表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
23/65

第二節 ― 本名で壊れる人

 廊下の奥には、いくつもの小部屋があった。


 どの扉にも、名前は書かれていない。

 代わりに、用途だけが短く記されている。


 本名封鎖室。

 呼称調整室。

 死名分離相談室。

 帰還希望者仮証確認室。

 無記名休息室。


 ノアは、その文字を一つずつ目で追った。


 どれも、外界の役所では見たことのない言葉だった。

 そして、どれも、見た瞬間に胸のどこかを小さく引っかく。


 名前を書くための場所ではない。

 名前を書けない理由を、先に置いてある場所。


 それが、この偽名証発行所なのだと分かってきた。


 イザラ=リムウェルは、廊下の突き当たりで足を止めた。


「最初に会っていただく方は、発行所の外にいます」


「ここではないんですか」


「偽名証は、ここで発行されます。けれど、使われるのは外です」


 イザラは、黒革の無籍台帳を胸に抱え直した。


「書類の上だけ見ても、分かりません。名前は、呼ばれる場所で意味が変わります」


 ノアは何も言わなかった。


 呼ばれる場所で意味が変わる。


 ノア=リントベル。

 ノア=リント。

 ノア。

 外界の娘。

 漂着者。

 帰還希望者。


 どれも、自分を指している。

 けれど、同じではない。


 その違いが、少しずつ重くなってきていた。


 偽名証発行所を出ると、外の空気がかえってぬるく感じた。


 ナハト=リムの路地には、朝の気配が増えている。

 軒下で薄い布を干す者。

 石畳に水を撒く者。

 店先に黒晶灯を吊り直す者。

 誰もが、互いを短い呼び名で呼び合っていた。


「青い角、そっち持てるか」


「黒猫の姉、昼前に来てって」


「三番路地の先生、薬草の包みが届いてる」


 ノアは、その声を聞きながら歩いた。


 どれも本名ではない。

 なのに、街は滞りなく動いている。


 それが不思議で、不安で、少しだけ腹立たしかった。


 本名でなくても人が暮らせる。

 その事実は、ノアにとって救いではなかった。


 むしろ、ノア=リントベルでなければ自分ではないと思っている彼女には、今のところ残酷に近い。


「ここです」


 イザラが案内したのは、細い路地の三番目にある小さな診療所だった。


 看板には、ただ一言だけ書かれている。


 三番路地の診療所。


 人の名前はない。


 扉を開けると、薬草と煮沸した布の匂いがした。

 狭い室内には、古い棚が壁一面に並び、瓶や包帯や乾燥させた根がぎっしりと詰まっている。


 奥では、白髪交じりの男が薬棚を整理していた。


 年齢は五十代ほど。

 背は高くない。

 眼鏡の奥の目は穏やかで、指先は驚くほど正確に動いていた。


「先生」


 イザラが呼ぶ。


 男は振り返り、にこりと笑った。


「おや、イザラさん。今日は審査ですか」


「見学です。ご本人の同意範囲内で」


「ああ、昨日の漂着者さんですね」


 男はノアを見る。


「初めまして。三番路地の先生です」


 自分でそう名乗った。


 ノアは一瞬、返事に詰まった。


 職業でもあり、場所でもあり、呼び名でもある。

 それを、本人が何の抵抗もなく名乗ったことに戸惑った。


「ノアです」


 結局、彼女はそう答えた。


「ノアさん。顔色が悪いですね。昨夜、眠れませんでしたか」


「少しだけ」


「少しだけ眠れたなら、今はそれをよしとしましょう。眠れない夜のあとに、自分を責めると、さらに眠れなくなります」


 先生はそう言いながら、棚から小さな包みを取った。


「薬湯にするほどではありませんが、香りだけでも。落ち着きますよ」


 ノアは差し出された乾いた葉を受け取った。


 指先に、柔らかな苦い香りが移る。


 診療所には、患者が二人いた。

