序節 ― 空欄は嘘ではない
朝になっても、共同住宅の空気は戻らなかった。
ナハト=リムの朝は、港の朝とは違う。
潮の匂いではなく、湿った石と、薄いスープと、乾ききらない洗濯物の匂いがする。
黒晶灯は夜の役目を終えて、壁際で淡く眠るように光を落としている。
食堂では、鍋の底を木杓子がこする音がしていた。
いつもなら、それだけで生活の音になるのだろう。
けれど今朝は、その音のひとつひとつが、どこか遠慮がちだった。
誰も大声で人を呼ばない。
誰かの名を呼ぶ前に、一瞬だけ間が空く。
食器を置く音も、椅子を引く音も、夜の出来事に触れないように慎重だった。
ノアは食堂の隅に座っていた。
前に置かれた椀には、豆と干し野菜のスープが入っている。
湯気は立っている。
温かいはずだった。
けれど、彼女はまだ匙を持ったまま、ほとんど口をつけていなかった。
視線は、食堂の壁に向いている。
昨夜までそこに掛かっていた札が、ひとつなくなっていた。
帰り待ちの三人。
その札は外されている。
代わりに、今朝は別々の札が並んでいた。
灰髪の人。
包帯の腕。
そして、空白の釘。
三枚目の札はない。
そこにはただ、札を掛けるための小さな釘だけが残っていた。
ノアはその釘から目を離せなかった。
昨夜、そこにいた人の呼び名は、南窓のセノだった。
それが本名かどうかは、誰も知らない。
本人がそう名乗ったのか、共同住宅でそう呼ばれるようになったのかも分からない。
部屋の窓が南側にあったからかもしれないし、最初に食堂で座った席が南窓の近くだったからかもしれない。
それでも、今朝の食堂では、誰も「消えた人」とは呼ばなかった。
「南窓のセノの靴、まだ部屋にあったって」
「外套も残ってた」
「セノの札、黒くなってたんだろ」
「夜番は誰も出ていくところを見てないって」
声は小さい。
けれど、確かに皆がその名を使っている。
南窓のセノ。
本名ではないかもしれない。
偽名ですらないかもしれない。
ただの呼び名。
仮に貼られた札。
それなのに、この食堂にいる人々は、その呼び名で、いなくなった人を探している。
ノアは胸元に触れた。
仮保護名の札がある。
ノア=リント。
その横に、小さく挟まれた未確認名片。
――ベル。
白い傷のように残ったその音を思い出すと、胸の奥がひりつく。
自分はまだ、ノア=リントベルだ。
そのつもりでいる。
そうでなければ困る。
けれど。
本名を知らなくても、人は誰かを心配できるのか。
その考えが、ノアの中で静かに揺れていた。
食堂の入口で、低い声がした。
「食べてないな」
ノアは顔を上げた。
リィゼ=ノルカが立っていた。
昨夜と同じ短外套を羽織り、腰には潮名鈴と小さな黒晶灯を提げている。目の下には少し疲れが見えたが、口調はいつも通りだった。
「食べています」
「匙が濡れてない」
「見ないでください」
「見るだろ。残したら厨房のおばさんに怒られる」
「リィゼが?」
「あんたが」
ノアは思わず椀を見下ろした。
スープの表面に、窓から入る朝の光が揺れている。
湯気はもう細くなっていた。
リィゼは向かいに腰を下ろす。
自分の椀を持っていない。食事はもう済ませたのだろう。
彼女は壁の空白の釘を一瞥した。
「朝からそこばっかり見てると、飯が冷めるぞ」
「……誰も、本名を知らないんですね」
「セノのか」
ノアは頷いた。
「それなのに、みんな探してる」
「本名を知らないと探せないのか?」
リィゼの声は、責めるほど強くはなかった。
ただ、問いとして置かれた。
ノアは答えられなかった。
外界なら、名前が必要だった。
戸籍。船の記録。身分証。契約。宿帳。
誰かを探すなら、まず名前を書く。
けれどここでは、南窓のセノという呼び名だけで、人が動いている。
共同住宅の職員が部屋を調べ、オルフェが札を回収し、夜番が裏口の記録を洗い、食堂の人々が声を潜めて話している。
誰も、本名を知らないのに。
「本名がなくても、人は消えます」
ノアは小さく言った。
リィゼは少しだけ目を細めた。
