第二節 ― 本名で壊れる人
廊下の奥には、いくつもの小部屋があった。
どの扉にも、名前は書かれていない。
代わりに、用途だけが短く記されている。
本名封鎖室。
呼称調整室。
死名分離相談室。
帰還希望者仮証確認室。
無記名休息室。
ノアは、その文字を一つずつ目で追った。
どれも、外界の役所では見たことのない言葉だった。
そして、どれも、見た瞬間に胸のどこかを小さく引っかく。
名前を書くための場所ではない。
名前を書けない理由を、先に置いてある場所。
それが、この偽名証発行所なのだと分かってきた。
イザラ=リムウェルは、廊下の突き当たりで足を止めた。
「最初に会っていただく方は、発行所の外にいます」
「ここではないんですか」
「偽名証は、ここで発行されます。けれど、使われるのは外です」
イザラは、黒革の無籍台帳を胸に抱え直した。
「書類の上だけ見ても、分かりません。名前は、呼ばれる場所で意味が変わります」
ノアは何も言わなかった。
呼ばれる場所で意味が変わる。
ノア=リントベル。
ノア=リント。
ノア。
外界の娘。
漂着者。
帰還希望者。
どれも、自分を指している。
けれど、同じではない。
その違いが、少しずつ重くなってきていた。
偽名証発行所を出ると、外の空気がかえってぬるく感じた。
ナハト=リムの路地には、朝の気配が増えている。
軒下で薄い布を干す者。
石畳に水を撒く者。
店先に黒晶灯を吊り直す者。
誰もが、互いを短い呼び名で呼び合っていた。
「青い角、そっち持てるか」
「黒猫の姉、昼前に来てって」
「三番路地の先生、薬草の包みが届いてる」
ノアは、その声を聞きながら歩いた。
どれも本名ではない。
なのに、街は滞りなく動いている。
それが不思議で、不安で、少しだけ腹立たしかった。
本名でなくても人が暮らせる。
その事実は、ノアにとって救いではなかった。
むしろ、ノア=リントベルでなければ自分ではないと思っている彼女には、今のところ残酷に近い。
「ここです」
イザラが案内したのは、細い路地の三番目にある小さな診療所だった。
看板には、ただ一言だけ書かれている。
三番路地の診療所。
人の名前はない。
扉を開けると、薬草と煮沸した布の匂いがした。
狭い室内には、古い棚が壁一面に並び、瓶や包帯や乾燥させた根がぎっしりと詰まっている。
奥では、白髪交じりの男が薬棚を整理していた。
年齢は五十代ほど。
背は高くない。
眼鏡の奥の目は穏やかで、指先は驚くほど正確に動いていた。
「先生」
イザラが呼ぶ。
男は振り返り、にこりと笑った。
「おや、イザラさん。今日は審査ですか」
「見学です。ご本人の同意範囲内で」
「ああ、昨日の漂着者さんですね」
男はノアを見る。
「初めまして。三番路地の先生です」
自分でそう名乗った。
ノアは一瞬、返事に詰まった。
職業でもあり、場所でもあり、呼び名でもある。
それを、本人が何の抵抗もなく名乗ったことに戸惑った。
「ノアです」
結局、彼女はそう答えた。
「ノアさん。顔色が悪いですね。昨夜、眠れませんでしたか」
「少しだけ」
「少しだけ眠れたなら、今はそれをよしとしましょう。眠れない夜のあとに、自分を責めると、さらに眠れなくなります」
先生はそう言いながら、棚から小さな包みを取った。
「薬湯にするほどではありませんが、香りだけでも。落ち着きますよ」
ノアは差し出された乾いた葉を受け取った。
指先に、柔らかな苦い香りが移る。
診療所には、患者が二人いた。
ひとりは膝に包帯を巻かれた老人。
もうひとりは、熱を出して寝台に横たわる子どもだった。
先生は、ノアたちと話しながらも、子どもの額に布を当て、老人の包帯の巻き具合を確かめている。
その動きに迷いはなかった。
ノアは、ふと訊いてしまった。
「先生は……本名を思い出したいとは思わないんですか」
言ってから、少し失礼だったかもしれないと思った。
だが、先生は怒らなかった。
薬棚の引き出しを閉めながら、穏やかに答える。
「思い出せるなら思い出したいですよ」
その声に、嘘はなかった。
「名前というのは、不思議なものです。なくても薬は調合できる。けれど、ふとしたときに、誰かが昔の自分を呼んでいた声だけが、耳の奥に残っている気がする」
先生は小さく笑った。
「ただ、思い出すまで患者を待たせるわけにはいかないでしょう」
ノアは言葉を失った。
本名がないから、何もできない。
彼女は、どこかでそう思っていた。
名前が証明できないなら、先へ進めない。
