第四話 帰らぬ人に、春を歌う。
一九一九年、六月。上海。
蘇雪蓮は、春が嫌いになった。
窓辺の梅はとうに花を落とし、若葉の茂る枝先には、あの人が帰ってくる気配など微塵もない。
それでも毎朝、目が覚めると最初に窓を見た。
沈景淮が最後に口づけた額には、もう何の温もりも残っていなかった。
「姐姐(ジエジエ/お姉さん)、またあの席を空けてるの?」
小蘭が呆れたように尋ねた。
紅月楼の二階、一番奥の席。茶しか注文しない軍人のために、雪蓮は毎晩そこを空けていた。
「予約済みですもの」
「いつまで?」
「……お茶代を一年分、取り立てるまで」
小蘭は笑わなかった。
雪蓮も、それ以上は何も言わなかった。
五月四日に北京で始まった学生たちの抗議は、上海にも広がっていた。
商人たちは店を閉め、労働者は仕事を止め、新聞は連日、山東問題を報じている。
国を守るはずの軍人が、同じ国の人間に銃を向ける。
景淮が最後に残した言葉を、雪蓮は幾度も思い返していた。
『君が黙っていても、笑わなくても、俺は君のそばにいたい』
そんな男が、なぜ帰ってこないのだろう。
*
六月の半ば、一通の封書が届いた。
差出人は景淮の部下だった。
雪蓮は鏡台の前に座り、丁寧に封を切った。
『沈上尉は六月九日、任務中に死亡しました』
たった一行。
人ひとりの命が、こんなにも短い文章で終わることを、雪蓮は知らなかった。
景淮は抗議に集まった人々を排除する任務に就いていた。
混乱のなか、銃を向けられた学生を庇い、味方の兵士が放った銃弾に倒れたという。
『上尉は、最後まで発砲を命じませんでした』
雪蓮は三度、その一文を読んだ。
それから、ふっと笑った。
「……本当に、馬鹿な人」
馬に敬礼するほど酒に弱く、女の口説き方も知らず、恋文に食事の注意ばかり書く男。
最後まで、軍人としても不器用だった。
「姐姐……?」
小蘭が戸口に立っていた。
雪蓮は手紙を畳んだ。
「今夜の支度をしなくちゃ」
「でも……」
「お客さまを待たせたら、女将に叱られるわ」
鏡に向かい、紅を引く。
指先は震えなかった。
十六で売られた夜も、初めて知らない男に抱かれた夜も、泣くことを許されなかった。
だから、今夜も泣かなかった。
ただ、唇の紅だけが、ひどく鮮やかだった。
*
三日後、若い兵士が紅月楼を訪ねてきた。
彼は雪蓮の前で深く頭を下げ、小さな布包みを差し出した。
「沈上尉から、お預かりしました」
中には、銀の梅の簪と、一枚の紙が入っていた。
雪蓮は息を止めた。
見慣れた、美しい筆跡だった。
『雪蓮へ』
『俺は、戦が終わればすべて元に戻ると思っていた。だが、そうではなかった。国を守ると言いながら、俺たちは同じ国の人間に銃を向けている』
紙の端には、何度も筆を止めた跡があった。
『お前は俺を立派な軍人だと言ったことがない。それが嬉しかった』
雪蓮は小さく笑った。
「……当たり前じゃない。馬に敬礼する軍人なんて」
涙が一滴、紙に落ちた。
『俺は、お前を迎えに行きたい』
『紅月楼ではない場所で、お前の歌を聴きたい。朝になったら一緒に茶を飲み、夜になったら同じ家へ帰りたい』
『お前が笑うなら、俺は何度でも馬に敬礼してもいい』
雪蓮は口元を押さえた。
声を上げれば、何かが壊れてしまう気がした。
最後の一行には、こう書かれていた。
『雪蓮。俺の帰る場所になってくれて、ありがとう』
その下には、書きかけの文字があった。
『春になったら――』
そこで、文章は途切れていた。
雪蓮は銀の簪を握りしめた。
「……もう、春は来たのよ」
誰も答えなかった。
「梅だって咲いたのに」
彼女は初めて、声を上げて泣いた。
*
一九二〇年、春。
上海の朝は、黄浦江から上がる湿った靄と、石畳を急ぐ人力車の車輪の音で明けた。
路地の軒先では、蒸籠から白い湯気が立ちのぼり、揚げたての油条の香りに、川風の生臭さと石炭の煙が混じっていた。
紅月楼に、新しい娘が入った。
十六歳だという。雪蓮がこの楼へ売られてきたときと同じ年齢だった。
「姐姐(ジエジエ/お姉さん)、どうしたら上手に歌えるようになりますか?」
少女はまだ化粧にも慣れない様子で、鏡の前に座っていた。
