表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
28/65

第二節 ― 名を診る女

 臨時名傷検査室は、帰還希望者管理室の隣に急ごしらえで作られていた。


 もともとは空き部屋だったのだろう。壁には古い棚の跡があり、床の一部には荷箱を引きずった傷が残っている。けれど今は、部屋の中央に黒晶板が置かれ、窓際には薄い水を張った銀縁の水盤、奥には影を測るための白い布幕が吊られていた。


 そして、天井から細い銀糸の輪がいくつも下がっている。


 輪は風もないのに、わずかに揺れていた。

 光を受けるたび、細い糸が淡く鳴る。


 医療室のようでもあり、研究室のようでもあった。

 けれど、ノアが想像していたような拘束具はなかった。腕を固定する革帯も、身体を囲う檻も、椅子に付けられた金具もない。


 中央にあるのは、背もたれの低い椅子が一脚。

 その前に、小さな机。

 机の上には、記録紙と黒晶札と、温い薬湯の入った杯。


 エルネア=グラナートは、観測箱を机の横に置いた。


 箱の蓋を開ける前に、彼女はノアを見た。


「先に確認します」


 声は落ち着いていた。


「この検査は、あなたの名に対する反応を見るものです。痛みを伴うものではありません。ただし、呼ばれたくない名、聞きたくない呼称に触れる場合があります」


 ノアは椅子の前で立ち止まった。


 リィゼは壁際に立っている。ガルドは扉の近く。イザラは記録机のそばに控えていた。

 誰も、早く座れとは言わない。


 その沈黙が、かえってノアを戸惑わせた。


 外界なら、どうだっただろう。


 身元不明。

 記録不安定。

 外界帰還希望。

 異常反応あり。


 そんな札を付けられた人間に、いちいち同意を求めるだろうか。

 それとも、保護の名目で検査されるのだろうか。


 ノアは、自分が想像してしまったその光景に、胸の奥が冷えるのを感じた。


 エルネアは続けた。


「検査はできます。ですが、あなたが嫌だと言えば、その時点で中止します」


「途中でも、ですか」


「もちろん」


 エルネアは少しも不思議そうにせず答えた。


「途中で嫌になることもあります。最初は平気だと思っていた呼び名が、実際に呼ばれてから駄目だと分かることもあります。名の反応は、本人の意志を無視して進めるべきではありません」


