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第三節 ― 嘘ではなく盾

 偽名証発行所へ戻るころには、ナハト=リムの空は薄く曇っていた。


 朝には灰色だった街の光が、昼を過ぎて少しだけ白くなる。

 けれど、この街の白さは外界の白さとは違う。明るさというより、色の抜けた布を重ねたような白だった。


 路地を歩きながら、ノアはずっと黙っていた。


 三番路地の先生。

 黒猫の姉。

 青い角。

 墓前のナナ。


 四人の呼び名が、頭の中で何度も巡る。


 どれも本名ではない。


 けれど、どれもただの嘘ではなかった。


 本名を忘れても、患者を待たせない人。

 本名を封じなければ、自分の輪郭を保てない人。

 半魔という箱を捨て、青い角を自分の目印にした少年。

 外界では死んだことにされ、ここでだけ茶を飲める老婆。


 ノアは胸元の札に触れた。


 ノア=リント。


 その横の未確認名片に、かすかに残る――ベル。


 自分には本名がある。

 その思いは、少しも薄れていない。


 それでも、さっきまでのように、偽名という言葉を一息に切り捨てることはできなくなっていた。


 それが悔しかった。


 自分の中の何かが、少しずつこの街の理屈に押されている気がした。


 けれど同時に、あの人たちの顔を思い出すと、偽名は嘘だと断じることもできない。


 ノアは、どうにもならない苛立ちを抱えたまま、偽名証発行所の扉をくぐった。


 中は相変わらず冷えていた。


 外の湿った空気から切り離されたように、薄い冷気が床に沈んでいる。

 黒晶灯は低く、書類棚の影を長く伸ばしていた。


 イザラ=リムウェルは、奥の記録室へノアたちを案内した。


 記録室は、審査室よりもさらに静かだった。


 壁一面に黒い引き出しが並んでいる。

 引き出しには名前ではなく、分類だけが記されていた。


 仮呼び。

 仮保護名。

 偽名証。

 本名封鎖。

 死名分離。

 帰還希望者仮証。

 黒潮反応隔離。


 最後の引き出しだけ、黒い布で覆われている。


 ノアは自然とそこを見てしまった。


 リィゼも見た。

 けれど、彼女は何も言わなかった。


 イザラは記録室の中央にある長机へ向かった。


 そこには、すでに数枚の書類が並べられていた。

 紙の色も、厚みも、端に押された印も違う。


 そして、その中に一枚だけ、ノアが見覚えのある呼び名があった。


 南窓のセノ。


 昨夜消えた、帰り待ちの一人。


 その申請書は、まだ途中までしか書かれていなかった。


 呼称欄には、南窓のセノ。

 本名欄は空白。

 帰還希望欄には、小さく、あり。

 偽名証相談予定欄には、今日の日付。


 ノアは息を止めた。


「今日、相談を受ける予定だったんですね」


「はい」


 イザラは静かに答えた。


「本人が昨日の夕方に申し出ました。帰還希望者として呼ばれ続けるのが怖い、と」


 ノアは書類を見つめた。


 帰れるなら、どんな名前でもいい。


 セノはそう言っていた。


 けれど、本当は怖かったのかもしれない。

 帰り待ちと呼ばれることが。

 帰還希望者として札に置かれることが。

 何かに見つけられることが。


「間に合わなかったんですね」


 ノアの声は、小さかった。


 イザラはすぐには答えなかった。


 その沈黙が、肯定のようだった。


 やがて彼女は、机の上に三枚の書類を置いた。


「まず、あなた自身の状態を整理します」


 ノアは顔を上げた。


 イザラは一枚目の書類を指す。


「仮呼び」


 紙は薄く、簡易な形式だった。

 港や救護所で使うためのものらしく、欄も少ない。


「これは、港や救護現場で、とりあえず呼ぶための名です。倒れている人、記憶が曖昧な人、名を言えない人、名乗っても記録が受け取らない人。そういう人を、処置や呼びかけのために一時的に呼ぶ形です」