紅を引く手つきはぎこちなく、細い指先が微かに震えている。
雪蓮はその手から紅筆を取り、少女の唇にそっと色を重ねた。
「好きな人を作ることね」
「恋をすると、歌が上手になるんですか?」
「ええ。とびきり下手な恋をすると、なおさら」
「下手な恋?」
「そう。相手は軍人で、お酒が飲めなくて、恋文には身体を冷やすなとしか書かないような人がいいわ」
少女は不思議そうに瞬いたあと、声を立てて笑った。
「そんな人、嫌です」
「……そうね」
雪蓮も笑った。
「私も、そう思っていたの」
鏡の中の少女は、まだ何も知らない顔をしていた。
雪蓮はその横顔を見つめながら、どうかこの子が、自分とは違う春を迎えられますように、と願った。
*
その夜、雪蓮は久しぶりに江南の古い恋歌を歌った。
春の川辺で、帰らぬ恋人を待つ女の歌。
紅月楼の外では、夜の上海がまだ眠っていなかった。遠くで路面電車の鐘が鳴り、租界の大通りを走る自動車の音が、薄い壁を震わせていた。階下からは酒瓶の触れ合う音と客たちの笑い声が聞こえ、香炉から漂う白檀の煙に、濃い酒と女たちの香水の匂いが重なっていた。
かつては愚かだと思っていた。
帰らないと知っているのなら、忘れてしまえばいい。待つことをやめて、新しい誰かを愛せばいい。
そうすれば、きっと楽になれる。
けれど今は、歌の中の女がなぜ川辺を離れなかったのか、少しだけわかる気がした。
待っているのではない。
忘れたくなかったのだ。
琵琶の最後の一音が消えると、客席から拍手が起こった。
雪蓮はいつものように微笑み、深く頭を下げた。
それから、誰にも気づかれないほど僅かに視線を動かした。
二階の、一番奥の席。
そこには今夜も、誰も座っていなかった。
雪蓮は小蘭に頼み、茶を一杯だけ運んでもらった。
「また、あそこに?」
「ええ。お客さまがお見えになるかもしれないでしょう」
小蘭は何か言いかけ、結局、黙って茶器を置いた。
湯気が細く立ちのぼる。茶の青い香りが、冷えた座敷の空気にかすかに広がった。
あの人は、いつもこうして座っていた。
酒も飲まず、女も買わず、歌が終わると誰よりも真剣な顔で、どうしてあの女は帰らない男を待つのかと尋ねた。
ある夜、景淮は茶杯を両手で包みながら、雪蓮の歌詞の一節を紙の端に書き写した。
字は驚くほど不揃いで、最後の「待つ」という字だけが何度も書き直されていた。
「軍人の字では、恋歌もずいぶん不格好になるのね」
雪蓮が笑うと、彼は耳まで赤くして答えた。
「……君が歌うと、忘れたくないと思った」
その言葉を、雪蓮は何年経っても忘れられなかった。
雪蓮は茶杯を見つめた。
「……本当に、恋文が下手だったわね」
返事はない。
それでも彼女は、少しだけ笑った。
*
歳月は、残酷なほど律儀に過ぎていった。
上海の街並みは変わり、紅月楼の女たちも入れ替わった。
かつて《紅鶯》の名を聞くだけで足を運んだ男たちも、やがて別の歌姫を褒めそやすようになった。
表通りには新しい店の看板が増え、電灯の白い光が、昔ながらの赤い灯籠を少しずつ薄めていった。
黄包車の呼び声、新聞売りの少年の声、川霧の向こうから響く汽笛。
上海は人を待たず、朝も夜も、絶えず別の顔へと変わっていった。
雪蓮の目尻にも、いつしか細い皺が刻まれた。
それでも、鏡台の引き出しには三通の手紙と、最後まで書かれることのなかった一枚が残っていた。
『食事は規則正しく取ること』
『梅の花を見た。君に似ていた』
『こちらは寒い。君の歌を思い出す』
そして。
『春になったら――』
雪蓮は何度も、その続きを考えた。
春になったら、迎えに行く。
春になったら、一緒に暮らそう。
春になったら、もう二度と離れない。
きっと、どれも違う。
あの不器用な男なら、もっとつまらなくて、もっと優しいことを書いたに違いない。
春になったら、ちゃんと食事を取れ。
春になったら、風邪をひくな。
「……ねえ、景淮」
ある春の夜、雪蓮は手紙を胸に抱いた。
「あなた、肝心なところで筆を止めるなんて、ずるいわ」
窓の外では、梅が咲いていた。夜気には湿った土の匂いと、ほのかに甘い花の香りが混じり、遠くの河岸から船の汽笛が低く響いていた。