 ノアは返事を探した。


 研究者。


 そう聞いたとき、身構えた。

 自分の壊れた名を、調べるための材料にされる気がした。


 だが、エルネアはノアを「検体」とは呼ばなかった。

 呼称も、現象名も、制度名も使う。けれど、彼女の目はノアを物として見ていない。


 それが、少しだけ怖さを薄めた。


「分かりました」


 ノアは椅子に座った。


「検査を受けます。でも、嫌だと思ったら止めます」


「それで構いません」


 エルネアは頷いた。


「むしろ、そうしてください」


 リィゼが壁際で小さく息を吐いた。


「意外と素直じゃん」


「今、茶化さないで」


「はいはい」


 リィゼは肩をすくめたが、その目は笑っていなかった。

 ノアが怖がっていることを、見落としてはいない。


 エルネアは観測箱から銀糸の輪を一つ取り出し、ノアの前に置いた。


「この輪は、呼称反応を見るものです。あなたの身体に触れません。名が呼ばれたとき、記録側にどの程度届くかを見ます」


 次に、水盤を指す。


「こちらは声の揺れを映します。あなたが返事をしたとき、声がどの名に向かって流れるかを見る」


 最後に、白い布幕。


「影幕です。呼ばれた名に、あなたの影がどの程度応じるかを確認します。影は嘘をつきにくい。ただし、本人が嫌悪する呼称では大きく乱れることがあります」


 ノアは、思わず訊いた。


「影まで見るんですか」


「はい」


「名前って、そんなところまで出るものなんですか」


「この大陸では、出ます」


 エルネアは簡潔に答えた。


 文化が違うのではない。

 世界そのものが違う。


 第1話で浜に流れ着いたときから、ノアは何度もそう感じてきた。

 だが、今ほどはっきりそれを思い知らされたことはなかった。


 外界では、名前は紙に書くものだった。

 口で名乗るものだった。

 身分証に載るものだった。


 ここでは、名前は影にも、声にも、黒晶にも、水にも反応する。


 そして、どこかへ引かれる。


「始めます」


 エルネアが言った。


「最初は、短い呼び名から。返事は、自然にしてください。無理に強く答える必要はありません」


 ノアは頷いた。


 エルネアは記録紙へ視線を落とし、それから静かに呼んだ。


「ノア」


「はい」


 返事は自然に出た。


 水盤の表面に、丸い波紋が広がる。

 銀糸の輪は一度だけ淡く鳴り、すぐに静まった。

 白い布幕の前で、ノアの影が少し濃くなる。


 エルネアは反応を見て、記録した。


「ノア。本人反応あり。安定。ただし深度は浅い」


「浅い?」


 ノアが訊く。


「あなた個人を呼ぶ音としては安定しています。ただし、帰属や記録の奥までは届いていません。親しい人が普段呼ぶ名前、という程度です」


 ノアは少し黙った。


 ノア。


 短くて、馴染みのある呼び名。

 けれど、それだけでは足りない。


 ノア=リントベル。


 自分は、その名でいたい。


 エルネアは次の呼称へ移った。


「ノア=リント」


 胸の奥が、少しだけ強張った。


 それでも、返事は出てしまった。


「……はい」


 水盤の波紋が、さきほどよりはっきり広がった。

 銀糸の輪が二度鳴る。

 黒晶板には、ノア=リントという文字が滲みなく浮かび上がった。


 安定している。


 その安定が、ノアには苦しかった。


 リントベルではない。

 最後の音がない。


 それなのに、記録はこの名前を受け取る。


 エルネアは、ノアの顔色も見ていた。


「ノア=リント。現地記録名として安定。本人反応あり。ただし、心理的不快感あり」


「そんなことまで分かるんですか」


「顔に出ています」


 ノアは少しだけ目を伏せた。


 リィゼがぼそりと言う。


「出てるね」


「リィゼ」


「出てるものは出てる」


 ノアは言い返しかけたが、やめた。


 怒るほどの余裕がない。


 エルネアは、少し間を置いた。


「次は、本名候補です。続けてよろしいですか」


 ノアは、膝の上で手を握った。


 本名候補。


 その呼び方も、本当は嫌だった。

 候補ではない。

 自分の名前だ。


 だが、ここで拒めば、何も分からない。


「大丈夫です」


 声が少し硬くなった。


 エルネアは頷き、はっきり呼んだ。


「ノア=リントベル」


「はい」


 返事は、これまでで一番強く出た。


 自分でも分かった。

 身体の奥が、その名にまっすぐ反応した。


 水盤の波紋が大きく広がる。

 銀糸の輪が高く鳴った。

 白い布幕に映るノアの影が、ほんの一瞬、輪郭をくっきりさせる。


 だが、次の瞬間。


 水盤の波紋が、末端で裂けた。


 黒晶板に浮かび上がった文字のうち、ベルの部分だけが白く薄くなる。

 消えるのではない。

 細い亀裂が入るように、文字の縁が割れていく。


 銀糸の輪が、嫌な音を立てた。


 ノアは思わず胸を押さえた。


 痛みではない。


 けれど、呼ばれた名の最後の部分だけが、どこか遠くへ引かれたような感覚があった。


 自分の中から消えたわけではない。

