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序節 ― 消えた名簿

 夜が、終わりきらない。


 ナハト=リムの偽名証発行所には、まだ黒晶灯が灯っていた。


 窓布は閉ざされ、外の路地の気配は薄い。けれど完全な静寂ではなかった。遠くで荷車の軋む音がし、どこかの共同住宅で誰かが咳をする。朝を待つ街の音が、壁越しにかすかに届いてくる。


 その小さな生活の音が、かえって記録室の冷たさを際立たせていた。


 長机の上には、書類が広げられている。


 南窓のセノの偽名証申請書。

 過去に消えた二人分の偽名証控え。

 《白腹鴉》号から押収された札の写し。

 エリオ=カラン――の漂着者札。

 帰還希望者仮証の照会記録。

 そして、ナハト=リムに保護されている帰還希望者の名簿。


 紙の匂いに、黒晶の冷たい匂いが混ざっていた。


 ノアは椅子に座ったまま、自分の相談控えを膝の上に置いていた。


 仮保護名、ノア=リント。

 本名候補、ノア=リントベル。

 帰還希望、あり。

 偽名証発行、本人保留。

 注意、黒潮反応あり。


 その文字列を何度見ても、胸の奥が落ち着かなかった。


 本人保留。


 昨夜、その欄に少しだけ救われた。

 決められない自分を、決めたことにしないための欄。


 けれど、その隣にある「帰還希望、あり」の文字は、今は別の意味を持っている。


 願いではなく、印。

 希望ではなく、誰かに見つけられるための目印。


 そう思った瞬間、ノアは自分の手が冷たくなっていることに気づいた。


「眠っていなくて大丈夫ですか」


 イザラ=リムウェルが、書類から目を上げずに言った。


 その声は穏やかだったが、疲労は隠しきれていない。目元の布飾りの下、頬の線が少しだけ硬くなっていた。


「大丈夫です」


 ノアは答えた。


 嘘ではなかった。

 眠れないだけで、倒れそうなわけではない。


 けれど、イザラは少しだけ顔を上げた。


「大丈夫という言葉は、便利ですが、たまに人を騙します」


「……倒れそうなら言います」


「それなら、今は信じます」


 イザラはそれ以上追及しなかった。


 その向かいで、リィゼが椅子の背にもたれ、腕を組んでいた。彼女の目は半分閉じているように見える。けれど、黒い潮染みが浮いた書類が動くたび、金紫の瞳が細く光った。


 眠っていないのは、彼女も同じだった。


 壁際にはガルド=ヴァレムが立っていた。


 濡れていた外套は、今は椅子の背に掛けられている。厚い腕を組み、扉と窓と机を同時に見ているような姿勢だった。現場に長くいた人間の立ち方だと、ノアは思った。


 誰を疑っているわけでもない。

 ただ、何かが来るなら、最初に気づくための立ち方。


 ガルドは机の上の名簿を見下ろし、低く言った。


「もう一度、帰還希望者名簿を全部見る」


「はい」


 イザラは頷き、厚い綴じ帳を開いた。


 帰還希望者一時保護名簿。


 表紙にはそう書かれていた。


 ノアは、その言葉を見ただけで喉の奥が詰まった。


 帰還希望者。

 自分も、その中にいる。


 イザラは黒晶板を机の中央に置き、名簿の一枚目をそっと重ねた。紙と黒晶が触れた瞬間、淡い光が走る。文字の輪郭が浮かび、記録の反応が確認されていく。


「一番路地、北窓のエメ。帰還希望、弱。仮保護名安定。黒潮反応なし」


 イザラが読み上げる。


 ガルドが短く記録を取る。


「次。沈み階段のロウ。帰還希望、強。失踪済。黒潮反応あり」


 黒晶板の上で、紙の端に黒い影が浮いた。


 ノアの背筋が震えた。


 昨夜見たものと同じだった。


 紙の表面についた汚れではない。

 文字の奥から滲み出てくる、深い潮の黒。


「次。雨袖のミル。帰還希望、強。失踪済。呼称記録末尾欠損。黒潮反応あり」


 また黒い染み。


 リィゼが舌打ちした。


「嫌な並びだな」


「偶然として扱うには、件数が多すぎます」


 イザラは静かに言った。


「ですが、断定にはまだ足りません」


「まだ足りないって言ってる間に、また消えるぞ」


「だから急いでいます」


 イザラの声は乱れなかった。


 けれど、その指先がほんの少しだけ強く紙を押さえたのを、ノアは見た。


 冷たい人ではない。

 ただ、冷たくならなければ、記録を誤るから抑えているのだ。


 ノアは、そう思った。


 次のページが黒晶板に置かれる。


「南窓のセノ。帰還希望、強。偽名証相談予定。失踪済」


 イザラの声が、わずかに低くなった。


 黒晶板の上で、セノの名前が浮かぶ。


 南窓のセノ。


 最初は、確かに読めた。

 だが、数呼吸もしないうちに、文字の端がゆらりと揺れた。


 セノ、の「ノ」が薄くなる。


 消えるのではない。

 細い糸でどこかへ引かれるように、文字の末尾が裂けていく。


 ノアは思わず椅子から立ち上がった。


「今、動きました」