 イザラは、ノアを見る。


「あなたの場合、ヴァル=クレイアでノア=リントという形が発生しました」


 ノアは唇を結んだ。


 発生しました。


 その言い方は正確なのだろう。

 けれど、ノアには少し冷たく聞こえた。


「私が選んだ名前ではありません」


「はい。仮呼びは、多くの場合、本人が選んだものではありません」


「それなら、やっぱり押しつけです」


「押しつけになる危険があります」


 イザラは否定しなかった。


「だから、長く使ってはいけません。仮呼びは、沈んだ人を一時的につかむためのものです。陸に上がったあとも、そのまま縛るためのものではありません」


 ノアは少し黙った。


 浮き板。


 出会ったときにリィゼが言った言葉を思い出す。


 仮呼びは檻じゃない。

 沈まないための浮き板だ。


 当時は、そんなふうには思えなかった。

 削られた名を押しつけられたとしか思えなかった。


 今でも、その痛みはある。


 でも、沈む前に呼ぶための名だったと言われると、完全には拒めなかった。


 イザラは二枚目の書類を示した。


「仮保護名」


 こちらは紙が厚い。

 欄も多く、宿泊、医療、配給、移動、紹介先などの項目が並んでいる。


「これは、行政・救護・宿泊・移動・配給で使える一時名です。この前、あなたのノア=リントはこの段階に固定されました」


「固定」


「はい。固定しなければ、宿に泊まれず、薬を受け取れず、移動許可も出せません。もちろん、本名候補は別記します」


 イザラは、ノアの記録写しを開いた。


 仮保護名:ノア=リント。

 本名候補:ノア=リントベル。

 状態:帰還先接続不安定。

 意思:帰還希望。

 注意:黒潮反応あり。


 ノアの視線が、本名候補の欄で止まる。


 ノア=リントベル。


 そこには、書かれていた。


 けれど、インクの末尾がほんの少し薄い。

 ベルの部分だけ、紙の上に乗りきれていないように見える。


 ノアは喉の奥が熱くなった。


「これでも、残っているんですね」


「完全ではありません」


「でも、消されてはいない」


「はい」


 イザラは頷いた。


「消せません。本人が申し立てていて、かつ反応の痕跡がある以上、未確認名として残します」


「未確認名」


「証明できないからといって、なかったことにはしない欄です」


 ノアは、その言葉を胸の中で繰り返した。


 証明できないからといって、なかったことにはしない。


 外界なら、どうだっただろう。


 身分証の文字が滲んでいる。

 船名が薄い。

 出身地が読めない。


 それは、疑われる理由になる。

 手続きから弾かれる理由になる。

 偽造か、虚偽か、身元不明か。


 けれどここでは、証明できないものを、未確認として残す。


 それは、完全な救いではない。

 でも、少なくとも消去ではなかった。


 イザラは三枚目の書類を置いた。


「偽名証」


 その紙は、ほかの二つとは違っていた。

 中央に名前を書く欄がある。だが、その横に、同意欄、使用範囲、呼称制限、封鎖名、過去名、緊急時呼称、拒否呼称、更新期限が細かく並んでいる。


 名前ひとつを書くために、これほど多くの欄が必要なのか。


 ノアは、思わず眉を寄せた。


「偽名証は、本名を使えない者が社会生活を送るための盾です」


 イザラは言った。


「必ずしも、本名を捨てるものではありません」


「でも、偽名証を持ったら、その名前で生きることになる」


「はい」


 イザラは即座に認めた。


「だから、本人の同意なく発行してはいけません」


 ノアは、少し驚いた。


「同意が必要なんですか」


「必要です」


「でも、役所が必要だと判断したら、持たせるんじゃないんですか」


「いいえ」


 イザラの声は、そこだけはっきりしていた。


「偽名証は、本人を守るためのものです。本人を説き伏せて持たせるものではありません。本人の意思を無視した偽名は、盾ではなく、また別の檻になります」