 自分は覚えている。

 けれど、声が届く先で、何かが裂ける。


 エルネアが片手を上げた。


「止めます」


 銀糸の輪に触れず、細い黒晶棒でその揺れを制した。

 水盤の波紋がゆっくり収まる。


 リィゼが一歩動きかけた。


「ノア」


「大丈夫」


 ノアは答えた。


 でも、それは半分だけ本当だった。


 エルネアは記録した。


「ノア=リントベル。本人反応、非常に強い。声、影ともに一致。ただし、末尾ベルに白裂反応。帰還先方向への接続不安定」


 ノアは、顔を上げた。


「白裂反応?」


「黒潮反応とは別です。黒潮は外部から引く力。白裂は、接続先が受け止めきれないときに生じる断裂です」


「受け止めきれないって……」


 声が震えた。


「どこが、ですか」


 エルネアは、慎重に答えた。


「現時点では、あなたの帰還先です」


 部屋の音が遠くなった。


 帰還先。


 外界。

 自分のいた場所。

 戻れるはずの場所。

 戻れば、ノア=リントベルだと証明できるはずの場所。


 そこが、受け止めきれない。


 それは、第3話でサリアに言われたことと同じだった。

 名があなたから消えているのではなく、あなたを受け取るはずの場所との接続が弱っています。


 あのときは、意味が分からなかった。

 今も、完全には分からない。


 けれど、検査室の道具が、同じことを示している。


 ノアは、唇を強く噛んだ。


「次は危険呼称です」


 エルネアが言った。


 ガルドがすぐに口を開く。


「やる必要があるのか」


「あります。ただし、短く」


 エルネアはノアを見る。


「嫌なら飛ばします」


「何を呼ぶんですか」


「帰還希望者」


 その言葉だけで、ノアの背筋が冷えた。


 第5話で裂けた文字。

 セノの申請書。

 黒い潮染み。

 帰りたいって言っただけなのに、という声。


 ノアは目を伏せた。


 嫌だった。


 だが、ここから目を逸らすことも嫌だった。


「やります」


 自分で言って、喉が乾いた。


 エルネアは無理に励まさなかった。


 ただ、銀糸の輪を一つ減らし、水盤の縁に黒晶の小片を置いた。


「反応が出たら、即座に止めます」


「はい」


 短い沈黙。


 そして、エルネアが呼んだ。


「帰還希望者」


 ノアは、すぐには返事ができなかった。


 それは名前ではない。

 状態だ。分類だ。役所の欄だ。


 なのに、自分が呼ばれたのだと分かってしまった。


「……はい」


 返事をした瞬間、水盤が黒く濁った。


 波紋ではない。

 底から黒い潮が湧いたように、丸い染みが広がっていく。


 銀糸の輪が強く揺れた。

 黒晶板の上に、帰還希望という文字が浮かび、すぐに縦に裂ける。


 リィゼが低く言った。


「止めろ」


「停止します」


 エルネアは即座に黒晶棒を輪へかざした。


 銀糸の音が途切れる。

 水盤の黒潮は広がりかけたところで止まった。

 黒晶板の文字も、かすかな煙のように薄れて消える。


 ノアは大きく息を吸った。


 胸の奥で、何かが外へ引かれかけた気がした。


 名前ではない。

 けれど、願いの形をしたもの。


 帰りたい、という方向。

 帰る場所を探す力。


 それが、どこか暗い隙間へ向かって伸びそうになった。


 ノアは自分の手を強く握った。


「今のは……」


「黒潮反応です」


 エルネアの声は、少しだけ硬かった。


「予想より強い」


 ガルドの表情が険しくなる。


「ノアだけか」


「いいえ。帰還希望の強い保護者に共通する反応と思われます。ただし、ノアさんの場合、本名末尾の白裂反応と重なっています」


「つまり」


 リィゼが言う。


「帰りたいって願いと、ベルが裂けてるのが、同じ裂け目に引かれかけてるってこと?」


「近いです」


 エルネアは頷いた。


「正確には、同じ裂け目を利用される危険があります」


 ノアは、水盤の黒ずんだ表面を見た。


 自分の願いが、そこに映っていたようで気持ち悪かった。


 エルネアは少し間を置いて、最後の呼称へ移った。


「もう一つだけ確認します。これは外部から貼られた呼称への反応です」


「外部から貼られた……」


「あなた自身が望まない可能性のある呼称です。嫌なら止めます」


「何ですか」


 エルネアは、ノアの目を見た。


「外界の娘」


 ノアの眉が動いた。


 それは、何度か聞いた呼び方だった。

 乱暴な者が、外界から来たノアをそう呼ぶ。


 外界人。

 漂着娘。

 帰りの娘。


 呼び名としては間違っていない部分もある。

 ノアは外界から来た。

 女性で、漂着者で、帰りたいと思っている。


 けれど、それだけで呼ばれることには、強い抵抗があった。


 ノア=リントベルではなく。

 ノアですらなく。

 ただ、外界から来た娘。


 それは、自分を一つの性質だけに縮められる呼び方だった。


「……やります」


 ノアは言った。


 声は硬かった。


 エルネアは短く頷いた。


「外界の娘」


「私は――」