「見えましたか」


 イザラが顔を上げる。


 ノアは頷いた。


「消えたんじゃない。引っ張られたみたいに」


 言葉にして、自分でぞっとした。


 イザラは黒晶板に手をかざす。触れはしない。けれど、板の上の反応を読むように、指をゆっくり動かした。


「消失ではありません」


 彼女は言った。


「欠落でもない」


「じゃあ、何なんですか」


 ノアの声は少し強くなった。


 自分でも抑えられなかった。


「消えた人たちの名前が、消えかけているんですか」


「いいえ」


 イザラは、はっきり首を振った。


「消えているのではありません」


 黒晶板の上で、南窓のセノという文字がまた震えた。


 イザラは低く続けた。


「引かれています」


 記録室の空気が、一段冷えた気がした。


 ノアは、その言葉を理解しようとした。


 引かれている。


 誰に。

 どこへ。

 何のために。


 けれど、問いが形になる前に、リィゼが呟いた。


「名裂きだ」


 その声は小さかった。


 それでも、記録室の隅々まで届いた。


 ノアはリィゼを見た。


「名裂き……?」


 リィゼは腕を組んだまま、黒晶板の上の文字を睨んでいた。


「港の噂だよ。漂着者の名が、帳面から裂ける。本人は帰ったわけじゃない。死んだとも限らない。ただ、名前だけが先にどこかへ引かれる」


「噂って」


 ノアの中に、反射的な怒りが湧いた。


「噂で片づけるんですか。人が消えてるんですよ」


 リィゼは、ノアを見た。


 その目に、ふざけた色はなかった。


「噂っていうのは、分からないことを忘れないために残るんだよ」


 ノアは言葉を失った。


「記録に残せなかったもの。誰が見たかも分からないもの。役所が認めなかったもの。そういうものを、港は噂で残す」


 リィゼの声は低かった。


「誰かが消えた。帳面の名が薄れた。遺品の札だけ黒く染まった。けど、証明できない。だから噂になる」


 彼女は、セノの名が揺れる黒晶板を見た。


「でもな、噂にしてでも残さないと、本当にいなかったことにされる」


 ノアは唇を噛んだ。


 リィゼは拾名屋だ。


 漂着物から、誰が流れ着いたのかを拾う仕事。

 金目のものではなく、名につながるものを探す仕事。


 その彼女が、噂を軽んじるはずがない。


 記録できないものを、ただの作り話として捨てるのではなく、忘れないための形として残す。


 それが、港のやり方なのだ。


 イザラは名簿をさらにめくった。


「帰還希望、強の者に反応が集中しています」


 彼女は淡々と読み上げる。


「ただし、全員ではありません。帰還希望が強くても、偽名証発行済みで生活名が安定している者には、反応が弱い」


「偽名証が盾になるってことですか」


 ノアが訊く。


「可能性はあります」


 イザラは答えた。


「ですが、完全な防御ではありません。南窓のセノは、偽名証発行前でした」


「だから狙われた?」


「断定はできません」


 イザラの返答は慎重だった。


 ノアは少し苛立ちを覚えた。


 断定できない。

 可能性がある。

 確認が必要。


 正しい言葉なのだろう。

 けれど、人が消えているときには、ひどく遅く感じる。


 その苛立ちを見透かしたように、ガルドが口を開いた。


「焦るな」


 ノアは彼を見た。


「焦るなって、消えた人がいるんです」


「だから焦るな」


 ガルドの声は重かった。


「間違った名前を追えば、次に消えるのは追った奴だ」


 ノアは息を呑んだ。


「名を追うときは、足跡を追うのとは違う。焦って呼べば、こっちの名も応じる」


「応じる……?」


「詳しいことは専門家に聞け」


 ガルドは机の上の名簿を見た。


「だが、現場の経験で言う。こういうものは、怒りだけで追うと持っていかれる」


 ノアは拳を握った。


 怒っている。

 たしかに怒っている。


 セノが消えたことに。

 帰りたいという願いが黒い染みに変えられていることに。

 自分の相談控えにも、同じ危険な文字が並んでいることに。


 けれど、怒りだけで走れば、自分も同じ場所へ引かれるかもしれない。


 そのことが、悔しかった。


 黒晶灯が、小さく揺れた。


 外が少しずつ明るくなっている。窓布の隙間から、灰色の朝が細く差し込んでいた。


 夜明け前の光は弱い。

 それでも、長机の上の黒潮染みだけは、朝の光を受けても薄くならなかった。


 イザラが最後の名簿を閉じる。


「現時点で、黒潮反応が確認できた帰還希望者は五名。うち三名が失踪。二名は所在確認済みですが、呼称末尾に揺れがあります」


「保護を厚くしろ」


 ガルドが言った。


「共同住宅と発行所、両方だ。帰還希望者の札を表に貼るな」


「呼称札の掲示は一時停止します」


 イザラが頷く。


「ただし、本人確認に支障が出ます」


「支障と失踪なら、支障を選べ」


「同意します」


