辺境伯家
国境を越え、隣国グレンヴァルトへ。
辺境伯という位は、他国では「国境の伯爵」程度に軽んじられることもあるが、グレンヴァルトでは違う。国境防衛を一手に担う武門の当主として、王から直接軍権と領地裁量権を委ねられ、実質は侯爵位に匹敵する――否、時に凌ぐと評される家格だった。アイゼンヴァルト家は、代々その筆頭を務めてきた。物心つく前から、剣だこのできた手で抱き上げられ、子守唄の代わりに国境の戦況を聞かされて育った。それが、この家に生まれるということだった。
その門をくぐったとき、出迎えた父は何も聞かず、ただ両腕を広げた。
「――おかえり、イレーネ」
「ただいま戻りました、お父様」
三年ぶりの実家は、記憶より小さく、記憶より温かかった。ヴェスターラントで身分を隠して過ごした歳月、私はずっと、誰かに「おかえり」と言われる日を、心のどこかで待っていたのだと、そのとき初めて気づいた。父の胸に顔を埋めると、鎧の下にいつも仕込んでいる、あの薬草を焚いた匂いがした。子供の頃から、少しも変わらない匂いだった。
父は、私の話をひと通り聞き終えると、静かに言った。表情ひとつ変えずに、けれど、拳だけは白くなるまで握りしめていた。
「償わせる算段は、もうついているのだろう」
「ええ。急ぐつもりはございません」
「らしいな。おまえの母も、昔からそういう女だった」
父は苦笑して、剣を一振り、私の前に置いた。
「身分を取り戻すなら、剣も取り戻せ。辺境伯家の娘は、令嬢である前に、国境を守る戦士だ」
その夜、屋敷の一室で、私はグレタと今後の相談をした。
「グレタ、あなたには悪いのだけれど……もう一度、ヴェスターラントに戻ってもらえないかしら」
「戻る、とは」
「聖医の診療網も、レーヌ・ブランシュの事業も、まだ現地で動いているわ。誰かが繋ぎ止めておかなければ、せっかく築いたものが宙に浮いてしまう。……あなたにしか、任せられないの」
グレタは、しばらく黙って私を見つめていた。それから、ふっと表情を緩めた。
「承知いたしました。……お嬢様がここで、本来のお力を取り戻される間、あちらは私が守ります」
「ありがとう、グレタ。……いつも、あなたに頼ってばかりね」
「頼っていただけるのが、私の誇りですもの」
数日後、グレタは商隊に紛れて、再びヴェスターラントへと発っていった。小さくなっていくその背中を見送りながら、私は改めて、この子への感謝を噛み締めていた。三年間、傍にいてくれたことも、今、一人で任地に戻ってくれることも――当たり前のようでいて、決して、当たり前のことではなかった。
*
父から渡された剣を、私は数日、ただ眺めていた。
夜な夜な魔獣を狩っていた実戦の剣は、まだ体が覚えている。けれど、辺境伯令嬢として型通りに構え、型通りに振るう――そういう、正式な稽古としての剣は、社交界に出て以降、ほとんど遠ざけていた。柄を握る手が、少しだけ、ぎこちない。
けれど、忘れてはいなかった。
剣を構えた瞬間、体は勝手に、幼い頃に叩き込まれた型を思い出していく。魔力を巡らせる感覚も、驚くほど鮮明に蘇ってくる。掌に伝わる、鉄の重みと冷たさ。それが、じんわりと、体温に馴染んでいく感触。
「――いい構えだ」
庭先から、聞き覚えのある声がした。振り向くと、父が腕を組んで立っていた。
「明日から、稽古をつけてやる。錆びついたものを、叩き直すだけの話だ」
「よろしくお願いいたします、お父様」
窓の外に、夕暮れの光が差し込んでいた。誰にも身分を隠す必要のない、この屋敷の中で。
明日からの日々を思うと、不思議なほど、心が軽かった。




