表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
30/65

終節 ― 無帰結門の名

 出発は、夕刻前にはならなかった。


 黒冠街道へ出るための移動許可。

 仮庇護対象者の護衛記録。

 名傷観察の継続条件。

 ノアの仮保護名札と未確認名片の再封。

 それから、帰還希望欄を外から読まれないようにするための遮蔽処理。


 ひとつひとつは必要な手続きだった。


 けれど、積み上がれば時間になる。


 ノアは何度か「もう行けるんじゃないですか」と言いかけ、そのたびに飲み込んだ。


 焦るな。


 ガルドの言葉が、喉の奥に残っていた。


 間違った名前を追えば、次に消えるのは追った奴だ。


 それは、脅しではなかった。

 この街で生きてきた者の、実感だった。


 だからノアは待った。


 待つことは、何もしないことではない。


 そう思おうとした。


 けれど、日が沈み、ナハト=リムの路地に黒晶灯がひとつずつ灯り始めるころ、彼女の胸の奥には、どうしようもない焦りが残っていた。


 セノの札は、まだ壁にあるのだろうか。

 それとも、また少し薄くなっているのだろうか。


 帰り待ちの人たちは、今夜眠れるのだろうか。


 帰りたいと口にしただけで狙われるなら、何を祈ればいいのだろう。


 夜。


 ノアは、偽名証発行所の上階へ呼ばれた。


 そこは屋上に近い、小さな展望室だった。


 壁の三方に窓があり、古い黒晶枠がはめ込まれている。窓の外にはナハト=リムの夜景が広がっていた。


 無籍者の街。


 昼間は、狭い路地と古い庁舎と、呼び名の札が揺れる生活の街に見えた。

 だが夜になると、その印象は変わる。


 黒晶灯の光が、低い屋根の間に点々と浮かんでいる。

 共同住宅の窓灯り。

 配給所の小さな火。

 偽名証発行所の青白い灯。

 遠くの医療所の淡い明かり。


 名を持てない者。

 本名を使えない者。

 帰れない者。

 帰りたいと言えない者。


 そういう人々の暮らしが、灯りとして街に沈んでいた。


 静かだった。


 けれど、その静けさの下で名が狙われている。


 そう思うと、ノアにはその灯りのひとつひとつが、守られなければ消えてしまう小さな呼吸のように見えた。


 部屋には、すでにリィゼとガルドがいた。


 リィゼは窓枠に腰を預け、外を見ている。

 ガルドは壁際に立ち、腕を組んでいた。

 オルフェは机のそばで書類を揃えている。

 エルネアは、古い封鎖箱を机の上に置いていた。


 箱は、黒革と銀の留め具で封じられている。


 表面には、いくつもの注意札が貼られていた。


 閲覧制限。

 禁域記録。

 名傷反応あり。

 未確定地名。

 無帰結関連。


 ノアは最後の札を見て、眉を寄せた。


「無帰結……」


 聞き慣れない言葉だった。


 それなのに、どこか嫌な響きがあった。


 帰る、の反対ではない。

 行かない、でもない。

 ただ、どこにも終わらない。


 エルネアは封鎖箱の銀留めに触れた。


「これから開くのは、古い禁域記録です」


 彼女の声は、昼間の検査室と同じように落ち着いていた。

 だが、少しだけ低かった。


「本来、仮庇護対象者に見せる記録ではありません」


 ノアは、思わずオルフェを見た。


 オルフェは頷いた。


「私の裁定で閲覧を許可しました」


「どうしてですか」


「あなたが、すでに巻き込まれているからです」


 答えは短かった。


 ノアは息を止めた。


 巻き込まれている。


 その言葉は、もう他人事ではない。

 第1話で浜に流れ着いたときには、ただ事故だと思っていた。

 第2話では、帰れる船に騙されかけた。

 第3話では、自分の帰還先が不安定だと知った。