名が欠けているなら、まずそれを直さなければならない。
けれど、この人は違った。
本名を思い出せないまま、患者を診ている。
本名を取り戻す前に、誰かの熱を測り、傷を縫い、薬を渡している。
それは、ノアにとって意外なことだった。
「不便ではないんですか」
「不便ですよ」
先生は即答した。
「不便ですが、不幸だけではありません。三番路地の先生と呼ばれれば、私はここで必要とされていると分かる」
彼は、熱を出した子どもの額の布を取り替える。
「本名は、私がどこから来たかを示すものだったのかもしれません。でも、この呼び名は、今どこに立っているかを示してくれます」
ノアは、胸の奥が少し詰まった。
今どこに立っているか。
彼女はまだ、その問いに答えられない。
ここは、私のいる場所じゃない。
そう言ってきた。
今も、そう思っている。
けれど、もし誰かに「では、今どこに立っているのか」と問われたら。
答えは、出ない。
イザラは、ノアの横顔を見ていたが、何も言わなかった。
診療所を出る前に、先生はノアへ小さな包みを渡した。
「眠れない夜に、枕元へ置くといいですよ。飲む薬ではありません」
「いいんですか」
「ノアさんは、まだ自分が眠れない理由を言葉にできない顔をしていますから」
ノアは包みを受け取った。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
三番路地の先生は、そう言って笑った。
本名ではない呼び名で、確かにそこにいる人だった。
次に向かったのは、路地の奥にある小さな修繕屋だった。
軒先には靴紐、鞄の留め具、破れた外套、壊れた黒晶灯の部品が吊るされている。
店内では、若い女性が椅子に座り、黒い手袋を縫い直していた。
黒猫の耳と尾を持つ女性だった。
年齢は二十代前半ほど。
髪は短く、黒に近い藍色。耳と尾は柔らかそうに見えるが、動きは繊細で、周囲の音に鋭く反応している。
「姉さん」
リィゼが呼ぶ。
「今日は客じゃないよ」
「見れば分かる。拾名屋がそんな顔で修理代を払いに来るわけない」
黒猫の姉は、針を止めずに言った。
それからノアを見る。
「その子が、海から来た子?」
ノアは少し身構えた。
「ノアです」
「うん。じゃあ、ノア」
あっさり呼ばれた。
海から来た娘でも、帰還希望者でもなく、ノア。
そのことに、少しだけ力が抜ける。
イザラが確認する。
「本名封鎖証について、説明しても?」
「いいよ。呼ばなければね」
「もちろん」
黒猫の姉は、縫い終えた手袋の糸を切った。
「私、本名を呼ばれると崩れるんだ」
軽い口調だった。
ノアは、その言葉の重さに追いつけなかった。
「崩れる?」
「輪郭がね。耳とか、手とか、顔の端とか。水に落とした墨みたいになる」
彼女は、自分の手をひらひらと振って見せた。
「すぐ戻るときもあるけど、長く呼ばれると危ない。だから本名封鎖証を持ってる」
「どうして、そんなことに」
「外界で、何度も呼ばれたから」
黒猫の姉の声は、少しだけ低くなった。
「呼ぶと私が怯えるって、あいつら知ってたんだよ。だから呼んだ。逃げられないように。壊れるところを見るために」
ノアは息を呑んだ。
本名。
それは、ノアにとって守るべきものだった。
自分が自分である証明。
帰る場所とつながる糸。
欠けてはいけないもの。
だが、この人にとって本名は、攻撃に使われた刃だった。
「本名って、誰に呼ばれても嬉しいものじゃないよ」
黒猫の姉は、そう言った。
ノアは、何も返せなかった。
自分は今まで、名前を呼ばれたいと思っていた。
ノア=リントベルと、疑われずに呼ばれたいと思っていた。
けれど、呼ばれることから守られなければならない人もいる。
同じ本名なのに。
同じ名前なのに。
それが救いになる人と、傷になる人がいる。
黒猫の姉は、ノアの沈黙を見ると、少し笑った。
「そんな顔しなくていいよ。今は平気。ここでは、誰も勝手に呼ばないから」
彼女は腰の小さな証入れから、薄い布札を取り出した。
黒い布に、銀糸で文字が縫われている。
黒猫の姉。
本名封鎖。
本人同意なき真名呼称禁止。
「私はこの名前で働いて、この名前で家賃を払って、この名前で友だちに呼ばれてる」
彼女は、布札をノアに見せた。
「嘘に見える?」
ノアは答えようとした。
でも、言葉が出なかった。
嘘ではない。
少なくとも、この人が今この店で働き、針を持ち、手袋を縫い、リィゼに軽口を返していることは、嘘ではない。