「そうだな」
「本名がなくても、心配される」
「そうだ」
「……変な感じがします」
「どっちが?」
「分かりません」
正直に言うと、リィゼは少しだけ肩をすくめた。
「分かんないまま食え」
「またそれですか」
「空腹のまま考えると、ろくな方向に行かない」
その言い方は、第2話の朝と同じだった。
腹が空いたまま考えると、人は一番聞きたい嘘を選ぶ。
あのとき、ノアは南入江へ行った。
ゼブ=カランの言葉を聞いた。
帰れるという嘘に、手を伸ばした。
ノアは匙を動かした。
冷めかけたスープを口に入れる。
薄い。
けれど、塩気がある。
豆の皮が舌に残り、干し野菜の甘みが少し遅れて広がった。
身体が、食べ物を必要としていることだけは分かる。
ノアは二口、三口と食べた。
リィゼはそれを確認してから、ようやく本題に入った。
「食べたら、偽名証発行所へ行く」
ノアの手が止まった。
「私は行きません」
「行く」
「私は偽名なんていらない」
声が、思ったより強く出た。
食堂の何人かがこちらを見た。
ノアは少し唇を結んだが、言葉は引っ込めなかった。
「私は、ノア=リントベルです。仮保護名だって、まだ納得していません。それなのに偽名証なんて」
「申請しろとは言ってない」
「同じことです」
「違う」
リィゼは短く言った。
「あんたは、偽名証が何なのか知らない。知らないまま、いらないって言ってる」
「名前を偽る証明でしょう」
「外界ならな」
「ここでも、偽名って言うじゃないですか」
「言葉が同じなら、中身も同じだと思うな」
ノアは言い返そうとした。
だが、リィゼの顔がいつもより少し真面目だったので、言葉が喉で止まった。
リィゼは壁の空白の釘を見る。
「セノは今日、偽名証の相談を受ける予定だった」
ノアは息を呑んだ。
「……南窓のセノが?」
「そうだ。帰還希望者として呼ばれ続けるのが危ないから、別の保護名を作る予定だった」
「でも、偽名証を作る前に」
「消えた」
リィゼの言葉は短かった。
それ以上の説明はなかった。
けれど、ノアには十分だった。
帰還希望者。
黒い潮染み。
呼び名が外から引かれる。
名裂き。
昨夜聞いた言葉が、胸の中で重なる。
「偽名証があれば、助かったんですか」
「分からない」
「分からないのに、行くんですか」
「分からないから行くんだろ」
リィゼは立ち上がった。
「いらないかどうかを決める前に、何のためにあるか見ろ」
ノアは椀の底を見た。
まだ少しスープが残っている。
偽名証。
その言葉には、どうしても拒否感があった。
偽名。
本当ではない名。
身分を隠すための名。
嘘をつくための名。
外界でなら、そうだった。
しかし、この街では違うのかもしれない。
そう思い始めている自分が、ノアは嫌だった。
偽名証を理解することが、ノア=リントベルを諦めることにつながるようで怖い。
けれど、南窓のセノの空白の釘を見たあとでは、知らないまま否定することもできなかった。
ノアは残りのスープを飲み干した。
匙を置く音が、食堂の静けさに小さく響いた。
「行きます」
リィゼが頷く。
「よし」
「でも、申請はしません」
「それはあんたが決めろ」
「本当に?」
「偽名証は、押しつけるもんじゃない」
その言葉が意外で、ノアはリィゼを見た。
リィゼはもう背を向けていた。
「ただし、見ろ。見てから嫌がれ」
「言い方」
「分かりやすいだろ」
ノアは小さく息を吐いた。
そのやり取りを聞いていた食堂の年配の女性が、空になった椀を取りに来た。
「行くなら、厚い上着を着ていきなさい。偽名証発行所は冷えるよ」
「冷える?」
「名前を熱で扱うと、昔の名が暴れる人がいるんだってさ。だから、あそこはいつも少し寒い」
ノアは眉をひそめた。
また、知らない理屈だ。
この街では、名前が体温や部屋の温度にまで関わるのか。
女性はノアの戸惑いを見て、少し笑った。
「大丈夫。最初はみんな変な顔をする」
「……私もですか」
「してるよ」
ノアは思わず頬に触れた。
