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伯爵に成り上がった婚約者に「用済みだ」と切り捨てられましたが、彼の功績も財産も健康も、支えていたのはわたくしでした  作者: 鷹居鈴野


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伯爵位

 叙爵じょしゃくの儀は、ヴェスターラント王国の謁見えっけんの間で、盛大に執り行われた。


「フェリクス・ローデンヴァルト。汝の商才と、辺境の治水事業における功績を認め、ここに伯爵はくしゃく位を授ける」


 国王の声に、フェリクスは深々と頭を垂れた。三年前まで、貧乏男爵(だんしゃく)家の三男坊で、家督も継げず、行商の真似事で食いつないでいた男が、今日、爵位を三段も飛び越えて伯爵位を賜る。この国の歴史でも、異例中の異例の出世だった。


 拍手の中で、私は末席から、その背中を見ていた。


 あの人の商才。あの人の功績。


 ――誰の知恵で、それが立ち上がったのか、この場にいる誰も知らない。


 けれど、それでいい。私は、そう自分に言い聞かせてきた。今日この日をもって、「爵位さえいただければ、必ず君と結婚しよう」という約束が、ようやく果たされる。三年前、焚き火の前で見た、あの飢えたような目をした男が、正式に、私の夫になる。……そう信じて、私はここに立っていた。指先まで、静かな喜びが満ちていくのを感じながら。


 国王が、続けて口を開いた。


「新たな伯爵の門出を祝し、もうひとつ、めでたい報せがある」


 謁見の間に、微かなざわめきが広がった。私は、静かに、その先の言葉を待った。


「フェリクス・ローデンヴァルト伯爵と、ヴァイセンベルク侯爵こうしゃく家のオデット嬢。両家の合意により、婚約が調った」


 一瞬、何を言われたのか、理解できなかった。耳から入った言葉が、意味を結ぶまでに、数拍かかった。


 割れんばかりの拍手が沸き起こる。居並ぶ貴族たちの視線が、フェリクスの傍らへと集まった。


 そこには、勝ち誇った笑みを浮かべたオデットが、当然のような顔で寄り添っていた。


 末席で立ち尽くす私に、周囲の視線が、ちらり、ちらりと注がれ始めた。誰も、口には出さない。けれど、その哀れむような、あるいは面白がるような目の色だけで、十分だった。……この場にいる誰もが、知っているのだ。フェリクス様の『使用人代わり』の女が、婚約者気取りでいたことを。


 私は、その場に立ったまま、拍手をすることも、崩れ落ちることもできなかった。ただ、指先だけが、冷たく痺れていくのが分かった。


 *


 式典の熱気がまだ残る中、オデットが、私の傍まで歩み寄ってきた。見せつけるように、フェリクスの腕に手を絡めたまま。


「まあ、イレーネ様」


 侯爵令嬢は、扇の陰で笑った。声を潜めるでもなく、周囲に聞こえるがままに。


「今日で最後になりますのね。……いつまでも『使用人代わり』を気取っていらしても、困りますもの。もう、あなたとは身分が釣り合いませんわ。フェリクス様から、お離れになって」


「身分が、釣り合わない……?」


「あら、ご存じなかった? ……わたくし、フェリクス様と結婚いたしますの」


 扇の下の唇が、三日月のように歪んだ。周囲に立つ貴族たちが、聞こえよがしの会話に、ひそひそと囁き交わし始める。くすくすと、抑えきれない笑い声も混じった。


「もし、あなたが妾として残るおつもりなら、せいぜい身の程を弁えることね。伯爵夫人となるわたくしの目に、二度と入らないようにしてくださいまし。……汚らわしい」


 私は、何も言わずに一礼した。手のひらに爪が食い込むほど、拳だけは、強く握りしめていたけれど。


 言い返す価値もない、と思ったからではない。


 フェリクスを、信じていたからだ。あの人が、大勢の目の前で、こんな仕打ちをするはずがない。何かの間違いだ。……この三年、積み上げてきたものを、彼が知らないはずがないのだから。そう、信じて疑わなかった。


 *


 人垣の隙間から、フェリクスが、私に目配せをした。人払いこそしなかったが、遠巻きにこちらを窺う視線は、いくつもある。それでも、少しは、まともな話ができるはずだと、私は、その場を離れる彼のあとを追った。