では、名前はどうなのか。
黒猫の姉は、本名ではない。
けれど、嘘でもない。
ノアの中で、言葉の置き場所が少しずつずれていく。
「……分かりません」
ようやく、彼女はそう言った。
黒猫の姉は満足そうに頷いた。
「分からないなら、いいんじゃない。分かったふりされるよりずっといい」
イザラが静かに補足する。
「偽名証や本名封鎖証は、その人がどう呼ばれたいかだけでなく、どう呼ばれたくないかも守ります」
「呼ばれたくない名も、登録するんですね」
「はい。名は、呼ぶ側だけのものではありませんから」
ノアは、黒猫の姉の布札をもう一度見た。
名前は、呼ぶ側だけのものではない。
その言葉は、胸の中で長く残った。
三人目に会ったのは、修繕屋の裏手にある小さな広場だった。
広場では、子どもたちが古い布玉を蹴って遊んでいた。
その中に、青い小さな角を持つ少年がいた。
十歳か、十一歳くらいだろうか。
髪は薄茶色で、額の左右から青い角が生えている。まだ短く、光を受けると石のように透けて見えた。
「青い角」
イザラが呼ぶと、少年はこちらを向いた。
「イザラさん。今日は検査?」
「今日は見学です。話してもいいですか」
「いいよ」
少年は布玉を仲間に投げ、こちらへ駆けてきた。
ノアは、彼の角を見ないようにしようとして、逆に意識してしまった。
少年はそれに気づいたらしい。
「見てもいいよ」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。僕の角だし」
その言い方があまりにも自然で、ノアはかえって困った。
「青い角、という呼び名は……嫌ではないんですか」
ノアは慎重に訊いた。
「それも、失礼じゃないのかなって」
少年は首を振った。
「半魔より、青い角のほうがいい」
その言葉に、ノアは胸を突かれた。
半魔。
アシュ=ロアの門壁に刻まれていた罵倒のひとつ。
外界が分類できない者を押し込めるために使った言葉。
少年は、自分の角に触れた。
「これは僕の角だけど、半魔はあいつらが作った箱だから」
彼は、そう言った。
ノアは息を呑んだ。
箱。
その言葉で、あの船を思い出した。
《白腹鴉》号の甲板。
木箱の中の細い指。
帰れるって言われたのに、と震えていた声。
人を箱に入れる。
身体を閉じ込めるだけではない。
名前も、呼び名も、分類も、人を箱に入れることがある。
「青い角は、箱じゃないんですか」
ノアは訊いた。
少年は少し考えた。
「うーん。箱っていうより、目印?」
「目印」
「うん。僕が僕を嫌いにならないための目印。青い角って呼ばれると、ああ、これは僕のだって思える」
彼は笑った。
「半魔って呼ばれると、僕が半分しかないみたいだった」
ノアは何も言えなかった。
半分。
欠けた名前を抱えている自分に、その言葉は痛かった。
ノア=リント。
ノア=リントベルではない名。
自分も、半分にされたように感じていた。
けれど、青い角の少年は、自分の角を半分の印ではなく、自分のものとして呼び直した。
偽名証とは、そういうものなのか。
外から押しつけられた箱を、自分で持てる目印へ変えるためのもの。
ノアは、少年を見た。
「あなたは、魔族なんですか」
問いは少し危うかったかもしれない。
リィゼが横目でノアを見る。
イザラも、少年の反応を注意深く見ていた。
だが少年は、怒らなかった。
「うん。ここでは」
「ここでは?」
「外では、半魔って言われた。でも、ここでは魔族でいいって言われた」
「魔族は、種族名じゃないんですよね」
ノアは、これまでに聞いたことを思い出しながら言った。
少年は頷いた。
「居場所がなかった人たちの名前だって、先生が言ってた」
三番路地の先生のことだろう。
「だから、僕も魔族でいい。半分じゃなくて、ここにいる一人ってことだから」
ノアは、その言葉を胸の中で受け止めた。
外界では、魔族という言葉は恐れや蔑みを含むことが多い。
けれどメギド=ノクスでは、それは居場所を失った者たちの共同名になっている。
半魔と呼ばれた少年が、魔族という名を選ぶ。
それは外界の常識では矛盾して見える。
でも、彼にとっては違う。
半分にされるより、一人として呼ばれるほうがいい。
ノアは、また一つ、言葉を失った。
最後に会ったのは、街の端にある小さな茶屋だった。
その茶屋の裏には、墓地がある。
墓地といっても、外界のものとは違っていた。
整然と石碑が並ぶのではなく、小さな石、木札、布片、黒晶の欠片が、それぞれの形で置かれている。