リィゼが横で笑いを堪えている。
「笑わないでください」
「笑ってない」
「今、明らかに笑いました」
「気のせいだ」
その小さなやり取りの間だけ、食堂の空気が少しだけ緩んだ。
けれど、壁の空白の釘は残っている。
ノアは食堂を出る前に、もう一度そこを見た。
南窓のセノ。
本名を知らない。
それでも、消えた人。
誰かが、彼のために食堂の隅へ小さな椀を置いていた。
湯気はもう立っていない。
だが、空席は確かにそこにあった。
共同住宅を出ると、ナハト=リムの朝は薄い灰色だった。
路地は狭く、建物と建物の間に張られた洗濯紐から、昨夜の湿気を含んだ布が垂れている。
黒晶灯の一部はまだ消されておらず、朝靄の中で青灰色の光をにじませていた。
店先では、パンを焼く匂いがしていた。
少し離れたところで、誰かが桶の水を捨てる音がする。
石畳の隙間には、夜の雨が細く残っていた。
歩きながら、ノアは人々の呼び声を聞いた。
「黒猫の姉、薬草が届いてるよ」
「青い角、炉の火を見て!」
「三番路地の先生、こっちに来てくれ」
どれも本名ではない。
けれど、誰かを呼ぶ声だった。
ノアは胸元の札に触れる。
ノア。
ノア=リント。
ノア=リントベル。
どの名も、まだ彼女の中で落ち着かない。
「リィゼ」
「何だ」
「偽名証を持つ人は、本名を諦めた人なんですか」
リィゼはすぐには答えなかった。
細い路地を曲がり、古い石橋を渡る。
橋の下には、水路というには浅すぎる流れがあり、黒い小石の間を水が静かに走っていた。
「諦めた奴もいる」
リィゼは言った。
「守るために隠した奴もいる。忘れた奴もいる。忘れたふりをしてる奴もいる。取り戻すまで別の名で生きてる奴もいる」
「全部違うんですね」
「同じにしたら壊れる」
リィゼはいつもの調子で言った。
だが、その言葉は軽くなかった。
同じにしたら壊れる。
ノアは、アシュ=ロアの門壁を思い出した。
半魔。
異形児。
記録外。
焼却済。
あれは、人を同じ箱に押し込める言葉だった。
なら、偽名証は何なのか。
人を隠すものか。
人を守るものか。
それとも、壊れないように別々の形で置いておくためのものか。
考えているうちに、二人は黒い石造りの建物の前に着いた。
他の役所よりも低い建物だった。
大きな看板はない。
入口も目立たない。
窓には厚い布がかかっていて、外から中の様子は見えない。
扉の両脇には黒晶灯が一対置かれ、その光は昼でも消されていなかった。
扉の上に、小さな金属板が掲げられている。
ナハト=リム偽名証発行所。
その下に、二行の言葉が刻まれていた。
本名を言えないことは、罪ではない。
空欄は嘘ではない。
ノアは、その言葉の前で立ち止まった。
空欄。
外界で、空欄は不備だった。
書類の失敗。
証明の不足。
責任の欠落。
名前の欄が空白なら、手続きは進まない。
出身地が空白なら、疑われる。
身分証が滲んでいれば、偽造を疑われる。
ノア自身の身分証も、そうだった。
ベルが消えた。
出身地が薄れた。
船名が滲んだ。
それは、彼女にとって恐怖だった。
空欄は、自分が消える場所だった。
なのに、ここにはこう書いてある。
空欄は嘘ではない。
ノアは唇を結んだ。
「嫌そうな顔」
リィゼが言う。
「していますか」
「してる」
「……空欄は、怖いです」
ノアは、思ったことをそのまま言った。
リィゼは扉に手をかける前に、少しだけ振り返った。
「じゃあ、怖くない空欄があるか見てこい」
「そんなもの、あるんですか」
「知らない」
「無責任」
「だから見に来たんだろ」
リィゼが扉を押す。
内側から、冷たい空気が流れ出した。
薬草とも、紙とも、金属ともつかない匂い。
静かな黒晶灯の光。
低く交わされる声。
ノアは一度だけ、胸元の札を握った。
私はノア=リントベルだ。
その思いは変わらない。
けれど、扉の向こうには、本名を言えないことを罪にしない場所がある。
ノアは、その事実をまだ受け入れられないまま、偽名証発行所の中へ足を踏み入れた。




