剣を取り戻す
稽古は、思っていたよりずっと厳しかった。
「甘い。もう一度」
父の声が、朝の庭に響く。木剣を構え直しながら、私は息を整えた。三年間、剣から遠ざかっていた体は、思うように動かない。振り下ろした一撃は、狙った位置からわずかに逸れ、木剣は乾いた音を立てて宙を切った。肩で息をする私に、父の視線は容赦がなかった。それでも、一撃ごとに、少しずつ、感覚が戻ってくる。汗が背を伝い、朝の冷たい空気の中でも、頬だけが熱かった。
「魔力の流し方が雑だ。守りの型は、力ではなく呼吸で組め」
「はい、お父様」
辺境伯家に伝わる守りの魔法は、派手さこそないが、粘り強く、しぶとい。国境の砦を長年守り続けてきた家系ならではの、実戦に根差した技術だった。ヴェスターラントで治療師として使っていた魔力とは、また違う筋肉の使い方をする。あちらが、細く長く、命の糸を繋ぎ止める力だとすれば、こちらは、瞬間に全霊を注ぎ込む力だ。使い慣れない筋を、無理に伸ばしているような感覚が、稽古のたびに体の奥に残った。
「――お嬢様、少しお疲れのようですね」
昼過ぎ、稽古を見守っていた侍女のひとりが、水を運んできてくれた。三年ぶりに顔を合わせる、幼い頃からの馴染みの顔だった。
「ありがとう。……なんだか、懐かしいわ」
差し出された水を一息に飲み干す。冷たさが喉を通り抜けていく感覚さえ、久しく忘れていたもののような気がした。
「お嬢様がここで剣を振るわれるのを見るのは、本当に久しぶりでございます」
彼女は、目を細めて笑った。私を見る目に、疑いも、値踏みも、何もない。ただ、素直な懐かしさだけがあった。……その眼差しだけで、ここが、どれほど安全な場所であるかを、思い知らされる。
*
夕暮れ、稽古を終えて自室に戻ると、鏡台の前に座った。
汗ばんだ額を拭いながら、ふと自分の顔を見つめる。首元には、いつもの銀鎖――『霞の首飾り』が、変わらずそこにあった。
あれから、三年が過ぎていた。あの伯爵令息の一件も、社交界の噂話としては、とうに旬を過ぎ、ほとぼりも冷めているだろう。ここでは、もう必要のないもののはずだった。誰も私の顔を狙わない。誰も私の素性を暴こうとしない。それでも、外そうとすると、指が一瞬、躊躇う。長年の習い性というものは、そう簡単には剥がれ落ちてくれない。留め金に触れた指先が、そこで止まったまま、しばらく動かなかった。
それでも、少しずつ。
この屋敷での日々の中で、私は「イレーネ・フォン・アイゼンヴァルト」という、本来の自分を、少しずつ取り戻していった。
剣の稽古。魔法の鍛錬。父との食卓。使用人たちとの、気の置けないやり取り。
誰かに正体を怪しまれる心配も、誰かに功績を奪われる不安も、ここにはない。
――隠す必要のない毎日は、こんなにも軽い。
そのことに気づいた夜、私は久しぶりに、声を上げて泣いた。悲しみのためではなく、ただ、長い緊張がほどけていく安堵のために。涙は、拭っても拭っても、しばらく止まらなかった。
この凪いだ日々が、もうそう長くは続かないことを、このときの私は、まだ知らない。