 ノアは黙り込んだ。


 また別の檻。


 ノア=リント。


 その名を最初に突きつけられたとき、彼女は檻のように感じた。

 ノア=リントベルではない名で囲われ、削られた自分として扱われるような気がした。


 けれど、ここではその危険も分かったうえで、制度が作られている。


「この街で名を守るというのは」


 イザラは、三枚の書類を見下ろしながら言った。


「正しい名前を暴くことではありません」


 ノアは顔を上げた。


「その人が、どの名前なら明日も起き上がれるかを確かめることです」


 記録室の冷たい空気の中で、その言葉だけが静かに落ちた。


 明日も起き上がれる名前。


 三番路地の先生。

 黒猫の姉。

 青い角。

 墓前のナナ。


 どの名も、外界の戸籍には載らないかもしれない。

 けれど、その名で彼らは朝を迎え、仕事へ行き、誰かに呼ばれ、返事をしている。


 ノアは、膝の上で手を握った。


「私は……」


 声が少し掠れた。


「私は、ノア=リントベルです」


「はい」


「でも、この大陸では、ノア=リントのほうが安定する」


「現時点では」


「それは、私が明日も起き上がれる名前なんですか」


 イザラはすぐには答えなかった。


 リィゼも黙っている。


 その沈黙が、ノアには怖かった。


 やがてイザラは言った。


「今のあなたにとって、ノア=リントは、傷のある名です」


 ノアは息を詰めた。


「だから、安易に偽名証へは進めません」


「どういうことですか」


「仮保護名として使うことはできます。ですが、本人が傷と感じている名を、生活名として固定することは危険です」


 イザラは、ノアの記録写しを閉じた。


「あなたに必要なのは、すぐに別名で生きることではありません。まず、ノア=リントベルを未確認名として保ちながら、ノア=リントで必要な保護を受けることです」


「それが、今の私の状態」


「はい」


 ノアは、深く息を吐いた。


 納得したわけではない。

 でも、少なくとも、無理やり偽名証を作られるわけではないと分かった。


 イザラは机の横から、小さな黒晶板を取り出した。


「一時偽名証の試験発行もできます。実際に作る前に、どの程度反応するかを確認するためのものです」


 ノアの身体がこわばった。


「私に?」


「勧めることはできます。強制はしません」


「何を書くんですか」


「候補名を。たとえば、ノア。ノア=リント。あるいは、あなたが選ぶ別の呼び名」


「別の呼び名なんてありません」


「では、ありません、と記録します」


 ノアは黒晶板を見た。


 試験発行。


 もし、そこにノア=リントと刻まれたら。

 もし、それが安定して残ったら。

 自分はまた一歩、ノア=リントベルから遠ざかるのではないか。


 そう思った瞬間、胸が強く詰まった。


「私は偽名証はいりません」


 きっぱりと言った。


 言ってから、少し身構えた。

 説得されると思った。

 必要だと言われると思った。

 あなたのためだと押されると思った。


 けれどイザラは、ただ頷いた。


「では、発行しません」


 ノアは拍子抜けした。


「……それでいいんですか」


「はい」


「試験もしないんですか」


「本人が拒否しています」


「でも、危険なんでしょう。黒潮反応もあって、帰還希望分類が狙われているかもしれないって」


「危険です」


「それでも?」


「はい」


 イザラは黒晶板を片づけた。


「偽名証は、本人を守るためのものです。本人を説き伏せて持たせるものではありません」


 先ほどと同じ言葉だった。


 けれど、今度はノア自身へ向けられている。


「拒否したことも、記録します」


「拒否って書くんですか」


「いいえ」


 イザラは新しい紙を一枚取り出した。


「本人保留、と書きます」


「本人保留?」


「拒否ではありません。発行希望でもありません。説明を受けたうえで、今は決めない。そういう欄です」