 第4話では、仮保護名を持った。

 第5話では、偽名証が嘘ではなく盾だと知った。


 そして第6話で、名裂きという言葉を聞いた。


 もう、知らないままではいられない。


 エルネアが封を解く。


 銀糸が、細くほどけた。


 箱の中には、一冊の古い記録冊子が入っていた。紙ではなく、薄い黒革を何枚も綴じたものだ。表紙には文字がない。ただ、中央に黒い線が一つ、縦に刻まれている。


 裂け目のような線だった。


 エルネアは冊子を開いた。


 最初の数ページは、ほとんど読めなかった。


 文字の上から黒い塗りが重ねられている。

 地名も、報告者名も、発生年月も、半分以上が潰されている。


 ノアは眉をひそめた。


「消してあるんですか」


「読ませないためではなく、反応させないためです」


 エルネアが言った。


「禁域の名には、読むだけで呼び返すものがあります」


 ノアは、思わず唇を閉じた。


 この大陸では、名はただの文字ではない。

 それを何度も見てきたはずなのに、まだ慣れない。


 文字を読むだけで、何かが返事をする。


 それは外界では迷信と呼ばれるかもしれない。

 だが、ここでは制度の前提だった。


 エルネアは、黒く塗りつぶされたページのうち、一箇所だけ、細い銀針で示した。


 そこだけ、塗りの下からかすかに文字が浮かんでいた。


 名裂きの谷。


 ノアは、その字を読んだ瞬間、胸の奥に冷たい風が通ったような気がした。


 谷。


 ただの地形名のはずなのに、文字の底に深さがある。

 そこへ落ちた名は、声を出しても上まで届かない。

 そんな想像が、勝手に浮かんだ。


 リィゼが窓辺から離れた。


「やっぱり、残ってたか」


「知っていたんですか」


 ノアが訊くと、リィゼは首を横に振った。


「ちゃんとした記録としては知らない。港の噂だよ」


 また、噂。


 けれど、ノアはもうその言葉に反発しなかった。


 噂は、分からないことを忘れないために残る。


 リィゼがそう言った意味を、今は少しだけ分かる。


 ガルドが記録冊子を覗き込む。


「名裂きの谷。黒冠街道の北東、ノイ=カランから外れた旧道の先。現行地図では白抜き扱いだったはずだ」


「はい」


 オルフェが答えた。


「現在は正式な通行路ではありません。庇護街道の地図にも載せていません」


「載せないほうが安全だからか」


「載せれば、行こうとする者が出ます」


 その答えに、ノアは黙った。


 分かる気もした。

 けれど、隠されていた場所へ、今から自分たちは向かおうとしている。


 エルネアはページをめくった。


 次の頁は、さらに黒く塗りつぶされていた。

 ほとんど真っ黒に近い。


 その中で、わずかに残された文字があった。


 無帰結門。


 その横に、外界語とも古い魔大陸語ともつかない綴りが添えられている。


 エンド=レス。


 ノアは、その名を口に出しそうになって、寸前で止めた。


 読んではいけない名前かもしれない。

 呼べば、何かがこちらを向くかもしれない。


 エルネアは、その躊躇を見て小さく頷いた。


「口に出さない判断は正しいです。今は、まだ」


 今は、まだ。


 その言い方が、いずれ口にしなければならない時が来るのだと告げていた。


 ノアは、喉の奥が乾くのを感じた。


「門なら」


 彼女は、慎重に言葉を選んだ。


「どこかへ行けるんじゃないんですか」


 自分でも、その問いが子どもじみていることは分かっていた。


 けれど、どうしても聞かずにいられなかった。


 門。


 それは普通、どこかへ続くものだ。

 開けば、向こう側があるものだ。


 帰還門ではないとしても、どこかへは出るのではないか。


 もし、本当に門なら。


 そこに帰る道が、少しでもあるのではないか。


