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第一節 ― 偽名証の番人

 偽名証発行所の中は、外よりも一段冷えていた。


 冷気というほど鋭くはない。

 けれど、肌の上に薄い紙を一枚置かれたような冷たさがある。


 ノアは扉をくぐった瞬間、思わず肩をすくめた。


 厚い布で覆われた窓。

 低く抑えられた黒晶灯。

 壁に沿って並ぶ棚。

 棚には、紙束、布札、木札、黒晶の小片、骨のような白い名片、小さな金属板が種類ごとに収められている。


 役所というより、薬局か、工房に近い。


 書類を処理する場所ではなく、何か壊れやすいものを一つずつ確かめる場所。


 ノアは、そう感じた。


 入口横の受付には、名前を書く欄がなかった。


 代わりに、いくつもの札が下がっている。


 仮保護名継続。

 偽名証申請。

 本名封鎖。

 呼称変更。

 過去名封印。

 死名分離。

 帰還希望者仮証。

 黒潮反応あり。


 最後の札を見た瞬間、ノアの足が止まった。


 黒潮反応あり。


 文字だけなのに、昨夜見た染みが目の前に広がる気がした。


 南窓のセノの仮保護名札。

 《白腹鴉》号から押収された漂着者札。

 エリオ=カラン――。

 そして、帰還希望者名簿の端に滲んでいた、あの黒い潮。


 ノアは胸元の保護札を握った。


「見るなとは言わないけど、触るなよ」


 リィゼが低く言った。


「分かっています」


「顔は分かってない」


「顔で判断しないでください」


「だいたい当たる」


 言い返そうとしたノアの前で、奥の扉が開いた。


 出てきたのは、黒い革の台帳を抱えた女性だった。


 三十代前半から半ばほどだろうか。

 髪は深い灰茶色で、後ろで低くまとめられている。衣服は審査官というより、夜の司書に近かった。黒を基調にした長衣の裾には、細い銀糸で小さな文字列のような文様が縫い込まれている。