 ノアは、その紙を見つめた。


 イザラの手が、淡々と文字を書いていく。


 偽名証相談控え。


 仮保護名:ノア=リント。

 本名候補:ノア=リントベル。

 帰還希望:あり。

 偽名証発行:本人保留。

 注意:黒潮反応あり。


 本人保留。


 その四文字に、ノアは目を奪われた。


 拒否ではない。

 受諾でもない。

 未記入でもない。


 今は決められない。

 そういう状態のまま、書類に残されている。


 外界なら、空欄にされるか、拒否に分類されるかもしれない。

 けれどここでは、決められないこと自体に欄がある。


 ノアは、思わず指先でその文字の近くに触れた。


「これも、嘘じゃないんですね」


「はい」


 イザラは言った。


「保留は、嘘ではありません。決められない人を、決めたことにしないための欄です」


 その言葉が、静かに胸へ落ちた。


 ノアは初めて、ナハト=リムの書類に小さな救いを感じた。


 自分はまだ、決められない。

 偽名証が必要かどうかも。

 ノア=リントをどこまで受け入れるのかも。

 ノア=リントベルへどう戻るのかも。

 帰りたいという願いが、この先どこへ連れていくのかも。


 何も決められない。


 けれど、決められない自分を、そのまま置く欄がある。


 それは、思っていたよりもずっと、息がしやすかった。


 リィゼが横から言った。


「よかったな。空欄じゃなくなったぞ」


 ノアは彼女を睨んだ。


「茶化さないでください」


「茶化してない。半分くらいは」


「半分は?」


「照れ隠し」


「誰の」


「さあな」


 ノアは文句を言おうとしたが、うまく言葉が出なかった。


 代わりに、相談控えを見下ろした。


 ノア=リント。

 ノア=リントベル。

 本人保留。


 その三つが、同じ紙に並んでいる。


 矛盾しているようで、今の自分には一番近い形なのかもしれない。


 そう思った、そのときだった。


 机の端に置かれていた別の書類が、かすかに音を立てた。


 紙が湿気を吸ったような、薄い音。


 ノアは顔を上げる。


 南窓のセノの偽名証申請書だった。


 イザラの手が止まる。


 リィゼの表情が、一瞬で変わった。


 申請書の右下。

 帰還希望欄のあたりに、小さな黒い点が浮かんでいる。


 それはインクの染みではなかった。


 紙の内側から、潮が滲むように広がっていく。


 黒い。


 深い海の底のような、光を吸う黒。


 ノアは、椅子から立ち上がりかけた。


「これ……」


「触らないで」


 イザラの声が鋭くなった。


 これまでで初めて聞く、明確な制止だった。


 ノアは動きを止める。


 黒い潮染みは、セノの申請書の端からゆっくりと広がり、帰還希望の文字を覆っていく。


 次に、呼称欄。


 南窓のセノ。


 その文字の末尾が、黒く滲んだ。


 まるで、誰かが紙の向こう側から名前を引いているように。


 リィゼが低く呟いた。


「またか」


 イザラは黒革の台帳を開き、別の黒晶札を取り出した。


 その顔は落ち着いている。

 けれど、目だけが硬かった。


「これは、自然な記録劣化ではありません」


 ノアは、黒くなっていく申請書を見つめた。


 さっきまで、保留という欄に救われたと思った。


 だがそのすぐ隣で、決める前に消えた人の名が、また黒い潮に飲まれようとしている。


 彼女の手の中には、自分の相談控えがある。


 仮保護名:ノア=リント。

 本名候補:ノア=リントベル。

 帰還希望:あり。

 偽名証発行:本人保留。

 注意:黒潮反応あり。


 ノアは紙を握りしめた。


 帰還希望。


 その文字が、急に冷たく見えた。


 リィゼは黒い染みを見つめたまま、顔を強ばらせていた。

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