 ひとりは膝に包帯を巻かれた老人。

 もうひとりは、熱を出して寝台に横たわる子どもだった。


 先生は、ノアたちと話しながらも、子どもの額に布を当て、老人の包帯の巻き具合を確かめている。


 その動きに迷いはなかった。


 ノアは、ふと訊いてしまった。


「先生は……本名を思い出したいとは思わないんですか」


 言ってから、少し失礼だったかもしれないと思った。


 だが、先生は怒らなかった。


 薬棚の引き出しを閉めながら、穏やかに答える。


「思い出せるなら思い出したいですよ」


 その声に、嘘はなかった。


「名前というのは、不思議なものです。なくても薬は調合できる。けれど、ふとしたときに、誰かが昔の自分を呼んでいた声だけが、耳の奥に残っている気がする」


 先生は小さく笑った。


「ただ、思い出すまで患者を待たせるわけにはいかないでしょう」


 ノアは言葉を失った。


 本名がないから、何もできない。


 彼女は、どこかでそう思っていた。

 名前が証明できないなら、先へ進めない。

 名が欠けているなら、まずそれを直さなければならない。


 けれど、この人は違った。


 本名を思い出せないまま、患者を診ている。

 本名を取り戻す前に、誰かの熱を測り、傷を縫い、薬を渡している。


 それは、ノアにとって意外なことだった。


「不便ではないんですか」


「不便ですよ」


 先生は即答した。


「不便ですが、不幸だけではありません。三番路地の先生と呼ばれれば、私はここで必要とされていると分かる」


 彼は、熱を出した子どもの額の布を取り替える。


「本名は、私がどこから来たかを示すものだったのかもしれません。でも、この呼び名は、今どこに立っているかを示してくれます」


 ノアは、胸の奥が少し詰まった。


 今どこに立っているか。


 彼女はまだ、その問いに答えられない。


 ここは、私のいる場所じゃない。


 そう言ってきた。

 今も、そう思っている。


 けれど、もし誰かに「では、今どこに立っているのか」と問われたら。


 答えは、出ない。


 イザラは、ノアの横顔を見ていたが、何も言わなかった。


 診療所を出る前に、先生はノアへ小さな包みを渡した。


「眠れない夜に、枕元へ置くといいですよ。飲む薬ではありません」


「いいんですか」


「ノアさんは、まだ自分が眠れない理由を言葉にできない顔をしていますから」


 ノアは包みを受け取った。


「……ありがとうございます」


「どういたしまして」


 三番路地の先生は、そう言って笑った。


 本名ではない呼び名で、確かにそこにいる人だった。


 次に向かったのは、路地の奥にある小さな修繕屋だった。


 軒先には靴紐、鞄の留め具、破れた外套、壊れた黒晶灯の部品が吊るされている。

 店内では、若い女性が椅子に座り、黒い手袋を縫い直していた。


 黒猫の耳と尾を持つ女性だった。


 年齢は二十代前半ほど。

 髪は短く、黒に近い藍色。耳と尾は柔らかそうに見えるが、動きは繊細で、周囲の音に鋭く反応している。


「姉さん」


 リィゼが呼ぶ。


「今日は客じゃないよ」


「見れば分かる。拾名屋がそんな顔で修理代を払いに来るわけない」


 黒猫の姉は、針を止めずに言った。


 それからノアを見る。


「その子が、海から来た子?」


 ノアは少し身構えた。


「ノアです」


「うん。じゃあ、ノア」


 あっさり呼ばれた。


 海から来た娘でも、帰還希望者でもなく、ノア。


 そのことに、少しだけ力が抜ける。


 イザラが確認する。


「本名封鎖証について、説明しても?」


「いいよ。呼ばなければね」


「もちろん」


 黒猫の姉は、縫い終えた手袋の糸を切った。


「私、本名を呼ばれると崩れるんだ」


 軽い口調だった。


 ノアは、その言葉の重さに追いつけなかった。


「崩れる?」