その入口近くに、老婆が座っていた。
白い髪を布で包み、膝の上に茶碗を置いている。
目は細く、皺は深い。
けれど背筋はまっすぐだった。
「墓前のナナ」
イザラが呼ぶと、老婆は片目を開けた。
「おや、今日はずいぶん若い子を連れてるね」
「見学です」
「偽名証の?」
「はい」
ナナはノアを見た。
「じゃあ、まだ自分の名前で怒れる子だ」
ノアは、思わず眉をひそめた。
「どうして分かるんですか」
「顔に書いてあるよ。私は私の名前があるってね」
老婆は笑った。
ノアは少しむっとしたが、否定できなかった。
「ナナさんは、どうして墓前のナナと?」
「墓が先にあるからさ」
老婆は、茶屋の裏手を指した。
そこには、小さな石が一つ置かれていた。
ナナ、とだけ刻まれている。
「外界では、私はもう死んだことになってる」
ナナは茶を一口飲んだ。
「家も、財産も、名前も、死んだ私のものになった。生きて戻れば、都合が悪い人間が多すぎる」
ノアは、息を呑んだ。
「じゃあ、帰れないんですか」
「帰れば、また死ぬことになるね」
老婆は、淡々と言った。
「今度は書類の上じゃなく、本当に」
ノアは言葉を失った。
外界へ帰る。
それは、ノアにとって救いの言葉だった。
少なくとも、最初はそうだった。
ここではない場所へ戻る。
自分を知る人がいる場所へ戻る。
ノア=リントベルとして扱われる場所へ戻る。
けれど、この老婆にとって、外界へ帰ることは死に近い。
向こうでは、もう墓の中にいることにされているから。
「向こうじゃ、私はもう墓の中さ」
ナナは、石の墓を見ながら言った。
「ここでだけ、まだ茶を飲める」
その言葉は、静かだった。
恨みも、怒りも、諦めも、すべてを飲み込んだ後の静けさ。
ノアは、胸が苦しくなった。
「それで、いいんですか」
訊いた瞬間、自分でも幼い問いだと思った。
いいわけがない。
でも、そうしなければ生きられない人がいる。
ナナは怒らなかった。
「よくはないよ」
そう言って、茶碗を両手で包む。
「でも、悪いだけでもない。ここでは、ナナと呼ばれて茶を出せる。墓前のナナと呼ばれて、死んだことにされた人の相談に乗れる。向こうの名ではできなかったことだ」
ノアは、ナナの墓を見た。
自分の墓だけ先に作った老婆。
死んだことにされた人。
けれど今、目の前で茶を飲んでいる人。
本名で生きることができない人。
でも、偽名でまだ生きている人。
偽名証は嘘ではない。
序節で見た言葉が、少しだけ重みを変えた。
ノアはまだ、その言葉を信じきれない。
けれど、嘘だと切り捨てることも、もうできなかった。
発行所へ戻る道で、ノアはしばらく黙っていた。
三番路地の先生。
黒猫の姉。
青い角。
墓前のナナ。
どの人も、本名ではない呼び名で生きていた。
それは、ノアにはまだ痛ましい。
けれど、ただの敗北には見えなかった。
名前を忘れても、人を診る人がいる。
本名を封じても、働く人がいる。
蔑称を捨てて、自分の角を選ぶ子がいる。
死んだことにされても、茶を飲み、誰かの相談に乗る人がいる。
ノアは、リィゼの少し後ろを歩きながら言った。
「でも、私は違う」
声は小さかった。
けれど、はっきりしていた。
「私には本名がある。私は、ノア=リントベルです」
その名を口にした瞬間、胸の奥に痛みが走る。
リントベル。
この大陸の記録には、まだ最後まで残らない名。
けれど、ノアの中にはある。
それだけは譲れなかった。
リィゼは、否定しなかった。
歩きながら、いつもの調子で言った。
「知ってる」
ノアは顔を上げた。
リィゼは前を向いたままだった。
「だから、あんたはまだ怒れるんだよ」
「……どういう意味ですか」
「そのうち分かる」
「またそれですか」
「今説明すると、たぶん怒る」
「もう怒っています」
「じゃあ、ちょうどいい」
リィゼは少しだけ笑った。
ノアは、その背中を見つめる。
自分には本名がある。
だから怒れる。
名前を削られることに。
ノア=リントと記録されることに。
帰還希望者として分類されることに。
自分の意思とは違う呼び名で扱われることに。
怒れる。
それは、まだ名が自分の中にあるからなのか。
ノアには、まだ分からなかった。
ただ、発行所へ戻る路地で、彼女は胸元の仮保護名札を握った。
ノア=リント。
その横に挟まれた、未確認名片。
――ベル。
消えかけている。
けれど、まだある。
そのことが、悔しくて、痛くて、そして少しだけ恐ろしかった。