 目元には、細い布飾りがあった。


 視界を隠すほどではない。

 けれど、その布は、相手の名をむやみに覗き込まないための誓いのように見えた。


 女性はノアを見た。


 正確には、ノアの顔、胸元の保護札、手の震え、肩の力、目の下の疲れを順に見た。


 それから、最初にこう言った。


「今朝、食事は取れましたか」


 ノアは一瞬、言葉を失った。


「……名前を聞かないんですか」


 女性は、少しだけ首を傾けた。


「名前は、後でいいです。空腹の人に名前を書かせると、必要以上に間違えます」


 それは、あまりに実務的な言葉だった。


 優しいのか、冷たいのか、すぐには分からない。

 けれど、少なくとも外界の役所で聞く言葉ではなかった。


 ノアは、短く答える。


「少しは食べました」


「では、立ったまま倒れる可能性は低いですね」


「そんな確認を?」


「します。偽名証発行所では、名前より先に呼吸と体温を見ます」


 女性は台帳を抱え直した。


「イザラ=リムウェルです。ナハト=リム偽名証発行所、今名審査担当。あなたの手続きは、私が引き継ぎます」


 イザラ=リムウェル。


 その名を聞いたとき、ノアはようやく、この人が話の入口に立つ人物なのだと理解した。


 ただ、理解したからといって安心できるわけではない。


 イザラは、ノアを奥の審査室へ案内した。


 部屋は広くない。

 しかし机は大きかった。


 机の上には、すでにいくつもの記録媒体が並べられている。


 紙。

 黒晶札。

 織り目の細かい布札。

 白い骨片。

 薄い金属板。

 木片。

 丸い貝殻のようなもの。


 ノアは、思わずそれらを見回した。


「偽名証って、一種類じゃないんですか」


「一種類にすると、合わない人が出ます」


 イザラは、淡々と答えた。


「紙に名を置ける人。石でなければ残らない人。布に縫わなければ拒む人。声にしか反応しない人。血を使ってはいけない人。血でなければ認識されない人。いろいろです」


 ノアは眉をひそめた。


「血?」


「今日、あなたに使うことはありません」


「今日じゃなければ、あるんですか」


「必要な人には」


 その言い方に、ノアは小さな拒否感を覚えた。


 身体の一部。

 血。

 骨。

 声。

 そうしたものが、名前の証明に使われる。


 外界では、少なくともノアの知る外界では、身分証は紙か金属片だった。

 そこに記される名前が人を証明する。


 ここでは、人のほうが証明に削られていくように見える。


 その感覚を見透かしたように、イザラは言った。


「抵抗があるなら、抵抗があると記録します」


「それも記録するんですか」


「はい。嫌がったことは、後で必要になります」


「何のために」


「同じことを、もう一度無理にさせないために」


 ノアは黙った。


 この街は、何でも記録する。

 けれどそれは、外界のように人を縛るためだけではないらしい。


 少なくとも、そう見せようとしている。


 審査室の壁にも札が並んでいた。


 仮保護名継続。

 偽名証申請。

 本名封鎖。

 呼称変更。

 過去名封印。

 死名分離。

 帰還希望者仮証。

 黒潮反応あり。


 受付と同じ札だが、こちらの札は色が違う。

 黒潮反応あり、の札だけは、黒い布で半分覆われていた。


 ノアの視線がそこに吸い寄せられる。


 イザラはそれを見ていたが、すぐには説明しなかった。


 代わりに、机の上に一枚の紹介状を置く。


 そこへ、審査室の別の扉が静かに開いた。


 オルフェ=セプティアが入ってきた。


 以前、ノアを審査した人物。

 いつも通り、柔らかく整った所作だった。けれど今朝は、目元に夜通し記録を読んだ者の疲れがあった。


「イザラ」


「オルフェ様」


 イザラは軽く頭を下げた。


 オルフェは、ノアを見て一度頷く。


「眠れましたか」


「……少しだけ」


「それで十分とは言えませんが、今は嘘ではなさそうですね」


 ノアは返事に困った。


 オルフェは机へ紹介状を差し出した。


「特例審査は済ませました。ここから先は、ナハト=リムの日常の制度で扱ってください」


「承りました」


 イザラは紹介状を受け取り、封を切らずにまず外側を確認した。


 宛先。

 差出人。

 封印の割れ。

 黒潮反応の有無。

 すべてを確かめてから、ようやく中を見る。


 ノアはその慎重さを見ていた。


 焦っていない。

 けれど、遅くもない。


 昨夜、オルフェが言った言葉を思い出す。


 焦ることと急ぐことは違います。


 この街の役人は、そういう訓練を受けているのかもしれない。


 イザラは紹介状を読み終えると、ノアを見た。


「本来なら、あなたの窓口は私です」


「本来なら?」


「はい。仮保護名、偽名証相談、帰還希望者仮証。この三つが重なる案件は、偽名証発行所で扱います」