 そんな淡い期待が、ノアの中にまだあった。


 エルネアは、彼女を責めなかった。


 ただ、静かに首を振った。


「いいえ」


 短い否定だった。


「これは、どこにも着かない門です」


 ノアは息を止めた。


 どこにも着かない門。


 その言葉は、想像するだけで気が遠くなる。


 門をくぐる。

 けれど、先がない。

 戻ることも、進むこともできない。

 ただ、行こうとした力だけが、どこにも届かず漂い続ける。


 オルフェが補足した。


「帰還門ではありません」


 彼は、記録冊子の黒塗りを見つめたまま言った。


「帰りたいという名だけを吸い上げ、どこにも帰結させない門です」


「帰りたいという名……」


 ノアは、胸元の札を握った。


 帰還希望、あり。


 それはただの欄だと思っていた。

 役所が必要だから書く分類だと思っていた。


 けれど、この大陸では、願いも名になる。


 帰りたい。

 戻りたい。

 あの場所へ。

 あの人のところへ。

 あの名前で呼ばれていた自分へ。


 その全部が、一つの方向を持つ。


 それを吸い上げる門。


 ノアの脳裏に、《白腹鴉》号の甲板が蘇った。


 夜だけ来る船。

 帰れると言われて集まった人々。

 箱の中に詰められた声。

 帰れるって、言われたのに。


 あれは、船ではなかったのかもしれない。


 少なくとも、帰るための船ではなかった。

 帰りたいという名を集めるための、網だった。


 南窓のセノの声も蘇る。


 帰りたいって言っただけなのに。


 ノアは、自分の呼吸が少し荒くなっていることに気づいた。


 リィゼが隣に来る。


 何も言わず、ただ近くに立った。


 それだけで、ノアは少しだけ現実に戻れた。


「私と同じように帰りたいと言った人たちが」


 ノアは、ゆっくり言った。


「そこへ引かれているんですか」


 誰もすぐには答えなかった。


 窓の外で、黒晶灯が揺れている。


 街は静かだ。

 だが、その下にある危うさを、もう知らないふりはできない。


 やがて、リィゼが言った。


「たぶんね」


 軽い言い方ではなかった。


「だから、放っておけない」


 ノアは彼女を見た。


 リィゼはいつものように、口調は乱暴で、表情もどこか面倒くさそうだった。

 けれど、その目はまっすぐだった。


 拾名屋。


 流れ着いたものから、名を拾う者。

 記録に残らないものを、噂としてでも忘れない者。


 裂かれた名があるなら、拾いに行く。


 彼女はきっと、本当にそうする。


 ノアは、自分の中の怖さを見つめた。


 ナハト=リムにいれば、一応は守られる。

 イザラがいて、偽名証の制度があって、オルフェの裁定があり、ガルドの護衛もある。

 ここは、檻ではない。

 少なくとも、消えないように守ろうとしてくれる場所だ。


 ここに残ることは、逃げではないのかもしれない。


 けれど。


 セノの札は、壁で黒く染まっている。

 エリオ=カラン――の名は、途中で切れている。

 《白腹鴉》号で助け出された人々は、まだ夜の声に怯えているかもしれない。


 そしてノア自身の名も、裂け目に触れている。


 待っているだけでは、自分の名も、誰かの名も戻らない。


 ガルドが記録冊子を閉じた。


 黒い表紙の裂け目のような線が、黒晶灯の光を受けて鈍く光る。


「明朝、黒冠街道へ出る」


 低い声が、部屋に落ちた。


「ノイ=カランで手がかりを拾う。そこでカランの音がただの地名か、名裂きにつながる宿り音かを確かめる」


 オルフェが頷いた。


「同行者は、ノア=リントさん、リィゼ=ノルカ、ガルド=ヴァレム、私。エルネア主任は観測支援として合流。イザラ=リムウェルはナハト=リムに残り、偽名証発行所と帰還希望者名簿を守ります」