「輪郭がね。耳とか、手とか、顔の端とか。水に落とした墨みたいになる」


 彼女は、自分の手をひらひらと振って見せた。


「すぐ戻るときもあるけど、長く呼ばれると危ない。だから本名封鎖証を持ってる」


「どうして、そんなことに」


「外界で、何度も呼ばれたから」


 黒猫の姉の声は、少しだけ低くなった。


「呼ぶと私が怯えるって、あいつら知ってたんだよ。だから呼んだ。逃げられないように。壊れるところを見るために」


 ノアは息を呑んだ。


 本名。


 それは、ノアにとって守るべきものだった。

 自分が自分である証明。

 帰る場所とつながる糸。

 欠けてはいけないもの。


 だが、この人にとって本名は、攻撃に使われた刃だった。


「本名って、誰に呼ばれても嬉しいものじゃないよ」


 黒猫の姉は、そう言った。


 ノアは、何も返せなかった。


 自分は今まで、名前を呼ばれたいと思っていた。

 ノア=リントベルと、疑われずに呼ばれたいと思っていた。


 けれど、呼ばれることから守られなければならない人もいる。


 同じ本名なのに。


 同じ名前なのに。


 それが救いになる人と、傷になる人がいる。


 黒猫の姉は、ノアの沈黙を見ると、少し笑った。


「そんな顔しなくていいよ。今は平気。ここでは、誰も勝手に呼ばないから」


 彼女は腰の小さな証入れから、薄い布札を取り出した。


 黒い布に、銀糸で文字が縫われている。


 黒猫の姉。

 本名封鎖。

 本人同意なき真名呼称禁止。


「私はこの名前で働いて、この名前で家賃を払って、この名前で友だちに呼ばれてる」


 彼女は、布札をノアに見せた。


「嘘に見える?」


 ノアは答えようとした。


 でも、言葉が出なかった。


 嘘ではない。


 少なくとも、この人が今この店で働き、針を持ち、手袋を縫い、リィゼに軽口を返していることは、嘘ではない。


 では、名前はどうなのか。


 黒猫の姉は、本名ではない。

 けれど、嘘でもない。


 ノアの中で、言葉の置き場所が少しずつずれていく。


「……分かりません」


 ようやく、彼女はそう言った。


 黒猫の姉は満足そうに頷いた。


「分からないなら、いいんじゃない。分かったふりされるよりずっといい」


 イザラが静かに補足する。


「偽名証や本名封鎖証は、その人がどう呼ばれたいかだけでなく、どう呼ばれたくないかも守ります」


「呼ばれたくない名も、登録するんですね」


「はい。名は、呼ぶ側だけのものではありませんから」


 ノアは、黒猫の姉の布札をもう一度見た。


 名前は、呼ぶ側だけのものではない。


 その言葉は、胸の中で長く残った。


 三人目に会ったのは、修繕屋の裏手にある小さな広場だった。


 広場では、子どもたちが古い布玉を蹴って遊んでいた。

 その中に、青い小さな角を持つ少年がいた。


 十歳か、十一歳くらいだろうか。

 髪は薄茶色で、額の左右から青い角が生えている。まだ短く、光を受けると石のように透けて見えた。


「青い角」


 イザラが呼ぶと、少年はこちらを向いた。


「イザラさん。今日は検査?」


「今日は見学です。話してもいいですか」


「いいよ」


 少年は布玉を仲間に投げ、こちらへ駆けてきた。


 ノアは、彼の角を見ないようにしようとして、逆に意識してしまった。


 少年はそれに気づいたらしい。


「見てもいいよ」


「ごめんなさい」


「謝らなくていいよ。僕の角だし」


 その言い方があまりにも自然で、ノアはかえって困った。


「青い角、という呼び名は……嫌ではないんですか」


 ノアは慎重に訊いた。


「それも、失礼じゃないのかなって」


 少年は首を振った。


「半魔より、青い角のほうがいい」


 その言葉に、ノアは胸を突かれた。


 半魔。


 アシュ=ロアの門壁に刻まれていた罵倒のひとつ。

