第二話 軍人さまは、恋文が下手。
一九一八年、春。上海。
沈景淮は、女の口説き方を知らなかった。
もっとも、蘇雪蓮に言わせれば、知らないどころか、学ぶ気さえない男だった。
「軍人さま。今夜もお茶?」
「悪いか」
「いいえ。ただ、うちは茶館ではありませんの。女将がそろそろ、あなたに茶畑を買わせると言っていたわ」
「茶畑なら、安定した収入になる」
「……冗談の通じない男ね」
紅月楼の二階。薄紅の帳が揺れる座敷で、雪蓮は呆れたように扇を閉じた。
あの夏から八か月。
景淮は軍務の合間を縫い、律儀に紅月楼へ通い続けていた。
酒も飲まず、煙草も吸わず、女を抱くこともない。
ただ雪蓮の歌を聴き、茶を飲み、時折、街角で買った桂花糖を置いて帰る。
女将は彼を「商売にならない軍人」と呼び、小蘭は「姐姐(ジエジエ/お姉さん)の恋人」と呼んだ。
雪蓮だけが、何とも呼べずにいた。
「お酒くらい召し上がれば?」
「弱い」
「一杯でも?」
「以前、一杯飲んで馬に敬礼した」
雪蓮は琵琶を取り落としかけた。
「……馬に?」
「上官と間違えた」
「随分と立派なお馬だったのね」
「部下にも同じことを言われた」
堪えきれず笑うと、景淮は不服そうに眉を寄せた。その表情さえ、近頃は愛おしいと思ってしまう。
それが雪蓮には、何より恐ろしかった。
*
その夜、景淮は珍しく贈り物を持っていた。
薄紙に包まれた銀の簪。
飾りは小さな梅の花ひとつだけで、紅月楼の女たちが好む豪奢な細工とは似ても似つかない。
「店の者に選んでもらった」
「でしょうね。あなたが選んだら軍刀みたいな簪になりそう」
「最初に見たのは、それに近かった」
「本当に?」
「ああ」
雪蓮は笑いながら紅珊瑚の簪を抜き、代わりに銀の梅を挿した。
「似合う?」
景淮は答えなかった。
ただ、彼女の髪から頬へと視線を落とし、何かを堪えるように息を吐いた。
「……綺麗だ」
その一言が、幾百もの甘言より深く胸に刺さった。
「では、お礼を差し上げなくてはね」
雪蓮は彼の膝にそっと腰を下ろした。薄絹の袖が軍服の胸元を滑り、香油の甘い匂いが二人の間に満ちる。
「軍人さま。女を抱いたことは?」
「……ある」
「まあ。意外」
「君は、俺を何だと思っている」
「馬に敬礼する殿方」
景淮が眉間を押さえた隙に、雪蓮は彼の唇へ口づけようとした。
けれど、その寸前で手首を掴まれた。
痛くはなかった。
ただ、驚くほど優しかった。
「雪蓮」
初めて聞く、本名だった。
教えた覚えはない。
「……誰に聞いたの?」
「小蘭に」
「あの子、口が軽すぎるわ」
「君が嫌なら、二度と呼ばない」
雪蓮は彼を見つめた。
この男は、いつだって選ばせようとする。
身体も、名前も、口づけさえも。
金で買われることに慣れた女には、その優しさが残酷だった。
「……呼んで」
声が震えた。
「もう一度」
「雪蓮」
その夜、彼女は自分から唇を重ねた。
景淮の手が背中へ回る。唇は不器用で、触れるたびに躊躇いがあった。
雪蓮が彼の襟元を掴むと、景淮は苦しげに息を吐き、ようやく深く抱き寄せた。
薄絹越しに伝わる体温が、ひどく熱い。
「……怖いの?」
雪蓮が囁く。
「怖い」
「軍人なのに?」
「君を傷つけるほうが、銃弾より怖い」
雪蓮は笑おうとして、失敗した。
その夜、景淮は彼女を抱かなかった。
夜明けまで隣にいて、ただ手を繋いでいた。
それが雪蓮には、どんな情事よりも忘れがたい夜になった。
*
五月。
景淮の部隊に、江蘇方面への移動命令が下った。
北洋政府の内側では軍事勢力の対立が続き、欧州の戦争とは別に、中国の土地にも不穏な影が落ちていた。
別れを告げられた夜、雪蓮は泣かなかった。
「いつ戻るの?」
「わからない」
「一月?」
「……」
「半年?」
沈黙が答えだった。
「軍人さまって、本当に女を喜ばせるのがお下手ね」
景淮は懐から封筒を取り出した。
「手紙を書く」
「恋文?」
「……そのつもりだ」
雪蓮は笑った。
「では、私も返事を書くわ。字は汚いけれど」
「読めればいい」
「読めなかったら?」
「何度でも読む」
景淮は銀の簪に指先で触れた。
「なくすなよ」
「軍の備品みたいに言わないで」
「大切なものだから」
雪蓮は、その言葉の続きを聞かなかった。
聞けば、待ってしまうと思った。
*
最初の手紙は六月に届いた。
『食事は規則正しく取ること。夜更かしは控えること。身体を冷やさないように』
「……軍の通達?」
小蘭が腹を抱えて笑った。
二通目には、こうあった。
『梅の花を見た。君に似ていた』
雪蓮は頬を染めた。
だが、その下に追伸があった。
『まだ咲いていなかった。枝だけだった』
「……この男!」
怒りながら、何度も読み返した。
三通目は、秋の終わりに届いた。
『こちらは寒い。君の歌を思い出す』
たった一行。
それだけで、雪蓮は一晩中眠れなかった。
返事には、いつも最後に同じ言葉を添えた。
『どうか、ご無事で』
一九一八年十一月十一日。
欧州で休戦協定が結ばれた。
上海の街には歓声が満ち、紅月楼でも男たちが祝杯を上げた。
雪蓮はその夜、春の歌を歌った。
帰らぬ恋人を待つ女の歌だった。
客たちは拍手した。
けれど、一番奥の席だけは空いていた。
十二月になっても、景淮からの手紙は届かなかった。
雪蓮は銀の簪を外し、三通の手紙と一緒に小箱へしまった。
そして、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……馬鹿ね。戦争は終わったのよ」
返事はなかった。
遠い欧州では、人々が平和を祝っていた。
けれど、中国の軍人たちに帰還命令が届くとは限らなかった。
雪蓮はまだ知らなかった。
彼が最後に書き残す恋文もまた、ひどく不器用なものになることを。
そして、その手紙だけは、どれほど読み返しても、返事を書くことができないのだということを。
――第二話・了――