あの年、枯れたと思っていた枝に、たったひとつだけ蕾がついたことを覚えている。
景淮はその蕾を見つけると、軍務へ戻る前の短い時間に、雪蓮を裏庭へ連れ出した。
まだ寒さの残る朝で、彼は自分の外套を彼女の肩に掛けたまま、花が開くまで黙って立っていた。
「咲いたら、見せてくれ」
「あなたが戻る頃には、散っているかもしれないわ」
「なら、次の春に」
その約束が果たされなかったことを、雪蓮は誰にも話さなかった。
咲いた花を見せたかった。
あの人が贈ってくれた銀の簪と、どちらが綺麗か聞いてみたかった。
きっと彼は、真面目な顔で考え込んだだろう。
そして最後には、花ではなく自分のほうが綺麗だと言って、また雪蓮を困らせたに違いない。
そんな、どうしようもなく些細な未来ばかりが、いつまでも胸に残っていた。
雪蓮は手紙を丁寧に畳み、銀の簪を髪に挿した。
階下から、開演を知らせる声がする。
今夜も歌わなければならない。
春の川辺で、帰らぬ恋人を待つ女の歌を。
雪蓮は立ち上がり、いつものように紅を引いた。
そして鏡に向かって、あの人が好きだと言った笑顔を作った。
左の頬に、小さな窪みができた。
「……ほら」
誰もいない部屋で、雪蓮は囁いた。
「まだ、ちゃんと笑えるのよ」
けれど、その笑顔を見てほしかった人だけが、もうどこにもいなかった。
*
紅月楼には、毎年春が来た。
梅が咲き、柳が芽吹き、春風が紅い灯籠を揺らした。
軒先の風鈴がかすかに鳴り、通りには新しい茶葉を煎る香りと、雨に濡れた石畳の匂いが漂った。
人々は新しい季節を喜び、恋をして、別れ、また誰かを愛した。
雪蓮も、いつしか泣かなくなった。
ただ、歌い終えたあとだけは、必ず二階の奥を見る癖が残った。
そこに、軍帽を膝に置いた男が座っている気がしたから。
いつかのように、少し困った顔をして。
「お茶を一杯」
そう言ってくれる気がしたから。
ある夜、小蘭が尋ねた。
「姐姐。あの席、いつまで空けておくの?」
雪蓮はしばらく考えた。
そして、ひどく穏やかな顔で微笑んだ。
「……そうね。もう、いいのかもしれないわ」
小蘭は何も言わなかった。
翌朝、雪蓮は初めて、あの席を客に譲った。
それでも、その日の夕暮れ。
誰もいなくなった座敷で、彼女は一杯の茶を淹れた。
湯気の向こうに、もう幻さえ見えなかった。
雪蓮は静かに茶杯を置き、窓の外へ目を向けた。
春の風が吹いていた。
通りでは人力車の車輪が石畳を刻み、遠くで誰かが売り声を上げていた。
紅月楼の灯籠が風に揺れ、赤い光が窓硝子の上で細長く震えた。
「……景淮」
その名を口にしたのは、随分と久しぶりだった。
「今年も、春が来たわ」
声は震えなかった。
ただ、もう一度だけ、あなたと春を迎えたかった。
その願いだけが、最後まで消えなかった。
雪蓮は茶杯を両手で包んだ。冷めていく温もりを、指先が覚えていた。
手放したつもりでいた。忘れたつもりでもいた。
けれど、春が来るたび、胸の奥のどこかで、あの人の帰りを待つ小さな灯だけは消えなかった。
あの人が最後に書き残した一行を、雪蓮は生涯、書き足さなかった。
『春になったら――』
その先を埋めてしまえば、景淮が残した沈黙まで失われてしまう気がした。
春は、何度でも来た。
梅は咲き、柳は芽吹き、知らない娘たちが新しい歌を覚えていった。
雪蓮はそのたび、二階の奥の席を見た。
もう誰もいない席に、ほんの一瞬だけ、軍帽の影を探した。
そして、見つからないまま、静かに目を伏せた。
『春になったら――』は、約束にも別れにもならなかった。
ただ、帰らない人を呼び続ける、短い歌として胸に残った。
窓の外で、風鈴がひとつ鳴った。
雪蓮は茶杯を置き、誰にも聞こえない声で、続きを囁いた。
「……春になったら、またね」
返事の代わりに、夜の風が紅い灯籠を揺らした。
春は、何度でも来た。
ただ一度も、あなたを連れては来なかった。
それでも雪蓮は、春が来るたび、ほんの少しだけ顔を上げた。
どこかであの人もまた、同じ春の風を感じているかもしれないと。
――完――