 外界が分類できない者を押し込めるために使った言葉。


 少年は、自分の角に触れた。


「これは僕の角だけど、半魔はあいつらが作った箱だから」


 彼は、そう言った。


 ノアは息を呑んだ。


 箱。


 その言葉で、あの船を思い出した。

 《白腹鴉》号の甲板。

 木箱の中の細い指。

 帰れるって言われたのに、と震えていた声。


 人を箱に入れる。


 身体を閉じ込めるだけではない。

 名前も、呼び名も、分類も、人を箱に入れることがある。


「青い角は、箱じゃないんですか」


 ノアは訊いた。


 少年は少し考えた。


「うーん。箱っていうより、目印?」


「目印」


「うん。僕が僕を嫌いにならないための目印。青い角って呼ばれると、ああ、これは僕のだって思える」


 彼は笑った。


「半魔って呼ばれると、僕が半分しかないみたいだった」


 ノアは何も言えなかった。


 半分。


 欠けた名前を抱えている自分に、その言葉は痛かった。


 ノア=リント。

 ノア=リントベルではない名。


 自分も、半分にされたように感じていた。


 けれど、青い角の少年は、自分の角を半分の印ではなく、自分のものとして呼び直した。


 偽名証とは、そういうものなのか。


 外から押しつけられた箱を、自分で持てる目印へ変えるためのもの。


 ノアは、少年を見た。


「あなたは、魔族なんですか」


 問いは少し危うかったかもしれない。


 リィゼが横目でノアを見る。

 イザラも、少年の反応を注意深く見ていた。


 だが少年は、怒らなかった。


「うん。ここでは」


「ここでは?」


「外では、半魔って言われた。でも、ここでは魔族でいいって言われた」


「魔族は、種族名じゃないんですよね」


 ノアは、これまでに聞いたことを思い出しながら言った。


 少年は頷いた。


「居場所がなかった人たちの名前だって、先生が言ってた」


 三番路地の先生のことだろう。


「だから、僕も魔族でいい。半分じゃなくて、ここにいる一人ってことだから」


 ノアは、その言葉を胸の中で受け止めた。


 外界では、魔族という言葉は恐れや蔑みを含むことが多い。

 けれどメギド=ノクスでは、それは居場所を失った者たちの共同名になっている。


 半魔と呼ばれた少年が、魔族という名を選ぶ。

 それは外界の常識では矛盾して見える。


 でも、彼にとっては違う。


 半分にされるより、一人として呼ばれるほうがいい。


 ノアは、また一つ、言葉を失った。


 最後に会ったのは、街の端にある小さな茶屋だった。


 その茶屋の裏には、墓地がある。


 墓地といっても、外界のものとは違っていた。

 整然と石碑が並ぶのではなく、小さな石、木札、布片、黒晶の欠片が、それぞれの形で置かれている。


 その入口近くに、老婆が座っていた。


 白い髪を布で包み、膝の上に茶碗を置いている。

 目は細く、皺は深い。

 けれど背筋はまっすぐだった。


「墓前のナナ」


 イザラが呼ぶと、老婆は片目を開けた。


「おや、今日はずいぶん若い子を連れてるね」


「見学です」


「偽名証の?」


「はい」


 ナナはノアを見た。


「じゃあ、まだ自分の名前で怒れる子だ」


 ノアは、思わず眉をひそめた。


「どうして分かるんですか」


「顔に書いてあるよ。私は私の名前があるってね」


 老婆は笑った。


 ノアは少しむっとしたが、否定できなかった。


「ナナさんは、どうして墓前のナナと?」


「墓が先にあるからさ」


 老婆は、茶屋の裏手を指した。


 そこには、小さな石が一つ置かれていた。


 ナナ、とだけ刻まれている。


「外界では、私はもう死んだことになってる」


 ナナは茶を一口飲んだ。


「家も、財産も、名前も、死んだ私のものになった。生きて戻れば、都合が悪い人間が多すぎる」


 ノアは、息を呑んだ。