 返事ではなく、否定が先に出た。


「私は、その名前じゃありません」


 水盤の表面が荒れた。


 黒ではない。

 だが、波紋が乱れ、銀糸の輪が不規則に鳴る。

 白い布幕の影が揺れ、ノアの輪郭が一瞬大きく歪んだ。


 ノアは立ち上がりそうになった。


 リィゼが壁際から名前を呼ぶ。


「ノア」


 その声で、少しだけ戻った。


 ノアは息を吐く。


「……すみません」


「謝る必要はありません」


 エルネアは言った。


「外界の娘。本人拒否反応あり。黒潮反応は弱いが、影反応が荒れる。分類呼称としては不適」


「分類呼称としては、って」


 ノアは、思わず苦く笑った。


「嫌な呼ばれ方にも、そういう言い方をするんですね」


「記録には必要です」


 エルネアは答えた。


「ただし、記録したからといって、使用してよいわけではありません」


 その言葉に、ノアは少しだけ黙った。


 嫌だと言った呼び名を、嫌だと記録する。

 呼ばれたくない名を、呼ばれたくない名として残す。


 ナハト=リムの壁にあった「呼ばれたくない名の登録」という札を思い出した。


 あれは、わがままではなかった。

 身を守るための記録だったのだ。


 エルネアは観測器具を止めた。


 銀糸の輪が静まり、水盤の黒ずみも少しずつ薄れていく。

 白い布幕の影は、元の輪郭へ戻った。


 部屋の空気が、ようやく少しだけ緩む。


 だが、エルネアの顔は厳しいままだった。


「診断をまとめます」


 彼女は記録紙を机に置き、ノアへ向き直った。


「あなたの名は、あなたから消えているのではありません」


 ノアは、ゆっくり顔を上げた。


「帰還先との接続が裂けています」


 言葉は静かだった。


 けれど、ノアの胸には深く刺さった。


「私は覚えています」


 ノアは言った。


「自分の名前も、帰りたい場所も。忘れてなんかいません」


「はい」


 エルネアは頷いた。


「だから危険なのです」


「どうして」


「忘れていれば、名は動きにくい。帰還先を探せないからです」


 エルネアは、水盤を指した。


「けれど、あなたは覚えている。ノア=リントベルという名も、帰りたいという方向も、まだあなたの中にある。名が帰る先を探しているのです」


 ノアは息を呑んだ。


「そこへ、偽の帰り道を置かれている」


 部屋が静まり返った。


 偽の帰り道。


 その言葉で、ノアの中に《白腹鴉》号の黒い船腹が蘇った。


 夜の南入江。

 白い腹を見せる鴉。

 ゼブ=カランの穏やかな声。


 外界へ戻れば、すぐに証明できます。


 あれは、船だけではなかった。


 ノアの名が帰り道を探しているところへ、偽の道を差し出されたのだ。


 だから、あんなにも信じたくなった。

 だから、止められても行こうとした。


 自分が愚かだったからだけではない。

 帰りたいという願いそのものが、引かれていた。


 それでも、怒りは消えなかった。


「じゃあ」


 ノアは、膝の上で拳を握った。


「私は、帰りたいと思うだけで危ないんですか」


 エルネアは、すぐには答えなかった。


 代わりに、ガルドが低く言った。


「危ない」


 ノアは彼を見る。


 ガルドは誤魔化さなかった。


「だが、悪いことじゃない」


 その言葉に、ノアの目が揺れた。


 リィゼが続ける。


「帰りたいって願いが悪いんじゃない。それを餌にする奴が悪い」


 ノアは、ゆっくり息を吸った。


 胸の中で、恐怖が怒りへ変わっていく。


 自分が忘れたわけではない。

 自分の名前が弱いわけでもない。

 帰りたいと思ったことが罪なのでもない。


 誰かが、その願いに偽の道を置いている。


 誰かが、帰りたい者たちの名を裂いている。


 ノアは黒く澱んだ水盤を見つめた。


「だったら、探します」


 声はまだ震えていた。


 けれど、さっきよりはっきりしていた。


「私の帰り道を勝手に使っているものを。セノたちの名を引いているものを」


 エルネアは、静かにノアを見た。


「そのためには、もう一つ確認する必要があります」


「何をですか」


「黒潮反応とは別に、押収物に外界式の印が混じっています」


 ガルドの表情が、わずかに険しくなった。


 リィゼも顔を上げる。


 エルネアは観測箱を閉じた。


「名裂きは、この大陸の内側だけで起きているとは限りません」


 ノアは、その言葉の意味をすぐには飲み込めなかった。


 外界。


 帰りたい場所。


 けれどそこにも、自分を待っているものがあるのかもしれない。


 ノア=リントベルとしてではなく。


 何かを回収するために。


 エルネアは記録紙の上に、診断名を書いた。


 名傷反応あり。

 白裂反応あり。

 黒潮反応あり。

 帰還先接続不安定。


 そして、最後に一行を加える。


 偽帰路誘導の疑い。


 ノアはその文字を見つめた。


 帰り道が、罠になる。


 その事実を、彼女は初めて正面から理解した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