 イザラは、机の端に紹介状を置いた。


「オルフェ様が出てきた時点で、あなたの案件はもう普通ではありません」


 ノアの肩に力が入った。


「普通じゃないって、どういう意味ですか」


 問いながら、彼女は自分でも警戒しているのが分かった。


 普通ではない。

 異常。

 例外。

 危険。


 その言葉は、漂着してから何度も別の形で突きつけられてきた。


 名が残らない。

 帰還先接続不安定。

 黒潮反応あり。


 自分が危険物のように扱われるのは、もう嫌だった。


 イザラは、ノアの反応を見てから答えた。


「あなたが危険だという意味ではありません」


 声は落ち着いていた。


「あなたを狙うものが、普通ではないという意味です」


 その言葉に、ノアは息を詰めた。


 南窓のセノ。

 《白腹鴉》号。

 ゼブ=カラン。

 エリオ=カラン――。

 黒い潮染み。


 自分だけが壊れているのではない。


 自分の名を、誰かが、何かが、外から引こうとしている。


 そう考えると、怒りよりも先に冷たさが来た。


 リィゼが壁際で腕を組んだまま言う。


「だから、今日は制度の説明だけじゃ済まない」


「申請を強制するつもりはありません」


 イザラはすぐに言った。


 ノアは意外そうに彼女を見た。


「しないんですか」


「はい。あなたが拒否している限り、偽名証は発行しません」


「それなら、どうして呼んだんですか」


「知らないまま拒むのと、知ったうえで拒むのは違うからです」


 ノアは、言葉に詰まった。


 序節でリィゼに言われたことと同じだった。


 見てから嫌がれ。


 乱暴な言い方と、丁寧な言い方。

 けれど中身は似ている。


 オルフェは、そこで静かに言った。


「私はここで退きます。ノアさん、今日の説明はイザラから受けてください。彼女は、この街で偽名証をもっとも多く見ています」


「オルフェさんは?」


「私は、特例が起きたときに出てくる者です」


 オルフェは少しだけ微笑んだ。


「日常を守るのは、私ではありません」


 その言葉を残して、オルフェは部屋を出た。


 扉が閉じる。


 残ったのは、ノア、リィゼ、イザラ。

 それから机の上に並ぶ、いくつもの名の器。


 イザラは椅子を勧めた。


 ノアが座ると、彼女は机の中央に三枚の札を置いた。


 仮呼び。

 仮保護名。

 偽名証。


「これまでに、あなたは仮呼びと仮保護名を経験しています」


 イザラはまず、仮呼びの札を指した。


「港や救護現場で、とりあえず呼ぶための名です。あなたの場合、ヴァル=クレイアでノア=リントという形が発生しました」


 ノアの胸が少し痛んだ。


 ノア=リント。


 自分の名から、ベルが抜け落ちた形。


「次に、仮保護名」


 イザラは二枚目の札へ指を移す。


「行政、宿泊、医療、配給、移動で使う一時名です。あなたの場合、すでにノア=リントとして固定されています。ただし、本名候補としてノア=リントベルを別記しています」


「未確認名片に、ベルの音を残した」


「はい」


 イザラは頷いた。


「そして、偽名証」


 三枚目の札が、静かに机の中央へ置かれた。


「これは、本名を使えない者が社会生活を送るための証明です」


 ノアは、思わず口を挟んだ。


「本名を使えないって、本名がない人のことですか」


「それだけではありません」


 イザラは机の引き出しから、数枚の古い見本証を取り出した。


「本名を忘れた人。

 本名が記録できない人。

 本名を呼ばれると身体や精神に異常が出る人。

 本名が外界で手配名になっている人。

 本名を語ると家族が危険になる人。

 死んだことにされた人。

 別人として売買された人。

 蔑称を本名の代わりに押しつけられた人」


 ひとつずつ言葉が置かれるたび、ノアの中に小さな棘が刺さった。


 名前は、証明だと思っていた。


 けれどここでは、名前が傷口でもあり、鎖でもあり、売値でもあり、処分理由でもある。


「外界では、偽名は嘘かもしれません」


 イザラは言った。


「ですがここでは、偽名証は嘘を守るものではありません。生きている人間を、呼べる形で守るものです」


 ノアは、すぐには頷けなかった。


「でも、偽名は偽名でしょう」


 声が硬くなる。


「本当の名前じゃない」


「はい」


 イザラは否定しなかった。


「本当の名前ではない場合があります」


「それなら、やっぱり嘘じゃないですか」


「だからこそ、証明します」


 イザラの声は揺れなかった。


「これは本名ではない。けれど、この人が今、壊れずに返事のできる名である、と」


 ノアは黙った。


 壊れずに返事のできる名。


 以前のオルフェに聞かれた問いが蘇る。


 何と呼ばれれば、あなたは返事ができますか。


 あのとき、ノアは苛立った。