「じゃあ、帰れないんですか」


「帰れば、また死ぬことになるね」


 老婆は、淡々と言った。


「今度は書類の上じゃなく、本当に」


 ノアは言葉を失った。


 外界へ帰る。


 それは、ノアにとって救いの言葉だった。

 少なくとも、最初はそうだった。


 ここではない場所へ戻る。

 自分を知る人がいる場所へ戻る。

 ノア=リントベルとして扱われる場所へ戻る。


 けれど、この老婆にとって、外界へ帰ることは死に近い。


 向こうでは、もう墓の中にいることにされているから。


「向こうじゃ、私はもう墓の中さ」


 ナナは、石の墓を見ながら言った。


「ここでだけ、まだ茶を飲める」


 その言葉は、静かだった。


 恨みも、怒りも、諦めも、すべてを飲み込んだ後の静けさ。


 ノアは、胸が苦しくなった。


「それで、いいんですか」


 訊いた瞬間、自分でも幼い問いだと思った。


 いいわけがない。

 でも、そうしなければ生きられない人がいる。


 ナナは怒らなかった。


「よくはないよ」


 そう言って、茶碗を両手で包む。


「でも、悪いだけでもない。ここでは、ナナと呼ばれて茶を出せる。墓前のナナと呼ばれて、死んだことにされた人の相談に乗れる。向こうの名ではできなかったことだ」


 ノアは、ナナの墓を見た。


 自分の墓だけ先に作った老婆。

 死んだことにされた人。

 けれど今、目の前で茶を飲んでいる人。


 本名で生きることができない人。

 でも、偽名でまだ生きている人。


 偽名証は嘘ではない。


 序節で見た言葉が、少しだけ重みを変えた。


 ノアはまだ、その言葉を信じきれない。


 けれど、嘘だと切り捨てることも、もうできなかった。


 発行所へ戻る道で、ノアはしばらく黙っていた。


 三番路地の先生。

 黒猫の姉。

 青い角。

 墓前のナナ。


 どの人も、本名ではない呼び名で生きていた。


 それは、ノアにはまだ痛ましい。

 けれど、ただの敗北には見えなかった。


 名前を忘れても、人を診る人がいる。

 本名を封じても、働く人がいる。

 蔑称を捨てて、自分の角を選ぶ子がいる。

 死んだことにされても、茶を飲み、誰かの相談に乗る人がいる。


 ノアは、リィゼの少し後ろを歩きながら言った。


「でも、私は違う」


 声は小さかった。


 けれど、はっきりしていた。


「私には本名がある。私は、ノア=リントベルです」


 その名を口にした瞬間、胸の奥に痛みが走る。


 リントベル。


 この大陸の記録には、まだ最後まで残らない名。


 けれど、ノアの中にはある。


 それだけは譲れなかった。


 リィゼは、否定しなかった。


 歩きながら、いつもの調子で言った。


「知ってる」


 ノアは顔を上げた。


 リィゼは前を向いたままだった。


「だから、あんたはまだ怒れるんだよ」


「……どういう意味ですか」


「そのうち分かる」


「またそれですか」


「今説明すると、たぶん怒る」


「もう怒っています」


「じゃあ、ちょうどいい」


 リィゼは少しだけ笑った。


 ノアは、その背中を見つめる。


 自分には本名がある。

 だから怒れる。


 名前を削られることに。

 ノア=リントと記録されることに。

 帰還希望者として分類されることに。

 自分の意思とは違う呼び名で扱われることに。


 怒れる。


 それは、まだ名が自分の中にあるからなのか。


 ノアには、まだ分からなかった。


 ただ、発行所へ戻る路地で、彼女は胸元の仮保護名札を握った。


 ノア=リント。


 その横に挟まれた、未確認名片。


 ――ベル。


 消えかけている。

 けれど、まだある。


 そのことが、悔しくて、痛くて、そして少しだけ恐ろしかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