 柱の陰、回廊の片隅。それでも、声を潜めれば届かない距離ではなかった。彼は初めて、私の目をまっすぐに見た。


「イレーネ。話がある」


 その真剣な眼差しに、私の胸は、期待で高鳴った。指先まで、じんと痺れるような感覚が走る。


 ――ようやく、結婚できる。約束通り、爵位を、得たのだから。


 あの約束が、ようやく果たされる。三年分の全部が、今、報われる。先ほどの発表は、何かの手違いだったのだ。そう、信じて疑わなかった。


「フェリクス様?」


 こみ上げる喜びを、なんとか抑えながら、私は続きを促した。


 けれど。


「……すまない。君とは、結婚できない。……身分が、釣り合わないんだ」


 彼の口から、こぼれ落ちたのは、まったく違う言葉だった。


 (――正直、少し胸は痛む。だが、侯爵家との縁談を蹴ってまで、こいつを選ぶ理由はない。稼げるだけのものは、もう稼がせてもらった)


 そんな彼の胸の内を、私が知る由もなかった。


「侯爵令嬢オデット殿との、縁談が……進んでいる。父上たっての望みでもある」


「……縁談、ですか」


「感謝はしている。君がいなければ、今の俺はなかった。だが――」


「だが、伯爵夫人には、もっと相応しい家柄の女性が必要だと」


「……そうだ。分かってくれるか」


 分かってくれるか。


 この人は本当に、私が微笑んで頷くとでも思っているのだろうか。三年間、彼の借金の肩代わりをし、治水の設計図を描き、王宮への口利きの伝手を作り、彼の名で特許を取らせてやった女が。夜ごと薬草を煎じ、誰にも告げずに、その命そのものを守ってやった女が。


「フェリクス様」


 私は、淑女の礼をとった。指先の震えを、悟られないように。


「ひとつだけ、申し上げてよろしいでしょうか」


「言ってくれ」


「――恩を、仇でお返しになるのですね」


 彼の眉が、ぴくりと動いた。声のやり取りに気づいたのか、遠巻きの人垣が、じわりと、こちらへ近づいてくる気配があった。


「恩、ね。……悪いが、それは君の思い違いだ」


 悪びれる様子もなく、彼は、涼しい顔で言い放った。


「君が、勝手に、俺を助けたかっただけだろう。俺は、頼んだ覚えはない」


 その瞬間、三年間、辛うじて張り詰めていた何かが、音を立てて弾け飛んだ。


「――は?」


 淑女の仮面が、剥がれ落ちるのが、自分でも分かった。


「勝手に、助けた? ……よくも、そんなことが。あなたが賜ったその爵位。その屋敷。その事業の全部。三年前、あなたは、何ひとつお持ちではなかった! 路銀すら持たされず、役立たずと家を追い出された、ただの三男坊だったでしょう! それを、誰が、拾い上げたと思っているの! それらは全部、わたくしの支えなしには、手に入らなかったはずですわ!」


「イレーネ」


 彼の声に、初めて刺が混じった。人目をはばかる余裕すら、もう、なかったらしい。


「身の程を弁えろ。……君は、しょせん婚約者としての務めを果たしたに過ぎない。設計図も、口利きも、支度金も――婚約者ならば当然のことだろう。それをいつまでも恩着せがましく持ち出されては、迷惑だ。功績は俺のものだ。俺が、俺の才覚で、掴み取ったものだ」


 彼は、周囲に聞かせるように、声を張り上げた。


「そもそも、平民風情のくせに、伯爵となった俺の婚約者気取りで三年も隣にいられただけでも、十分すぎる贅沢だったんだ。伯爵夫人の椅子など、端から君には値しない」


 周囲を囲んだ人垣から、失笑が漏れた。誰かが、扇の陰で何かを囁き、誰かが、憐れむように目を伏せた。


 条件は満たされた。約束だけが、反故にされた。


 私は、婚約の夜に彼が跪いて言った言葉を思い出していた。「君が平民でも構わない。俺が愛しているのは、地位でも家柄でもない、君自身だ」――同じ口から出た、正反対の言葉。土と薬草の匂いが染みついた、あの荒れた手の感触だけが、やけに鮮明に蘇ってくる。


 傍らのオデットが、勝ち誇った笑みで割って入る。


「そこまで仰るなら、寛大なわたくしが、妾のひとりとしてくらいは置いて差し上げてもよろしくてよ。……感謝なさい」


 ああ。


 これが、大勢の前で示された、彼らの答えなのだ。


 込み上げてくるのは、涙ではなかった。もっと乾いた、静かな何か――張り詰めていた三年間の糸が、大勢の目の前で、音もなく切れる感覚だった。


「そう。よく分かりましたわ」


 私は、微笑んだ。人垣の視線を、正面から受け止めながら。


「身の程を弁えていないのは、どちらなのか。……いずれ、思い知ることになりますわ。今宵のところは、それだけ申し上げておきます」


「身分が、釣り合わない……? 元は、貧乏男爵家の三男坊でいらしたくせに、よくもそんなことが仰れますこと」


 物陰でこれを聞いていたグレタが、震える声で呟くのが聞こえた。


「この方々、ご自分が誰に向かって仰っているのか、本当に分かっていないのですね」

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