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第三話 春が来たら、迎えに行く。

一九一九年、二月。上海。

沈景淮(シェン・ジンホワイ)が帰ってきた夜、蘇雪蓮(スー・シュエリエン)は客の前で歌詞を間違えた。


六年間、ただの一度もなかった失態だった。


紅月楼(ホンユエロウ)の二階、紅い灯籠の下。

いつもの席に、軍服姿の男が座っていた。

以前より頬が痩せ、左の眉尻には見覚えのない傷がある。それでも、軍帽を膝に置く律儀な仕草だけは変わらなかった。


雪蓮は琵琶を抱えたまま、最後の一節を飲み込んだ。


帰らぬ人を待つ女の歌。

その女が、今夜ばかりはひどく愚かに思えた。


「……お茶を一杯」


終演後、男は何食わぬ顔でそう言った。

雪蓮は微笑んだ。


「お客さま。半年以上もお見えにならなかったので、お茶代が随分と値上がりしましたの」


「いくらだ」


「あなたのお給金、一年分」


景淮は真剣に懐を探った。


「……今は三か月分しかない」


「本当に払おうとしないで!」


怒鳴った途端、涙が出そうになった。

それが悔しくて、雪蓮は扇で彼の肩を叩いた。


「手紙くらい寄越しなさいよ、この大馬鹿!」


「すまない」


「死んだのかと思ったわ!」


「……すまない」


「謝れば済むと思っているの?」


景淮は黙っていた。

その沈黙が、かえって雪蓮の胸を締めつけた。


彼の左手には、以前なかった火傷の痕があった。


*


その夜、雪蓮は女将に金を払い、景淮を自分の部屋へ通した。


紅月楼で男と一夜を過ごすのは、珍しいことではない。

けれど、自分の意思で誰かを招いたのは初めてだった。


「……何を見ているの?」


寝台の端に腰かけた景淮が、困ったように答えた。


「君の部屋を」


「女の部屋が珍しい?」


「いや。君がここで暮らしていることを、初めて実感した」


雪蓮は笑みを消した。


鏡台には安物の白粉と紅筆。引き出しには彼から届いた三通の手紙。窓辺には、枯れた梅の枝が一本。


景淮はそれを見つめた。


「……梅か」


「あなたが枝だけの梅を私に似ていると言ったから、飾ってみたの」


「咲かなかったのか」


「ええ。誰かさんと同じで、随分と薄情な枝だったわ」


景淮は苦笑した。

雪蓮は彼の前に立ち、軍服の襟に指をかけた。


「ねえ、景淮。今夜は帰らないで」


男の喉が小さく動いた。


「雪蓮」


「嫌なら、そう言って」


「嫌なわけがない」


その声は、ひどく掠れていた。


雪蓮は彼の唇を塞いだ。


半年前の、ためらいがちな口づけとは違った。

景淮は彼女の腰を引き寄せ、逃がすまいとするように抱きしめた。軍服の硬い布地が薄絹越しの肌に擦れ、互いの呼吸が熱を帯びる。


「……痛む?」


雪蓮は彼の左手を取った。


「もう治った」


「嘘が下手ね」


傷痕に唇を寄せると、景淮の指が微かに震えた。


「君には敵わない」


「知っているわ」


雪蓮は笑い、彼の額に自分の額を重ねた。


「だから、今夜くらいは軍人をやめて」


景淮は目を閉じた。


その夜、二人は初めて身体を重ねた。


寝台の薄い帳の向こうで灯籠の光が揺れ、雪蓮は幾度も彼の名を呼んだ。客に見せるための笑みも、覚え込んだ甘い声も、そこにはなかった。


景淮は何度も彼女の頬に触れ、確かめるように口づけた。


夜明け前、彼の胸に頬を寄せた雪蓮が呟いた。


「……私、あなたに何も返せないわ」


「返してもらうつもりはない」


「綺麗な女なら、外にいくらでもいるでしょう」


「知っている」


「若くて、家柄のいい娘だって」


「そうだな」


「だったら、どうして私なの?」


景淮は少し考えた。


「君が笑うと、左の頬に窪みができる」


「……それだけ?」


「菓子を隠すところも好きだ」


「見ていたの?」


「それから、俺の帰りを待っていてくれたことも」


雪蓮は黙った。


「君のいる場所へ帰りたいと思った。それでは、足りないか」


涙が落ちた。

景淮は慌てて身を起こした。


「何か悪いことを言ったか」


「……馬鹿」


「そうか」


「大馬鹿よ」


「……すまない」


雪蓮は泣きながら笑った。

この男は、いつだって自分を泣かせる理由さえわかっていない。


*


三月。

景淮は一枚の書付を持ってきた。


雪蓮の身請けに必要な金額が、細かな筆跡で記されていた。


「少しずつ貯めていた」


「軍人のお給金で?」


「退役すれば、ほかにも働き口はある」


「何年かかると思っているの」


「わからない」


景淮は真っ直ぐに彼女を見た。


「それでも、迎えに来たい」


雪蓮は書付を見つめた。


そこには、彼女の値段が書かれていた。

十六で売られたときと同じように。


けれど、初めてその数字の向こうに、自由というものが見えた。


「……春が来たら?」


「ああ」


「約束?」


「約束だ」


雪蓮は彼の胸に顔を埋めた。

もう、信じないふりなどできなかった。


*


五月四日、北京で学生たちが抗議の声を上げた。

パリ講和会議で山東(シャントン)の旧ドイツ権益が日本へ引き継がれる方針に反発した運動は、やがて上海にも波及した。


街では学生が行進し、商人たちは店を閉め始めた。


景淮の部隊にも、警備の命令が下った。

出立の朝、雪蓮は銀の簪を抜き、彼の手に握らせた。


「持っていて」


「これは君に贈ったものだ」


「だからよ。返しに来なさい」


景淮は小さな梅の飾りを見つめた。


「必ず」


「軍人さまの『必ず』ほど、当てにならないものはないわ」


雪蓮は笑った。


「だから、約束じゃなくていい。ただ、帰ってきて」


景淮は彼女を抱き寄せ、額に口づけた。


「……雪蓮」


「なあに?」


「俺は、君の歌が好きだ」


「知っているわ」


「だが、歌わなくてもいい」


雪蓮は目を見開いた。


「君が黙っていても、笑わなくても、俺は君のそばにいたい」


その言葉に、返事はできなかった。

景淮は軍帽をかぶり、背を向けた。

雪蓮は、その姿が人波に消えるまで見送った。


部屋に戻ると、窓辺の梅の枝に、小さな蕾がついていた。


枯れたと思っていた枝だった。

雪蓮は指先でそっと触れた。


「……ほら。咲くじゃない」


春は、もう来ていた。

あとはあの人が帰ってくるだけだった。


――第三話・了――

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