「街のほうも危ないですから」


 エルネアが言った。


「こちらに残る者も必要です」


 ノアは窓の外を見た。


 ナハト=リムの灯り。


 この街にも、守るべき人たちがいる。

 みんなで旅に出ればいいわけではない。

 誰かが残って、名簿を守る必要がある。


 物語の中の冒険とは違う。


 ひとりの決意だけで、すべてが動くわけではない。

 制度があり、街があり、残る人がいて、行く人がいる。


 その現実が、今のノアには少しだけ頼もしかった。


 エルネアは記録冊子を封鎖箱に戻し、銀糸をかけ直した。


「名裂きの谷へ直接向かうのは危険です。まずはノイ=カラン。呼び名の変化を観測し、黒潮反応との関連を確認します」


「そこで、セノたちの手がかりが見つかるんですか」


 ノアが訊くと、エルネアは少しだけ黙った。


「見つかる、と約束はできません」


「また、不明ですか」


「はい」


 エルネアは静かに頷いた。


「ですが、何も見つからないことも、手がかりです。名がどこで反応し、どこで反応しないか。それを確かめることで、裂け目の向きを絞れます」


 ノアは息を吐いた。


 まだ、慣れない。


 けれど、分からないものを分かったことにしない。その慎重さが、誰かを守るのだと少しだけ理解し始めていた。


 ガルドがノアを見る。


「最後に確認する。残る選択肢もある」


「行きます」


 ノアは答えた。


 今度は、即答ではなかった。


 怖さを見たうえでの言葉だった。


「私は行きます」


 ガルドはしばらく彼女を見ていたが、やがて頷いた。


「なら、今夜は寝ろ」


「こんな話を聞いた後にですか」


「だから寝ろ」


 リィゼが横から言った。


「眠れない頭で名裂きなんか追ったら、寝ぼけたまま変な名前に返事するよ」


「そんなことあります?」


「この大陸では、ありそうだろ」


 ノアは言い返せなかった。


 たしかに、ありそうだった。


 そのせいで、少しだけ緊張が緩んだ。


 オルフェが書類を揃える音がする。

 エルネアが封鎖箱を閉じる。

 ガルドが窓の外を一度確認する。

 リィゼは、夜景を見ながら小さくあくびをした。


 みんな疲れている。


 自分だけではない。


 それが分かると、ノアの胸の中にあった孤独が、ほんの少し薄くなった。


 ノアは、懐から自分の相談控えを取り出した。


 黒晶灯の光の下で、文字が浮かぶ。


 仮保護名:ノア=リント

 本名候補:ノア=リントベル

 帰還希望:あり

 偽名証発行:本人保留

 注意:黒潮反応あり


 その文字は、昼間見たときより重かった。


 けれど、嫌いにはなれなかった。


 ノア=リント。


 その名は、本名ではない。

 でも、今ここで返事をするための名だ。


 ノア=リントベル。


 その名は、まだ完全には記録されない。

 でも、自分が確かに覚えている名だ。


 帰還希望、あり。


 その欄は、誰かに狙われる印かもしれない。

 けれど、それでも消したくない願いだ。


 ノアは、相談控えを両手で握った。


 そして、小さく言った。


「私は、帰りたい」


 誰も遮らなかった。


 黒晶灯が、静かに揺れている。


 ノアは続けた。


「でも、その言葉を、誰かの罠にされたままにはしません」


 声は大きくなかった。


 けれど、震えてはいなかった。


 リィゼが、少しだけ笑った。


 いつもの皮肉っぽい笑みではない。

 ほんの少しだけ、安心したような笑みだった。


「じゃあ、拾いに行くか」


 彼女は窓の外へ目を向けた。


「裂かれた名を」


 ノアも、ナハト=リムの夜を見た。


 黒晶灯の下で、無籍者の街は静かに息をしている。


 その静けさのどこかで、今も誰かの名が引かれているのかもしれない。

 帰りたいという願いが、黒い潮に触れているのかもしれない。


 怖い。


 怖いと思った。


 それでも、ノアはもう、ただ自分だけの帰り道を探しているのではなかった。


 帰りたいと言った人たちを、なかったことにしないために。


 自分の名を、自分だけのものとして取り戻すために。


 そして、帰るという言葉を、罠ではなく道に戻すために。


 明朝、黒冠街道へ出る。


 行き先は、ノイ=カラン。


 呼び名が一晩で少し変わる宿場。

 カランという音が、裂けた名の奥で鳴る場所。


 夜の窓に、ノアの影が映っていた。


 少し疲れた顔。

 まだ不安そうな目。

 けれど、第1話の浜辺で目覚めたときとは違う。


 彼女はもう、ただ流れ着いた漂着者ではない。


 裂かれた名を追うために、歩き出そうとしている。


 第6話 ― 名を裂く噂 了。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