 自分はノア=リントベルだと、何度も思った。


 今もそう思っている。


 だが、黒晶板でベルは白く抜けた。

 それでも、ノア=リントと呼ばれれば、反射的に返事をしてしまった。


 それは屈辱だった。


 けれど、ここではそれを屈辱としてだけ扱わない。

 生きるための反応として、記録する。


「偽名証を持ったら、その名が本名になるんですか」


 ノアは訊いた。


「いいえ」


「でも、その名で暮らすことになる」


「はい」


「それって、本名を諦めるのと何が違うんですか」


 イザラは少しだけ間を置いた。


 質問を急いで処理しない。

 その間が、かえって誠実に見えた。


「諦める人もいます」


 イザラは言った。


「隠す人もいます。守る人もいます。後で取り戻すために、別の名で時間を稼ぐ人もいます」


 リィゼが壁際で呟く。


「同じにしたら壊れる、だろ」


「はい」


 イザラは頷いた。


「偽名証は、本名を諦めた証ではありません。少なくとも、私たちはそう扱いません」


 ノアは机の上の金属板を見た。


 小さく、薄い。

 この中に、誰かの嘘ではない偽名が刻まれるのか。


 外界の感覚では、どうしても矛盾に聞こえる。


 けれど、ナハト=リムの共同住宅で、ノアはもう見ている。


 三番路地の先生。

 黒猫の姉。

 青い角。

 南窓のセノ。


 本名ではない呼び名で、人々は働き、眠り、薬を受け取り、心配され、そして消えた。


 イザラは、机の端にある黒潮反応ありの札を指した。


「ただし、あなたの場合は別の問題があります」


 ノアの身体が強張る。


「帰還希望分類に黒潮反応が出ています。名簿、押収札、そして昨夜のセノの仮保護名札。反応が似ています」


「つまり、私が偽名証を持っても危ない?」


「現時点では、偽名証そのものより、帰還希望という分類が狙われている可能性があります」


「帰りたいと思うだけで?」


「思うだけで罪にはなりません」


 イザラは、はっきりと言った。


「ですが、その願いを利用する者がいます」


 ノアは唇を噛んだ。


 利用する者。


 ゼブ=カランの笑みが浮かぶ。


 外界へ戻れば証明できる。

 港番より船を信じるべきだ。

 帰りたい人間に必要なのは、同情ではなく船です。


 あの言葉を、自分は信じかけた。


 いや、信じた。


 だから南入江へ行った。


 その記憶が、まだ苦い。


「今日、あなたには申請を強制しません」


 イザラは、ノアの前に一枚の白紙を置いた。


 そこには、まだ何も書かれていない。


「ただ、見てください。なぜ偽名証が必要なのかを」


 ノアは白紙を見た。


 空欄。


 外では不備。

 ここでは、嘘ではないと言われるもの。


 ノアは顔を上げた。


「見たら、分かるんですか」


「分からないかもしれません」


 イザラは正直に答えた。


「ですが、知らないまま嫌うよりは、少し正確に嫌えます」


 リィゼが小さく笑った。


「いい言い方だな」


「真似しないでください」


「しない。長い」


 ノアは、少しだけ力が抜けた。


 不満は残っている。

 疑いもある。

 偽名証という言葉への拒否感も、消えていない。


 けれど、イザラが自分に申請を押しつけないことは分かった。


 それは小さなことではなかった。


 イザラは机の上の媒体を一つずつ片づけ、黒革の無籍台帳を抱え直した。


「奥へ行きましょう。今日は、実際に偽名証を持っている人たちの記録を見てもらいます。本人の同意があるものだけです」


「本人に会うんですか」


「会える人には。会いたくない人には、会いません」


「そこまで選べるんですね」


「選べなければ、盾にはなりません」


 イザラは扉を開けた。


 奥へ続く廊下は、さらに冷えていた。


 壁の黒晶灯は淡く、足元だけを照らしている。

 廊下の途中には、いくつもの小部屋が並んでいた。


 本名封鎖室。

 呼称調整室。

 死名分離相談室。

 帰還希望者仮証確認室。


 ノアの視線は、最後の札に吸い寄せられた。


 帰還希望者仮証確認室。


 その札の端に、ほんのかすかに黒い染みがあった。


 イザラが歩みを止めた。


 リィゼも気づいた。


 廊下の空気が、一瞬だけ重くなる。


 イザラは静かに言った。


「触れないでください。後で確認します」


 ノアは、無意識に胸元の仮保護名札を握った。


 ノア=リント。

 未確認名片、ベル。


 偽名証は嘘ではない。


 その言葉は、まだ信じられない。


 けれど、ここにあるものはただの嘘では済まない。

 それだけは、もう分かっていた。


 イザラは廊下の奥へ進む。


 ノアは不満と不安を抱えたまま、その後を追った。

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