第一話 紅い灯の下で、嘘をひとつ。
一九一七年、夏。上海。
紅月楼では、男の嘘にも値段がついた。
愛している、は銀貨一枚。必ず迎えに来る、は二枚。君だけだ、となれば三枚は取れる。もっとも、いずれも支払うのは男ではなく、信じた女のほうだった。
「だからね、小蘭。男の約束なんて、質草にもならないのよ」
蘇雪蓮は鏡に向かい、唇に紅を引いた。
二十二歳。白粉を薄く施した肌に、切れ長の瞳。結い上げた黒髪には、紅珊瑚の簪が揺れている。紅月楼で最も高い座敷代を取る歌姫《紅鶯》は、今夜も誰かの夢になる支度をしていた。
「でも姐姐(ジエジエ/お姉さん)、いい男なら?」
「顔は三日で飽きるわ」
「お金持ちなら?」
「三日で使い切る」
「優しい人なら?」
雪蓮は紅筆を止めた。
「……それが一番、たちが悪いわね」
十六で売られて以来、優しい言葉を囁く男ほど、夜明けには冷たくなることを知っていた。
紅月楼は上海の租界にほど近い歓楽街にあった。
朱塗りの欄干、舶来の硝子灯、阿片と香水の匂い。楼内では酒と歌と女が売られ、表通りでは新聞売りが欧州の戦況を叫んでいる。
遠い国で何万人死のうと、ここでは女の笑顔ひとつに銀貨が飛んだ。
雪蓮はその滑稽さが嫌いではなかった。
少なくとも、値段のつくものはわかりやすい。
その夜、彼女は江南の古い恋歌を歌った。
春の川辺で、帰らぬ恋人を待つ女の歌。琵琶の余韻が煙草の煙に溶け、酔客たちは珍しく口を閉ざした。
歌い終えると、拍手が降った。
ただ一人、拍手をしない男がいた。
奥の席に座る若い軍人だった。
詰襟の軍服は皺ひとつなく、軍帽を膝に置いた姿勢まで堅苦しい。整った顔立ちには愛想がなく、雪蓮を見つめる眼差しだけが妙に真剣だった。
雪蓮は扇を閉じ、その席へ歩み寄った。
「お客さま。私の歌、お気に召さなかった?」
男は顔を上げた。
「いや。見事だった」
「では、なぜ拍手を?」
「歌詞を考えていた」
「まあ。女の顔ではなく歌詞をご覧になる方は初めて」
「歌詞は見るものではないだろう」
「……お客さま、女性に嫌われるでしょう?」
「よく言われる」
即答だった。
雪蓮は思わず笑った。
男は沈景淮と名乗った。
北洋軍系の部隊に所属する上尉で、軍務のため上海へ来たという。
「酒は?」
「飲まない」
「煙草は?」
「吸わない」
「女は?」
「……質問の意図がわからない」
「ここ、娼館ですのよ?」
「承知している」
「では何をしに?」
「部下に連れてこられた」
雪蓮は扇で口元を隠した。
「お気の毒に。では、せめて私を買っていかれる?」
からかうつもりだった。
景淮は一瞬だけ黙り、静かに答えた。
「君が望まないことに、金を払う趣味はない」
雪蓮の笑みが、ほんのわずかに止まった。
この楼では、金を払えば女の望みまで買えると思う男がほとんどだった。
「……随分と綺麗事を仰るのね」
「そうかもしれない」
景淮は目を逸らさなかった。
「だが、君の歌を聴きに来たのは本当だ」
胸の奥に、何か小さなものが落ちた。
雪蓮はそれを無視して、彼の向かいに腰を下ろした。
「でしたら、お茶でも召し上がれ。お代は高くつきますけれど」
「構わない」
「私の名前を知りたければ、もっと高いわよ」
「いくらだ」
「あなたのお給金、三か月分」
景淮は真剣に懐を探った。
「……二か月分しかない」
「本当に払おうとしないで!」
今度こそ、雪蓮は声を立てて笑った。
景淮も僅かに口元を緩めた。
その笑顔は、軍服が似合わないほど穏やかだった。
*
夜半、客足が途絶えた頃。
景淮は帰り際に、小さな紙包みを差し出した。
中には桂花糖が入っていた。街角で売られる、安物の砂糖菓子だった。
「歌の礼だ」
「まあ。私の歌も随分お安くなったものね」
「気に入らなければ返してくれ」
「嫌です」
雪蓮は素早く懐にしまった。
景淮が呆れたように笑う。
「現金な女だ」
「商売ですもの」
彼は軍帽をかぶり、扉へ向かった。
「また来る」
雪蓮は笑った。
「軍人さまの『また』なんて、信用できませんわ」
景淮は振り返った。
「なら、明後日の夜に来る」
「……随分と具体的ね」
「約束は、具体的なほうが守りやすい」
その言葉に、雪蓮は返事をしなかった。
男が去ったあと、彼女は包みから桂花糖を一粒取り出した。
舌の上で、ゆっくりと溶ける。
甘かった。
腹立たしいほどに。
「姐姐、あの人、また来るかな」
小蘭が尋ねた。
「来ないわよ」
雪蓮は即答した。
「軍人なんて、明日にはどこへ行くかわからないもの」
そう言いながら、残りの桂花糖を丁寧に包み直した。
翌々日の夜に沈景淮は本当に紅月楼へ現れた。
約束の刻限より、四半刻も早く。
「……お早いお着きで」
「遅れるよりいい」
「女を待たせる楽しみをご存じないのね」
「待たせたくなかった」
雪蓮は言葉に詰まった。
景淮は何事もなかったように席へ着き、茶を注文した。
その夜、雪蓮は初めて、歌う前から誰かの視線を探した。
一九一七年八月十四日。
中華民国はドイツとオーストリア=ハンガリーに宣戦を布告した。
紅月楼の客たちは遠い戦争について語り、軍人たちは祖国の未来を論じた。
けれど雪蓮が覚えていたのは、新聞の見出しでも、戦争の行方でもなかった。
ただ、あの男が約束を守ったこと。
そして紅月楼の女として生きて六年、初めて誰かの「また来る」を信じてしまったことだった。
その小さな幸福が、いつか自分を殺すほど残酷なものになるとは、まだ知らなかった。
紅い灯籠が、風もないのに揺れていた。
――第一話・了――




