表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
伯爵に成り上がった婚約者に「用済みだ」と切り捨てられましたが、彼の功績も財産も健康も、支えていたのはわたくしでした  作者: 鷹居鈴野


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/35

剣を取り戻す

 稽古は、思っていたよりずっと厳しかった。


「甘い。もう一度」


 父の声が、朝の庭に響く。木剣を構え直しながら、私は息を整えた。三年間、剣から遠ざかっていた体は、思うように動かない。振り下ろした一撃は、狙った位置からわずかに逸れ、木剣は乾いた音を立てて宙を切った。肩で息をする私に、父の視線は容赦がなかった。それでも、一撃ごとに、少しずつ、感覚が戻ってくる。汗が背を伝い、朝の冷たい空気の中でも、頬だけが熱かった。


「魔力の流し方が雑だ。守りの型は、力ではなく呼吸で組め」


「はい、お父様」


 辺境伯へんきょうはく家に伝わる守りの魔法は、派手さこそないが、粘り強く、しぶとい。国境の砦を長年守り続けてきた家系ならではの、実戦に根差した技術だった。ヴェスターラントで治療師として使っていた魔力とは、また違う筋肉の使い方をする。あちらが、細く長く、命の糸を繋ぎ止める力だとすれば、こちらは、瞬間に全霊を注ぎ込む力だ。使い慣れない筋を、無理に伸ばしているような感覚が、稽古のたびに体の奥に残った。


「――お嬢様、少しお疲れのようですね」


 昼過ぎ、稽古を見守っていた侍女のひとりが、水を運んできてくれた。三年ぶりに顔を合わせる、幼い頃からの馴染みの顔だった。


「ありがとう。……なんだか、懐かしいわ」


 差し出された水を一息に飲み干す。冷たさが喉を通り抜けていく感覚さえ、久しく忘れていたもののような気がした。


「お嬢様がここで剣を振るわれるのを見るのは、本当に久しぶりでございます」


 彼女は、目を細めて笑った。私を見る目に、疑いも、値踏ねぶみみも、何もない。ただ、素直な懐かしさだけがあった。……その眼差しだけで、ここが、どれほど安全な場所であるかを、思い知らされる。


 *


 夕暮れ、稽古を終えて自室に戻ると、鏡台の前に座った。


 汗ばんだ額を拭いながら、ふと自分の顔を見つめる。首元には、いつもの銀鎖――『霞の首飾り』が、変わらずそこにあった。


 あれから、三年が過ぎていた。あの伯爵はくしゃく令息の一件も、社交界の噂話としては、とうに旬を過ぎ、ほとぼりも冷めているだろう。ここでは、もう必要のないもののはずだった。誰も私の顔を狙わない。誰も私の素性を暴こうとしない。それでも、外そうとすると、指が一瞬、躊躇う。長年の習い性というものは、そう簡単には剥がれ落ちてくれない。留め金に触れた指先が、そこで止まったまま、しばらく動かなかった。


 それでも、少しずつ。


 この屋敷での日々の中で、私は「イレーネ・フォン・アイゼンヴァルト」という、本来の自分を、少しずつ取り戻していった。


 剣の稽古。魔法の鍛錬。父との食卓。使用人たちとの、気の置けないやり取り。


 誰かに正体を怪しまれる心配も、誰かに功績を奪われる不安も、ここにはない。


 ――隠す必要のない毎日は、こんなにも軽い。


 そのことに気づいた夜、私は久しぶりに、声を上げて泣いた。悲しみのためではなく、ただ、長い緊張がほどけていく安堵のために。涙は、拭っても拭っても、しばらく止まらなかった。


 この凪いだ日々が、もうそう長くは続かないことを、このときの私は、まだ知らない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