 リィゼが椅子から立ち上がった。


「私は共同住宅を見てくる。帰り待ちの連中に、今は一人で出歩くなって言う」


「怖がらせすぎないように」


 イザラが言う。


 リィゼは肩をすくめた。


「怖がるべきときに怖がらないほうが危ない」


 それから、ノアを見た。


「あんたはここにいろ」


「私も行きます」


「駄目」


 即答だった。


 ノアは反発しかけた。


 だが、リィゼは先に言った。


「あんたの札にも黒潮反応がある。帰還希望、あり。本名候補、不安定。狙われる条件が揃ってる」


「でも――」


「でもじゃない」


 リィゼの声が少し強くなった。


「あんたが動けば、向こうも動くかもしれない。今は餌を増やすな」


 餌。


 その言葉に、ノアは胸を刺されたように感じた。


 私は人間だ。

 物じゃない。

 餌でもない。


 そう言い返したかった。


 けれど、第2話の《白腹鴉》号を思い出した。

 ゼブ=カランの笑み。

 箱に詰められていた人。

 帰れるって言われたのに、という声。


 あのとき、自分は確かに餌にされかけた。

 帰りたいという願いを、値段のつくものとして見られていた。


 ノアは言葉を飲み込んだ。


 リィゼはそれを見て、少しだけ声を落とした。


「悔しいのは分かる。でも、悔しいからって持っていかれるな」


「……分かりました」


 ノアは小さく答えた。


 完全には納得していない。

 でも、今ここで飛び出せば、リィゼの言う通りになる。


 リィゼは頷き、記録室を出て行った。


 扉が閉まる。


 その音が、やけに大きく響いた。


 イザラは、黒潮反応の出た名簿を封鎖用の黒布に包み始めた。

 ガルドは腕を組んだまま、しばらく黙っていた。


 そして、低く言う。


「このままナハト=リムの書類だけを見ていても追えない」


 ノアは顔を上げた。


 ガルドは、黒く染みたセノの申請書を見ていた。


「名そのものを診る奴がいる」


「名を診る?」


「ああ」


 ガルドは、イザラを見る。


「ノクス=グラナには連絡済みか」


「昨夜のうちに、オルフェ様経由で」


 イザラは答えた。


「今朝には到着するはずです」


「誰が来る」


「エルネア=グラナート主任審査官」


 その名を聞いたとき、ガルドの表情が少しだけ変わった。


「よりによってか」


「最適任です」


「それは分かってる」


 ノアは二人を見る。


「その人は、何をする人なんですか」


 イザラが答えた。


「名の損傷、変異、記録反応の異常を診る専門家です。研究者ですが、同時に審査官でもあります」


「研究者……」


 ノアの声に、自分でも分かるほど警戒が混じった。


 外界で研究者と呼ばれる人々の中に、何を研究対象として見るか分からない者がいる。

 第5話でガルドが言っていた。


 帰り道の先に、待っている奴が味方とは限らない。


 ガルドがノアを見た。


「心配するな、とは言わない」


 彼は言った。


「だが、エルネアは少なくとも、本人の同意なしに名を切り開くような奴じゃない」


「名を切り開くって、何ですか」


「言葉の綾だ」


「今の流れで言われると、全然そう聞こえません」


 ガルドは少しだけ口元を歪めた。


「なら、訂正する。あいつは、診る前に聞く。嫌なら止める。そういう研究者だ」


 ノアは黙った。


 診る前に聞く。


 それだけのことが、今は妙に重く感じた。


 記録室の外で、朝を告げる鐘が鳴った。


 ナハト=リムの鐘は、外界の聖堂の鐘と違って、澄んだ音ではない。黒晶と古い鉄を打ち合わせたような、低く湿った音だった。


 一つ。

 二つ。

 三つ。


 夜が終わる。


 けれど、何かが終わった気はしなかった。


 ノアは、机の上の黒布に包まれていく名簿を見た。


 そこには、帰りたいと書かれた人たちの名がある。

 消えた人たちの名がある。

 まだ消えていないけれど、端を引かれ始めている名がある。


 そして、自分の名も、その近くにある。


 ノア=リント。

 ノア=リントベル。

 帰還希望、あり。


 彼女は膝の上で手を握りしめた。


 私は帰りたい。


 その思いは、少しも消えていない。


 けれど今は、その言葉を口にすることが、どれほど危ういのかも分かり始めていた。


 帰りたい。


 そう言っただけで、誰かの名が裂かれるのなら。


 その誰かの中に、いつか自分が入るのなら。


 知るしかない。


 名裂きとは何か。

 黒い潮染みはどこへ続いているのか。

 そして、帰りたいという願いを、誰が奪おうとしているのか。


 黒晶灯が最後に一度だけ揺れた。


 朝の灰色が、記録室の床へ細く伸びる。


 その光の中で、封鎖布に包まれた名簿の端から、ほんのわずかに黒い潮が滲んだ。

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