん、ガルドさん、オルフェ様。誰でも構いません。言いやすい人に」
ノアは少しだけ迷ってから、頷いた。
言いやすい人。
この数日で、自分の周りには、そう呼べる人が少しずつ増えている。
それに気づいて、胸の奥がわずかに温かくなった。
リィゼが銀糸輪を覗き込む。
「変な名前で呼ばれたら、これが反応するってこと?」
「はい」
「じゃあ、反応したらまず怒ればいい?」
「怒ること自体は、有効な拒否反応になる場合があります」
エルネアが真面目に答えたので、リィゼは満足そうに頷いた。
「ほらな。変な名前で呼ばれたら、まず怒れ」
「それ、昨日も言ってました」
「大事なことは何度でも言う」
リィゼはノアの肩を軽く叩いた。
「それで駄目なら、私が怒る」
ノアは、思わず笑ってしまった。
「リィゼが怒ったら、余計に話がこじれそうです」
「失礼な。こじらせる前に蹴る」
「もっと悪いです」
軽いやり取りだった。
けれど、ノアの中の緊張を少しだけほどいた。
イザラが最後に、ノアの仮保護名札へ手をかざす。
黒晶札の表面に、薄く文字が浮かんだ。
ノア=リント。
本名候補、ノア=リントベル。
やはり、ベルの部分は淡い。
消えてはいない。
けれど、しっかりとは残らない。
ノアは、それを見ても以前ほど強く息を乱さなかった。
悔しい。
今も悔しい。
でも、消えきっていない。
そう思えるようになった。
イザラは言った。
「この札は、あなたを縛るためのものではありません」
「はい」
「けれど、捨てないでください」
「捨てません」
「仮保護名を嫌っても構いません。本名候補にこだわっても構いません。偽名証を保留しても構いません」
イザラは、そこで少しだけ声をやわらげた。
「ただ、呼ばれたときに返事のできる名を、ひとつは持っていてください。道の上では、それが命綱になります」
ノアは、胸元の札を握った。
「ノア」
自分で言った。
「今は、それで返事をします」
イザラは頷いた。
「よい選択です」
その言い方が、少しだけうれしかった。
正解ではなく、選択。
ナハト=リムの人たちは、何度もそういう言い方をする。
決められないことを、決めたことにしない。
保留も、嘘ではない。
仮の名も、檻ではない。
まだ完全には信じきれない。
それでも、その考え方に、ノアは少しずつ支えられていた。
門が開く。
ナハト=リムの北門は、外から見ると古い石造りの門にすぎない。
しかし内側には、無数の細い名札が吊られていた。
呼ばれたくない名。
今だけの名。
戻れない名。
戻りたい名。
誰にも読ませない名。
朝霧の中で、それらが静かに揺れている。
ノアは、門をくぐる前に一度だけ振り返った。
ナハト=リム。
無籍者の街。
最初は、奇妙で、怖くて、理解できない場所だった。
けれど今は、そこに人が生きていることを知っている。
三番路地の先生。
黒猫の姉。
青い角の少年。
墓前のナナ。
南窓のセノ。
セノは、まだ戻っていない。
その事実が、ノアの足を前へ動かした。
「行きましょう」
自分でも驚くほど静かな声だった。
リィゼが横に並ぶ。
「言われなくても」
ガルドが先頭へ出る。
オルフェが記録筒を携え、その後ろに続く。
ノアは、ナハト=リムの門を出た。
黒冠街道は、朝霧の中に伸びていた。
黒い石を敷いた道。
両脇に立つ細い道標。
道標には地名だけでなく、誰かの呼び名の残りのような文字が、薄く刻まれている。
まだ遠く、読めない。
けれど、ノアの胸元の札が、ほんのかすかに震えた。
銀糸輪が、冷たく鳴るほどではない。
ただ、肌の近くで、細い糸が朝の空気に触れたように震えただけ。
ノアは気づかなかった。
彼女が通り過ぎた黒晶灯の下で、一瞬だけ白い文字が浮かんだ。
――帰りの娘。
それはすぐに、朝霧の中へ溶けた。




