静かな退場
控えの間を出た足で、私は動き始めた。
――迷っている暇は、なかった。
証拠となる原本は、すでに法律家の元にある。あとは、身の回りを引き払うだけだ。幸い、すぐに動けるだけの備えは、すでに整っていた。……もっとも、その多くは、私自身が周到に用意していたものではない。「念のため」と、事あるごとに手筈を怠らなかった、グレタのおかげだった。荷物は常に三割方まとめてある。連絡役の名簿は、いつも懐に。この子が、そうやって陰で敷いてきた道の上を、私はただ、歩けばよかった。
まず、事業を陰で支えてきた者たちに、合図を送った。会計係、測量士、資材の仕入れ担当――表向きはフェリクスに雇われた形になっている彼らの多くは、実のところ、私が見出し、私が報酬を払ってきた者たちだった。
「今夜のうちに、それぞれの持ち場から静かに手を引いてちょうだい。……今まで、本当にありがとう」
誰も、理由を問わなかった。ただ深く頭を下げて、闇の中へ散っていった。その背中を見送りながら、私は、この三年でどれほど多くの人の手を借りてきたかを、今更のように思い知らされていた。
「――荷は、これで全部です」
宿の一室で、グレタが最後の包みを縛り終えた。この数刻の間に、私たちの三年分の荷物は、驚くほど小さくまとまっていた。もとより、多くを持たない暮らしだった。
「特許の原本は、法律家の元に確かに」
「ええ、聞いているわ」
「レーヌ・ブランシュの帳簿も、王都の商会に預けてございます。……お嬢様、本当に、これで良かったのですか」
グレタの声には、まだ怒りの余韻が残っていた。
「良かったのよ」
私は、静かに答えた。
「あの人たちの言葉で、はっきりしたもの。……私が誠実だと思って手を貸した相手が、どういう人間だったのか」
「……」
「悲しくない、と言えば嘘になるわ。でも」
窓の外、夜空を見上げる。星の光は、驚くほど平静だった。三年前、ここへ来る道すがら見上げたのと、同じ星のはずなのに。
「これで、ようやく肩の荷が下りた気もするの」
グレタは、しばらく黙って荷造りの手を動かしていた。それから、ふと手を止めて、いつもの控えめな口調を脱ぎ捨てるように、言った。
「お嬢様。もう、我慢しなくてよろしいのですよ」
その一言に、張り詰めていた何かが、静かにほどけていく気がした。喉の奥が、じんと熱くなる。
「……ええ。ありがとう、グレタ」
*
馬車は、夜が明けきらないうちに宿場町を発った。
街道を進みながら、私はもう一度だけ、振り返った。ヴェスターラントの王都の灯りが、遠く霞んでいく。三年間を過ごした場所。誠実な男だと信じて、多くを注いだ場所。
もう、振り返らない。
馬車が国境に近づく頃、東の空が白み始めていた。丘陵の向こうに、見覚えのある光の帯が、うっすらと見えてくる。
グレンヴァルト。
三年間、遠ざけていた祖国の灯りが、そこにあった。
忘れかけていたはずのその光景に、なぜか懐かしさよりも先に、静かな安堵が込み上げてくる。窓枠に置いた指先から、こわばりが少しずつ、抜けていくのが分かった。
――帰るべき場所が、まだ残っている。
そのことを、私は今、初めて実感していた。




